新たな名前
昨夜は不覚にも寝てしまい……状況把握が上手く出来なかった麻幸己は、取り敢えず1人になって考えを纏めようと庭に出ることにした。
「綺麗なお庭ね。探検してきていい?」
子供らしい好奇心に満ちた表情でそう言えば、芙蓉も木蓮も否とは言わず、昼食が出来たらお呼びしますねと言って、麻幸己の望みどおり1人にしてくれた。
庭に出れば菊などの秋の花が咲き、木々は美しく紅葉している。
「秋……なんだ」
麻幸己はぽつりと呟く。
自分がいた世界は、冬だった。
綺麗に整えられた庭を歩きながら、麻幸己は何故今、自分がここにいるのだろうと考えていた。
「……麻幸己……」
彼が、驚愕の表情で自分を見た。
麻幸己は何も言わずに、彼らに背を向けた。
そうすることで、今見た光景をなかったものにしたかった。
彼と恋人になって4年……幾度か繰り返された彼の裏切り。
だが、それを目撃したのは初めてだった。
必ず彼は最後には麻幸己の許に戻ってきていた。
「俺が愛してるのは麻幸己だ」
「麻幸己は俺の一生の恋人」
彼はいつもそう言っていた。
なのに、彼は時折こうして麻幸己を裏切った。
彼を責める事もした。別れるといった事もある。
けれど、最後には麻幸己は彼を許していた。
彼を愛していたから。
彼のいない生活など考えられなかったから。
彼は凍っていた麻幸己の心を溶かしたたった1人の男だった。
13歳も年下の恋人。
若さゆえの情熱で麻幸己を求め、麻幸己の心を溶かした。
けれど、一時の熱情ではないのだと、そういった彼。
「麻幸己は、俺の運命の女だよ。俺は、麻幸己と一生一緒に歩いて行きたい」
そう言ってくれた言葉は、紛れもなく本心だと思えるものだった。
彼が最も愛しているのは自分だ、とそう思いはしても……やはり、傷つかないわけはない。
初めて目撃した現場に麻幸己は背を向け、部屋を飛び出した。
「麻幸己……! 待てよ」
彼が追いかけてきたのは判っていた。
けれど、それを無視して麻幸己は車に乗り、彼のマンションを後にした。
今は彼の顔を見たくない。声を聞きたくない。
哀しみで心が一杯だった。
見てしまった光景で頭が一杯だった。
そして、気づいたときには、目の前に大型トレーラーがいた。
大破した、愛車。
遠くで鳴るサイレン。
視界が赤く染まり、それが自分の流した血の色だとぼんやりと思った。
どんどん体が冷たくなるのが判る。
ああ……私は死ぬんだ。
冷静にそう思った。
彼は哀しむだろうか……。
最後に見た彼の表情が浮かぶ。
(ダメ……死ねない……!)
今自分が死ねば……
それも事故死なんてすれば……
彼はきっと自身を責める。
自分の所為で麻幸己が死んでしまったのだと、一生枷を背負うことになる。
『麻幸己』
『麻幸己姉』
彼と、自分を姉のように慕う青年の声が聞こえた気がした。
(死ねない……でも……)
でも。
もう、辛かった。
最愛の人の度重なる浮気に麻幸己の心は疲れきっていた。
今は……彼の許には戻りたくない……。
そう思ったとき。
麻幸己の意識は途切れた。
「あっちの私は……死んだのかしら」
ここに来るまでの過程を麻幸己は思った。
あちらでの世界で意識が途切れた後、目覚めればこちらの世界にいた。
「死にたくない、でも彼の側にも居たくない」
そう思ったから、異世界トリップなのだろうか?
麻幸己は溜息をつく。
考えても仕方がないことだと思った。
既に自分はここにいるのだ。
あちらの世界の麻幸己は死んだのかもしれない。
生きていても、あれほどの傷を負ったのだから生死の境を彷徨っているのかもしれない。
植物人間かもしれない。
あれこれ思い煩っても、どうしようもない。
今、麻幸己はここにいるのだ。
ここで生きていくしかない。
あちらの世界のことは忘れよう。
今の自分は5歳の子供で……それはまるで『生き直せ』と言われているかのようだった。
「……名前、どうしようかな……」
「……悧曄」
溜息混じりに呟いた言葉に、とんでもない美声が応え、麻幸己は一瞬心臓が止まりかけた。
人がいるとは思わなかったからでもあったが、9割以上は声の凶悪な麗しさにある。
声のしたほうを振り向き、麻幸己は再び逝きかけた。
凶悪な美声から誰か判っていたはずなのに、心の準備をして振り向いたはずなのに、やはりその程度では鳳珠の美貌に対抗するには足りなかったらしい。
「ほ……鳳珠様……」
「名がないのか」
鳳珠は麻幸己の驚愕など知ったこっちゃないと言う表情で、麻幸己の隣に腰を下ろす。
因みに麻幸己は庭の一角にある四阿にいた。
「えっと……」
麻幸己は目まぐるしく頭を回転させる。
自分はこの世界の住人ではないなどと言っても、頭がおかしいのかと思われるだけだ。
けれど、こちらの世界の知識はないに等しいから、適当なこともいえない。
適当なことを言えるだけの知識すらないのだ。
「判らないんです。昨日、鳳珠様に会うまでのこと……。気が付いたら、あの場所にいました」
嘘は言っていない。
「……親は?」
「判りません。両親はいますが、ここにはいないようです」
これも嘘ではない。
因みに「ここ」とは麻幸己にとっては彩雲国世界と言う意味だが、鳳珠は貴陽と取った。
「つまり……私に拾われるまでの記憶がないというわけか」
その鳳珠の言葉に麻幸己はコクンと頷く。
間違いではない。麻幸己には鳳珠に拾われるまでの「彩雲国での」記憶はないのだから。
「ならば、私が名付けよう。お前の名は今日から『悧曄』だ」
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