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恋敵?いいえ、最強の相棒ですわ!

第2章 婚約者と恋人

王立アルムニア学院。王国唯一の貴族子女専用の高等教育機関である。尤も、その役割は学問を授けることではない。学院で学ぶのは飽くまでも外国語や歴史、算術、魔術、礼儀作法といった一般教養であり、貴族として本当に重要な知識──社交術、領地経営学、財政、家臣統率などは、それぞれの家で幼いころから教育される。

学院とは、同世代の貴族子女が一堂に会し、人脈を築くための場所である。未来の政敵を知り、協力者を得、婚約者や伴侶と巡り合うための舞台なのだ。だからこそ、成績よりも、誰と過ごしているかのほうが重要視されることもあった。

そして今日もまた華美にならぬように配慮されたデイドレスや準礼服を纏った令息令嬢たちが、思い思いに談笑しながら校舎を行き交っている。

その中でも一際視線を集める少女がいた。銀糸のような腰まで届く長い髪、澄み切った蒼銀の瞳、優雅で無駄のない所作。エチェバルリア公爵令嬢フロレンシア。同世代では『淑女の鑑』と評される才媛であり、王太子があと10歳若ければ王太子妃になっていたとまで囁かれる令嬢である。

彼女の左右には、自然と数人の令嬢たちが集まっていた。

「フロレンシア様、この前お伺いした灌漑事業ですけれど──」

「ええ、あの件なら父から続報を伺いましたの」

学院へ通う令嬢たちの話題とは思えない。流行のドレスや髪飾りでも恋愛話でもなく、領地経営について。それも誰一人として退屈そうな顔をしていない。

彼女たちはこの国の伝統的な価値観を有する者たちから見れば異端であり、許容できない存在だった。

「やはり、水路を1本増やされるのですか?」

「ええ、但し費用対効果を考えると……」

フロレンシアは柔らかな笑みを浮かべながら説明する。決して知識をひけらかすことはない。相手が理解できる言葉を選び、質問にも丁寧に答える。そして無理に興味を持たせることもしない。だからこそ、多くの令嬢が彼女を慕っていた。だが、伝統的価値観の持ち主たちからすれば『女のくせに賢しらぶって』と眉を顰められる。

「流石フロレンシア様」

「本当に勉強になりますわ」

「ありがとうございます」

自然と笑みが零れる。そんな穏やかな空気の中、隣を歩く一人の少女だけが少々不機嫌そうだった。

ロシータ・オルギン。エチェバルリア公爵家の分家であるオルギン伯爵家の令嬢であり、フロレンシアの再従妹はとこ且つ親しい学友でもある。

「どうかして、ロシータ」

「いえ……」

返事をしながらもロシータは前方をじっと見つめていた。その視線を追ったフロレンシアも小さく瞬きをする。

「あら」

廊下の先、3年B組の教室の前で、一際目立つ二人組が笑い合っていた。

「やぁだぁ、ナサリオ様ったらぁ」

甘く甲高い声。わざとらしく腕に撓垂しなだれかかる少女。淡い栗色の髪を揺らしながら楽しそうに笑うのは、イリバルネ男爵令嬢マカリア。

そして、その肩を抱くように歩いている青年こそ、シガンダ公爵家嫡男、ナサリオ・シガンダ。

「お前は本当に可愛いな」

「もう、そんなこと言われたら照れちゃいますぅ」

距離が近い。近すぎる。未婚の貴族令息令嬢としては到底許容されるものではない。腕が触れ合うどころか、今にも抱き寄せそうなほど密着している。

周囲の生徒たちも、ちらちらと視線を向けては囁き合っていた。

「まただ」

「婚約者がいるのに、何人目よ」

「しかも婚約者はフロレンシア様でしょう?」

「信じられない」

その囁きは当然、ロシータの耳にも届く。彼女はぎゅっと拳を握った。何故彼女がそこにいるのだと憤りつつ。

「……なんて方」

怒りを押し殺したような声だった。

「婚約者がありながら、人前であのような真似を」

ちらりとフロレンシアを見る。婚約者が他の女性と腕を組み、楽しそうに嬉しそうに笑っている。普通の令嬢ならば、顔色を失ってもおかしくない。

「フロレンシア様……」

だが、当のフロレンシアはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべていた。

「気遣ってくれてありがとう、ロシータ」

その声音にも乱れはない。

「でも、気にしないで」

「しかし……」

「元々政略で結ばれた婚約ですもの」

さらりと言ってのける。

「婚姻後、正妻としての立場さえ守ってくださるのならそれで充分よ」

尤も、そんな最低限の気遣いすら期待できそうにはないけれど、とフロレンシアが心の中で呟く。尤もそれが表に出ることはない。

「……」

ロシータは言葉を失った。優しすぎる。否、達観しすぎている。婚約者が目の前で堂々と浮気をしているというのに、その態度はあまりにも落ち着いていた。

フロレンシアは静かにナサリオを見る。婚約して3年。誕生日の贈り物を受け取ったことは一度もない。手紙の返事も来ない。婚約者としてのお茶会も真面に会話した記憶は殆どない。エチェバルリア公爵邸で開けば来ないことすらある。尤もすぐに公爵か公爵夫人からの丁寧な詫び状と詫びの品が届く。ナサリオには蔑ろにされているが公爵夫妻と使用人には未来の夫人として大切にされている。彼らは政略を解っているからだ。

一方、フロレンシアは婚約者としての礼を欠かしたことはない。相手が無礼だからといってこちらもそれに合わせては品位を失う。相手のところまで落ちる必要はないのだ。だから、誕生日には必ず贈り物をし、季節ごとの挨拶の手紙を書き、お茶会も欠かさず準備し訪問もした。それでも返ってきたのは無関心と勘違いだけ。

(期待するだけ無駄だったわね)

元より彼の評判は知っていた。それゆえに自分が選ばれたことも理解している。それでもまだ幼かった自分はどこかで期待していたのだろう。婚約者となったのだからと。けれど、彼へ向ける感情はもう殆どない。あるのは政略結婚という現実を受け入れた静かな諦観だけだ。

ナサリオはそんなフロレンシアの視線に気づくことすらない。否、正確には視線には気付いているが、その意味を勘違いしているのだ。

「ほら、見ろ」

彼は得意げにマカリアへ囁いていた。

「あれが俺の婚約者だ。俺が他の女といても何も言えない」

ナサリオは自慢げに鼻を膨らませる。

「あいつは俺に惚れてるからな。俺を怒らせることが怖くて何も言えないんだ」

マカリアは噴き出しそうになるのを必死で堪えながら表向きは頬を染めてみせた。

「まぁ……ナサリオ様って、そんなに愛されてるんですねぇ」

「当然だ」

ますます胸を張るナサリオ。

(いやいやいや。違いますよ、お坊ちゃま。あれは無機物を見る目です。路傍の石を見る目です。ゴミと思う価値すらお持ちじゃないんです。完全に男としての興味も人としての興味もなくされてるだけですから)

心の中で全力で突っ込むマカリアだった。

「全く、フロレンシア様はお優しすぎます」

ナサリオたちの姿が廊下の角に消えると、ロシータは堪えきれないように息を吐いた。

「婚約者があのような真似をしているのですよ。少しくらいお怒りになってもよろしいのではありませんか?」

「怒ったところで何か変わるかしら?」

フロレンシアは穏やかに問い返す。

「それは……」

「わたくし、無駄は嫌いよ。アレに感情を動かすなんて無駄の極みですもの」

きっぱりと告げるフロレンシアの表情はいつもの穏やかさとは違って支配者らしい冷厳さを湛えていた。自嘲でも悲嘆でもなく、諦観とも違う。単に事実を受け入れているだけだ。

「あれに無駄な感情を使うくらいならば、放っておくほうが楽だわ」

「御意」

主君がそう定めたのならば自分が言えることは何もない。主君の心のままに従うだけだ。それでもつい愚痴が零れ落ちる。

「せめて、御本家の皆様がご存じならよろしいのですが」

「当然知っていてよ」

フロレンシアは小さく笑う。

「両親も兄も弟も調査報告書を見ているもの」

「では、婚約破棄を──」

「無理ね。アレが高位貴族でも裁かれるほどの罪を犯さなければ、この婚約が無くなることはないわ」

ロシータの僅かな期待をフロレンシアは静かに否定した。

「この婚約は、わたくしたち個人の問題ではないもの」

そう、エチェバルリア公爵とシガンダ公爵家、二つの公爵家が結び付いたのは両家の領地に跨る超希少金属オリハルコン鉱脈の共同開発のためだ。オリハルコンほどの貴重鉱物ともなれば国家の浮沈に関わる重大案件だ。ゆえに王命を以て結ばれた。

そして密かな王命がもう一つある。これもまた王国の未来に関わる極秘事項だ。それゆえ、婚約者が不誠実だからという理由で解消できるほど、この婚約は軽いものではない。

「理不尽です」

「そうかもね」

「フロレンシア様ばかり我慢しておられるではありませんか」

「そういう役目よ、今はね」

役目。その一言にロシータは返す言葉を失った。フロレンシアは幼いころから自分が公爵令嬢として生きることを理解していた。だから家の利益を優先する。感情よりも責任を選ぶ。それは彼女にとって当然のことだった。

そう知っていたロシータはうっかりと見逃していた。フロレンシアの真意は『今はね』という言葉にこそ込められていたことを。

(理不尽を強いられるがゆえに、わたくしは別のところに価値を見出した。国王陛下が密かに願っておられたことと、それが合致した)

今はその思いを胸の内に留める。今はまだ話すときではない。もう一つの王命にも関わる重大な未来への約束。それはまだ両公爵家の一部しか知らないことなのだから。

「さぁ、次は魔術学ね」

フロレンシアが歩き出す。ロシータも慌てて後に続いた。その背中を、周囲の令嬢たちが自然と追いかける。まるで中心に花が咲き、その周りへ蝶が集まるように。

「ナサリオ様って、本当に素敵ですぅ」

校舎裏の庭園では、マカリアが満面の笑みを浮かべていた。我ながら頭が悪い喋り方だとうんざりするが、これぞ母直伝の頭の足りない自尊心肥大男に最も有効な態度なのだ。流石母、ぴったり嵌ってナサリオは微塵も疑っていない。

「だろう?」

「婚約者がいても堂々としていらっしゃるなんてぇ」

「ふん、当然だ」

ナサリオは得意満面である。

「フロレンシアは俺に惚れてるからな」

「はい(ないない!)」

「だから何も言えない」

「そうなんですねぇ(そんなわけあるかい!)」

マカリアは瞳をキラキラと輝かせながら頷く。勿論演技だ。返事をしながら副音声で否定するのを忘れない。

(お嬢様は完全に見限ってるだけですよーだ)

だが、そんな本音は欠片も顔に出さない。寧ろ感心したような表情を作る。

「やっぱり、公爵令嬢って婚約者様には逆らえないんですねぇ」

「そういうことだ」

ナサリオは鼻高々だ。

「女は男に従うものだからな」

「まぁ、流石ナサリオ様」

ひたすら今は太鼓持ちのようにナサリオを持ち上げるマカリアである。

その様子を少し離れた場所から見ていた数人の男子生徒が笑う。

「流石ナサリオ公爵子息」

若干の妬みの入った声だ。彼らは嫡子ではない次男三男たち。将来は婿入りして爵位を得るしかない。でなければ精々が騎士爵か文官爵を得て一代貴族になるしかないのだ。一人っ子ゆえに公爵家を問題なく継げるナサリオへの嫉妬もある。だが、ナサリオについていれば甘い汁を吸うことも出来るかもしれないとつるんでいるのだ。だから、ナサリオを煽て阿諛追従し、彼をいい気分にさせる。

「公爵令嬢サマも形無しだな」

「顔も体もいいが、結局女は男に従うしかないってことだ」

似たような思想を持つ悪友たちである。誰一人としてその考えに疑問を持たない。

マカリアは彼らを横目で見ながら、内心で肩を竦めた。

(似た者同士が集まるんだなぁ。お嬢様の周りは向上心溢れる方々ばかりなのに)

感心するほど全員が同じような価値観だった。誰も領地経営の話はしない。誰も家臣の話をしない。話題は酒、女、賭け事。そんなものばかりだった。

(……シガンダ公爵領、大丈夫かな)

一瞬だけ本気で心配になる。尤も、その心配もすぐに消える。

(大丈夫か)

お嬢様がいる。あの方はそんな未来まで見据えて動いている。だから自分も、そのために役目を果たすだけだ。

「マカリア」

「はい?」

「卒業したら、もっと一緒にいられるな」

「そうですねぇ」

にこりと微笑む。勿論、その笑顔も演技だ。ナサリオはすっかり上機嫌になっている。

(順調順調)

マカリアは胸の内で小さく頷いた。

(この調子なら、お坊ちゃまは卒業しても疑わない)

学院では恋人。屋敷では婚約者の侍女。髪型も化粧も服装も変えてしまえば、他家の使用人の顔など覚えもしないナサリオが気付くはずもない。況してやこの男は人の顔より、自分が気持ちよく過ごせるかしか興味がない。

(作戦は予定通り)

ふと視線を上げる。校舎の2階。一瞬だけ、フロレンシアと目が合った。ほんの一瞬。それだけで充分だった。互いに何も表情は変えない。学院では他人。接点などない。そう振舞うのも作戦のうち。

けれど長年寄り添ってきた二人には、それだけで充分だった。

(順調ですよ、シア様)

(ええ、リア)

言葉はない。それでも互いの意思は伝わる。

こうして学院では今日もまた『婚約者を蔑ろにする愚かな公爵令息とその恋人』という芝居が続いていく。

誰一人として、その舞台の脚本を書いているのが、その婚約者と恋人自身であるとは気付かないまま。

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