「まぁ、彰子! その髪はどうなさったの?」
久しぶりに昼食を共にすることになり、いつものようにサロンの一室に集まった日のことでした。
ゴールデンウィークが終わり、その間のテニス部の様子を直接彰子に伝えるために昼食をご一緒にと彰子を誘ったのです。
集まっているのは、由紀子さん、那津子さん、詩史さん。
そして彰子が部屋に入ってきた途端、那津子さんは驚いて冒頭の言葉となりましたの。
そう、彰子の腰にかかるほど長かった美しい黒髪がばっさりと短くなっていたのです。ショートヘアというほどではありません。肩を覆う程度の長さはありますけれど……。
「お久しぶりです、美弥子さん、由紀子さん、那津子さん」
彰子はにっこりと笑ってテーブルに着きます。
「髪は長くて邪魔になったので、昨日切ったんです」
まぁ、なんて勿体無い……。
皆さん同じように思っていらっしゃるようで溜息をついていらっしゃいます。
「本当はもっと短くしようと思ったんですけど……侑士に反対されてしまって……」
苦笑しながらそう言う彰子さんの横で、小さく詩史さんが『忍足、グッジョブ!』なんて呟いています。
「でも彰子ならきっとショートカットも似合いますわね」
那津子さんはにっこりと微笑みながら仰います。
そうですわね。彰子ならきっとショートヘアでもその美しさを損ねることなく、今とは違った美しさを見せてくれるでしょう。
「ショートだと、シャンプー楽でいいんですけどね。長いとシャンプー代も馬鹿にならないし……」
「彰子……その庶民的発言止めようよ」
「詩史、私は完璧に庶民だから」
彰子は詩史さんにだけは砕けた口調で話します。やはり同学年の気安さがあるのでしょうね。
それにいつの間にか詩史さんは周りから彰子の親友と認識されるほど親しくなっていますし。
それからは合宿の様子などを聞きながら和やかに昼食を摂りました。
「合宿で忍足や跡部に変なことされなかった? 立海の人たちにセクハラとか受けなかった?」
……詩史さん、グッジョブですわ。
「は? 変なことって……別に皆普通にテニスに打ち込んでただけだよ。寧ろ最終日には皆が労ってくれて逆に申し訳ないくらいだったし」
彰子は詩史さんの質問の意図が今ひとつ判っていない様子……。
あれだけ、忍足さんに好意を寄せられていると言うのに、彰子は少しも気づいていないようですわね……。忍足さんにはお気の毒としか申し上げようもありませんわ。
「それに侑士や跡部が変なのはいつもの事だし」
彰子……それは貴女にしか言えないことですわ。
「あ……今の発言はファンの方たちにはオフレコで」
「判ってますわ、彰子。ここだけの話ね」
跡部様も忍足さんも彰子に対しては気負うことも構えることもなく、ごくごく自然体で接していらして、わたくしたちには見せない表情をお見せになります。初めてその姿に接したときは本当に驚いてしまいました。お2人とも年相応の少年らしい表情をしていらっしゃいましたから。
彰子と知り合ったのは彰子が入学してきた4月。
けれどそれ以前からわたくしたちは彰子のことを知っていました。
とても噂になっておりましたもの。あの忍足さんが連れてきた少女。そして跡部様がマネージャーにと望んだ人物として。
まだ入学前からマネージャーを始めた彰子の噂を聞いたわたくしは詩史さんにどういった人物か見極めるよう依頼しましたの。
これまでの者たちのように不用意にファンの嫉妬を煽るようなマネージャーでは、テニス部のためにもなりませんし、わたくしたちだって面白くはありませんもの。
それに跡部様ご自身がマネージャーになるよう依頼なさったと聞いて純粋にどういう人物なのかという興味もありました。
詩史さんから受けた報告は『有能なマネージャーであり、一般部員とレギュラーに対して態度の差は一切ない』というもの。これまで聞いたことのない報告でした。
実際にわたくしたちも中等部まで出かけ彰子の働きぶりを拝見し、詩史さんの報告に間違いがないことも確認しました。
「美弥子さん! すっごい美少女なんですよ」
と……詩史さんが興奮気味に仰ってたことも、誇張などではないことを確認いたしましたし……。(詩史さんは美しいものに目がないのです……)
知り合う前から、わたくしたちは彰子に好印象を抱いておりました。
そして更に跡部様・忍足さんが流した噂を耳にしたとき、彰子は恐らく信頼に値する人物だろうとの確信を抱きました。
あの跡部様たちが彰子を守るためにファンが手出し出来ないよう予防線を張っているほどなのです。それほど彰子は跡部様たちに信頼され必要とされているのです。
それでも……わたくしたちは警戒していました。
彰子がファンにどういう態度をとるのか……。いくら有能なマネージャーであっても、ファンを敵に回すような人では困ります。ファンの反感を買うような人物であれば、いくら跡部様たちが守るための手段をとっていたとしてもいつかファンは暴走してしまいますから。
けれど……それも杞憂だったようでした。
そう……あれは3月に入ったばかりのころだったでしょうか。わたくしが何度目かの見学に行った日のことでした。
3月とはいえ、まだ寒さは厳しい日でした。彰子はいつものようにコートを走り回り部員の皆さんのお世話をしていて……。
そして、ふと見学している女子生徒に目を留め、その方に話しかけたのです。
「そこは日が当たらなくて寒いでしょ? よかったらこれ使って。私走り回ってたら暑くなってきちゃったから」
そう言って彰子は使い捨てカイロをその方に渡していました。
それから、見学しているわたくしたちを見回すと
「見学の皆さんにお願いですー! 部員が寒くて声出てませんので、皆さん掛け声かけてあげてください」
と言ったのです。
「氷帝~ファイ・オー」
彰子はそう掛け声をかけ、それに練習している部員が同じように応え、それを繰り返します。
「皆さんもご一緒にお願いします」
にっこりと彰子は微笑みました。そして見学者が声を出し始めると、「その調子でお願いします」と笑い、また仕事へと戻っていったのです。
とても寒い日でした。見学しているわたくしたちは震えながら見学していたのです。
練習の邪魔になってはいけないからと、声援を送ることは控えていました。けれど、じっと黙って立っていると体が凍えてくるのです。
部員の方たちとともに掛け声を掛け合っているうちに、体はだんだんと温まってきました。
そう……彰子はそれを狙っていたのでしょう。
練習が終わり、見学者も帰途に付こうしているとき、再び彰子がわたくしたちに声をかけてきました。
「今日はご協力ありがとうございました。またよろしくお願いします。お気をつけてお帰りくださいね。おうちに帰るまでが遠足ですよー」
明るく笑ってそう言う彰子の様子に思わず笑みが漏れました。
この子であれば……大丈夫。わたくしはそう確信したのです。
入学後まもなく、跡部様経由で彰子が話をしたいと打診してきたとき、わたくしたちはそれを不思議とは思いませんでした。彼女であれば何らかの働きかけをしてくるのではないかという予感があったのです。
そして初めて直接話をして、わたくしたちは彰子を信頼できるという確信を深めたのでした。
「詩史の部誌と皆さんからの報告書は跡部にも報告しました」
食事を終え、彰子が本題を切り出します。
「幸い、部内対抗戦で問題あるレギュラー陣は全員既に負けてますし、レギュラー落ち確定です。まぁ、だからこそサボってたのかもしれませんけどね」
「早々に負けるようにトーナメントを組んだのではなくて?」
わたくしが微笑みながらそう言えば、彰子は微笑み返します。
「ばれてました?」
彰子たちが入学してくるまでのレギュラーは全員が3年生で、実力的には2年生に劣る者もおりました。けれど、先輩であることを盾に影で脅しをかけてトーナメントでは勝ちあがりレギュラーの座についているものもいたようです。
「全国目指すのに足手まといになるような阿呆はいらねぇというのが跡部の意見で、侑士も私も同感ですから」
「これからのテニス部は応援のし甲斐がありそうですわね」
満足そうに那津子さんが頷きます。純粋にテニス部を応援しているファンはこれまでのテニス部には歯がゆい思いをしてまいりましたもの。
「ご期待に沿えるように頑張ります」
そう言って微笑む彰子の表情は自信に満ちていました。
本当にこれからのテニス部が楽しみですわ。
昼休みが終わり、彰子と詩史さん、那津子さんは教室へと戻りました。
わたくしと由紀子さんは午後が自習になっているため、そのまま残っておりましたの。
「美弥子さん、お気づきになって?」
優雅にティーカップを口へ運びながら由紀子さんは仰います。
「彰子が忍足さんのことを意識し始めたようね」
「そのようですわね。彰子から忍足さんの話題が出ることはありませんでしたもの。何かありましたわね」
忍足さんは彰子の隣人であり、クラスメイトでもあり、一緒に過ごす時間が一番長い方。自然、話題も多くなります。
けれど、今日は彰子から忍足さんの話題が出ることはありませんでした。
忍足さんが彰子に好意を抱いていることは見るものが見れば容易に判ります。隠そうとはなさっておられませんものね。なのに、彰子は全く気づいていない様子。忍足さんも今彰子とどうにかなろうという意図は持っておられないようで、アプローチはしていらっしゃらないことも一因ではあるでしょうけれど。
「彰子は恋愛に鈍いようですものね……」
そう言って苦笑する由紀子さんにわたくしも同じように苦笑を返します。
「ご自分がおもてになることに気づいていらっしゃらないものね」
まぁ、彰子にアプローチしようという度胸のある男性も少ないですけれど。なにせ、あの跡部様と忍足さんが傍にいらっしゃるのですから無理もありませんわね。
「忍足さんのファンには気をつけなくてはいけませんわね……」
由紀子さんが溜息混じりに仰います。
「そうですわね……。跡部様と忍足さんのファンには過激な方も多いから……」
中等部のころはそれなりに遊んでいたお二人。その遊びのお相手もファンの中にはおりますもの。彼女たちが彰子と忍足さんの関係が変化しようとしていることに気づいたら、問題を起こしかねませんわ。
「彰子ならあまり心配することはないとは思いますけれど……」
入学してわずか半月あまりではありますけれど、彰子は既に一部の生徒から深い信頼を寄せられています。それはテニス部の部員たちであり、生徒会の関係者であり、クラスメイトであり。
そして、テニス部のファンの中には彰子のファンとなっているものたちもおります。特に同学年に多いようですわね。中等部の練習を見学しているうちに彰子に魅せられた方たち。
実は……彰子には極秘にファンクラブが出来ているのです。彰子自身は知らないことであり、恐らく跡部様たちもご存知ないでしょうけれど。彼女たちは積極的にテニス部のお手伝いをすることで彰子をサポートしているようです。一部では『長岡さんなら、跡部様の恋人になっても応援できる』『長岡さんなら忍足くんの彼女でも諦めが付く』といった声もあるようですけれど……。
でも、まだそれはごく一部。
もし、今、彰子と忍足さんの関係が進展し恋人となってしまったら……ファンとの関係は悪くなってしまうでしょう。
尤も、あの彰子ですから、急速に進展するということは考えにくいですし……忍足さんが何もしないはずもありません。
寧ろ恋人になったとしたら、そしてそれが彰子を危険に近づけることになるとしたら、忍足さんは2人の関係を隠そうとなさるでしょう。あの方はポーカーフェイスでそれがおできになるはず。
「まだ彰子が忍足さんに恋愛感情をもつという段階には至っていないようですし、暫くは様子を見ましょう」
「そうですわね。それにわたくしたちの彰子が誰か一人のものになってしまうのも面白くありませんから……適度に忍足さんの邪魔はさせていただきますわ」
「まぁ、由紀子さん。詩史さんのようなことを仰るのね」
「あら、そうですわね」
くすくすとわたくしたちは笑いあいました。
彰子。
わたくしたちの可愛い後輩。大切なお友達。
忍足さん、そしてお会いしたことはないけれど仁王雅治さん。
あなた方に簡単には彰子を渡しませんことよ。