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ロマンス小説大手【菫苑出版】には未来の王妃が監修者としてついている

設定駄目出し③:王家に嫁ぐ

公爵邸での打ち合わせも三度目になると、流石に最初程足が震えることもなくなった。とはいえ、それは『慣れた』という意味ではない。緊張する対象が変わっただけだ。

初めてこの屋敷に来たときは、王家に次ぐ大貴族の屋敷へ足を踏み入れる恐怖ばかりだった。しかし今は違う。恐ろしいのはアレクシアの知識である。

最初は『貴族らしい言葉遣いを教えてもらえる』程度のつもりだった。ところが実際は違った。こちらが『当然そういうものだ』と思っていた恋愛小説の定番設定を、一つ一つ理屈で解体していく。しかもその説明は全て納得がいくものだった。

何故その制度が存在するのか。何故その慣習になったのか。その背景にある政治、家同士の利害、教育、歴史、文化。全てが1本の線で繋がっている。

貴族社会とは、思い付きや感情で出来上がった世界ではなく、長い年月をかけて積み重ねられた巨大な仕組みなのだと、ゲオルグは漸く理解し始めていた。

だからこそ、今日は逆に楽しみでもあった。今日は一体、自分たちがどんな常識違いをしていると教えられるのだろう。そんな奇妙な期待さえ抱いていた。

アレクシアは今回も資料へ目を通し、暫く沈黙する。ページを捲る音だけが静かな応接室に響く。やがて資料を閉じると、小さく息を吐いた。

「今回は王太子と男爵令嬢の結婚についてね」

やはりそこか。ゲオルグは背筋を伸ばす。

「前回、男爵令嬢は王妃にはなれないと言ったでしょう? その理由を詳しく説明するわ」

そう言ってアレクシアは紅茶を一口飲み、静かに語り始めた。

「そもそも王家に嫁げるのは伯爵家までと決まっているけれど、王太子妃になれるのは自国の公爵家と侯爵家、他国の王族と王族公爵家のみよ。これは王太子妃教育に必要な語学や他国の歴史、他国のマナーを侯爵家までであれば、令嬢教育の中で学ぶからなの。王妃としての公務をするための基礎知識が侯爵家以上にはあるわ。王族としてのマナーや歴史、政治学を学ぶだけでも大変なのに、そこに諸外国の言語を日常会話として扱え、他国の歴史を自国と同等に理解するのは相当な労力が必要だわ。だから、王太子妃教育を受ける前の段階で、ある程度学んでいる必要があるの」

ゲオルグは思わずペンを走らせる手を止めた。そんなことまで学ぶのか。平民から見れば、王妃とは豪奢なドレスを着て王の隣に立つ女性という程度の認識だった。だから、美しく優しく教養があれば充分なのだと思っていた。

だが違う。王の隣に立つということは、王と同等に近い知識が必要なのだ。王の隣に立ち外交をするのだから、王妃もまた外交官でもあるのだ。外国の王族をもてなし、大使と会話するということは、外国語を理解し、異文化への礼儀を心得、政治を理解していなければならない。

考えてみれば当然だった。王妃は国王の妻なのだから。ただ、綺麗なだけの女性で務まるはずがない。

アレクシアは続ける。

「子爵家や男爵家は殆どが陪臣か法衣貴族よ。外交関係の法衣貴族であれば子女が外国語も学んでいることもあるでしょうけれど、マナーや歴史は飽くまでも役人としてのものでしかないわ。それでは王族の妃にはなれない。マナーは下位貴族と高位貴族では違っているし、高位貴族と王家でも違うの。王家は誰にも遜る必要がない、遜ってはいけないから、そういう作法を学ぶわ。高位貴族は上位者に対するマナーと下位者に対するマナー、どちらも学ぶ。下位貴族は上位者へのマナーね。そして高位であればあるほど、動きや仕種に気品を求められるの。それは一朝一夕では身に付かない」

ゲオルグは首を傾げた。

「遜ってはいけない……ですか?」

「ええ」

アレクシアは当然のように頷く。

「王家は国家そのものなの。国王が誰かへ遜るということは、国がその相手に屈したと受け取られる場合もあるわ。だから礼儀は尽くしても遜ることはない。王族には王族の立ち振る舞いがあるの」

成程とゲオルグは納得した。平民同士なら頭を下げることは礼儀だ。だが、王族には別の意味が生じる。立場が違えば同じ動作でも意味が変わる。そういうことなのだろう。

アレクシアは少し笑った。

「逆に下位貴族が王家と同じ振る舞いをしたら、不敬になるわ」

「え?」

「当然でしょう?」

言われてみればその通りだった。王だけが赦される振舞を真似すれば、身分を弁えないと取られる。たとえ王の礼が凛々しく美しかったからと真似ても、それは『王の礼』なのだから、他の者が行なってはいけないのだ。

ゲオルグは慌てて手帳へ書き込む。マナーとは礼儀だけではない。身分を示す記号である。それを知らずに物語を書けば、貴族が読めば直ぐに違和感を覚えるのだろう。

そして、ふと気付く。自分たちが書いていたヒロインはそんな教育を一切受けていなかった。それなのに王妃になっていた。いや、王妃にしていた。今更ながらとんでもない話である。

ゲオルグの出版社の近所にある花屋の看板娘のリリーは評判の美少女で、まさに自分たちが描いてきた平民ヒロインだ。本人もそれを意識して夢見ているところがある。だが、彼女に目の前のご令嬢の来ているドレスを着せたところを想像してみてもちぐはぐさは否めない。目の前の次期王妃に比べれば粗野で品がないとしか思えなかった。それでは王妃として認められることはないだろう。本物の『貴族令嬢』を知らない平民向けの物語だからこそ、受け入れられていただけだ。

アレクシアはそんなゲオルグの表情を見て、少しだけ口元を緩めた。

「ここまでは理解できたかしら?」

「……はい」

理解できた。いや、理解してしまった。だからこそ、今迄読んできた数えきれない恋愛小説の結末が、一気に現実味を失ってしまったのである。

アレクシアの説明が一段落すると、応接室には暫し静寂が流れた。

ゲオルグは手元の帳面へ視線を落とす。今日だけで何ページ目だろうか。細かな文字でびっしりと埋め尽くされたページは、最早小説の設定資料ではなく、貴族社会の教本になりつつあった。

これまで自分は『恋愛小説だから』で済ませてきた。王太子が平民に恋をする。男爵令嬢が王妃になる。婚約者を捨てて愛を貫く。どれも読者が望む夢だから成立するのだと思っていた。

しかし、アレクシアの話を聞くたびに、その夢がどれほど多くの前提を無視して成り立っていたのかを思い知らされる。

尤もそれは夢だからこそ売れたのだ。現実では絶対に有り得ないから、人は憧れる。だからこそ、これから貴族向けに出版するのであれば、その『夢』の基盤を現実に近づける必要がある。でなければ鼻で笑われる荒唐無稽さで読んでもらうことが出来ない。しかし、現実と同一でもいけない。夢は飽くまでも夢だ。その匙加減が編集者である自分の仕事なのだ。

「何か質問はあるかしら?」

アレクシアが柔らかく問いかける。以前であれば畏れ多くて首を横に振っていただろう。だが今は違う。解らないことを聞ける機会がどれほど貴重か、ゲオルグは理解していた。

「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「ええ」

「仮に……です」

ゲオルグは慎重に言葉を選ぶ。

「仮に王太子が本当に男爵令嬢に恋をしてしまったとします」

「ええ」

「その令嬢がどれほど聡明で美しく、努力家で、誰からも好かれる女性だったとしても……やはり王太子妃にはなれないのでしょうか」

それは恋愛小説を書く者なら誰もが抱く疑問だろう。身分ではなく、人柄。血筋ではなく、愛情。そういう物語を書いてきたのだから。

アレクシアは少し考え、静かに頷いた。

「ええ、なれないわ」

その答えに迷いはない。

「才能や人格を否定しているわけではないの」

そう前置きしてから続ける。

「一つには身分。先日男爵が宰相になっても周囲は命令を聞かないと話したわよね? それと同じ。貴族社会で最下位の身分である男爵令嬢に従う貴族女性はいないわ。どれほど人柄が優れていても万人に好かれるなんて人はいないのだし。貴族がその階級を重んじることを差別だと思うかもしれないけれど、それは違うの。先祖代々王国に仕え領民を守ってきた結果が爵位だから、己の地位に誇りと責任を持つの。だから、自分たちよりも責任を果たしていない下位の者が恋したというだけで上位者になることを認めることは出来ないわ」

代々受け継がれてきた誇り。その理由にゲオルグは目を見開き、急いでメモを取った。これまでは身分に胡坐をかき傲慢に振舞う貴族としか思っていなかった。けれど、そのプライドの高さは即ち先祖たちが王国に献身し領民を守ってきた誇りゆえなのだ。

「それから、問題なのは、能力ではなく時間なの」

ゲオルグは首を傾げた。

「時間……ですか?」

「ええ」

アレクシアは頷く。

「仮にその令嬢が学院に入学した16歳で王太子に見初められたとしましょう」

「はい」

「その時点で王太子妃教育を始めても、時間が足りないの」

ゲオルグは黙って耳を傾ける。

「王太子妃教育を修了しないと婚姻できないわ。王族、特に王太子は立太子までに後嗣を設けていることが条件。だから、現第一王子はまだ立太子していないの。早い段階で後嗣を得るために王子は10代のうちに婚姻することが望ましいし、少なくとも20代前半には第一子を儲けることが望まれる」

中々に生々しい話だ。しかし、納得も出来る。跡継ぎがいるかどうかは平民でも重大な問題だ。現王は歴代の王の中では若いが、王子は3人、王女も2人いることから、『御代は安泰だ』と言われているくらいだ。

「それを考えるとね、とてもではないけれど時間が足りないのよ。男爵家の娘であれば、淑女教育が足りないわ。侯爵家以上の令嬢であれば幼いころに身に付けていて当然の作法を知らないの。つまり、そこから学ばなくてはならない」

先ほど身分によってマナーや作法が違うと教えられた。であれば、当然男爵令嬢には上位貴族のマナーも作法も身に付いてはいない。そこから学ばなければいけない。

「侯爵家以上の令嬢は、幼いころから10年以上かけて教育を受けるわ」

10年以上。その数字だけで気が遠くなる。

「外国語を覚える。歴史を学ぶ。礼法を身に付ける。政治を理解する。家同士の力関係を学ぶ。外交儀礼を知る。宗教儀式を覚える。王族としての振舞を体に染み込ませる。それらを10数年かけて積み重ねるのよ」

ゲオルグは自然と唾を飲みこんだ。これらの学問や学びの他に、男爵令嬢であれば更にマナーと作法、所作も学び直さねばならない。確かに時間がどれだけあっても足りないだろう。

「1日20時間勉強したとしても追いつかないでしょうね」

アレクシアは微笑む。

「それに鍛錬もあるから、体力も持たないかもね」

「鍛錬?」

淑女に鍛錬が必要なのか?騎士ではあるまいしとゲオルグは首を傾げる。

「何故鍛錬が必要なのかと思うでしょう? けれど、王太子妃として外交に出向けば舞踏会では少なくとも3曲は踊るわ。夫である王太子、相手国の国王または王太子、相手国の重鎮。国を代表している以上、ただ踊るだけでは駄目。外交的な会話を交わしながら踊るのって、とても神経を使うし、体力を消耗するの」

想像して確かにそうだとゲオルグは納得する。

「それに、正式な場に出るドレスって重いのよ。そのうえでティアラやネックレス、イヤリングといったパリュールを身に着けるの。更にその状態で姿勢を美しく保ち、微笑みながら社交や外交をするの。本当に大変なのよ」

とても実感の籠った言葉だった。実際に社交の場に出ているアレクシアだからこその言葉だ。

「姿勢を美しく保つには体幹を鍛えておかなければならないし、それも体力を使うの。貴族令嬢って、割と体力仕事なところ、あるのよ」

優雅にお茶を飲んでお喋りして微笑んでいる貴族令嬢からは想像がつかないアレクシアの発言である。しかし、今現在も背筋を伸ばして美しい姿勢で座る彼女を見れば、ある程度納得も出来た。自分だって意識して姿勢を正せば結構疲れるのだから。

「意外でした……」

「ふふ、そうでしょうね。まぁ、わたくしの愚痴はここまでにして」

愚痴だったのか!と突っ込みそうになる。こういったお茶目な一面も時折見せてくれるようになったのは、少しは信頼を得られたからだろうと嬉しくもなる。

「必要なのは勉強だけではないの」

「え?」

「経験も必要なの」

その一言が重かった。

「高位貴族の子女は幼いころから父母に同行して様々な社交を見ているわ。子供同伴の茶会へ参加し、大人たちの会話を聞きながら育つ。遊びながら同じ年ごろの令嬢たちと実践する。失敗もする。叱られることもある。そうして少しずつ社交を覚えていく。その積み重ねがあるから、デビューしたとき、一人で社交の場に立てるの」

成程、知識だけでは足りない。経験がいる。経験するには時間がいる。だから16歳からでは遅い。理屈として納得できた。

「では……」

ゲオルグは更に尋ねる。

「もし、その令嬢が幼いころから王太子妃教育を受けていたなら?」

アレクシアは少し笑った。

「その時点で男爵令嬢ではないわ」

「あ……」

言われてみればその通りだった。

「王太子妃教育を受けるということは、既に王太子妃候補ということ。つまり侯爵家以上の令嬢になる。だから、前提が成り立たないの」

ゲオルグは苦笑するしかなかった。恋愛小説で何度も見た展開が、現実では最初から成立していないのである。

「それにね」

アレクシアは穏やかな声で続けた。

「王太子も教育を受けているわ」

「そうですよね」

王太子妃候補が教育を受けるのだ。当然王太子は将来の国王となるための教育を受けている。

「幼いころから、自分は国のために結婚するのだということも学ぶわ」

その言葉は妙に重かった。

「好きだから結婚する。そういう発想自体がないの」

ゲオルグは思わず尋ねる。

「では、恋は……」

「することもあるでしょうね」

意外にも即答であり、否定的な響きはなかった。

「人ですもの。恋をすることはあるわ。でも」

そこでアレクシアは真っ直ぐにゲオルグを見る。

「恋をしたから結婚する、とはならないの」

静かな口調なのに、その言葉には重みがあった。

「王族の結婚は個人のものではないわ。国家の契約なの」

その一言で、今日の話は全て繋がった気がした。婚約、王妃教育、身分、家柄、外交、礼法。全てが国家という巨大な仕組みの一部なのだ。恋愛は個人のものに過ぎない。国家には関係ない。だから、恋だけでは動かない。

ゲオルグは深く息を吐いた。

「……平民向けの恋愛小説を出している人間には、耳が痛い話ですね」

するとアレクシアはくすりと笑う。

「夢を描くことは悪いことではないわ」

予想外の言葉だった。

「夢は夢だから美しいもの。だから、平民向け恋愛小説が人気なのも理解できるわ。ただ……」

アレクシアは人差し指を立てる。

「現実の貴族に読ませるならば、その基盤には夢ではなく現実に近いものを置いておかねばならない。それだけのことよ」

ゲオルグは何度も頷いた。

今日もまた、小説を書くためではなく、この国を知るための授業を受けた気分だった。帳面を閉じる。今回も収穫は大きい。いや、大きすぎる。出版社へ戻れば、作者はきっと悲鳴を上げるだろう。『また設定を直すのか』と。しかし、その悲鳴こそがより良い作品への大切な過程なのだ。

ゲオルグは少しだけ笑みを浮かべながら、公爵邸を後にした。

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