その他

遥けき空の彼方〈未完放置〉

国試開始

「行ってらっしゃいませ、鳳珠様」

麻幸己は鳳珠を送り出す。

今日は愈々鳳珠が国試の為に予備宿舎に入る日だった。

国試は彩雲国全土から受験者が集まり、且つ受験者は(州試に受かってさえいれば)誰にでもある。つまり、裕福な者もそうでない者もいるわけで、そういった遠方からの受験者や受験までの間宿を取るのも負担になるような受験者の為に宿舎が用意してある。

建前上、全受験者はこの予備宿舎に入ることになっているが、そこはあくまでも建前。貴陽に邸宅を持つ貴族、1ヶ月宿屋住まいだろうと経済的には痛くも痒くもない富裕層などは入寮しないことも多い。

当然、直系ではないとはいえ、彩七家の1つ、黄家の若様である鳳珠は入らないならそれでもいいのである。

しかし、そこは真面目な鳳珠である。規則だからと当然入るつもりでいた。

が……規則だから入らねばならないが、入ったら入ったで問題になりそうだと悩んでもいたのだ。

原因は全て鳳珠の人外魔境……いや、桃源郷に迷い込んだかのように恍惚となり茫然自失、それで済めば運がいいほうで中には人生踏み外す者が出るほどの美貌である。

国試に先立つ州試。

鳳珠は主席及第者である。そして、唯一の及第者でもあった。

鳳珠の美貌を目の当たりにした受験生が魂消てしまい、誰も合格出来なかったのだ。

もし、国試でもそんなことになってしまったら……と鳳珠は悩んでいたのである。

黄州の州試の轍を踏まない為にも……自分は受験を取りやめたほうがいいのではないか。鳳珠は何度も自問した。

けれど、官吏になることを諦められなかった。

王と国を護るはずの彩七家。

その筆頭である藍家が、全ての藍姓官吏を王都から引き上げさせた。理由は、聡明をもってなる第二公子を追放したから。

藍家は王家、中央政府には一切協力しないという姿勢を見せたわけである。

こんな状況だからこそ、少しでも民の役に立ちたかった。

だから、官吏になる為に国試に臨んだのだ。

だが、もし此処で国試が黄州州試の二の舞になってしまったら……国の力となる官吏になるかもしれない人材が自分の所為で及第できないかもしれない……。

結局諦めきれずに貴陽までやってきて受験することにしたが、予備宿舎入りについては未だに迷っていた。

「でも、試験当日に鳳珠様に会うのと、1ヶ月前に出会って立ち直る時間があるのでは、後者のほうが絶対良いと思います」

そんなときに幼い養い子が言ったのだ。

1ヶ月ほど前に拾った、年齢に似合わず賢い幼子。自分に出会うまでの記憶が一切ないという娘を養子にして、悧曄という名をつけた。

その娘がそう言ったのだ。

確かにこの娘も、この館の住人も、最初こそは戸惑い驚きもしたが、今では鳳珠の美貌に馴れてしまっている。

国中から秀才鬼才が集まる国試だ。幾人かは耐性をつけることが出来るだろう。

「それに、国政を預かろうという人たちが、自分たちと同じ一受験者の美貌程度で受験に失敗するなんて覚悟が足りないんです」

悧曄は容赦のないことを言う。

悧曄は――麻幸己は黄州での出来事を聞いて実は激怒していた。

あまりに鳳珠が悩む為、色々と周りから聞き出していた麻幸己である。

鳳珠も年齢の割には確りした――どころではなく、時折自分よりも年長なのではないかと思わせる娘に相談というか愚痴をこぼしてしまったこともあったりした。

まぁ、実際麻幸己は今でこそ幼児だが、中身は30代半ばなので、強ち間違いではない。

麻幸己が怒ったというか、怒ったなんて生易しいレベルではない怒りの原因は、黄州州試不合格者たちの身勝手な言だった。

曰く『本来なら及第できた』

つまり、自分たちの不合格の原因を鳳珠に擦り付けたのだ。

鳳珠の美貌に魂を抜かれてしまい、本来の実力が出せなかったのだと……。

それを聞いたとき、麻幸己は思わず呟いた。

「馬ッ鹿じゃね」と。

それを聞いた麻幸己付きの侍女である木蓮は「姫様、お言葉遣いが……」と嗜めたくらい語気も荒かった(但し、内容については咎めなかった)。

麻幸己は嘗ていた世界では学習塾の講師をしていた時期がある。受験生の学習指導と受験指導をしていたのだ。

そのときにつくづくと思い知らされたのだ。運も実力のうちなのだと。

麻幸己がいた日本では、高校入試も大学入試も気象条件が最も悪い時期に行われる。

風邪やインフルエンザが猛威を振るい、突然の積雪によって交通機関が麻痺するような時期に行われるのだから。

けれど、風邪やインフルエンザは本人と周囲が注意を払うことによってある程度予防できるし、交通機関の麻痺とて毎年当たり前のように起きていることなのだから、予測を立て対策を講じておけばいいだけのことだ。

それをせずに不運だと嘆くのは甘いというしかない。

この試験だってそうではないかと麻幸己は思う。

どんなアクシデントがあっても対応してこその実力。

対応しきれないのであれば所詮実践では役に立てない頭でっかちなだけの机上の学問に過ぎないのではないか。

鳳珠に驚いて不合格になるというのなら、所詮それが本人の実力。

社会に出れば……この場合官吏になれば、どんなアクシデントが待ち受けているかも判らない。

そのときに仕事がうまくいかなかったり、勤めを果たせなかったときに彼らは『不運だった』で片付けるつもりなのだろうか?

国政を預かる官吏となる為に国試を受けたというのなら、気合で打ち勝て!

それが麻幸己の正直な想いである。

唯一黄州で救いだったのは、ある受験者の一言だった。

彼がいたからこそ、鳳珠は国試を諦めず受験することを決断したのだから。

彼は景柚梨。

『今年は驚いてしまいましたが、来年は合格して追いかけますから、必ず及第して待っていてください』

他の受験者になじられ、理不尽な怒りをぶつけられていた鳳珠に、彼はそう言ったのだと言う。(この話を聞いたとき、なじることが出来たんなら、鳳珠に向き合えたということで、それなら試験に落ちたのはやっぱり本人の実力不足であって、鳳珠の所為ではないだろ……と麻幸己は思った)

まだ見ぬ景柚梨に麻幸己は好意を持っている。

(来年は絶対に合格して、国試にも及第して、将来は鳳珠様の片腕になって頂かなきゃ!)

そう思っている麻幸己である。

彼女の中では既に鳳珠の国試及第は既定の事実となっている。

鳳珠に拾われてからの1ヶ月で麻幸己はすっかり鳳珠を尊敬するようになっていた。

何処の誰とも判らない不審な自分を養ってくれている。

それだけでも凄いのに、何不自由ないお坊ちゃま生活を躊躇いなく捨てて官吏になろうとしている。

それも、難関といわれる国試を受験してまで。

彩雲国の知識のない麻幸己には国試がどれだけ難しいのかは判らない。

けれど、元の世界の知識と照らし合わせればある程度の想像はつく。

元の世界の中国の科挙。若者のころから受験し、合格したら白髪の老人だった……なんて詩が残されているほどの超難関試験だ。

東大なんて目じゃない。日本最大倍率の宝塚音楽学校だって科挙に比ぶべくもない。

そんな超難関・超過酷な試験、それが科挙だ。

それと同等の国試である。簡単なはずがない。

そんなしなくてもいい努力と苦労をして、鳳珠は官吏を目指している。

それだけではなく、鳳珠は人としても主としても努力をしている。

だからこそ、この屋敷に仕える者たちは心から鳳珠を慕っているのだ。

夜中に切れてしまった墨を、真冬の深夜に態々起こしてまで買いに行かせるのは忍びないと、自分で花街まで買いに行ったという鳳珠。

そんな優しさと思いやりを持ち、努力している鳳珠だからこそ、少しでも憂いなく国試に臨み、実力を発揮して欲しいと麻幸己だけではなく屋敷中の誰もが願っている。

鳳珠の美貌にびびって実力が発揮できなかったなどとアホすぎることを二度と言わせないためにも、1ヶ月の準備期間にばっちりきっちり心の準備をしてもらおうじゃないか!

麻幸己と家人一同はそう思い、鳳珠の予備宿舎入りを勧めたのであった。

「うむ……。留守は頼むぞ、悧曄」

自分がいない間は娘である悧曄がこの舘の主だ。見かけは幼児だか、中身は確りしている。幼子とはいえ、立派に女主人も勤まるだろう、鳳珠はそう思い、留守を麻幸己に任せる。

「判りました。鳳珠様はおうちのことは気になさらずに、試験頑張ってくださいませ。鳳珠様ならきっと合格なさいます」

たっぷりと買い置きしていたはずの墨が切れてしまうほど努力をしていた鳳珠。

何よりも官吏になって民の為に働きたいという強い思いのある鳳珠が合格しないはずはない。

そう思い、麻幸己は鳳珠を見つめる。

それでも、鳳珠がいかんなく実力を発揮できるように、残された家のことは確り私が頑張ります。

その思いを理解し、鳳珠は微笑む。

「任せたぞ、悧曄」

そのまま車にのり、王城に向かった鳳珠は知らなかった。寧ろ知らなくて幸いだった。

鳳珠が車に乗った途端、免疫が付いているはずの全員が鳳珠の微笑を見て失神したことを……。

 

 

 

 

 

鳳珠が宿舎に入ってから、麻幸己は忙しくなった。

家のことは家令である笙祐と侍女頭である尚香が取り仕切り、寧ろ麻幸己は何もしなくて良かった。

彼らはたとえ主から留守を預けられたのが悧曄であっても、見た目5歳児の悧曄、しかも若様の養女である彼女に年齢不相応の負担はかけないようにしたのである。

家のことはしていないのに、何ゆえ麻幸己が超多忙だったかといえば、それは麻幸己が勉強を始めたからである。

麻幸己付きの侍女である芙蓉と木蓮は共に教養豊かで洗練された作法を修めているということで、鳳珠直々の指名を受けて麻幸己付きとなっている。

2人が後宮の女官となっても全く問題ないほどの教養を修めていると知った麻幸己は自分に学問を教えてくれるように頼んだのだ。

「まぁ、まだ姫様は幼くていらっしゃるんですから、お早いのではありませんか?」

そういいつつも、この姫様ならいつかは言い出すのではないかと思っていた2人だったりする。

「勉強を始めるのに早すぎるということはないでしょう? 私はまだ文字も書けないし読めないし、やることは沢山あるんですもの」

麻幸己はそういった。

そして要求したのは、文字の読み書き、彩雲国の地理と歴史、政治の仕組みと彩七家及び有力貴族の系譜に関しての講義を行うことだった。

文字の読み書き、彩雲国の地理と歴史ならば、姫君の素養として必要だろうが、何故政治の仕組みや貴族の系譜・力関係などを知りたがるのだろうと、侍女たちは不思議に思ったが……彼女たちの姫の言葉を聴いてからは、この幼い姫を生涯仕えるべき方だと深く心に刻み込んだのである。

麻幸己は言ったのだ。

 

 

 

 

 

何故、政治を学ぶかですって?

鳳珠様のお役に立ちたいからよ。

鳳珠様はきっと大官におなりになる。

そのときに少しでもお力になりたいの。

私が何か出来るわけじゃない。

でも、鳳珠様がどんな仕事をしておられるのかが判っていれば、自宅でどうすれば一番お心安らかに寛いでいただけるかも判ると思うの。

鳳珠様のなさることを理解していれば、一番鳳珠様がしてほしいこと、してほしくないことも判ると思うの。

官吏ではない目で、鳳珠様のお役に立てるかもしれないわ。

だから、私は政治のことも学びたいの。

鳳珠様がなさること、鳳珠様がいる世界をちゃんと理解できるように。

 

 

 

 

 

この幼子とは思えない麻幸己の言葉に芙蓉も木蓮もかなり驚いた。

どう考えても5歳児のいうことではない。

とはいえ、この1ヶ月の間に麻幸己――悧曄が普通ではないことを家人皆が解っていたので麻幸己の要求は意外にすんなり通った。

先ずは文字の練習。子供向けの草子を使って芙蓉や木蓮が読み聞かせをしてくれたのでかなり楽だった。

更に都合の良いことに、彩雲国は中華風ではあっても中国ではなく、文字そのものは表意文字と表音文字を組み合わせて表記する、日本語と同じパターンだったのである。とはいっても平仮名・カタカナではなかったが……。但し表意文字は殆ど日本で使っていた漢字と同じで、圧倒的に数の多い表意文字を覚えなおす必要はなく、その点でもかなり楽だった。

 

 

 

 

 

彩雲国の創世神話や歴史は麻幸己が眠る前のお話として、木蓮たちが語り聞かせてくれ、政治の仕組みなどについてはいずれ鳳珠にも相談した上で教師を雇うことを検討することになった。

 

 

 

 

 

麻幸己が最も苦労したのは文字を書くことだった。この国には鉛筆もシャープペンもボールペンもないのだ。全て筆である。

一応元の世界にいたころの麻幸己はそれなりの社会的地位を持っていた。大作家というわけではないが、それなりに名の売れている作家であり、その関係で様々な会合やパーティにも出席していた。

そしてそれなりに格式の高い集まりだったりすると、出席者の名の記帳は毛筆なのである。従って麻幸己は必要に迫られて小筆での毛筆の教室――女性の為の教養講座のようなものに通ったのだ。

記帳するだけなのだから、自分の名前と精々住所くらいが書ければいいのに態々書道教室にまで通ったのは麻幸己の生真面目さゆえであったが、ともあれ、そのおかげで毛筆には馴れている――はずだった。

此処で思わぬ、しかし当然といえば当然ながら障害となったのが、現在身体年齢5歳という幼さだったのである。

まず、筆を持つ手が小さい。故に思うように握れない。

次に机・椅子は全て大人仕様。椅子に座ると机は自分の目から顎の高さでとても字を書くどころではない。こちらでは床に座るという習慣はないらしく、座卓もなかった。

何とか椅子の上に台座や敷物を重ねてものを書くのに必要な高さを整えはしたが、どうにも安定しない。

不安定な椅子に座って文字の練習をする小さな姫を見かねた家人の1人が大胆にも椅子と机の脚を削り、麻幸己のサイズに合わせてくれた(しかも、ただ高さ調整しただけではなく、室に合うように加工もしてくれた)。

というわけで、『鳳珠様のお役に立ちたいの』という幼子(見かけだけ)の健気さに心打たれた家人たちの協力で、麻幸己は願いどおりの学習環境を手に入れ、学んでいったのである。

 

 

 

そうして。鳳珠が予備宿舎に入って半月が経った頃。

「姫様、明日お城へ行きませんか?」

と家令の祥祐が問うてきた。

祥祐は家令とは言え、おじいさんではなく、まだ20代半ば過ぎ。鳳珠より若干年上という若さだった。その所為か厳しい人物ではなく、またフットワークも軽い。

この黄邸は家人もおおくはない。鳳珠の顔と声に相対して理性と意識を保っていられなければ勤まらないわけで、必然的に少人数となってしまうのだ。だからこそ、20代の祥祐が家令ともなれるわけである。

「お城……? もしかして、鳳珠様に差し入れ?」

先に宿舎入りしたときに食料など持っていったはずだが、1ヶ月分は持っていっていない。途中で補充することになっていた。それが明日というわけだ。

「行きたい! ――でも鳳珠様のお邪魔にならないかしら」

「なるわけないでしょ。若様もきっと喜びますよ。予備宿舎なんてムサイ男の集まりでしょうしね。姫様が会いに行ったら凄く嬉しいと思いますよ」

ニコニコと笑いながら祥祐は勧める。祥祐は人外美貌の為に実力が正当に評価されない若君のことも、その若君が拾ってきた一風変わった少女のことも大層気に入っていた。

半月も予備宿舎に滞在できているのだから、州試の二の舞にはならずに済んだようだと安心する一方で、半月もの他人との共同生活は人に馴れていない鳳珠にとってはストレスの原因にもなっているに違いない。

そこのこの姫が面会に行けば若君もどれほど心休まることか。

「わかったわ。私も行く」

自分の存在が鳳珠の為に何かしらかの助けになるのならと麻幸己は承諾する。そして、明日は半月分の食料とは別に同宿者へも差し入れをすることを提案する。

「お勉強って疲れたころに甘いものを摂ると捗るんですって。何か甘いお菓子でも作ってもって行きましょう」

それから鳳珠様のことだから、紙や墨も少なくなっているだろうし、補充を……などとてきぱきと指示をする。

とても5歳児とは思えない指示に感心しつつ、祥祐は幼い女主人に対して提案をした。

「姫様のお勉強の成果をお知らせする為にも、若君へお手紙をお書きになりませんか?」

 

 

 

 

 

結局それからの時間は全て鳳珠への手紙を書くことに費やされた。

先ずは内面年齢は年下とはいえ、敬愛する義父への手紙を送るのだからと、下書きをして文章を推敲する。

あとは清書するだけだったが、これが難航したのである。

 

 

 

 

 

夕餉の時間になっても現れない麻幸己に尚香は娘を姫君のところへ遣った。

あの妙に大人びて一風変わった姫は1人での食事を厭い、鳳珠不在のときはという限定条件付で家人たちと一緒の厨房横の使用人用食堂で食事をしている。家人たちもまだ幼い姫が寂しいのも当然とそれを受け入れていた。

しかし、その姫がまだ現れない。

他の幼子のように遊んで時間を忘れるなどということは先ずない姫だ。故に娘に様子を見に行かせたのである。

「姫様、そろそろお夕食でございますよ」

木蓮が室に入ると、そこには大量の書き損じの紙が散らばっていた。

「まぁ、姫様、どうなさいましたの」

木蓮は散らばった紙を拾い集めながら尋ねる。どの紙にも幼いとはいえ5歳児とは思えぬ手蹟で文章が書き綴られている。しかし、どの手紙も必ず同じ文字で止まっていた。

「鳳珠様のお名前が綺麗に書けないの……」

そう、全て『鳳』の字で止まってしまっていたのである。

麻幸己は悔し涙を浮かべている。――この世界に馴れてくるに従い、内面や行動も外見年齢に影響を受けているらしく、時折、麻幸己の言動は幼くなる。

一見綺麗にかけているものでも紗耶には不満でしかなかった。

「若様のお名前の字は難しゅうございますものね。十分お上手ですわよ。それに仮名でもよろしで……」

「絶対ダメなの!」

名前は文字そのものと大きく密接に関わっていると麻幸己は思っている。故に仮名で書くなんてとんでもないと思うのだ(実際文章そのものはかなり仮名も使っている)。

現代日本にいた頃……自分の名前の由来も漢字も『適当につけた』と親に言われ、そもそも名前を考えたのが両親でも祖父母でもなく赤の他人だったことを知ったとき、麻幸己は子供心にひどく傷ついた。だからだろうか。それ以来、『名前』というものに敏感になり、大切にするようになった。

そんな麻幸己だったから、大切な敬愛する鳳珠の名を疎かには出来なかったのである。

かといって、満足いくまで書き直すわけにも行かない。時間だって無限ではないし、娘から父への最初の手紙ということで、家人はとても高級な料紙を用意してくれたのだが、残り枚数は僅かだった。

「では姫様、若様のお名前を書かなければいいではありませんか」

ふと思いつき、木蓮は言う。

「若様……とか、旦那様とか?」

名前を書かないとすればあとは敬称。となれば……と麻幸己は口にしたのだが、木蓮は首を横に振る。

「姫様だけが使える、取って置きの呼び方があるではありませんか」

そういわれ、麻幸己は思い出す。

『お前は私の娘だ』――そう言われたことを。

実際には、まだ麻幸己の戸籍が不明なため(というか、あるわけがない)、未だ養子縁組はしていない。該当する戸籍がなければ、改めて黄州に戸籍を造ることになるだろうが、現段階ではまだそこまで至っていなかった。

「鳳珠様、おイヤではないかしら」

「寧ろ喜ばれると思います」

即座に答える木蓮。

何故悧曄は自分を父と呼んでくれないのだろうと密かに悩んでいた姿を知っているのだ。

麻幸己にしてみれば自分より年下の、まだ20歳そこそこの青年を父と呼ぶのは可哀想と思っただけなのだが。

「……解った」

「まずはお夕食にして、それからにいたしましょうね」

木蓮に促され、麻幸己は席を立った。

 

 

 

 

 

そして、その後、『鳳珠様』が全て『お父様』となった手紙が漸く完成したのであった。

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