急展開(跡部視点)

 流石の俺様にも、この展開は予想外だった。




 冷泉女史からの情報を受けて、長岡への対策を講じた翌日。早朝の部室の風景はいつもと違っていた。

「ああ、跡部か。おはようさん」

 部室には忍足がいた。これはいつもどおりのことだ。

 忍足は既にウェアに着替え、ソファでぼんやりとしていた。珍しいこともあるもんだ。

 しかし、いつもならパタパタと練習の準備で動き回っている長岡の姿が見えない。

「お前1人か。長岡は如何した」

 長岡が来ていないなんて珍しい。

「俺は先に来たよってな。彰子はまだや」

 これまた珍しいことがあるもんだ。毎日忍足は長岡と一緒に登校していたというのに。

 入学して以来、常に忍足は長岡と一緒に登下校している。家が隣同士なのだから同じ時間帯に登校しようとすれば自然にそうなるわけだし、況してや長岡にべったりの忍足なのだから、態々別に登校するはずもない。毎日迎えにいっていると聞いたことがある。

 部室に1番に来るのは忍足と長岡で……俺がその次に来るというのが高等部に来てからのこれまでの状態だった。長岡は部活の準備を始めていてそれを忍足が手伝っているときに俺が登校してくるといった感じだ。

「体調でも崩したのか?」

 常に早めの行動をする長岡がこの時間に来ていないのだとすれば、それしか考えられねぇんだが。

「体調……? 多分、ごっつうええはずやで」

 どこか皮肉な印象を与える口調で忍足は応える。

 ぼんやりしていたんじゃねぇな。こいつ、落ち込んでやがるんだ。

「彰子はもう少ししたら来るやろ。そしたら俺が説明せんかて判るわ」

 忍足は幾分投げやりに言う。地を這うような低い、沈鬱としか言いようのない声で。

 長岡に関することで忍足がこんな言い方をしたのは初めてのことだった。

 長岡と何かあったな……そう思いはしても、こいつらが喧嘩することなど想像出来ねぇし。

 忍足は長岡には甘すぎるほど甘いし、長岡は長岡で俺たちに対して本気で怒ることは考えにくい。

 いや、本気で怒ることはあるが、それを翌日まで引き摺るなんてことはまずない。大概はその日のうちに、それもその場で事を収めて怒りを静めるはずだからな。

 長岡と何かあったのかと問おうかとも思ったが、先ほどの忍足の返事が全てだ。

 長岡が来たら説明しなくても判ると忍足は言った。つまり、忍足は今それを説明する気はないということだ。

 やがて、宍戸・向日・滝……と集まり始め、全員が忍足はいるのに長岡がいないことを不思議がる。

 当然のようにいつも一緒にいる忍足に『長岡はどうした?』と尋ねるのだが、

「……先にコート行くわ」

 問われることが鬱陶しいと言わんばかりに、忍足は部室を出る。

「侑士、長岡となんかあったのかよ?」

 俺に聞かれても、なんとも応えようがない。俺だって何も聞いてはいないのだから。

「すごい不機嫌オーラ出まくりだね、忍足……。彰子ちゃんとトラブったのかな」

 腹の中を見せないヤツとはいえ、だからこそ忍足は表面上は人当たりがいい。その忍足がここまで露骨に感情を露にして出て行くなど、長い付き合いの中でも滅多にないことだった。

 だが……その忍足のいつにない不機嫌さの理由も、長岡が来たときに納得した。

 通常よりも30分近く遅くやって来た長岡は挨拶をすると直ぐに着替えに行き、バタバタと練習の準備を始めた。

 何かを長岡に聞くまでもなかった。

「彰子、明日からは30分早めに迎えに行くから」

 一緒にやって来た関玲彦は長岡にそう言ったのだから。つまりそれは、部室に2人でやってきたのは偶然登校途中に出会ったのではなく、長岡が関さんと一緒に登校してきたということ。

 そして、昨日まで長岡と呼んでいた関さんが名前を呼び捨てにしていること。長岡も関さんを『玲先輩』と昨日までとは違った呼び方で呼んでいる。

 長岡は、関玲彦と付き合い始めた。

 そういうことなのだ。




 忍足は長岡が来るといつもと変わらない、昨日までの忍足に戻った。正確には戻った振りをしているだけだが……。

 長岡の態度もいつもと変わりはない。関さんと長岡は部活中はこれまでどおり『関先輩』『長岡』と呼び合い先輩後輩の関係を崩してはいなかった。だが、部活が終われば、途端に関さんは『彰子』と呼ぶ。そのたびに忍足の表情は強張っていた。

「彰子ちゃん、関先輩といつから付き合い出したんだろ」

 昼休み、いつものように屋上で昼食を摂るために集まっていると、慈郎が切り出した。

 長岡はここにはいない。今日は久世と一緒に食べる日だからなのか……それとも関さんと一緒なのかは判らねぇが。

 いつもは長岡手製の弁当を持ってきている忍足の昼飯は、コンビニの弁当になっていた。

 全員が忍足の弁当には気付いていた。初めの頃は長岡が一緒に食う日は忍足も長岡の弁当で、それ以外の日は忍足は学食のパンだったりしたのだが、いつの間にやら毎日忍足は長岡手製の弁当を持ってくるようになっていた。

 長岡に言わせりゃ1人分も2人分も変わらねぇし、日によって1人分・2人分と分けるのが面倒だから……ということで忍足の分も作っていたらしい。

 教室の中ではいつもどおりの忍足を演じていたようだが、流石に長岡の目がなくなると、忍足は不機嫌さを隠そうとはしなかった。

 全員が何処となく腫れ物を触るような態度になっていたんだが、いつまでもこう空気が重くては敵わねぇ。そこに空気を読んでいないようでいて実は確り空気を読んでいるからこその慈郎の発言だった。

「昨日の昼休み……らしいわ」

 相変わらずの声で忍足が答える。図書館に行くと言っていたが、あれは関さんと会うためだったということか。

「関先輩から告られて、受けたんやと」

 溜息をつきながら忍足は言う。

「堪忍な。俺が空気重うしてんのは判っとるんやけど……。流石に直ぐには立ち直られへんわ」

 まぁ……確かにそうだろう。

「全国までには立ち直るよって……済まんけど、暫く大目に見たってや」

「忍足が振られるなんて初めてだしね。ショックなのは仕方ない」

 滝の言葉に全員が同意する。初めてだろう本気で惚れた女が他の男のものになったのだから、忍足にしてみれば相当なショックだろう。振られるなんてことには免疫もないわけだしな。

「告白すらしてへんのやし……振られたわけやあらへんで。まぁ……失恋っちゅうことにはなるんやろうけどな」

 忍足は苦笑する。本当に苦々しい笑い。

「でも……長岡と関先輩か。なんか意外な取り合わせだよな」

 宍戸が漏らした言葉は、ほぼ全員に共通する感想だっただろう。

「だなー。長岡に男出来るってのが、なんか想像出来ねぇし」

 出来るとしたら侑士だと思ってた。向日はそう続ける。

 そう……長岡にまさか『彼氏』が出来るなどと、俺たちは思っていなかった。

 何故か俺たちは長岡に男が出来ることはないとそう思い込んでいた。

 普段の長岡が女を感じさせないからかもしれねぇ。

 男とか女とか関係なく、『仲間』だと思っているからかもしれねぇ。

 そして、全員が恐らく無意識のうちに長岡を女としてみることを避けていたんじゃねぇかと思う。

 仲間の──忍足の想い人だから。

 仲間である忍足の想いを応援する気持ちもあり、俺たちの中では……いずれ長岡に男が出来るとしたらそれは忍足以外には有り得ないのだとそう思い込んでいた。

 そう思い込むことで、長岡を女として意識することを避けていたんじゃねぇか……?

 だが、それは俺たちの勝手な思い込みでしかなく、長岡は関さんと付き合い始め、『男』が出来た。紛れもなく長岡は女だった。

 とはいえ、それで俺たちの関係が変わるわけじゃねぇはずだ。

 公私を分ける長岡が、仮令恋人であろうと部活中に関さんを特別扱いするはずはないし、それは関さんも同様だからな。

「で……どうすんの? 忍足は彰子ちゃんを諦めるの?」

 どこか探るように慈郎が訊く。

「どうやろなぁ……」

 今は判断がつかないといった様子で忍足は応じる。

「元々長期戦は覚悟してたんやし……まさか他に男出来ると思うてへんかったんは俺の読みが甘かっただけやしな。けど今はなんや頭真っ白やねん。なんも考えられへんわ」

 諦めるも諦めないも、どちらともまだはっきりとは言えないということだろう。それだけショックが大きかったというわけだ。

 しかし……長期戦、か。

 確かに相手が関玲彦なのであれば、いずれ長岡とは別れることになる。関家の後継者が恋愛結婚をすることなど有り得ねぇからな。

 高校時代の恋愛でそこまで意識しているヤツは少ないだろうが、後継者ともなれば、恋愛と結婚の関係については一度ならず考える。後継者としての自覚を確り持っている者ならば、な。

 関玲彦はその点既に十分すぎる自覚を持って行動をしていたはずだ。それがまさか高校時代に『恋人』を持つとは予想外だったが……。それでも、精々長くて関さんの大学卒業までの関係だろう。

 第一、後継者の自覚云々に関わらず、高校時代の恋愛がそのまま結婚に結びつく例はそこまで多くはない。

 長期戦を覚悟していた忍足なら、気持ちの整理が付けば、再度時期を待つようになるのだろう。

「でも彰子ちゃんに彼氏出来ちゃったらこれまでみたいに遊びにいったり出来ないよね……。それは詰まんないC」

「仕方ないだろ。ダチとはいえ俺らも一応男なんだから。関先輩にしたら面白くねぇだろうしいな」

 慈郎と宍戸の会話を何とはなしに聞きながら、『面白くねぇ』と感じた。

 だが、考えてみればそれも当然のことだ。

 これまでは当たり前のように出入りしていた長岡の部屋には行くことはなくなるだろう。仮令俺たちが長岡の友人であり、長岡が俺たちを男としてみていなくても、関さんにとっては紛れもなく俺たちは長岡とは異性なんだから。

『彼氏』である関さんにしてみれば、恋人である長岡の部屋に俺たち他の『男』が入ることは嫌なはず。

 休日だって同様だろう。優先順位は恋人である関さんが高くなる。

 長岡や俺たちに関係を変える気がなくとも『彼氏』という外部要因によって、部活以外での俺たちの関係は変わらざるを得ない。

 長岡に男が出来たことによって、俺たちの関係は否応無しに変化を強いられる。

 これまでのような、心地よい関係は崩れる。

 それが、面白くねぇ。




 ──関係が変わることだけが、面白くねぇのか? 本当に、それだけなのか……?