恋の花が咲く――運命の物語よりも、あなたと紡ぐ恋を。

第一話 花の咲かない初恋

 ゴーベール王国の王太子の第四子であるエティエンヌ王子と、王国の重鎮ジュヴェ公爵家の孫娘ロクサンヌの婚約が決まったのは、二人が3歳のときだった。

 王太子には5人の子がいる。第一王子、第一王女、第二王女、第二王子エティエンヌ、そして第三王子。この国では男女ともに王位継承権は同等であるため、エティエンヌの継承順位は兄弟の中では4番目。王位を継ぐ可能性は決して高くないが、王族としての責務から逃れられるわけではない。

 そんなエティエンヌの婚約者に選ばれたのが、ジュヴェ公爵の孫娘ロクサンヌだった。ジュヴェ小公爵の末娘である。因みにジュヴェ小公爵には3男1女がおり、唯一の娘を溺愛している。

 両家にとって望ましい縁談であり、周囲の大人たちは婚約を喜んだ。

 そして、王宮の庭園で初めて顔を合わせた二人が、互いに一目で惹かれ合ったこともまた、周囲の大人たちを喜ばせた。

 いや、一人だけ、そうでもない人物がいた。ロクサンヌの父であるジュヴェ小公爵である。娘を溺愛してやまない彼は、目の前で愛らしく微笑む愛娘を見つめ、何とも言えない顔をしていた。

 ――うちの天使を、もう嫁に出すのか。

 まだ3歳である。婚姻どころか、文字も満足に読めない年齢である。それでも、父親の心は複雑だった。

 一方、当の本人たちは、大人たちの思惑など知る由もない。

「おうたいち(王太子)が、じなん、エティエンヌでありゅ!」

 小さな王子が胸を張る。

 対するロクサンヌも、祖父から教わった挨拶を一生懸命に披露した。

「ジュヴェこうちゃく(公爵)のまご、ロクサンヌともうちまちゅ。おめもじかないまちて、こうえいにぞんじまちゅ」

 舌足らずな二人の挨拶に、王太子妃と次期公爵夫人は目を輝かせた。ジュヴェ公爵は、うむうむと満足げに頷いている。王太子は微笑み、少し離れた場所に控えていた侍従や侍女たちまで、思わず頬を緩めた。

 そんな中、エティエンヌはロクサンヌの小さな手を取った。

「ロクサンヌは、わたちのこんやくちゃだからな! わたちがロクサンヌを、これからはまもってやりゅかりゃな!」

 ロクサンヌはぱっと顔を明るくした。

「では、わたくちはエティエンヌしゃまを、おささえちましゅ!」

 二人は互いに笑い合った。

 その様子を見守っていた大人たちは、揃って頬を緩めた。

 王太子夫妻の長男である第一王子は13歳、長女の第一王女は11歳、次女の第二王女は8歳。そしてエティエンヌの弟にあたる第三王子は、まだ二歳だった。

 年の離れた弟妹を見守る兄姉たちにとって、幼い第二王子とその婚約者は、なんとも微笑ましい存在だった。

「まあ、あの二人ったら」

 第一王女が笑いを堪える。

「エティエンヌは、もう立派な騎士のつもりなのね」

「ロクサンヌ嬢も、随分頼もしいことだ」

 第一王子も楽しげに頷いた。

 王太子妃は、ロクサンヌの母親と顔を見合わせて微笑む。

 一方、ジュヴェ公爵家の次期当主であるロクサンヌの父親だけは、少々複雑な顔をしていた。

「……我が娘が、もう婚約者を」

「あなた、まだ3歳ですよ」

 妻に窘められても、父親は娘と王子の手が繋がれている様子をじっと見つめていた。

 その隣では、ロクサンヌの祖父であるジュヴェ公爵が、孫娘の成長を喜ぶように目を細めている。

「よいではないか。二人とも、随分気が合うようだ」

 こうして、王国の第二王子エティエンヌと、ジュヴェ公爵家の令嬢ロクサンヌは、初めて出会ったその日から、互いを特別な相手として意識するようになった。

 少なくとも、本人たちはそう信じていた。

 それから二人は、定期的に王宮で顔を合わせるようになった。庭園を歩き、絵本を読み、時には花を摘んで互いに贈り合う。

 エティエンヌはロクサンヌが転びそうになればすぐに手を差し出し、ロクサンヌはエティエンヌが難しい本を読もうとして困っていれば、隣に座って一緒に考えた。

 二人の仲睦まじさは、王宮ではすっかり知られたものとなっていた。

 

 

 

 二人が5歳になったころには、週に一度の逢瀬がすっかり習慣になっていた。

 ロクサンヌは祖父や父が王宮に伺候する日に連れられてやって来る。王族の子供として教育を受けるエティエンヌも、時間が許せば彼女と庭園で遊び、お茶会を楽しんだ。正確には、お茶会というよりも、庭園で遊び疲れた二人が果実水を飲む時間である。

 その日も、二人は花壇の周りを歩いていた。

「ロクサンヌ、今日は何をして遊ぶ?」

「そうですわね……。あっ、エティエンヌ様、わたくし、昨日、新しい絵本を読んでいただきましたの!」

「どんな話だ?」

「王子様とお姫様が恋に落ちて、結婚するお話ですわ!」

 エティエンヌは目を輝かせた。

「それなら、私たちと同じだな!」

「ええ! ……でも」

 ロクサンヌは、何故か急に難しい顔になった。

「わたくし、エティエンヌ様に恋してないのですわ」

「……む?」

 エティエンヌは固まった。突然の婚約者の言葉に、幼い王子の頭は大混乱である。

「ど、どうしてだ!」

「あら、王子様はわたくしに恋していらっしゃるの?」

「それは……」

 エティエンヌは考え込んだ。

 恋とは何だろう。絵本では、王子様とお姫様が出会った瞬間、きらきらと光が輝き、花びらが舞い散っていた。

 自分はロクサンヌと初めて会ったとき、どうだっただろうか。

 とても可愛いと思った。手を繋ぎたいと思った。笑いかけられたら、胸がぽかぽかした。

 けれど、花は舞わなかった。

「……どうなったら、恋をしているんだ?」

「分かりませんの! でも、絵本では一目で恋に落ちておりますでしょう?」

「ああ。出会ったときに、きらきらして、花が舞っていた」

「ええ。でも、わたくし、エティエンヌ様にお会いしたとき、かっこよくてドキドキしましたけれど、きらきらしてお花は舞いませんでしたの」

「……俺も、お前があまりに可愛くて、抱きしめたくなったけど、花は舞わなかった」

「でしょう?」

 ロクサンヌは、困ったように眉を下げた。

「お会いできる日はとても楽しみですの。前の日の夜は、楽しみすぎて眠れません。ドレスは似合っているかしら、可愛いと思ってくださるかしらって、何度もお母様に尋ねてしまいます。でも、花を咲かせたりは出来ませんから……」

「俺も同じだ!」

 エティエンヌは勢いよく顔を上げた。

「お前にかっこいいと思われたくて、兄上に服のことを聞いたり、髪を整えたりしている。でも、花は咲かない。だから、たぶん恋をしていないんだ!」

「やっぱり、そうなのですわね!」

 二人は真剣に頷き合った。

 少し離れた場所で見守っていた大人たちは、必死に笑いをこらえていた。どう考えても、相思相愛の初恋である。

「僭越ながら、殿下、お嬢様」

 とうとう、エティエンヌの侍従が口を挟んだ。

「お二人は、紛れもなく可愛らしい初恋をしていらっしゃいますよ」

「だが、花は舞っていない!」

「わたくしもですわ! 絵本ではあんなにきれいな花が舞っておりましたのよ!」

「それは絵本だからですよ。恋に落ちたことが分かりやすいように、そう描いているだけなのです」

 そこへ、楽しそうな笑い声が響いた。

「おやおや。これは面白い話をしているね」

 現れたのは、エティエンヌの叔父だった。魔法に長けた彼は、幼い王子と令嬢のやり取りを聞き、目を細めた。

「では、恋する気持ちが見えるようにしてあげよう」

「叔父上!」

「但し、今だけだよ。エティエンヌとロクサンヌの恋する気持ちを、それぞれ花にしてみよう」

 叔父が指先を振る。すると、ロクサンヌの周りに、桜色の花々がふわりと舞い始めた。エティエンヌの周りには、澄んだ青色の花が咲き、くるくると踊るように宙を巡った。

「わああっ!」

「まあっ!」

 二人は歓声を上げた。

「ロクサンヌの周りに、可愛い花がいっぱいだ!」

「殿下の周りも、とてもきれいですわ!」

 花びらが、二人の間をゆっくりと漂う。叔父は優しく微笑んだ。

「君たちは、お互いが大好きなんだね。その大好きな気持ちが、恋なんだよ」

 二人は顔を見合わせた。

「……では、わたくしたち、恋をしていたのですね?」

「そういうことだよ」

 ロクサンヌは嬉しそうに笑った。エティエンヌも満面の笑みを浮かべる。

「なら、俺はロクサンヌに恋をしている!」

「わたくしも、エティエンヌ様に恋をしておりますわ!」

 二人は手を取り合った。そして、周囲の大人たちは、ついに堪えきれずに笑い出した。但し、次期公爵だけは笑っていなかった。

「……殿下。娘を抱きしめるのは、まだ早いのでは?」

「お父様!」

 ロクサンヌが頬を膨らませる。エティエンヌは、小さな手をぎゅっと握った。

「大丈夫だ、ロクサンヌ! 俺が守るからな!」

「はい、エティエンヌ様!」

 青い花と桜色の花が、二人の頭上で仲良く舞っていた。

 このときの二人は、まだ知らなかった。いつか、自分たちの恋を試すような未来が訪れることを。

 そして、その未来に立ち向かうとき、この花の記憶が、何よりも大切なものになることを。