アンジェリーク

君がいれば何もいらない

序章

「主星に戻ると言うのは本当か!?」

オスカーは部屋に入るなり、そう言った。ノックも何もなしで、駆け込んで来ている。

オスカーが部屋の中に見たものは、荷造りをする愛しい少女の姿だった。

「ええ、オスカー様」

アンジェリークは微笑む。

「どうして!? 俺と共に聖地に行くんじゃなかったのか」

オスカーは恐ろしいほど真剣な眼差しで少女を見つめ、彼女の腕を掴む。

彼女に愛を告げ、彼女の愛を得て、結ばれたのはつい先日のことだったはずだ。まだオスカーは彼女の柔らかな肌を覚えている。彼女の白磁の肌にはオスカーが刻んだ愛の印が鮮やかに残っているではないか。

なのに何故、彼女は去ろうとしているのだ?

困惑、怒り、不安……そんなものを綯い交ぜにしたオスカーの表情を見て、アンジェリークは優しく微笑む。

「誤解なさらないで、オスカー様。もう二度とお会い出来ないのではないんですから。わたし、ちゃんと戻ってきます」

アンジェリークはオスカーの手を握ると安心させるように頬擦りする。

「わたし、オスカー様と結ばれて……女王候補を辞退したでしょう? ロザリアはわたしを補佐官にしてくれると言ってくれました。だから……わたし、お願いしたんです。時間を頂戴って。主星に戻って立派な補佐官になれるように勉強してくるからって」

主星に戻り高校を卒業し、大学に進み、宇宙についてもっと勉強したい。それが女王となる親友の優しさに応えることになるはず。聖地と主星の時間の流れは違う。自分が大学を卒業して戻ってくるまでに、聖地では1年も経っていないはずだ。

「そんなことしなくたって、君なら立派にやっていける!」

オスカーは恋人と1秒たりとも離れたくはなかった。ましてや自分のいない所にアンジェリークを送り出すなんて(それが故郷であっても)耐えられない。

「オスカー様……お願いです。わたし、ロザリアの信頼に応えたいの。そして、もっとオスカー様に相応しい女性になりたいんです。その為にも、ちゃんとしなきゃいけないことがあるの……」

アンジェリークは優しく微笑みながら、オスカーを宥めるように言う。けれど、瞳には固い決意がある。その瞳の色を見て、オスカーは溜息をつく。

「……判った……。君が大学を出るまでだな? 5年……6年か? こっちでは半年くらいだな……」

アンジェリークはこうと決めたら梃子でも動かない。それはよく知っている。

「オスカー様……我侭を許してくださって有難う……。わたし確り勉強して、スキップして、少しでも早く卒業しますから……。卒業が決まったら、真っ先にお知らせしますから」

「ああ……知らせてくれたら、すぐに迎えに行く……。待ってる」

オスカーが優しく微笑むのを見てアンジェリークは安堵する。

「そこで、だ……。君にとっては数年間の長い時間になるわけだ。君が俺を忘れたりしないように、確りと君の中に俺を刻み込んでおきたいんだが……」

オスカーがアンジェリークの耳元で囁く。低く甘い艶のある声で。

「あの……でも……まだ、日が高いですよ……」

アンジェリークは真っ赤になる。

「愛し合うのに時間は関係ないだろう?」

アンジェリークの瞳を覗き込んで、オスカーが笑う。そして、そのまま、その言葉を実行していった。

 

 

 

オスカーは自分の胸に凭れているアンジェリークの重みを心地よく感じ、事後の優しい時間を味わっていた。

「ところで、さっき、ちゃんとしなきゃいけないことがあるって言ってたな。何があるんだ?」

優しくアンジェリークの髪を梳きながらオスカーは問う。

その言葉にアンジェリークは顔を上げ、オスカーの蒼氷色の眼を見つめる。

「……わたし、婚約者がいるんです」

「なんだって……!?」

「幼馴染で……彼の両親とわたしの両親が約束してて……。親が決めたことだったんですけど。別に嫌いじゃないし、それでもいいかって思ってたの」

どちらかというと相手の親が強引に進めた婚約だった。父の仕事の関係で断れないことを承知の上で相手は2人の婚約を持ちかけたのだ。アンジェリークの父ははっきりと乗り気ではなかった。そのときアンジェリークはまだ中学生だったこともある。だが、アンジェリークの父は娘がいずれ女王候補となることを知っていた。だが、アンジェリークの父が断ろうとすると、相手の父は仕事の上で圧力をかけてきた。そのやり方をアンジェリークは許せなかったが、幼馴染のシャルルのことは嫌いではなかったから、承諾したのだ。

「でも、わたし、女王候補に選ばれてここへ来て……オスカー様に出会って。恋して、恋人になって。だから、ちゃんと彼に会って、謝らなきゃって……。そして、婚約を解消してもらわなきゃシャルルにもオスカー様にも失礼だもの」

シャルルはアンジェリークが女王候補に選ばれたときも婚約を解消しようとはしなかった。シャルルもだが、彼の父親も。息子の婚約者が『女王候補』であることのメリットを思ったのだ。それは彼らに名誉を齎すはずだ、と。シャルルは待っていると言った。女王にならなければ戻って来いと。だから、アンジェリークは一旦彼の許へ戻り全てを白紙に戻すつもりだった。

そのことをロザリアに言ったとき、ロザリアははっきりと眉を曇らせた。彼女も同じ街に住む者として、彼らを知っていたから。とても簡単に彼らが婚約解消に応じるとは思えなかった。だから、彼ら宛ての手紙を書いてくれた。256代女王として。アンジェリークが女王補佐官として宇宙に必要な人物であること。飽くまでも今回主星に戻るのはその為の準備期間であること。だから、この婚約解消は女王の命令であること。

『いざというときにはこれをお使いなさい』

そう言って、アンジェリークに渡してくれた。

「そうか……。判った。俺の恋敵には哀れだが仕方ないな。俺たちはこんなに愛し合ってるんだから」

オスカーはそう言って、アンジェリークの髪に口付ける。

初め婚約者がいると聞いたときは、それはショックだった。だがアンジェリークが自分を愛してくれていることは知っていたし、彼女を信じてもいた。だが、やはり『婚約者』という立場には嫉妬を覚える。

「君を迎えに行くときには、君のご家族にちゃんと言わなきゃな。『お嬢さんをください』って」

「オスカー様……」

アンジェリークの瞳が嬉し涙に潤む。

仮令たとえアンジェリークがシャルルのことを愛していないとしても、婚約者がいることにオスカーが怒ったらどうしよう……そう思っていただけに、オスカーの言葉は嬉しかった。

「そんな熱い瞳で見つめられちゃ……我慢が出来なくなっちまうぜ、俺のお嬢ちゃん……。さぁ……もっと俺を君の中に刻み込ませてくれるな?」

 

 

 

それから数日後。女王ロザリアの即位の儀を終えた後、アンジェリークは主星へと戻っていった。再会を約して。

だが、オスカーはこのときアンジェリークを主星に行かせたことを、のちに激しく後悔することになる。

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召還の使者

「ここが……アンジェリークの育った家か……」

オスカーは呟いた。その両隣には彼の心強い友人、リュミエールとオリヴィエがいる。

あれから、主星時間で5年が経っていた。オスカーはずっと主星時間を数えていた。そして、アンジェリークからの連絡を待っていた。だが、卒業したはずのアンジェリークからは何の連絡もない。待ちきれなくなったオスカーは女王から許可を得て、アンジェリークを迎えに来たのだ。

「……行くぞ」

オスカーは自分に言い聞かせるように言い、一歩を踏み出した。

愛しい恋人に会う為に。

 

 

 

「な~んか、さっきからさ、知ってる気配を感じるんだよねぇ……」

オリヴィエが呟く。それにオスカーもリュミエールも頷く。彼らも感じていたのだ。昔、とてもよく知っていた気配に、そのサクリアに酷似したものを。

オスカーはベルを鳴らし、来訪を告げる。そして、家の主が姿を現す。主の姿を見た途端、守護聖たちは驚きに固まる。

「カティス! どうしてあんたがここに?」

オリヴィエが発した言葉は全員に共通のものだった。

そこにいたのは、前緑の守護聖カティス。流石に歳はとって初老といった年代にはなっているが、間違いなかった。

「オスカー、オリヴィエ、リュミエール……懐かしいな、どうしたんだ? まぁ、入れ」

カティスは笑顔で3人を招じ入れる。

3人は鳩が豆鉄砲を食らった、といった風情で呆然としている。

「カティス……貴方がここにいるということは……ひょってして、貴方がアンジェリークの父親……ですか?」

カティスに勧められるまま、ソファに腰をおろし、漸くのことでオスカーが尋ねる。

「ああ。お前たちが知ってるアンジェリーク・リモージュは俺の娘だ。俺の本名はカティス・リモージュというからな」

なんでもないことのようにカティスは言う。

「なんてこったい」

オリヴィエが呆然と呟き、リュミエールが溜息をつく。

「道理で……ここに行くと言ったとき、ルヴァ様が楽しそうなお顔をなさったわけですね……。知っていらしたのですね」

「アンジェリークが俺の娘だと知っていたのは、陛下とディア、ルヴァだけだぞ」

3人の現守護聖はなんと言っていいのか判らず、顔を見合わせる。

「父さん? 来客中でしたか」

と、そのとき部屋に入ってきた者がいる。30歳前後の男性が2人、20代半ばほどの青年、20歳前後の青年の4人だった。その4人を見て、守護聖たちは再び絶句する。似ている……! アンジェリークから聞いてはいたが……ここまで似ているとは。まるでジュリアス、リュミエール、ランディ、マルセルが歳を重ねてここにいるようだ。アンジェリークが笑い出すはずだ。

「彼女の……兄弟ですね……聞いてはいたが……」

オスカーが呆然としたまま呟く。

「炎の守護聖オスカー様ですね。そして、水の守護聖リュミエール様、夢の守護聖オリヴィエ様。妹からお話を伺っておりました」

ジュリアスに似た、アンジェリークの兄ジョルジュが言う。ジュリアス似の人物に敬称付で名を呼ばれると、妙な気分だった。

「で、お前たちは娘に何か用があったんだろう?」

オスカーたちの表情の変化を可笑しそうに見ていたカティスが真面目な顔になって言う。

「ええ……」

オスカーがはっとしたように表情を引き締める。

「アンジェリークに……聖地に来て欲しいのです。女王補佐官となる為に。卒業したら戻ってくるという約束でしたし」

「陛下が望んでおられるのです……。親友である彼女に、1日も早く戻ってきて欲しいと」

「わたしたちも、同じなんだ……。あの子がいないと、こう、心にぽっかり穴が開いたような気がしてさ……もうこれ以上は我慢できないって感じなんだ」

カティスにすれば予想していたことだったのだろう。驚きはしていなかった。兄弟たちも同じだ。実際、戻ってきたアンジェリークから大学を卒業したら聖地へ行くことは聞いていたのだから。だが、彼らの表情は、驚きではない、何か苦いものを湛えている。

「お前たちの時間で、アンジェリークが去ってからどれくらい経ってるんだ?」

「半年ほどです」

「そうか。ここでは、アンジェリークが戻って来てから5年が経っている」

それは判っている。約束の時が来たのに、正確には過ぎてしまったのに、アンジェリークからは何の連絡もない。だからこそ、こうして出向いてきたのだ。

「アンジェリークはここにはいない」

嫌な予感がした。まさか、婚約が解消できなかったのか……?

「まさか……結婚して家を出た、ということですか?」

オスカーが立ち上がる。そんな馬鹿な……! そう言いたげに。

「そうだな……アンジェリークも22歳になっていたはず・・だ。そういうこともあったかもしれないな」

だが、オスカーに応えたカティスの言葉は彼らを絶望の淵に追い詰めるものだった。

「なっていたはずだ……って……どういうことさ、カティス!」

オリヴィエがカティスに詰め寄ろうとする。

「妹は……死んだのです」

ジョルジュの声だけが、響いた。

 

 

 

「ば……馬鹿な! 彼女が死んだなんて……!」

オスカーは蒼白になっていた。

「ついて来い……」

カティスは3人を外へ連れ出す。カティスに連れられて辿り着いたのは霊園だった。その一画に、天使の像を象った墓所があった。

【女王候補にして愛すべき天使アンジェリーク・リモージュ、ここに眠る】

墓碑銘にはそう刻まれていた。

「嘘だ……信じない……信じない! 俺はアンジェリークの存在を感じているんだ! 彼女が確かに生きていることを、俺のサクリアは感じているんだ!」

オスカーが叫び、拳を叩きつける。愛を誓い合ったアンジェリークが自分を残して逝くわけがない。もし先立ったとしても、何も自分に告げずに逝くはずはない。

背を向けていた彼らは気づかなかった。オスカーの言葉に、アンジェリークの家族の表情が明るくなったことに。

「妹の遺体は、そこにはありません」

次兄アントワーヌが言う。

「妹は、誘拐されたのです。そして、今も……どこにいるのか判らないのです」

三兄フィリップが続ける。

「お前たちのサクリアがアンジェリークを感じているのなら、生きているんだな……!」

振り返って見たカティスは喜びの涙を流していた。

「死んだなんて、信じちゃいなかったんだね、カティス?」

「ああ……信じられるものか! アンジェリークの遺体を見たわけじゃない! ただ、血まみれになったアンジェリークの靴が発見されただけだ」

カティスが叫ぶ。愛しい愛娘。生きていて欲しいと願い、ずっと探し続けていた。似た少女がいると聞けば、どんな辺境の惑星にでも駆けつけた。だが、ことごとく空振りだった。

「では、どうしてお墓なんて……」

リュミエールの呟きに応えたのは弟のアンリだった。

「シャルルが……姉さまの婚約者だったシャルルが勝手に働きかけたんです。スモルニィに」

シャルルはアンジェリークが行方不明になって半年が経過し発見されなかった時点で『アンジェリークはもはや生きてはいない』と言い出した。そして、母校であったスモルニィに働きかけたのだ。女王候補であり、スモルニィの生徒会長を務め、街の住民に天使として慕われていたアンジェリーク。彼女が安らかに眠れるようにしてやるべきだ、と。

勿論、アンジェリークの生存を信じていた人々は反対した。だが、街の有力者を味方につけたシャルルはこうしてアンジェリークの墓所を建ててしまった。そして、住民たちは少しずつ彼女の死を既定の事実として受け入れてしまった。今では彼女の生存を信じているのは家族とごく親しかった友人だけだった。

「アンジェリークがいなくなった経緯をもっと詳しく教えてくれ、カティス!」

オスカーは必死の形相で、カティスの腕を掴んだ。

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束の間の安らぎ

その日は父も兄も弟もずっとそわそわしていた。約1年ぶりに愛娘が帰ってくる。

もう生きて会うことはないと思っていた。その娘が大学を卒業するまでという期限付きとはいえ、家族の許に帰ってくるのだ。

「ただいま~!」

娘の明るい声がする。カティスは自分を落ち着かせるようにわざとゆっくり立ち上がり、長男ジョルジュ、次男アントワーヌもそれに倣う。が、年若いフィリップとアンリは我先にと玄関に向かった。

「お帰りアンジェリーク」

「お帰りなさい、お姉ちゃん!」

2人は満面の笑みでアンジェリークを迎える。

「お帰り、アンジェリーク」

漸く現れたカティスが優しい笑顔で愛娘を迎える。

「ただいま、パパ」

アンジェリークは家を出た頃よりは少し大人びた笑顔で家族の許に戻った。

 

 

 

ひとまず荷物を部屋に置いて――大部分は先に配送してもらっていたから、僅かな手荷物だけだったが――、久々の家族の団欒のときを楽しむ。

皆アンジェリークの飛空都市での出来事を聞きたがった。だが、それよりも先に確認しなければならないこともあった。

「じゃあ、やっぱり一時帰郷なんだな」

諦めとも何とも言えない口調でカティスが言う。アンジェリークは先に知らせておいたのだ。今回の帰郷は補佐官となる為の準備期間であることを。

「うん。ロザリア……女王陛下にお願いしたの。立派な補佐官になりたいから。女王試験でね、わたし、ロザリアや守護聖様、ディア様、パスハさん……色んな人にいっぱい助けてもらったわ。でも、補佐官になるんならこのままじゃだめだって思ったの。わたしがロザリアや守護聖様をお援け出来るようにならなきゃ。その為にも、ちゃんと勉強したいって思ったの」

アンジェリークは真剣な表情で言う。『聖地になんて戻らないで』そう言おうとしていたアンリもその表情に何も言えなくなる。

ここにいるのはもう僕だけのお姉ちゃんじゃない……アンリはそう感じていた。それは他の兄弟にも共通の心情だった。既にアンジェリークは自分たちの妹ではない。この宇宙を支える役割の一端を担う存在になっているのだ。寂しさと誇らしさが綯い交ぜになって、彼らの表情は複雑なものだった。

「そうか……じゃあ、確り勉強しないといけないな」

父の寂しそうな表情を見てアンジェリークも切なくなる。オスカーには1日でも早く戻るとは言ったが、そこまで慌てなくてもいいかもしれない……。少しでも家族の傍に長く居られたら……。アンジェリークはそんなふうに思っていた。

 

 

 

その日の夕食はアントワーヌが腕を振るってアンジェリークの好きなものばかりだった。そして、夜も更ける頃にはアンジェリークが旅立つ前と同じ日常へと戻っていった。

「パパ、入っていい?」

アンジェリークが父の寝室に入ると、父は既にベッドに入り、本を読んでいた。

「どうした、アンジェリーク」

「うん。パパと一緒に寝たいな、って思って」

アンジェリークは手にしていた枕を見せ、にっこりと笑う。

「ほら、おいで」

カティスは微かに笑うとアンジェリークを手招く。

「ふふふ、嬉しいな」

アンジェリークは父の大きなベッドに潜り込む。

「パパ、どうしても今日話しておきたいことがあったの」

枕に金色の頭を落ち着け、アンジェリークは本を読んでいるカティスを見上げる。

「ん? 何だ?」

「あのね、わたしが卒業したらお迎えが来るの」

アンジェリークは言葉を選んでいるようだった。

「ふむ」

カティスは本から目を離さずに頷く。ルヴァの話では新女王はそれはアンジェリークを溺愛しているらしいから、それも当然かと思った。

「それでね、そのときにちゃんとご挨拶したいって仰ったの。オスカー様」

「ふ~ん」

相槌を打ち、カティスははっと我に返った。今、娘はなんと言った? チャントゴ挨拶シタイッテ、おすかーサマ……?

「……どうしてオスカーが出てくるんだ……?」

まじまじと娘を見詰める。心なしか顔が赤くなっているようだ。それから漸く自分が炎の守護聖を昔のように呼び捨てにしていたことに気づき、

「どうして、そこにオスカー様が出てくるんだ」

と言い直す。まだ、アンジェリークは自分が守護聖だったことは知らないはずだ。

「パパ、わたし、パパが守護聖だったこと知ってるよ」

アンジェリークはくすっと笑う。自分が知らないと思って言い直した父が可笑しかった。

「パパ、マルセル様の前の緑の守護聖だったんでしょう?」

マルセルの口から父の名前が出たときは驚いた。だからその後、父の知り合いだと言っていたルヴァに確認したのだ。そうしたら、ルヴァは父が守護聖であったことを教えてくれた。アンジェリークに不要のプレッシャーを与えたくなくて、カティスが黙っていたことも。それから、アンジェリークがカティスの娘であることは女王とディアと自分しか知らないということも。

「ああ……で、アンジェリーク。どうしてそこにオスカーが出てくるんだ……?」

アンジェリークの表情からなんとなく想像はつく。だが、父親としては可愛い娘に虫がついたなんて思いたくはなかった。

「えっとね……これ、いただいたの……」

そう言って、アンジェリークは左手を見せる。薬指に美しいピンクダイアの指輪が光っていた。

「オスカー様に、プロポーズされたの」

たっぷり30秒は沈黙した後、カティスは漸く口を開く。

「つまり……お前とオスカーが婚約したと……」

ルヴァは何も言っていなかったぞ……いや、男女のことには晩生なルヴァだ気づいていなかったのかも知れない……しかし、アンジェリークとオスカーが結婚? オスカーが俺の息子になるのか……?

ぐるぐるとカティスの頭は目まぐるしく回転する。

「パパ……? 反対?」

沈黙してしまったカティスにアンジェリークが不安そうな視線を向ける。

オスカーか……。奴なら大丈夫だ。確かに聖地一のプレイボーイだった。だが、それは守護聖ゆえの孤独を紛らわすオスカーのやり方だった。勿論元々女性に優しい(必要以上に)性質たちではあったのだろうが。けれど、同じ守護聖として数年を聖地で過ごし、彼のことはよく知っている。そう、奴にならアンジェリークを任せてもいいだろう……。

「いや、オスカーなら、反対はしない」

父の言葉を聴いてアンジェリークはほっとしたように微笑んだ。

「だが、まだお前は17だろう? いいのか、そんなに早く決めてしまって」

オスカーはアンジェリークを任せるに足りる男だ。だが、アンジェリークはどうなのだろう。

オスカーは少女からすれば完璧に見える男だろう。理想の騎士。

アンジェリークがどれほどオスカーを判っているのか。表面的なものだけで恋をしてしまってはいないか……守護聖として長い歳月ときを生きている孤独……そういったものをアンジェリークは判っているのだろうか。

かつては自分も同じ守護聖だったから、その孤独を知っている。だから、不安になった。

「オスカー様ね、全部わたしに見せてくださったの……。弱いところも、脆いところも、狡いところ、醜いところ……全部。だから……お傍にいたいって思ったの。オスカー様を包んで差し上げたいって……」

いつの間にか娘は大人になっていた。自分の心配は杞憂だったようだ。

「そうか、それならいい……」

カティスはアンジェリークの為にもオスカーの為にも安心した。そうすると生来の茶目っ気が頭をもたげる。

「オスカーは俺が父親だと知らないんだろう? そのときが楽しみだな」

物分りの悪い父親役をやってみるのも面白いかもしれない……そんなことをカティスは考えていた。

 

 

 

それからのアンジェリークは大忙しだった。

まず、スモルニィに復学。1年間は休学扱いになっていたから、もう一度2年生の途中からやり直しだった。

少しでも早く卒業する為に必死で勉強した。苦手だった数学も教師である兄を捕まえてみっちり勉強する。自分が補佐官になることはスモルニィでは周知の事実だったから、下手なことは出来ない。模範的な生徒にならなくてはならなかった。2年の半ばを過ぎると生徒会長に選ばれたから、更に忙しくなった。

漸く高校を卒業すると、主星でも1、2を争う名門大学に入学した。当然そこでは宇宙生成学を専攻する。だが、補佐官の仕事をする上では生成学だけでは不足なので、王立研究院に頼んで勉強させてもらうことになった。未来の女王補佐官からの依頼ということで王立研究院も便宜を図ってくれた。アンジェリークを指導してくれたのは研究院きってのエリートといわれるエルンストという研究員だった。

 

 

 

そうして2年が過ぎていった。

その頃、漸くアンジェリークは主星に戻ったもう1つの目的を果たすことが出来た。婚約者シャルルとの婚約の解消だった。

それまでシャルルは惑星バッカスに留学しており、話が出来なかったのだ。

シャルルは婚約を解消することを渋った。彼の父親も同様だった。アンジェリークが他に恋人が出来たのだと正直に告げると婚約不履行で訴えるとまで言い出した。だから仕方なく、女王ロザリアの命令書を使った。

表面的には、婚約解消したとしてもシャルルの……ポワッソ家の体面は傷つかない。女王命令ということもあって彼らは渋々ながら、婚約解消に同意した。だが……。

 

 

 

「遅いなぁ……お兄ちゃん」

アンジェリークは校門の前でフィリップを待っていた。もうすぐ父の誕生日だから、プレゼントを買いに行こうと待ち合わせをしていたのだ。

腕時計を見て時間を確認していたアンジェリークの前に1台の車が停まる。黒いスーツを着た男が2人、アンジェリークの前に立つ。

「アンジェリーク・リモージュ……女王補佐官殿ですね? 女王府の使いのものです」

その言葉にアンジェリークは顔を上げる。まったく見知らぬ人物だった。

「……陛下からは何の連絡もありませんけれど?」

アンジェリークは不審の目を向ける。女王府からの使いが来るなんておかしい。何かあれば直接ロザリアから連絡が入るはずだ。

明らかに警戒しているアンジェリークに男たちは舌打ちする。

「仕方ない。連れて行け」

1人がもう1人に言うや、アンジェリークは当身を加えられ、意識を失う。抵抗する暇もなかった。

2人はアンジェリークを車に乗せると、そのままどこかへとアンジェリークを連れ去っていった。

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哀しみの予感

「あのとき……俺がもう少し早く行っていれば……」

そこまで告白してフィリップは苦しそうな表情をする。

アンジェリークが連れ去られたときのことをオスカーたちは聞いていた。

アンジェリークと待ち合わせをしていたフィリップはどうしても抜けられない用事が出来て時間に遅れてしまった。慌てて駆けつけたとき、アンジェリークが連れ去られようとしていた。必死になって追いかけたが、追いつくことは不可能だった。それでも車のナンバーを記憶して、警察に届けた。

だが、アンジェリークは見つからなかった。車は当然ながら盗難車だった。

警察も必死になって捜索した。女王補佐官となるべき人物である。宇宙の重要人物だ。だが、行方は判らない。VIPなのに警護もつけていないのがおかしいのだ……そんなことを言って責任を転嫁する者までいた。

カティスたちは必死になって探した。

その頃から、シャルルが『アンジェリークはもう生きてはいないだろう』と言い出した。警察の必死の捜索にも拘らずアンジェリークは見つからない。それにアンジェリークが誘拐されたというのであれば、リモージュ家或いは女王府に何らかの要求があるはずだ。それがないということは最早アンジェリークが生きていないことの何よりの証左ではないのか……。そしてそれを裏付けるかのように血まみれのアンジェリークの靴が発見された。

アンジェリークは死んだのだ、シャルルはそう言い、アンジェリークの魂を安らかに眠らせる為にもきちんと弔うべきだと言った。そして勝手にスモルニィに働きかけ、墓を建ててしまった。

「シャルルとかいう奴……怪しいね」

話を聞いていたオリヴィエが言う。むきになってアンジェリークが死んだように仕立てているように思えた。

「結局、シャルルの思惑どおりアンジェリークは死んだって思われるようになった。アンジェリークが生きていることを信じているのは今では俺たちだけだ」

カティスが苦しそうに呟く。

「ですが、カティス様……どうしてわたくしたちにお知らせくださらなかったのです? そうすれば聖地の力で彼女を見つけ出すことも出来たのでは……」

リュミエールの言葉にカティスは苦い笑みを浮かべる。

「思いつきもしなかったんだよ。ただ、アンジェリークを探すのに必死で、他は何も考えられなかった」

もし聖地に連絡することを思いついていれば……。

カティスの表情が苦しげに歪む。

「済んじまったことを話しててもしょうがないだろ。今からでも間に合うよ。わたしたちは確かにアンジェリークのサクリアを感じてる。彼女が生きてることは間違いないんだ。探し出せるさ」

オリヴィエが言う。

「ああ……リュミエール、お前は一足先に帰って報告してくれ」

それまで無言だったオスカーが口を開く。

「オリヴィエ、お前は俺と一緒に来てくれ」

そう言うと、オスカーは立ち上がる。

「カティス、シャルル・ポワッソの所へ案内してくれ」

シャルルは何かを知っている……オスカーはそう確信していた。

 

 

 

ポワッソの館は豪奢なものだった。だが、主の品性を物語るように品のないものだった。

オスカーたちは一応応接室らしい1室に通された。

「カティスおじさん、お久しぶりです」

やがて現れたシャルルはにこやかにカティスに対する。そんなシャルルを2人の守護聖は冷静に観察する。20代前半の、なかなかにハンサムな青年だった。だが、どこか荒んだものを感じさせた。生活が荒んでいるのではなく、その精神が。

「この方々は?」

シャルルの目が守護聖に向く。2人は守護聖の正装をしている。主星では普通見かけない格好だった。

「アンジェリークを迎えにいらした守護聖がただ。話を聞きたいと仰ってな」

カティスの言葉に一瞬シャルルは不快そうな表情をする。だが、すぐにその表情を消すと痛ましそうな目でカティスを見る。

「まだ、諦めきれないのですね、おじさん……。お気持ちは判りますが……それではアンジェリークも安らかに眠ることが出来ませんよ。僕だって、悲しい。辛い。婚約者だったんだから。でもね、いつまでも悲しんでいたら、死んでしまったアンジェリークが悲しむだけです」

「アンジェリークは生きている」

シャルルの言葉を即座にオスカーが否定する。

「何を根拠にそんなことを仰るんですか」

シャルルはむっとしたようにオスカーに言う。

「サクリアさ。俺はアンジェリークのサクリアを感じているんでね。お前こそ、何を根拠にアンジェリークが死んだなんて言うんだ」

オスカーの静かな迫力にシャルルはたじろぐ。

「そ……それは状況から考えてそうとしか考えられないからですよ」

「だが、同じ状況で家族がアンジェリークが生きていることを信じている」

シャルルの内面を覗こうとするようにオスカーは彼を見つめる。

「僕だって、彼女が生きていればいい……そう願っていますよ……」

シャルルは確かに何かを知っているのだ、オスカーはそう確信していた。だが、シャルルは一向にそれを明らかにはしない。

「とにかく、僕はもうアンジェリークが死んでしまった……そう確信したのです。だから、彼女の魂が安らげるように墓を建てるように働きかけた。それだけですよ」

もうそれ以上話すことはないとばかりにシャルルは言う。

「そろそろお引取り願えませんか。これから仕事の来客があるのです」

シャルルは迷惑だと言外に言う。

「これ以上話しても無駄のようだな」

オスカーは言うと、カティスとオリヴィエを促して、ポワッソ家を出た。

「あいつ何か隠してるね。調べてみよう、あいつ」

館を出るとオリヴィエは言った。守護聖の中で一番の人物鑑定力を持っているオリヴィエだ。だから、オスカーは彼を同行させた。

「お前もそう思うんだな、やっぱり」

「思うさ。怪しさバリバリ」

取り敢えず一旦は引いた。だが、諦めるつもりはなかった。

 

 

 

「何ですって? アンジェリークが行方不明だというの!?」

リュミエールからの報告を受けたロザリアは叫ぶように言った。

「すぐに探しなさい! 王立研究院と女王府の各機関に命令を! アンジェリークのサクリアを許に探し出すのよ。いい? 最優先の最重要事項です!」

やっぱり主星に帰すのではなかった……。ロザリアは形のいい爪を噛んだ。

 

 

 

「……オスカー様……?」

アンジェリークは顔を上げた。オスカーのサクリアを感じたような気がした。聖地から出ているのかもしれない。

もう、何年が経ったのかしら……。約束のときが来たのかしら。

でも、もうわたしは戻る資格はない。オスカー様の所へも、聖地にも……。

だって、わたしは穢れてしまったから……。

「アンジェリーク。客だ」

アランがアンジェリークを呼んだ。

「今日は……誰?」

「老グランジョルジュ公爵だ」

「そう」

それならいい。公爵は上客だから。決して嫌がることはしない人だから……。

「行ってくるわ」

アンジェリークはそう言って、『仕事』に出かけていった。

 

 

 

アンジェリークの『仕事』……。それはクルティザンヌ。――高級娼婦。

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絶望の支配

目が覚めたとき、アンジェリークは自分がどこにいるのか、判らなかった。

兄のフィリップを待っているときに『女王府の使い』を名乗る不審な男たちに拉致された。当身を加えられ気を失った。その後一度意識を取り戻したら、見知らぬ部屋だった。そこがどこかを確かめる間もなく、今度は薬を打たれて眠らされた。

そして今、アンジェリークは薄暗い部屋に囚われていた。ベッドに寝かされている。両手は頭上で1つに縛められ、そのロープはヘッドボードのパイプに繋がれている。両足は大きく開いた状態で縄がかけられ、ベッドの足に固定されている。

その上……アンジェリークは一糸まとわぬ、全裸にされていた。

「目が覚めたか」

薄闇に僅かな光が差し込む。扉が開かれたのだ。

(オスカー様……?)

オスカーの声によく似ていた。けれど、一瞬でその考えを否定する。声の質は似ているけれど、声の暖かさが違う。オスカーはこんな冷たい声では話さない。少なくともアンジェリークには。

男はゆっくりとアンジェリークに近づいてくる。アンジェリークの枕許に男は立った。横になっているアンジェリークにすれば実際以上に大きな男に見えた。多分オスカーとそう体格は変わらない。年は多分長兄と同じくらいだろう。

声、体格……一瞬、オスカーが現れたのかと思った。彼に似た赤い髪もそう思わせた。だが、違う。顔立ちに似たところはない。何より身にまとっている雰囲気が違っていた。

冷酷そうな男だった。なまじ整った顔立ちだけに、余計そう感じさせた。暗灰色の眼がアンジェリークの躰を品定めするかのように見る。

「どうした、怖くて声も出ないのか」

男が揶揄するように言う。

「ここはどこなの。わたしをどうするつもり」

アンジェリークは声が震えないように精一杯虚勢を張って、男を睨みつけた。怖くて、恐ろしくて、叫びたかった。攫われ拉致されこんな格好で拘束されている。絶望的な状況だ。だが、自分は女王候補だった。次期女王補佐官だ。そして強さを司る炎の守護聖の婚約者なのだ。その自負が、アンジェリークに取り乱すことを許さず、彼女は気丈に振舞った。

「フン……」

そんなアンジェリークを男は面白そうに見る。

「ここは惑星バッカスだ。お前は俺が買ったんだ。商品にする為にな」

アンジェリークはその言葉に目を見開く。惑星バッカスは主星とは同じ星系にはなく、辺境と呼ばれる第9星系にある。恐らくこの宇宙最大の歓楽惑星だ。地上のありとあらゆる娯楽悦楽が味わえるといわれている。そして、ありとあらゆる悪徳があるのだとも……。ここは数年間シャルルが留学していた惑星でもあった。けれど、何故、そんな星に自分が連れてこられたのだろう。売られた商品……。自分は何をさせられるのだろう。最悪の予想を敢えて考えないようにしていた。

拉致されたとき、多分犯人は反体制派だと思った。女王は政治的には何の力も持たない。統治者ではないのだ。宇宙の運行を司るのが女王の役割だ。だが、『女王』という言葉から、そうは考えない者もいる。本当の女王の務めを理解せず、女王を支配者だと思い込み、反発する者たち。そんな存在があることは知っていた。だから、聖地を離れている自分は絶好のターゲットで、その所為で誘拐されたのだと思っていた。だが……売られた? どうして? 反体制派なら自分を人質にして聖地に、女王府に何らかの要求をするはずではないのか?

「……わたしを売ったのは、反体制派……?」

「はっ! そんなご大層な連中じゃない。お前に振られた馬鹿なボンボンだ。腹いせにお前を攫って、売ったんだよ。貶める為にな」

わたしに振られた……? まさか、シャルルが……。信じられない思いでアンジェリークは男を見上げる。

「まぁ、誰だっていいだろう。お前はこれからここで躰を売って生きていくんだ。お前は極上の娼婦になる、なんと言っても『女王候補』だったんだ。数百年に一度しか出ない、な。どれだけの金を積んでもお前を買いたいって客は多いはずだ」

躰を売る娼婦。やはり、そうなのだ……。

「いや……嫌よ……解いて! ここからわたしを出して!」

初めてアンジェリークは取り乱した。必死になってもがき、戒めから逃れようとする。

「無駄だ。おとなしくしていろ」

男は冷たく言い放ち、アンジェリークを見下ろす。

「だが、清純な女王候補が既に男を知っていたってのは意外だったぜ。処女じゃなかったのは残念だ」

男はプロだ。このバッカスで最大の娼館のオーナーであり、女衒だった。男を知っているかそうでないかは見ただけで判る。そして、既に悦びを知っているかも。

処女であれば好事家が更に大枚を払ってアンジェリークを買っただろうに。だが、処女でないのなら、たっぷり躰を仕込んでから店に出すだけだ。

如何にも『女王候補』だったらしい清純そうな見かけと淫乱な躰。それはそれで強力な商売の武器になるから。

まだ必死でもがき続けるアンジェリークの秘所に、男は徐に指を入れた。当然潤ってもいないそこは男に指の侵入を頑なに拒む。

「やっぱりまだ硬いな。まだ、イったこともないんだろう」

冷静な声で男は言う。アンジェリークは羞恥に顔が紅潮する。確かにアンジェリークはオスカーと結ばれた。が、経験は多くはない。まだ、深い快楽を感じたことはなかった。どちらかというとまだあの頃は痛みや辛さのほうが勝っていた。

男は指を引き抜くと、懐からチューブを取り出し、中のジェルを指に出す。そして指を再びアンジェリークの秘所へと滑らせた。指に掬ったジェルをアンジェリークの割れ目に塗る。冷たい感触にアンジェリークは身を震わせる。再び指にジェルを掬い、また塗る。男はそれを数回繰り返した。そして、膣内にもジェルをたっぷりと塗りつけた。

初めは冷たいと感じでいたジェルを塗りつけられた箇所が徐々に熱を持ってくる。ジンジンと熱くなってくる感じにアンジェリークは体を震わせた。自分の体がどうなっていくのか判らない恐怖だった。

やがてその熱さはむず痒いような痛痒感に変わっていった。それを堪えようと唇をかむが、どうにもならない熱さと痒さがアンジェリークを襲う。

「……っ……くぅ……はっ……」

やがて堪えきれないアンジェリークの吐息が漏れる。その吐息が熱い甘さを含んでいることにアンジェリークは戸惑いを感じていた。

躰が何かを求めている。……何を求めているのか、アンジェリークは理解していた。

オスカーとの行為でエクスタシーに達したことはなかったけれど、全く快楽を感じなかったわけではない。貫かれる喜びは、知っているのだ。愛する者と1つになれる喜び。自分の隙間を、欠けていたものを補われるようなオスカーの熱さ。

だが、それはオスカーゆえに感じた喜びだったはずだ。なのに何故今自分は……自分の躰は貫くものを求めているのだ……?

「薬が効いてきたようだな」

アンジェリークの疑問に答えるかのように男が言う。アンジェリークに塗りつけたジェルは催淫剤だったのだ。それも、強力な。そしてそれは男の精を受けることでしか中和されることはなかった。

アンジェリークは逃れようと躰を捩る。男の手から、不本意に与えられる快楽から。

だが、男がそれを赦すはずもなく、男は再びアンジェリークの秘処に指を滑らせる。

そこは既に蜜をこぼし、花芽は硬くしこっていた。男が指で貫く。アンジェリークの躰は悦びを以ってそれを迎え入れる。心に反して……。

男の指はアンジェリークの心と体を追い込んでいく。躰は快楽へ、心は絶望へ……。

躰に追い立てられるように、だんだん頭が麻痺していく。明確な、正常な思考が保てなくなる。ただ、男の指によって与えられる快楽だけを追うようになる……。

男の手が、唇が、アンジェリークのあらゆるところに触れる。快楽を紡ぎ出し、彼女を追いつめていた。躰は悲鳴を上げている。早く楽になりたい……いや、もっと深い快楽を味わいたいと……。

「入れてくれ、と言ってみろ。そうすれば、極上の快楽を味わわせてやる」

震えるアンジェリークの耳に男が囁く。オスカーによく似た声。けれど、似て否なる冷酷な声。それがアンジェリークに思考を取り戻させた。

快楽を欲して上気した肌。潤んだ瞳。漏れる吐息は濡れた甘い息。けれど、アンジェリークは精一杯の意思を込めて男を睨んだ。

「だ……れが……そん……な……こと……いう……も……ん……で……す……か」

気丈に睨みつけるアンジェリークに男は舌打ちする。屈服するまで快楽を送り続けてやるか、それとも反抗する気の起こらないほどの快楽を与えるか……迷ったのは一瞬だった。この女を征服してやりたい、そう思った。

男はアンジェリークの足を縛めていた縄を解くと両足を抱え上げ、一息にアンジェリークを貫いた。そして……アンジェリークの心とは裏腹にクスリの毒に犯されていたアンジェリークの躰は嬉々としてそれを受け入れたのである……。

(いや……どうして……助けて……オスカー様……オスカー様……!)

力の入らない体を必死に動かそうとする。抵抗しようとする。けれど、皮肉にもそれは余計にアンジェリークの躰を刺激し欲望の渦の中にアンジェリークを突き落としていった。

男がアンジェリークの躰を探るように抽挿を繰り返す。体中を隈なく愛撫し、アンジェリークの弱いところを暴き出す。

アンジェリークの体は心を裏切り、快楽に従い、それを貪欲に貪ろうとする。

やがて、何も考えられなくなったアンジェリークを、これまで知らなかった悦楽が襲う。頭が真っ白にスパークする。

「あああああああああっ……」

一際高い声を上げ、アンジェリークはエクスタシーに達していた。

(どうして……オスカー様……)

アンジェリークの脳裏に愛しいオスカーの面影が浮かぶ。そのまま、アンジェリークは意識を失った。

 

 

 

男は自分の部屋へと戻っていた。彼――アラン・バローは疲れたようにソファに腰を下ろした。

らしくもなく本気で女を抱いた。商品に対してこんなに心が動いたのは初めてだった。やはり調教はいつものように別の男に任せるべきだったのだ。

理性ではそう思いながらも、アランは今後も自分でアンジェリークの調教を行うつもりでいた。

極上の娼婦になる。最高級の商品に。だから、態々彼が自らアンジェリークを仕込むのだ……。

だが、果たしてそれだけが理由なのか?

アランは溜息を1つ漏らすとテーブルの上に並べられた品物に目を転じた。アンジェリークが持っていたものがそこには並べられている。大学のテキスト、IDカード、そういったものだ。

その中に3Dホログラフがあった。コンパクトタイプで、蓋を開くと映像と音声が現れるタイプのもの。アランはそれを手に取り、開いた。

〔アンジェリーク……。俺のお嬢ちゃん。愛してる〕

現れた映像は炎の守護聖のものだった。アランはかつて、軍に所属していたことがある。この家業を父から受け継ぐ前のほんの一時的なことだが。軍――王立宇宙軍の総帥は炎の守護聖が勤めており(多分に名誉職的なもので実際は現役の軍人が指揮を取るのだが)、アランも他の守護聖はともかく、炎の守護聖だけは知っていた。

ホロの男は間違いなく炎の守護聖だ。だが、自分の記憶にある姿からは想像も出来ないほど優しい表情をしていた。

「なるほど……あの女の恋人は炎の守護聖というわけか」

これは使える……と思った。もう一度音声を再生し、それを確信する。

声がよく似ている。容姿が似ていることよりも声が似ていることのほうが遥かに利用できる。

アランは1人北叟笑んだ。

 

 

 

アンジェリークが意識を取り戻したとき、縛めは解かれていた。体を起こし、手近に置かれていた服を着る。元々彼女が着ていたものではない。シルクの薄手のバスローブのようなものだった。

体内にまだ異物感があった。体が重い。

「……ぅっ……」

涙がこぼれる。

犯された。なのに……躰は快楽を貪り、剰えオスカーとですら感じたことのないほどの快感を得、達してしまったのだ。

男はアンジェリークを商品だと言った。娼婦になるのだと……。背筋が凍った。

ここは惑星バッカスだという。ならば……逃げることは不可能だ。宙港は1つしかない。すぐに見つかってしまう。

それに仮に逃げることが出来たとして……どうしてこんな体になった自分をオスカーに見せることが出来るだろう……。

アンジェリークは何かを求めて部屋を見渡す。壁に鏡がかけられていた。ふらふらと覚束ない足取りでアンジェリークは鏡に歩み寄る。

「ひどい……顔……」

そう呟くとアンジェリークは徐に壁から鏡を外し、床に叩きつける。鏡が割れ、破片が飛散する。手ごろな大きさの破片をとる。

「オスカー様……パパ……ごめんなさい」

破片を手首に当てると、アンジェリークは躊躇いなく引いた。自分をこの世から消す為に。

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焦燥と諦念

「何か判ったらすぐに連絡する」

オスカーはそう言って聖地へ戻っていった。

「ああ、頼む」

カティスはそう頷く。カティスたちにすればアンジェリークが生きているという確信が得られただけで希望が持てた。アンジェリークのサクリアを守護聖たちが感じ取っているのだ。それだけで、心の重石が1つ取れたような気がしていた。

 

 

 

聖地ではアンジェリークを探す為に王立研究院がサクリアの割り出しを行っていた。

聖地にはアンジェリークのサクリアが残るものはない。だから、彼女が育てたエリューシオン、そこから彼女のサクリアを抽出し、数値化して、それを元に探し出すのだ。だが、それは容易なことではなかった。幾万もの星の中の、数千億の人の中から、それを探し出さねばならないのだ。

女王ロザリアはアンジェリークの捜索を命じた時点で聖地と外界の時間の流れを同じにした。これまでは聖地1ヶ月が外界の1年に相当していた。だがそれではアンジェリークを救出(誘拐され、状況から考えて決して幸せに暮らしているとは考えられなかったから)するまでに外界では時間が経ちすぎてしまう。少しでもアンジェリークの不幸を軽減しようと、ロザリアはそうしたのだった。守護聖は誰もそれに異を唱えなかった。

オスカーも時間を作ってはアンジェリークのサクリアを感じ取ろうとした。オスカーだけではない、全ての守護聖も、ロザリアも同じだった。

だが、なかなかアンジェリークのサクリアを見つけ出すことは出来なかった。次第にオスカーの表情に焦りの色が濃くなる。

「どこにいるんだ……アンジェリーク……」

 

 

 

「わ~い、アンジェリークおねえちゃん、いらっしゃい!!」

子どもたちが笑顔でアンジェリークを迎えた。よほど嬉しいのか、子どもたちはアンジェリークのスカートにまとわり付き、手を引き、早く来いと促す。

ここはバッカスの下町にある孤児院だった。

バッカスは歓楽惑星だ。華やかな世界は必ずそれに比する暗黒部を持つ。その一部が、スラムだった。

初めてスラムを目にしたときアンジェリークはショックを受けた。この宇宙にこんな所があるなんて……。女王の慈愛に満ちたサクリアは全ての命を優しく包んでいたのではなかったのか……?

前女王治世末期の宇宙の崩壊の影響がこんな形で出ていたのだ。そして、自分にもその責任の一旦はあるとアンジェリークは思った。だから、出来ることをしようと思った。

アランに働きかけてスラムの子どもたちを保護した。アランはそれなりにこの惑星の名士ではあったから、仕方なくアンジェリークの要求に応じた。その頃にはアンジェリークはアランの娼館にはなくてはならない存在になっていたから、アランとしても要求を簡単に跳ね除けることは出来なかった。

それからアンジェリークは自分の上客でもあるグランジョルジュ公爵にスラムの住人に対する救済政策を取るよう願った。グランジョルジュ公爵は元執政長官であり、バッカス政府の首脳部は彼の息のかかった者ばかりだった。つまり彼の意のままに動くのだ。

そして、少しずつ状況は良くなっていった。そんな中でアンジェリークはいくつもの孤児院に寄付をしていた。自分の収入の殆どを、子どもたちの為に使っていた。仮令たとえ汚い仕事をして得た金であってもその価値に変わりはない。それで少しでも子どもたちがよりましな環境で成長できるなら……アンジェリークはそう思ったのだ。

「まぁまぁアンジェリークさん、いつもありがとうございます」

園長が笑顔でアンジェリークを出迎える。アンジェリークはこの孤児院の有力な後援者だ。だが、それだけでおべっかを使う為に笑顔で出迎えたのではない。園長は心からアンジェリークの来訪を喜んでいた。

アンジェリークの仕事が何かは知っている。だが、そのことを蔑むつもりはなかった。アンジェリークはただの娼婦ではない。躰を売るだけではないのだ。その気になれば、執行長官の秘書も勤まるだろう知識と教養を持つ高級娼婦なのだ。美しい容姿とその知性で政治的或いは企業間の取引を有利に、或いは円滑に進める。だから、彼女たちの仕事場はベッドではなく、パーティ会場が主だった。勿論、その取引の為に体を使うこともある。だが、男たちの欲望の処理をする為だけに躰を売る娼婦たちとは明らかに一線を画していた。高級娼婦であることは惑星の、いや宇宙の女性たちの中で容姿も知性も教養も気品も第一級であることの証明でもあった。

それに園長は娼婦を蔑んではいなかった。この惑星の殆どの女性はそうなのだから。そして、そこには深い事情があることも承知していた。

園長はアンジェリークを実の娘のように思っていた。美しく優しい自慢の娘。だから、アンジェリークが来ると子どもたち同様とても喜んでいたのだ。

「今日はお休みなの?」

園長室にアンジェリークを案内しながら園長は問う。アンジェリークの後ろには子どもたちが付いてくる。

「ええ。星間経済会議も終わりましたから、暫くはのんびり出来そうです」

会議開催中は各国の思惑を通す為にアンジェリークたちは大忙しだった。それもひと段落着き、今は休養中だ。

この仕事に就いて……正確には就かされて2年余り……。長いようで短い時間だった。飛空都市を出てから、5年が経っていた。約束のときが来たはずだった。

けれど……あのときから、自分はもう変わってしまったのだ。死ねなかったあのときから。

 

 

 

アンジェリークが意識を取り戻したのは、手首を切ってから3日後のことだった。目が覚めるなり、ベッドから転がり落ちるほどの強さでアランに打たれた。

「お前には大枚払ってるんだ。勝手なことは赦さない。髪の毛一筋爪の先まで、お前は俺のものだ。それを忘れるな」

そういうとアランは2日前の新聞をアンジェリークに投げた。そこには轢き逃げ事故の記事が載っていた。被害者はアンリ・リモージュ17歳……。弟だった。全治1ヶ月の怪我をし、犯人は見つかっていないという……。

「お前が逃げ出したり、体に傷をつけたりしたら、家族がどうなるか、これで判っただろう」

アンジェリークは真っ青な顔をアランに向けた。

「わたしに……選択の自由はないのね……。貴方がシャルルに払ったお金を、わたしが払ったとしても……?」

「はっ、お前に払えるものか。5000万ギルだぞ?」

アンジェリークは目を見開く。5000万ギル……? よくもまぁ、吹っかけたものだ。中流の標準的家庭であれば、10年は遊んで暮らせる金額だ。

「そうだな、この5000万に加えてこれからかかる経費やらなにやら……合わせて1億ギル。それだけお前が稼いだら、お前を自由にしてやってもいい」

アランは言う。だが……自分がそれだけを稼ぎ出すことが出来ると本当にこの男は思っているのだろうか……。

「お前をただの娼婦にするつもりはない。お前は高級娼婦クルティザンヌになるんだ。それだけの価値はある。お前がその気になれば3年……いや、2年もすれば自由になれる」

更にアランは言った。いつか自由になる日が来る……そう思わせれば、そうそう馬鹿なことはしないだろう。そして、家族の命という脅迫材料もある。

「……判ったわ……。どうせわたしに選択の余地はないのだもの……。で、わたしはどうすればいいの?」

アンジェリークは何かを吹っ切ったようにアランを見つめた。

1億ギルを稼ぎ出すまでの仮初の命……。この躰がどうなろうと……構わない……。

 

 

 

それから、アンジェリークは高級娼婦となる為のあらゆることを学んだ。ベッドでのテクニックは当然のこととして、政治経済文化芸術、あらゆる方面のことを学んだ。そして、マナーも。だが、元々女王補佐官としての勉強をしていたアンジェリークにしてみれば今更学ぶまでもないことばかりだった。ベッドテクニック以外は……。

閨房術を学ぶときが一番辛かった。相手は必ずアランだった。仲間の娼婦たちはアランが手掛けるなんて滅多にないことだ、貴方は幸運だと言った。何が幸運なのだろう……? 愛してもいない男に抱かれ、感じさせられて……。

初めのときのように強引に犯されることはなかった。少なくともアンジェリークが抵抗しなければ。それどころか時折、オスカーに抱かれているかのような錯覚を抱くこともあった。声が似ているから。そして、耳許で『アンジェリーク、俺のお嬢ちゃん』 そう囁かれるから。オスカーが自分をいつも呼んでいた呼び方。だから、錯覚してしまう。意識が朦朧としていると尚更……。

オスカーに抱かれているように思うと、躰はどこまでも貪欲になった。極まって達するときはオスカーの名を呼んでいた。熱が冷めると、いつもよりも余計に惨めになっていった。そして、そんなときには決まって、アランは不機嫌になった。

アランが言うところの『レッスン』が終わり、アンジェリークの店出しのときが来た。水揚げはグランジョルジュ公爵だった。もう70代の老紳士、この惑星一の有力者だった。彼と共にパーティに出て、その後、ベッドを共にする……それがアンジェリークの初仕事だった。

 

 

 

「そんなに緊張しなくていいんじゃよ、アンジェリーク」

グランジョルジュ公爵のエアカーでパーティ会場に向かっているとき、彼はアンジェリークにそう言った。

グランジョルジュ公爵はこの星の影の支配者だといわれている老獪な政治家だった。だが、見た目は優しそうな好々爺でしかない。

「そうだね、我侭なおじいちゃんのお目付け役としてパーティに出席する孫娘……そんなつもりでいればいいんじゃよ」

アンジェリークを安心させるように老人は笑う。

「公爵様……」

その微笑にアンジェリークは紛れもない優しさを感じ取り、安心する。だから、アンジェリークも笑みを返した。

パーティは盛大なものだった。アンジェリークは大過なく公爵のパートナー役を勤めた。いや、初めてとは思えない堂々とした貴婦人振りを見せ、そしてその美貌と知性は一躍有名になった。

パーティが終わると、アンジェリークは老公爵と共に彼の別荘に入った。

「公爵、お疲れになられましたでしょう?」

堅苦しい正装を解いて部屋着に着替えた老公爵にアンジェリークは言う。公爵はパーティの間中休む間もなく、政財界の名士たちと話をしていた。あちらから話しかけてくるし、公爵も立場柄断れないものも多かった。だから、アンジェリークは時折我侭を言う振りをして、公爵と庭に出たり、食堂でお茶を飲んだりした。

「そうじゃのう。じゃが、今日は丁度よいときにアンジェリークが連れ出してくれたからな。いつもほどではないぞ?」

感謝の意味を込めて老公爵は微笑む。

「肩をお揉みしますね」

アンジェリークはそういうと公爵の肩、首筋、腕、そして脹脛を揉み解し、強張りをとっていく。

本当に祖父の相手をしているような気がしていた。

アンジェリークに父方の祖父母はいない。カティスは守護聖だったから、彼の一族はもうとっくにいなくなっていたのだが、アンジェリークが中学生のときに死去した母方の祖父母とはよく行き来していたから、こうして肩を揉んだりしたことも多かった。祖父母も娘によく似た忘れ形見のアンジェリークをとても可愛がってくれた。その祖父を公爵を見ていると思い出していた。

「ああ、ありがとう、アンジェリーク。随分楽になった」

そう言うと公爵はアンジェリークの手をとる。

「さて、そろそろ休むとするか」

途端にアンジェリークの躰が強張った。そう……公爵はおじいさまではない。『客』なのだ……。

だが、公爵はそんなアンジェリークの表情を見て、優しく言った。

「なにもせんよ。ただ一緒に眠ってくれればそれでいい。第一、儂はもう現役引退しておるでの」

アンジェリークを安心させるように笑うと、公爵は寝室へ入って行った。

 

 

 

それから2年近くが経っている。アランが言ったよりも早く、アンジェリークは1億ギルの借金を返済し終えた。だが、アンジェリークは未だこうして娼婦を続けていた。

この惑星及び周辺星域の政財界の名士たちは殆どがアンジェリークの顧客だった。彼らはアンジェリークを娼婦として扱うことはなかった。仮令高級娼婦クルティザンヌとはいえ、やはり娼婦は娼婦である。だが、アンジェリークを知るうちに彼らは彼女を淑女として遇した。彼らはアンジェリークを仕事の為に雇うこともあったが、その多くは彼ら自身の疲れを癒す為に彼女を買った。アンジェリークの優しさが、彼らを癒していた。

アンジェリークを買う男たちの中には当然ながらベッドを共にするものも多い。彼らは言う。彼女を抱いているとまるで母の胎内にいるかのように優しく包まれているのを感じる、と。

アンジェリークはこのバッカス最高のクルティザンヌになっていた。

そんなアンジェリークをアランが手放すはずはなかった。

そしてその頃にはアンジェリークも消極的ながら、ここで生きていく意味を見出していた。それが孤児たちの救済、スラムの住人たちの救済だった。

最早自分が補佐官として聖地に戻ることはない。親友の傍で手助けすることは出来ない。けれど……ここで、この星の環境を良くすることは少しはロザリアの手助けになるはず。そして、アンジェリークの顧客たちは近隣の惑星の有力者ばかりだから、惑星ごとの環境を改善することも出来るはず。

聖地にいては出来ないこと……。それをアンジェリークはやろうとしていた。聖地では、女王は全宇宙を支えなければならないから、余程のことがなければ、それぞれの惑星には干渉できない。サクリアの異常や、外宇宙からの侵略……そういったことがなければ。ならば、今ここにいる自分が出来るだけのことをしよう。

アンジェリークはそう思っていた。

だから、アランからこのままここで仕事を続けろと言われたときもそれを受け入れた。

「でも、貴方への借金はなくなったのだから、わたしの取り分は増やしてもらえるのでしょうね」

アンジェリークはそう交渉した。これまではアンジェリークの代金の8割を娼館が取り、残り2割をアンジェリークが受け取っていた。アンジェリークの雇用料は高額だったから、2割でも相当な金額ではあったが。それを店の仲介料を3割、アンジェリークの取り分を7割と逆転させた。納得しなければアンジェリークは店を移ると脅した。アンジェリークはもはやこの娼館になくてはならない存在になっていたから、それに仕方なく同意した。ただ、1つだけ条件をつけた。

アランの情人――ミストレス─になること。

アランはアンジェリークを手放すつもりはなかった。仮令、アンジェリークが仕事を辞め、この娼館を去ることになっても。

だから、彼は『レッスン』が終わった後もアンジェリークを抱き続けていた。アンジェリークの躰が彼でなくては最高の快楽を得ることが出来ないように……。アンジェリークの躰が彼から離れられなくなるように。

いっそ、薬で縛りつけようかとも思った。けれど、麻薬を使うことは商品価値を下げてしまう。そして商品の消耗を早める。だから、アランは薬を使わなかった。

彼は自分の本心から敢えて目を背けていた。認めてしまえば、身動きが取れなくなるから。

アンジェリークを愛している……そのことを彼は封印していた。

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再会への喜び

杳として行方の知れなかったアンジェリークの消息が判ったのは調査を始めてから2週間あまりが過ぎた頃だった。アンジェリークの行方は意外な、しかし尤もといえば尤もな方面から判明した。

アンジェリークのサクリアを探り出す一方で、オリヴィエはシャルルの身辺調査を行っていた。そして、彼が学生時代に遊学してた惑星バッカスに今でもたびたび訪れていることが判った。更に調べるうち、シャルルには時折多額の収入を得ていることが判った。出所ははっきりしない。いや、誰から振り込まれるのかははっきりしているが、それは架空名義の正体不明の人物だった。そしてそれは彼がバッカスに赴くときと時期が完全に一致していた。どうやら、シャルルは人身売買に手を染めているらしい。が、表向きには飽くまでも仕事の斡旋ということで書類上は犯罪ではなかった。

オリヴィエは王立研究院にバッカス周辺星域を調べるように命じた。バッカスは第9星系ということもあり、まだそこまでは調査が進んでいなかったのだ。オリヴィエの読みは中った。だが、オリヴィエはそれを喜ぶことは出来なかった。彼の中で1つの仮説が出来上がっていたから……。シャルルが人身売買をしている、そしてバッカスはあらゆる快楽を味わえる歓楽惑星。そんな星で売られた女が何をさせられるか……容易に想像がつくことだった。

オリヴィエはその予想を誰にも話さなかった。特にオスカーに話せることではない。どれほどオスカーがショックを受けることか。出来れば間違いであってほしい……そんなことは万に1つもないであろうが、オリヴィエはそう祈らずにはいられなかった。だから、王立研究院にもオリヴィエが依頼したことは内密にするように命じておいた。

王立研究院からアンジェリークのサクリアを発見したという報告を受けたとき、ロザリアも守護聖たちも心の底から喜んだ。そして、ロザリアはすぐにオスカーにバッカスへ向かうように命令した。それにはオリヴィエも同行することになり、オリヴィエの希望でリュミエールも共に赴くこととなった。もし、オスカーが怒りのあまりサクリアを暴走させるようなことがあれば、対極にある水のサクリアが必要となるだろうから……。

 

 

 

アランから今日の客の名前を聞いたアンジェリークは眉を顰めた。

「そんな顔をするな、アンジェリーク。上客だろう?」

「ええ、確かにね」

そう、確かに彼は上客だ。とても紳士だ。もう、何度もアンジェリークを買っているのに、一度も抱こうとしない。別に性的不能、というわけでもない。まだ20代半ばの青年だ。客の名はパトゥ伯リシャール・ド・グランジョルジュ。アンジェリークの最上顧客グランジョルジュ公爵の孫で、後継者だった。

彼がアンジェリークを買うようになってから半年が過ぎている。多いときには月に4、5回(週に1回)、少ないときでも最低月に1回は彼女を買う。勿論パーティや仕事の取引の為に彼女を買うこともあったが、大半はただ彼女に会う為だけだった。それがアンジェリークには鬱陶しかった。アンジェリークの価格は決して安くはない。一般的中流家庭の1か月分の生活費は軽く超える。ベッドの仕事なしでさえ。だが、彼は彼女を抱くことはないのに、その分の料金まで支払い、彼女を買う。そうすれば、その日は丸ごと彼女は自分のものだから。決して他の客を取ることはないから。いくらグランジョルジュ家が桁外れな大富豪だとしても、アンジェリークにしてみればこんなことに金を使うなんて酔狂以外の何者とも思えなかった。

「さぁ、お待たせするわけにはいかない。さっさと行ってこい」

アランはアンジェリークを追い立てる。アランとしてもアンジェリークが嫌がる客を無理に斡旋はしない。だが、パトゥ伯をアンジェリークがどうして忌避するのかが判らなかった。貴族の若者にしては驕ったところのない好青年だ。見た目だって金髪碧眼で容姿端麗、長身で若干細身とはいえ弱々しいほどではない。他の女たちであれば競って媚を売るところだろう。尤も、アンジェリークはどんな相手にも媚を売ったことなどなく、反ってそんなところが受けていたりもするのだが。

「……判ったわ」

アンジェリークは渋々頷くと出かけていった。

 

 

 

リシャールは、普通の恋人たちのように街中で待ち合わせをすることを好む。仕事上の取引やパーティの仕事の際は迎えに来るが、それ以外は大抵、彼が気に入っているカフェや、ホテルのロビーで待ち合わせることが多い。この日もアンジェリークは指定され通いなれたカフェへ向かった。

(まるで……普通の恋人たちのデートみたい……)

アンジェリークは溜息をつく。カフェに入ると、既にリシャールは来ていた。彼は常に先に来ている。アンジェリークを待たせることなどない。店に入った瞬間、彼がどこにいるのかは判った。特別目を引くような派手な容姿をしているわけではないが、すぐに判るのだ。世の中にはそういったある意味『特別』な人間がいる。例えば、モノクロで雑踏を撮影してもその人間だけが天然色で浮かび上がる、そういった特別な空気を持った存在が。明らかにリシャールはそうだった。持っている雰囲気は違えど、アランも同じだ。そして、オスカーも……。

不意にアンジェリークはオスカーを思い出した。決して似てはいない。持つ雰囲気は正反対だ。どちらかといえばリシャールの雰囲気はリュミエールに似ている。けれど……リシャールが自分を見つめる視線は、視線の熱さはオスカーを思い出させた。二度と会うことのない、最愛の人を……。

だから、アンジェリークは彼に『買われる』のが嫌だった。

「アンジェリーク」

にっこりとリシャールは微笑み立ち上がる。彼女の為に椅子を引き彼女を座らせてから、ウェイターを呼ぶ。そして、彼女が好むフレーバーティーを注文する。

決して嫌な人ではない。悪い人でもない。嫌な人、悪い人の度合いでいえば自分の情人となっているアランのほうが遥かに上だ。リシャールはアンジェリークがこれまで出会ったどんな男性よりも優しく善良な人物だろう。少なくともアンジェリークに対しては。けれど、アンジェリークは彼が苦手だった。

初めて会ったのは、彼の祖父であるグランジョルジュ公爵の屋敷だった。その日の仕事はいつものようにグランジョルジュ公爵の話し相手、ということだったが、実際彼女の相手をしたのはリシャールだった。老公爵はリシャールに引き合わせる為にアンジェリークを屋敷に連れて行ったのだ。

「祖父から貴女のことは色々と伺っています」

彼はそう言った。そして、祖父の言うとおり天使のような方ですね、とも……。

そのときは決して悪印象は抱かなかった。いや、これまでもそうだ。だが、だんだんとアンジェリークは彼と接するのが苦痛になっていった。彼の目が、自分を見つめる眼が、オスカーと同じだということに気づいたときから……。

アンジェリークはリシャールの話に適当に、失礼にならない程度に相槌を打っていた。彼が話していることは普通の恋人たちと変わらない。彼の態度も。彼がこの時間の為にお金を払っていることを除けば、恋人たちのデートと何ら変わることのない風景だった。

「そろそろ出ましょうか」

リシャールに促されて、アンジェリークは立ち上がる。その際にも、リシャールは彼女の為に椅子を引く。

店を出て、2人は海辺を散歩する。リシャールの好きな場所だった。

「パトゥ伯爵」

アンジェリークはこの日初めて自分からリシャールに話し掛けた。

「アンジェリーク、リシャールと呼んでください」

リシャールは微笑んで言う。この日初めてアンジェリークから自分を呼んでくれたことが嬉しいようだった。けれどアンジェリークは彼の名を決して呼ぼうとはしなかった。

「もう、こんな無意味な買い物はなさらないでください」

リシャールは驚いたように目を見開く。自分とのこの逢瀬を『買い物』と言われ、初めは何のことか判らなかったのだ。そして理解して、今度は悲しくなった。

確かに、自分はアンジェリークと会う為にお金を払っている。自分の地位・立場を利用して、そうすれば彼女が拒否できないことを知っているから。だから、彼女を買っている。しかし、自分はアンジェリークを利用する為に買っているのではない。他の浅ましい男たちとも違うのだ、そう思っていた。

「貴方のなさっていることはお金の無駄遣いですわ。わたくしに仕事をさせるわけでもなく……」

自分を抱かない客は他にもいる。彼の祖父だってそうだ。だが、その殆どは老人だったし、彼らが自分に癒しを求めて、その為に自分を買っていることも判っていた。けれど、リシャールは違う。彼は自分の精神的な癒しを求めているわけでもない。欲望を抱いていないわけでもない。なのに、決して抱こうとはしない。

彼に買われるとき、それが取引の為やパーティの為の場合、その仕事はとても遣り甲斐のあるものだ。けれど、こんな『デート』は無意味以外の何物でもなく、アンジェリークにしてみれば馬鹿馬鹿しい限りだった。

「こうでもしないと、貴女は会ってくださらないでしょう」

困ったように、悲しそうにリシャールは言う。確かにそうだ。以前、仕事抜きで会ってほしいとリシャールに言われたとき、アンジェリークは断ったのだ。客と個人的に会うことはしないと。それからリシャールはこうやって『デート』する為にアンジェリークを買うようになった。

「わたしは……貴女を愛しています」

リシャールは真剣な目をしてアンジェリークに告げる。アンジェリークはその言葉に目を見開く。内容には驚かない。感じていることだったから。しかし、まさかこんなところで告白されるとは思わなかった。

「貴女と結婚したい。アンジェリーク、わたしの妻になってくださいませんか」

アンジェリークはその言葉に一瞬呆然とする。そして、次の瞬間、笑い出していた。

「そんなことが出来ると思ってらっしゃるんですか、伯爵? わたくしは娼婦です。そして貴方はグランジョルジュ公爵の跡継ぎですのに?」

アンジェリークは敢えて笑いを収めようとはしなかった。本気でそんなことを考えているのだろうか? このお坊ちゃまは?

「祖父は初めからそのつもりでわたしたちを引き合わせたのですよ。それにこの街ではそれほどおかしくも珍しくもないことです」

確かにそうだ。高級娼婦はその知性と美貌から、第一級の貴婦人として扱われることも少なくない。これまでにも大貴族や政治家、財閥のトップと結婚した仲間もいるのだ。

「そうですね、この星では珍しくもないことでしょうね。けれど、貴方はわたくしの心を無視していらっしゃるわ」

この『仕事』だってアンジェリークが乗り気でないことはアランから伝えてある。それなのに、リシャールは半ば強引に彼女を買うのだ。アンジェリークが自分を忌避していることは知っているはずなのに。

「貴女に想う方がいるのは知っていますよ。けれど、その方と貴女が結ばれることはないのでしょう?」

今度はアンジェリークも驚いた。まさか、気づいていたなんて……。

「貴女がこんな境遇にいるのに、その男は貴女を放っている。迎えにも来ないではありませんか……。わたしならそんなことはしない」

その言葉にアンジェリークはかっとなる。そう、確かにオスカーは自分を迎えに来ない。けれどそれは放っておいているのではない。自分が連絡するまで迎えには来ないことになっているのだ。そして、彼は自分がこんな状況にあるとは知らないのだ。彼だけでなく、家族も知らない。自分は死んだことになっているのだから。

「何も知らないくせに……!」

アンジェリークから『クルティザンヌ』の仮面が外れる。オスカーは自分の状況を知ったら、どんなことをしてもアンジェリークを救い出そうとする。仮令たとえ自分の命を危険に晒しても。そして自分をこんな目に合わせた全てを消し去ろうとするだろう。アンジェリークをこんな目に合わせて気づかなかった彼自身を責めるだろう。そういう激しさと優しさを持った人だ。何も知らない人に非難される筋合いはない。

「そうですね。失言でした。貴女が愛する方のことをわたしは何も知らない。けれど、貴女のことは判るつもりです。貴女の瞳がいつも悲しい色を湛えていること、貴女がいつも『終わり』のときを考えていること……」

リシャールは飽くまでも優しい瞳でアンジェリークを見つめる。包み込むような、そんな瞳で。

「貴女がわたしを愛していないことだって判っています。けれど、わたしは貴女と共に生きていきたいのです。愛で結ばれなくてもいい。貴女と穏やかに信頼を築きながら生きていきたいのです」

真摯な眼でリシャールはアンジェリークを見つめる。アンジェリークは言葉もなく立ち尽くした。

リシャールの人柄はよく知っている。彼はとてもいい人だ。信頼でき、尊敬も出来る人だ。ただ柔和なだけではない。確りとした自分を持ち、そして信念に基づいて行動できる人だ。もしオスカーと出会っておらず、自分が娼婦でなかったら。そうしたら、きっと彼に惹かれていただろう。だからこそ、アンジェリークは彼に買われることが嫌だったのだ。

「パトゥ伯爵……」

求婚を受けることなど出来ない。もし彼が自分に求婚したことが知れたら、アランがどんな行動を取るか……。彼が自分の最も利用価値の高い商品であるアンジェリークを手放すようなことはない。そして、彼はアンジェリークに執着している。だから、受けることは出来ない。

そして、受けるつもりもない。彼を尊敬してはいるけれど、好意を持ってはいるけれど、愛してはいないから。自分が愛しているのはもう会うこともないオスカーだけだから。

けれど……なぜかアンジェリークははっきりと断ることが出来なかった。リシャールの眼差しの真剣さに、その強さにアンジェリークはただ、言葉なく立ち尽くしていた。

「返事は急ぎません……。けれど、わたしは真剣です。貴女のお返事をいつまでもお待ちしています」

 

 

 

オスカーたち3人はバッカスの宙港に降り立った。

「どうして今まで判らなかったのか不思議ですね」

外気に触れたとたんリュミエールは嘆息した。それはオスカーもオリヴィエも同様だった。

この星はアンジェリークのサクリアに包まれている。優しく暖かく全てを包み込むような暖かな慈愛に満ちたサクリアに。

「まずは宿に荷物を預けて、それから早速行動開始だね」

オリヴィエは内心を隠して明るく言った。

漸く……会える。俺の愛しいアンジェリーク。

オスカーは逸る心を抑えきれぬようにデッキを降りていった。

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再会が齎すもの

オスカーたち3人はまずホテルにチェックインした。荷物を置くと地図を取り出し、捜索の計画を立てる。バッカスは広い。ただ闇雲に探しても時間を浪費するだけだ。

ホテルのフロントやベルマンにアンジェリークの写真を見せたが、反応はなかった。ここはバッカスでも3指に入る高級ホテルである。そこの従業員がアンジェリークを知らないはずはなく、当然写真を見てそれが誰だか判ったものの固く口を噤んでいたのだ。娼婦には(それが如何に高級娼婦とはいえ)暗黒街が関わっており、彼女たちを探しに来たものにその所在を教えるのは自分自身を危うくするものだということを彼らは知っていたのである。

オスカーたちはまずはサクリアの感知から始めることにした。より強くアンジェリークのサクリアを感じ取り、アンジェリークがいる地域を絞り込もうというのだ。3人は街が一望できるという小高い丘にある公園へ向かった。

この都市、いや、惑星全体をアンジェリークの暖かな優しいサクリアが包み込んでいた。バッカスといえば宇宙最大の歓楽都市だ。享楽的で刹那的な、現実離れしたただ快楽を貪る為の惑星だ。かつて訪れたとき(聖地外の時間でいえば10年ほど前)に感じたのはどこか荒んだ空気だった。だが、今は違う。バッカスが持つ大気は暖かく穏やかなものだった。恐らく主星以上に安定した穏やかなサクリアに包まれている。それはアンジェリークのサクリアだった。

3人は精神を集中させ、研ぎ澄まし、アンジェリークのサクリアの中心地を探る。そこにアンジェリークはいるはずだった。

途中何度かの小休止を挟みながら3人はサクリアを探った。漸く尤もサクリアの濃度が高い地点を探し出したときにはすっかり日も暮れていた。

「ここから北東に10キロメートルってとこかな」

額に汗を浮かべ、オリヴィエが言う。

「ホテルに戻って地図と照らし合わせてみましょう」

疲労の強い表情でリュミエールが応じる。だが、瞳は明るかった。

それはオスカーも同じだった。漸くアンジェリークの居場所が判ったのだから。

3人はホテルに戻り、地図を広げる。そこは旧スラム街だった。

「ここにアンジェリークがいるんだな……」

オスカーが呟く。漸く、やっと愛しいアンジェリークに逢えるのだ。

 

 

 

翌日、オスカーたちは旧スラム街へと向かった。そこはかつてスラムだったとは思えないほど、明るく長閑な町だった。子どもたちの元気な声がそこかしこから響いていた。

「こんな風に明るい町になったのは、ここ2、3年のことらしいよ」

オリヴィエがホテルのフロントで聞いたことを話す。急に治安が良くなり人々が明るくなった。行政もスラムの解体、住人の救済・保護を行うようになったのだと。

「あ、ごめんなさい!」

どん、とオスカーに何かがぶつかる。見下ろすと幼い少年だった。まだ、4、5歳というところだろう。

「何やってるんだよ、カスパール! おじさん、ごめんなさい。僕たち急いでたものだから」

カスパールと呼ばれた少年より幾分年上の少年がオスカーに謝る。オスカーは『おじさん』と呼ばれたことに苦笑しながらも、少年たちに気にしないように言った。オリヴィエもリュミエールも少年の言葉に笑いを堪えている。

アンジェリークの行方不明を知って以来、漸く浮かんだ明るい表情だった。

「ほら、カスパール。早くしろよ。アンジェお姉ちゃん来ちゃうぞ」

少年がカスパールを促し、2人は駆け出そうとする。その少年の腕をオスカーは掴んだ。

「おじさん、痛いよ!」

少年は抗議の声を上げるが、オスカーの耳には入っていなかった。オスカーは懐からアンジェの写真を取り出し、少年に見せる。

「今、言ってた『アンジェ』というのはこのお姉ちゃんか?」

そう尋ねるオスカーの表情と真剣な眼に少年は驚く。

「おじさん……お姉ちゃんのお友達?」

オスカーは喜びのあまり言葉が出なかった。

アンジェリークが見つかった! ここにいるのだ!!

「ええ、そうですよ。わたくしたちはアンジェリークお姉さんの昔からのお友達なのです。お姉さんに会う為にここに来たのですよ。お姉さんの所に案内してもらえますか?」

言葉を失ってしまったオスカーに代わり、リュミエールが優しく少年に問いかける。

「うん、いいよ」

少年は素直に頷くと、3人を先導して歩き出した。

 

 

 

少年の案内で3人が連れて来られたのはそこから歩いて5分程度の所にある孤児院だった。『エリューシオン慈愛園』。それがその施設の名だった。ここはアンジェリークが出資し、開いた孤児院なのである。そしてそこに彼女は自分が愛し慈しんだ大陸の名をつけていたのだ。

その名を見た瞬間、オスカーたちは確かにここにアンジェリークがいるのだと実感していた。

「園長先生~! もうお姉ちゃん、来てる?」

少年は庭にいた初老の女性に向かって走り出す。

「ええ、いらしてますよ。遊戯室で皆と遊んでらっしゃるわ」

少年にそう答えて、園長は少年の後ろに立つ3人を不審そうに見やる。

「お姉ちゃんのお友達なんだ。お姉ちゃんに会いに来たんだって」

少年はそう言うと、用は済んだとばかりに屋内に駆けていった。

「……どちら様ですか?」

園長は警戒心も露わに3人を見る。

「わたしは、オスカーと申します。……アンジェリークの婚約者です」

その言葉に園長は眉を寄せる。

アンジェリークが婚約をしたという話は聞いていない。確かに今、グランジョルジュ公爵の孫であるパトゥ伯リシャールがアンジェリークにご執心でいずれ求婚するのではないかという噂もある。また、この歓楽街の支配者であるアラン・バローがアンジェリークの愛人なのだともいわれている。けれど『婚約者』がいるなどという話は彼女からも聞いたことはない。

園長はアンジェリークがこの街に来てからずっとアンジェリークの世話をしてきたこともあって、今ではアンジェリークの母親にも等しい存在だった。だから、アンジェリークからここに来るまでの経緯や、ここに来てからの苦しみも聞いている。だから、アンジェリークも彼女を信頼して、こうして孤児院を任せているのだ。尤も、アンジェリークは自分が女王候補であったこと、聖地・女王府に係わりのある人間であったことは話していなかったのだが……。

園長も、アンジェリークに愛する男性がいたらしいことは知っている。だが、その男性のことをアンジェリークは話そうとしなかった。園長も敢えて聞かなかった。訊いてなんになるというのだろう。アンジェリークが娼婦となった時点で、彼女がこの街を離れるのは死んだときか或いは有力者に落籍ひかされたときだけだ。しかも、アランはアンジェリークを手放す気はないと言っている。とすれば、アンジェリークの心の住む男性と彼女が結ばれることは不可能に近かった。

もしかしたら……この目の前にいる、『オスカー』と名乗る男性がそうなのだろうか? けれど、どうして今になってやってきたのか……。いや、アンジェリークは誘拐されたのだと言っていた。そして、こんな状況になった際、アランに自分が死んだように見せかけて欲しい、帰れないのなら残された家族の苦しみを長引かせない為にもそうして欲しいと頼んだと言っていた。だとすれば、この婚約者を名乗る男性はそれでも諦めずにアンジェリークを探し続け、ここまでやって来たのだろう。

けれど……と園長は思う。彼女と彼を会わせるのは果たして良いことなのだろうか……? 本当にこの男が婚約者だというのならそれはそれで非常に拙いことになるのではないか? 彼がアンジェリークの今の立場を知っているとは思えない。そんな相手にいきなり会わせるのは……。

それに、園長はまだ疑いを捨ててはいなかった。アンジェリークはこの星でも最高級の娼婦である。その彼女を自分のものにしようとして働きかける娼館も少なくはない。そういう、他の惑星から来た女衒という可能性も捨てきれないのだ。

「……少々、お待ちください」

取り敢えず、アンジェリークの意向を確認しよう。そして場合によってはバロー氏に連絡したほうが良いかもしれない。園長は3人を残して屋内へ入った。

「なんか……やな感じだね」

オリヴィエは呟く。ある程度アンジェリークの今の状況を推測している彼にしてみれば、園長の反応は彼の推測を裏付けるもののように思えた。

 

 

 

園長は屋内に入るとアンジェリークを呼んだ。

「貴女に会いたいという男性がいらしてるの。オスカーと名乗られて、貴女の婚約者だと仰ってるんだけど……」

園長の言葉を聞いた瞬間、アンジェリークは目を見張った。

昨日から彼のサクリアを感じていた。多分聖地から出ているのだとそう思ってはいたが、まさかこの惑星に来ていたなんて……。

「オスカー様……」

アンジェリークは窓辺に駆け寄り、庭に目をやった。カーテンの陰に隠れ、外からは自分の姿が見えないようにして……。

間違いない。あの緋色の髪。燃えるような彼の情熱を映したかのような炎の色。

まず訪れたのは歓喜だった。愛する人、ずっと愛してきた人、もう二度と会えないと思っていた人が自分を探して、こうして逢いに来てくれた!

けれど、アンジェリークはそこから動くことは出来なかった。すぐにでも駆け出して彼の胸に飛び込みたい。だが……自分にはもうそんな資格はないのだ。この躰は数え切れないほどの男に抱かれている。自分は娼婦なのだ。もう彼に愛された天使ではない。自分は堕ちてしまっているのだ……。

「園長先生、彼らを追い返していただけます? 会いたくないんです……」

そう告げるアンジェリークの声は震えている。逢いたい! 本当は逢いたい! けれど、逢えない……。

「それでいいのね?」

アンジェリークの心中を思いやるように園長は優しい声で尋ねる。

「ええ……。電話お借りしますね?」

アランに迎えに来てもらおう。そして策を練らなければ。

ここまで自分を探してくれた彼らが簡単に引き下がるはずはない。もし自分が娼婦をさせられているなんてことを知ったら、彼らは危険を冒してでも自分を助けようとするだろう。そんなことはさせられない。何よりも自分が娼婦になったことなんて知られたくない……。

アンジェリークが電話を手に取るのを見て、園長は再び庭に出た。

アンジェリークがアランとの話を終え、外に目を向けると、オスカーが園長に詰め寄っていた。何故逢わせないのか、と……そう言っているのだろう。

(オスカー様……お逢いしたい……本当は逢って、抱きしめてほしい……でも……駄目なんです……)

何を言っても無駄な園長に焦れたのか、オスカーが園長を振り切って建物に近づいてくる。まっすぐに入り口に駆けてくるオスカーを見て、アンジェリークは動けなかった。

 

 

 

「そこまでにしていただこう」

オスカーが建物の中に入ろうとした瞬間、背後から声がかかった。如何にも高級そうな地上車から、1人の男か降りてきていた。その、自分に酷似した声と髪の色にオスカーの動きは止まる。

「園長、アンジェリークを迎えに来た」

男──アランは園長に向かって言う。それまであまりのことに自失したかのように動けなかった彼女は、慌てたように屋内に駆け込む。

「……炎の守護聖オスカー様ですね」

アランはオスカーを不躾に見つめる。その視線にオスカーも、2人の守護聖も眉をひそめる。

「お前は……何者だ」

男の隙のない所作から、彼が裏社会の人間であろうことは判断がついた。だが、何故そんな男がアンジェリークを迎えに来るのだ。

「わたしはアラン・バロー。この町の世話役ですよ」

冷たい笑みを浮かべアランは答える。

「アンジェリークはとても大切な躰なのでね、何かあっては困るのですよ」

含みのある言葉をアランは言う。そのとき、園長に連れられてアンジェリークが姿を現した。

「アンジェリーク……!」

だが、アンジェリークはオスカーの呼びかけに答えることもなく、一瞥すらせずにアランの手をとり、車中に消えた。そして、車は間を置かず、すぐに走り去ってしまった。オスカーの悲壮なほどの叫びを置き去りにして……。

 

 

 

オスカーの顔を見たら泣いてしまう。何も考えられずに彼の腕の中に飛び込んでしまう。だから、アンジェリークは彼を見ることが出来なかった。

彼が自分の名を呼んだ。あの低く甘く、切なくなるような、それでいて満たされるような響きを持った声。自分の名を呼ぶときにだけ、彼の声はそんな響きを持っていた。5年経っても、それは変わらなかった。

いや……5年ではない……。自分にとっては5年だけれど、彼の時間では半年経つか経たないかだろう。過ぎ去った時間の差は大きい。自分はもう、変わってしまったのだ。

「アラン……伯爵に連絡を取ってほしいの……」

アンジェリークは言う。

「まさか……求婚を受け入れるのか……?」

アンジェリークから、プロポーズされたという話は聞いていた。そしてそれを請けるつもりもないことも。だから、これから出来る限り伯爵からのオファーは断ってほしいと言われたのだ。アランとしてもアンジェリークを手放す気がなかったから、異存はなかった。

「守護聖様方に、わたしが娼婦をしていることを知られたくないわ。それに、知ったらあの方たちはわたしを取り戻そうとなさる。それは貴方も望まないでしょう?」

どうしたら、彼らは諦めてくれるだろう……? そう考えたアンジェリークは1つの答えを導き出していた。

もし自分が不幸なら彼らは自分をそこから救い出そうとするだろう。では、自分が幸せだったら? 幸せだと思わせることが出来たら……?

そうすれば、きっと彼らは聖地へ帰るだろう。アンジェリークを伴わずに……。

オスカーを傷つけることになる……。裏切ったと罵られるかもしれない。けれど……真実を知られるよりはずっといい。きっと真実を知ったら、オスカーは己を責めるだろう。アンジェリークが苦しんでいるときに何も出来なかったことを、救いに来るのが遅くなったことを……。

それくらいなら、裏切ったのだと思われたほうがいい。そうして、憎まれ、蔑まれたほうがいい……。そのほうが、オスカーの傷は軽くて済むはずだから……。

「伯爵には……事情をお話して協力をお願いするわ……。あの方の好意を利用することになってしまうけれど」

「俺では駄目なのか?」

仮令たとえ芝居ではあっても、それがどんなきっかけで本当のことになるかは判らない。だから、アランとしては納得できかねた。

「貴方と、伯爵と……どちらがわたしが『幸せ』に見えると思う? 明らかに裏社会の人間である貴方では……守護聖方は納得なさらないわ」

そう言われれば、アランも黙らざるを得ない。確かに自分とパトゥ伯を比べれば、客観的に見てアンジェリークが幸せそうに見えるのはパトゥ伯だろう。それに彼の誠実な為人ひととなりはその物腰や所作に現れている。彼であれば、守護聖たちを納得させられるだろう。

「判った」

アランは溜息を1つつくと、携帯電話でパトゥ伯に連絡をする。そして二言三言話すと電話を切り、運転手にグランジョルジュ邸へ向かうように告げる。

「すぐに会ってくださるそうだ」

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偽りの誓い

オスカーたち3人は、元執政長官であるグランジョルジュ公爵家のパーティに招かれた。どこからか守護聖が非公式にこの星を訪れていることを聞いたらしく、ぜひ出席して欲しいと懇願されたのだ。正直なところそんな気分ではなかったが、敢えてオリヴィエはその招待を受けた。

あの日から3日経っている。アンジェリークが去ってしまった後、オスカーたちは園長のアンジェリークがどこに住んでいるのかを尋ねたが、当然ながら園長は教えなかった。アンジェリークを連れ去った男のことについても『この町の世話役の名士です』としか言わず、それ以上は何も教えてはくれなかった。

アラン・バローの名を手がかりに色々聞いて回ったが、住人たちは何も答えてはくれなかった。当然、アランの手が回っていたのだ。取り敢えず、アランについては聖地に連絡し、調査を依頼してる。今はその結果を待つしかなかった。

あれから何度も孤児院にも足を運んだが、園長はもとより、子どもたちもオスカーたちを避け、収穫は何もなかった。町を探しても同様だ。オリヴィエの推測に基づいて、歓楽街を探しても収穫はなかった。

全てアランが手を回しているのだ。アンジェリークがここにいることは確かなのに、確かにサクリアは感じているのに、あれ以来アンジェリークの影すら掴めなかった。

だから、オリヴィエは気分転換もかねてパーティに出席するようオスカーを説得した。それに元執政長官の公爵は今でもこの惑星の絶大な支配力を持っているという。彼の協力が得られれば、また違う展開が開けるかもしれない。

そう……パーティによって、新たな展開が開ける。しかし、それは彼らが予想もしていなかったものだった。

 

 

 

パーティは盛大なものだった。オスカーたちは非公式な訪問ということもあり、守護聖の礼装ではなく、極一般的なブラックフォーマル、タキシードを着て、パーティに出席した。

「ようこそおいでくださいました。守護聖様にご出席いただけるとは身に余る光栄です」

老公爵は如何にも好々爺といった人物だった。満面の笑みを湛えてはいるが、目は鋭く光っていた。それにオスカーたちは気づいてものの、気に留めなかった。いや、それよりも気になることがあったのだ。

アンジェリークの存在を感じていた。この会場に、アンジェリークがいる。公爵と話しながらもオスカーはアンジェリークの気配を探っていた。どこだ……? どこにいるんだ……!?

 

 

 

「本当にいいのですね、アンジェリーク」

リシャールはアンジェリークに最後の確認をした。アンジェリークはじっと1点を、1人の人物を見つめている。

「ええ……伯爵様には失礼なお願いをいたしましたけれど……」

「いいのですよ。貴女のお役に立てるのなら、わたしはそれだけで嬉しいのですから」

リシャールは優しく微笑む。

「伯爵様……」

「ああ、そんな他人行儀な呼び方は止めてください、愛しい人。リシャールと呼んでください」

「はい、リシャール様」

そう答えたアンジェリークの手をリシャールは取る。彼女の手は微かに震えている。

「緊張なさっているのですね」

リシャールはアンジェリークが痛ましかった。そして愛しかった。だから、すぐに彼らの許へは行かず、会場の死角に向かうとアンジェリークに口付けた。

咄嗟のことにアンジェリークは反応できなかった。リシャールが口付けるのは初めてのことだった。そして、その初めての口付けは官能的なものだった。深く口付け、舌を絡め、吸い、アンジェリークを蕩かせるような……。その口付けはアンジェリークの緊張を飛ばすには十分だった。

「……リシャール様……」

「貴女があまりに愛しくて……つい我慢が利かなくなってしまいました」

アンジェリークの足許がふらつくような官能的な口付けをしたとは思えない優しい笑みをリシャールは浮かべる。

「さぁ、参りましょう、愛しい人」

未だ足許の危ういアンジェリークを支えるように腰に腕を回し、リシャールはアンジェリークを促して歩き出した。彼らの許へ……。

「おじいさま!」

リシャールは祖父の許へ行く。その声に老公爵が振り返り、彼と話していた守護聖たちも声の主を見る。そして息を呑んだ。声の主と共にいるのはずっと探していたアンジェリークだ。そして、甘えるように彼に寄り添っている……。

「喜んでください、おじいさま。ついに彼女がプロポーズを受けてくれたのです!」

リシャールは嬉しそうに祖父に報告する。驚愕のあまり声の出ない守護聖のことは眼中にないように。

「ほう! ついにやったか。……それでお前の唇にアンジェリークの口紅が移っているというわけだな?」

老公爵は嬉しそうに孫の肩を叩く。リシャールは慌てたように唇を隠し、照れたようにアンジェリークに笑いかける。それを受けて、アンジェリークも恥ずかしそうに微笑む。守護聖たちのことなど眼中に入っていないように。

「……グランジョルジュ公……?」

守護聖の中で最も早く我に返ったリュミエールが公爵に言葉をかける。

「ああ、申し訳ございませんな。これがわたしの孫で、後継者のパトゥ伯爵リシャール・グランジョルジュです。それから、たった今から婚約者となったアンジェリーク・リモージュ嬢」

嬉しそうに笑いながら公爵は2人を守護聖に紹介する。

「失礼いたしました。あまりに嬉しくて舞い上がってしまって……申し訳ございません、守護聖様」

リシャールはこんなときでなければ好感の持てる笑顔で守護聖に向き直る。その表情に一瞬緊張が走ったことを、動揺の極みにあった守護聖たちは見逃していた。

守護聖たち――オスカーは信じられないものを見るようにアンジェリークを凝視した。信じられなかった。信じたくなかった。アンジェリークが……婚約?

「お久しぶりです、オリヴィエ様、リュミエール様、オスカー様。先日は失礼いたしました」

アンジェリークの声にオスカーは我に返る。目の前でアンジェリークはかつてのような、花のような微笑みを浮かべていた。いや、かつてよりもずっと艶やかな……。

そのときになって漸く、オスカーたちは気づいたのだ。自分たちがアンジェリークを待ち、探していた半年という時間は彼女にとって5年という歳月だったことに。判ってはいたはずだった。だが、こうして目にするまで実感が伴っていなかったのだ。今、目の前にいるアンジェリークはかつてのあどけなさの残る少女ではなく、成熟した女性へと変わっていた。

アンジェリークは幸せそうに微笑んでいる。かつて自分がプロポーズしたときのように……いや、それ以上に……!

「おや、アンジェリークは守護聖方をご存知だったのか?」

「まぁ、公爵様、お忘れになりましたの? これでもわたくし、以前女王候補でしたのよ?」

アンジェリークはおかしそうに老公爵に言う。どこか甘えたような、そんな親しさを感じさせる口調だった。

「あの日は……リシャール様から求婚されて……嬉しさで頭がいっぱいでしたの。失礼いたしました」

アンジェリークはそう言って3人に頭を下げる。あまりのことの展開に3人は言葉もない。

「積もる話もあろう。リシャール、お前と婚約者殿で守護聖様方にお茶でも差し上げなさい。こちらは良いから」

公爵は言い、リシャールは頷くと3人を今は使っていない談話室へと案内する。先導しながら、アンジェリークを離さず、相変わらず腰を抱いたままで。

「……どういうこと……?」

「5年は……決して短い時間ではないですからね……」

「……」

「どうぞ、こちらです」

リシャールが扉を開け、3人は室内へ入る。ソファに座ると、その正面にリシャールが腰掛ける。アンジェリークがベルを鳴らし、呼ばれてやってきたメイドにお茶の準備を言いつける。そしてリシャールの隣に腰掛けようとするのをリシャールがとどめ、自分の膝に抱えようとする。

「リシャール様、おやめください、お客様の前ですわ」

アンジェリークが甘えるような口調で窘める。そうするとリシャールは残念そうに諦めてアンジェリークを隣に座らせる。

「わたしは今天にも昇る心地なんですよ、愛しい人。片時も離れたくないくらいにね」

甘く、リシャールはアンジェリークに囁きアンジェリークは擽ったそうに笑う。

「いけません、わたくし、守護聖様にお話あるんですよ?」

叱る口調も甘い。まさに、幸福の絶頂にある恋人同士だった。

やがてメイドがお茶を給仕し、下がっていく。すると、アンジェリークは守護聖たちに向き直る。

「わたしをお迎えに来てくださったのですね……? でも……わたし、聖地には戻りません」

予想された言葉だった。だが、それでも血が引いていくのをオスカーは自覚せずにはいられなかった。

「申し訳なく思っています。わたし……オスカー様を裏切ってしまったんですもの。どんなお怒りも受けます」

アンジェリークはじっとオスカーを見つめる。

いったい何を言えばいいのだろう? オスカーは混乱していた。アンジェリークを待っていた。彼女が自分の腕の中に戻ってくる日を。ずっと……。待ちきれなくて約束の日が来た瞬間に聖地を出て迎えにいった。そして、彼女の行方不明を知らされた。

こんなことは予想していなかった。彼女が心変わりするなど……。

オスカーは苦い笑みを浮かべる。かつてアンジェリークは親の都合によって婚約させられ、それを破棄する為に主星へ戻った。そして、今度はオスカーがかつての婚約者と同じ立場に立たされたのだ。

ここで赦さないと言ったらどうなるだろう。無理にでもアンジェリークを連れ去って、聖地で自分の妻にして……。そうすれば、離れていた時間は取り戻せるだろうか? 離れた心を取り戻せるだろうか……? 否。取り戻せはしない。アンジェリークは自分に心を閉ざすだけだ。俺を愛することはない……。

オスカーはリシャールに目を向ける。育ちの良さそうな、そして誠実そうな男だ。かつての婚約者シャルルとは違う。その物腰に全てに彼の人柄の良さが現れている。信頼に足る、アンジェリークを任せるに足る男だろう……。

「君が幸せになるのなら……それでいい」

漸く絞り出した声はみっともないくらいに掠れていた。これではアンジェリークが気に病むだろう。だが、それくらい赦されてもいいはずだ……。

「オスカー様……」

アンジェリークは安堵の溜息をつく。声が震えていた。リシャールもほっとしたように溜息をつく。が、オリヴィエはそこに奇妙な引っ掛かりを感じていた。どこが、何が、というのではない。直感だ。確かに元恋人のオスカーがごねれば厄介なことになる。ましてやオスカーは守護聖だ。だから安堵したとしても不思議ではない。だが、何かが引っかかった。

「陛下には俺からお伝えしておく。陛下も君が幸せになるんならお許しくださるだろう……」

オスカーはそう言うと、立ち上がる。これ以上、この場に留まることは苦痛以外の何物でもなかった。

「幸せになるんだぞ……お嬢ちゃん……」

そう言い残すと、オスカーは部屋を出た。それをリュミエールが追う。が、オリヴィエは留まった。

「アンジェリーク……あんた、本当に、この男を愛してるんだね?」

オリヴィエがアンジェリークを見つめる。その視線の強さにアンジェリークは顔を伏せそうになる。けれど、ここで目を逸らしたら全ては無駄になる。勘のいいオリヴィエが気づかないはずはない。

「はい、オリヴィエ様……」

懸命に視線を反らさぬように努めても、声が震えるのまでは抑えられなかった。

「これまで……あんたは行方不明になってた。3年もの間、あんた、何してたんだい? カティスたちは誘拐されたって言ってたけど」

正面から切り込んでもアンジェリークは本当のことを言いそうにない。オリヴィエは切り口を変える。

「それは……」

アンジェリークが狼狽うろたえたようにリシャールを見る。リシャールは頷いてアンジェリークを安心させるように微笑む。

「彼女にもよく判らないのですよ。わたしたちが彼女を見つけたとき、彼女は記憶を失っていました。それからずっと祖父の身の回りの世話をしたり、わたしの秘書をして過ごしています。今は記憶を取り戻していますが、よほど辛いことがあったのでしょう、誘拐されてからここに来るまでのことは何も覚えていないのです」

リシャールはアンジェリークを守るように抱きしめる。

「記憶を取り戻したときには彼女は死んだことになっていましたし、何よりもわたしが彼女を手放したくなかったので……ご家族には申し訳ないですが、黙っていたのです。ああ、でも、彼女から返事ももらいましたし、仕事の都合がつき次第、彼女のご家族にもご挨拶に出向くつもりですよ」

リシャールは人の良い笑顔を浮かべオリヴィエに言う。だが、目の光はそれだけではなかった。グランジョルジュの後継者ともなればただ人柄がいいだけではどうにもならない。それなりに頭も切れ、政治力もなければやってはいけない。リシャールという青年はただの『好青年』というわけではなさそうだった。

その印象がオリヴィエの推測を更に強める。アンジェリークはこの男を愛しているわけではない。

本当はそう信じたいだけかもしれない。アンジェリークが心変わりしたなんて信じたくないだけかもしれない。

アンジェリークは本当に馬鹿がつくほど一途な少女だった。育成にしても恋にしても。一途にオスカーを想い、その一途さがオスカーの心に火をつけ、2人は愛し合ったのだ。端から見てもこれ以上はないくらい幸せな愛し合った恋人同士だった。それが、こんなにも簡単に壊れてしまうなんて思えなかった。

「じゃあ、アンジェ、あんたはもうオスカーを愛してないんだね? この男を愛してるって、オスカーを愛してないって……エリューシオンに誓えるかい?」

突然出てきた『エリューシオン』の名にアンジェリークはびくりと肩を震わせる。エリューシオン……アンジェリークが何よりも慈しみ大切にしてきた大陸。自分が女王にならずオスカーの妻となることを選んだときも大陸の民たちは『それが天使様の幸せなら』と赦してくれた。その、今でも変わらず愛おしいエリューシオンにかけて誓えるのか……オリヴィエはそう問いかけてきたのだ。

「あ……」

ここで誓えなければ、これまでついた嘘が全て無駄になる。けれど……アンジェリークには出来なかった。偽りをエリューシオンに誓うことなど……。

「やっぱりね……何かあるわけだ……」

オリヴィエは溜息をついた。それは複雑なものだった。アンジェリークはオスカーを愛している、けれど嘘をついてまでオスカーから離れようとしている。その理由は……多分自分が推測していたことと違ってはいないはずだ。

「まだ、今は聞かない。あんたも心の準備が出来てないだろうからね。もう暫くここの星にいるから」

オリヴィエは立ち上がる。そして、昔と変わらぬ翠の目に涙を浮かべるアンジェリークに微笑むとそっとアンジェリークの頬にキスをする。昔と変わっちゃいない、わたしは今もあんたのことを大好きなんだよ。そう言うように。

「またね、アンジェリーク」

そう言うと、オリヴィエは出て行った。

「彼には気づかれてしまったようですね」

溜息を漏らしながら、リシャールは言った。ずっと緊張していた。掌には汗が滲んでいる。星間会議だってこんなに緊張はしない。

「ええ……伯爵様……。オリヴィエ様は昔からとても勘の鋭い方でしたもの」

アンジェリークも溜息をついた。これから……どうすればいいのだろう……?

 

 

 

「オスカー……」

リュミエールはオスカーを追いかけ、そう声をかけたものの、後が続かなかった。いったい何を言えばいいというのか。

オスカーがどれだけアンジェリークを愛しているかはよく知っていた。アンジェリークが行方不明になったと知ってから彼がどんなに必死にその行方を求めていたかも。なのに……こんな結果になろうとは……。

「すまん、リュミエール……暫く1人にしてくれ……」

オスカーはリュミエールを残し、夜の闇に消えていった。

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報われることのない愛

リシャールは複雑な気分だった。

守護聖たちが帰った後、アンジェリークもリシャールに礼を言って、アランの許に帰っていった。今日の芝居に付き合ってくれた礼を言って。そう、本当はアンジェリークは彼の求婚を受けたわけではなかった。

3日前、アランから連絡があった。至急アンジェリークが会いたいと言っていると。一瞬淡い期待を抱いたが、すぐに打ち消した。アンジェリークが自分を愛していないことは知っていた。かつての恋人を未だ想っていることも。そのときにリシャールはこれまでの経緯を全て聞いた。女王候補だったこと、そこで守護聖と愛し合い、結婚を約していたこと。かつての婚約者に売られたこと。

リシャールは言葉もなかった。アンジェリークはかつての婚約者を恨んではいないと言った。もう恨んではいない、赦しているという。自分が彼の自尊心を傷つけたのだから、と。リシャールにしてみれば、そんな男は八つ裂きにしても足りないほど憎かった。だが、彼がアンジェリークを売ったからこそ、自分はアンジェリークと出会ったのだと思うと複雑だった。

そして、アンジェリークから告げられたのは、『婚約者の振りをして欲しい』という彼にとっては辛い役目だった。アンジェリークも自分の好意を利用することに罪悪感を感じているようだった。だが、リシャールは引き受けた。仮令たとえ嘘であっても一瞬であってもアンジェリークが自分だけのものになるのだから。そして……アンジェリークが、愛する男性に今の自分を知られたくないと想う気持ちも理解できた。もし自分がアンジェリークの恋人と同じ立場に立たされたら、きっと苦しむ。何故もっと早く彼女を見つけ出さなかったのかと……。きっとアンジェリークは愛する人にそんな気持ちを持たせたくなかったのだろう。彼女の話を聞く限り、彼はとてもアンジェリークを愛している。そして、優しい人物のようだった。だから、リシャールは引き受けた。

だが……全てが終わった今になって思う。果たしてこれでよかったのかと。これで誰が幸せになれるのだろう? アンジェリークもオスカーも、愛する人を失う。真実を隠し、真実を知らぬまま……。

アンジェリークは彼を苦しめたくなかった。そして、惨めな娼婦に堕ちた姿を知られたくなかったのだ。けれど……彼はそんなことは気にしないだろう。自分を責めることはあっても、あの男ならそれを乗り越え、彼女を守り愛しぬくはずだ。

ほんの僅かな時間、彼に接しただけだった。だが、アンジェリークを愛する者同士、彼の愛の深さが理解できた。だからこそ、このままでいいはずはないと思う。あの2人はこのまま別れるべきではない。アンジェリークが本当に幸福になる為にも、仮令一時は辛くても真実を明らかにして、2人で乗り越えるべきなのだ。

リシャールは考えた末、オリヴィエといった、あの最後まで残っていた守護聖に連絡を取ることにした。アンジェリークの話では、彼はオスカーの親友であり、アンジェリークが最も信頼していた守護聖だという。そして、昨日の会話から、真実の一端を掴んでいる様子だった。

「アンジェリーク……君の意に反することになるだろうけれど……君の幸せの為にこうするべきだと思うよ」

リシャールは1人呟くと、オリヴィエを招待すべく、電話を取った。

 

 

 

このままでいいはずはない。オリヴィエは心の中で呟く。やはり、自分の推測をオスカーに話すべきだろうか……?

誘拐されたこと、この惑星に連れて来られていること……その事実からオスカーが自分と同じ推測を持っていないのが不思議だった。多分、無意識のうちに避けているのだろう。その推測を導き出すことを。愛する女性が、そんな境遇に落とされていることを……。

オリヴィエが苦しげに溜息をついたとき、荒々しく扉が開かれた。オスカーとリュミエールだった。

「落ち着いてください、オスカー!」

珍しく声を荒げてリュミエールが言う。

「これが落ち着いていられるか!」

オスカーが苛立たしげに怒鳴る。

「どうしたのさ」

オスカーとリュミエールは昨夜は帰ってこなかった。オスカーを放ってはおけずにリュミエールはずっとオスカーと行動していたのだ。

オスカーは寝室に行くと、荷物の中から小型のレーザー銃を取り出す。聖地から出るということで愛用の長剣は持ってきておらず、いざというときの為にこれを持って来ていた。

「何やってんだ、オスカー!」

それを見てオリヴィエは顔色を変える。

「アンジェリークを救い出す!」

だが頭に血が上っているオスカーはオリヴィエたちの制止を振り切り部屋を飛び出そうとする。

「チッ」

オリヴィエは舌打ちすると、オスカーの首筋に手刀を叩き込む。怒りのあまり何も目に入っていなかったオスカーはあっさり昏倒する。

「ったく……」

オリヴィエは溜息をつき、リュミエールと2人で意識を失ったオスカーを寝室のベッドへと運んだ。そして、リュミエールに向き直る。

「何があったんだい、リュミエール?」

「アンジェリークを、見かけたのです」

それは偶然だった。

グランジョルジュ邸を出た後、オスカーは街に出た。酒で忘れられるようなことでもなかったが、飲まなければどうしようもなかった。リュミエールは何も言わずにそれに付き合った。初めはオスカーも1人にしてくれといったが、リュミエールは頑として聞き入れなかった。それからは特に何も言わず、ただ、2人で飲んでいた。

何件目かの店を出たとき、2人は足を止めた。アンジェリークがいたのだ。その隣にはアラン・バローがいた。グランジョルジュ家の御曹司の婚約者がいるべき場所ではなかった。2人が入っていった館を見て、オスカーは愕然とした。

2人が入っていったのは石造りの豪奢な館だった。それが何なのかはこの街では明らかだった。娼館だ。そして、2人は裏口から入ったのだ。客としてではなく……。

それが何を意味するのか判らないほど2人は愚かでも鈍くもなかった。丁度そこにいた従業員らしい男に聞くと、アランはここのオーナーであり、アンジェリークは一番の売れっ子だという。そして、

「でも、アンジェリークはクルティザンヌだから、簡単には買えないぜ。オーナーの愛人だしな」

と言ったのだ。

2人は言葉もなかった。オスカーがそのまま館に飛び込もうとするのを、リュミエールは渾身の力で抑えねばならなかった。このまま2人で飛び込むのは無謀に過ぎる、一旦ホテルに戻り、オリヴィエも交えて作戦を立ててからにしなければアンジェリークを取り戻すことは出来ない、何度もそう説得し、漸くのことでホテルに戻ってきたのだ。

リュミエールから話を聞き、オリヴィエは溜息をついた。最悪の推測が、当たってしまった。だが、ある意味、それは幸運でもあった。アンジェリークが隠すべきことはなくなったのだ。彼女が知られたくなかったことをオスカーは知ってしまった。後はオスカーがもう一度アンジェリークと会って、彼女を取り戻せばいい……。

アンジェリークは未だオスカーを愛している。だから、知られたくなくて嘘をついた。その嘘が意味をなくした今、もう一度アンジェリークに逢わなくては。このまま、オスカーと離れることは決して彼女の幸せには繋がらない。オスカーの幸福にも。アンジェリークの幸福はオスカーと共にあってこそ得られるもののはずだから……。

だが、アンジェリークが自分たちに会うとは思えない。どうしようか……そう考えたとき、オリヴィエの許にリシャールからの電話が入ったのである。

 

 

 

リシャールは、現れたのがオリヴィエだけではないことに驚いていた。招いたのはオリヴィエだけだったが、そこにはリュミエールも、そしてオスカーもいた。

アンジェリークが愛する男。彼に知られたくなくて、彼女は嘘をついた。そのオスカーがいる。リシャールは全てをオリヴィエに話すつもりでいたが、オスカーが来たことでそれを躊躇った。

「君に聞きたいことがある」

リシャールがなんと言うべきか躊躇っている間にオスカーが口を開いた。感情を……滾る怒りを無理に抑えたような口調だった。

リシャールがオリヴィエに会いたいと申し入れたとき、オスカーは自分も行くと主張した。オリヴィエに水をさされたことで一時の激情は過ぎていた。そして多少冷静になると、アンジェリークの婚約に疑問を抱いた。

娼館の男はアンジェリークがアラン・バローの情婦だと言った。とすれば、アンジェリークが婚約できるはずはない。ならば、アンジェリークの婚約は嘘のはず。では何故彼女はそんな嘘をついたのか。きっと自分たちに、彼女を聖地へ連れ戻すことを諦めさせる為だ。娼婦に身を落とした自分が聖地へ、女王補佐官として戻ることは出来ないと彼女は考えたに違いない。そして、オスカーの許へ戻ることも出来ないと……。

「本当のことを話して欲しい。君たちは本当に婚約したのか? 愛し合っているのか?」

今では、そんなことはないと思っている。そんなことはないと思いたい。アンジェリークが他の男を愛したなど……。けれど……もし本当に愛し合っているのなら、自分は身を引こう。彼女が幸せになれるように出来る限り力を貸そう。

オスカーは真剣な眼でリシャールを凝視する。

「出逢ったときから、彼女に惹かれていました。求婚したのも事実です」

リシャールはゆっくりと穏やかに言葉を発した。

「わたしは彼女を愛しています。だから、彼女のどんな望みも叶えて差し上げたい」

だからこそ、アンジェリークの芝居にも付き合った。それを彼女が望んだから。

「彼女が幸せになれるのなら、わたしはどんなことでもします」

リシャールもまた真摯な目でオスカーを見つめ返す。そして、オスカーの目にアンジェリークへの真剣な、深い愛を見出す。

「わたしとの婚約は芝居です。貴方に憎まれる為の……。彼女は貴方に真実を知られたくなかったのです。それを知れば貴方に疎まれるかもしれない。貴方が貴方自身を責め傷つくかもしれない。だから、彼女は貴方に憎まれることを選んだのです。貴方を裏切ったのだと思われようとしたのです」

言外にリシャールは言う。アンジェリークの行動は全て貴方を想うがゆえのことなのだと。

「真実を知れば貴方は彼女を疎むかもしれない……」

「それは絶対にありえない」

オスカーは即答する。知ってしまった今でも彼女への想いはなんら変わっていない。あるとすれば……

「ええ。わたしも彼女から貴方のことを聞いてそう思っていました。彼女も同じです。彼女が恐れたのは貴方が自分を責めることです。何故もっと早く助けに来なかったのか、何故彼女の危機に気づかなかったのか……貴方がそう御自分を責めるのではないかと、彼女は恐れたのです」

リシャールの言葉にオスカーは目を見開く。確かにそうなのだ。事実を知って以来、オスカーの心にあったのはその後悔だった。何故もっと早く彼女を探し出せなかったのか、どうして彼女を主星に戻らせてしまったのだ……ずっとオスカーは自分を責めていた。

アンジェリークはそれを予想していたのだ。そして、だからこそ真実を隠そうとした。オスカーを傷つけない為に……。

「変わっていないのですね、彼女は……」

リュミエールが溜息と共に呟く。いつも自分より周りのことを思いやる少女だった。周りを傷つけない為に自分が傷つくことを選ぶような……。

オスカーは胸が熱くなる。アンジェリークが自分を傷つけない為に選んだことにもそうだったが、彼女が自分を信じてくれたことが……。決して自分が彼女を疎むことはないと信じてくれていたのだ。自分の愛を信じてくれていたのだ。そう……彼女にとっては5年もの長い時間、彼女は変わることなく、自分を信じてくれていたのだ。

「彼女は未だ貴方を愛しています。貴方への想いだけが彼女の生きる支えだった」

自分がそうなりたかった。だから、愛を告げた。いつまでも待つと……。けれどアンジェリークが自分を愛することはないのだということもリシャールは知っていた。

「彼女は……高級娼婦です」

「……知っている」

オスカーは穏やかに答える。彼女が受けた屈辱、痛みを思うと胸が張り裂けそうになる。けれど、その事実によってオスカーの彼女への愛が変わることはなかった。

「彼女は……自分が貴方に相応しくないと思っている。汚れてしまったのだと。だから貴方を拒絶しました。けれど、それでは彼女は幸せにはなれない。どうか彼女を幸せにしてあげてください」

叶うことなら自分が彼女を幸福にしたかった。けれど、彼女の幸福は愛する者と在って初めて成立するもだろう。愛する者と共に、彼女が自分の心の傷を乗り越えてこそ、幸せは訪れるはず。

「必ず」

自分自身への決意も込めて、オスカーはリシャールに約する。リシャールは安堵したように、そして少し寂しそうに微笑んだ。

 

 

 

「さて、じゃあ、まずどうする?」

グランジョルジュ邸を辞して、オリヴィエはオスカーに問いかけた。

「アンジェリークに逢う。そして、帰るように説得する」

オスカーは何の迷いもなくきっぱりと言う。アンジェリークをただ娼館から、この惑星から解放するだけならば、ことはそう難しくない。女王命令で済む。だが、アンジェリークが納得しなければ、帰る気にならなければ仮令たとえ連れ帰っても彼女は苦しむだけだ。

「大変だよ? あれでアンジェリーク、頑固だから」

そう言いながらもオリヴィエの声は明るい。確かに、アンジェリークの境遇は不幸だ。彼女のこれまでの時間は悲劇だろう。だが、オスカーはアンジェリークを愛している、アンジェリークもオスカーを変わらず愛している。だったら、なんとでもなるはずだ。いや、なんとでもしてみせる。オリヴィエは自分のそう誓っていた。

可愛い妹のようなアンジェリーク。今では同じ年になってしまっているけれど、それは変わらない。そしてオスカーは大切な友人だ。

飛空都市にいるとき彼らは見ている側まで微笑んでしまうような幸せな恋人同士だった。時々は行き過ぎて砂を吐きたくなることもあったけれど。また、あんなふうに寄り添う2人を見る為ならば、どんなことでもしよう。オリヴィエとリュミエールはそう決意していた。

「じゃあ、行くぞ」

3人はアンジェリークに逢うべく、娼館へ向かった。

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哀しい微笑み

オスカーは再び娼館の前にいた。今度こそ、アンジェリークを取り戻す為に。自分の前に立ちはだかるかのような石の建物をオスカーは睨みつける。

(漸く……アンジェリークを取り戻すことが出来る……)

「行くぞ」

自分を奮い立たせるようにオスカーは同行する2人に声をかける。

同じような場面があった。約1ヶ月前。主星の、郊外に近い住宅街。そこで自分はやはりこうして2人に声をかけたのだ。やはり自分を奮い立たせるように……。

けれど、あのときとはなんという違いだろう……。

あのとき自分の心を満たしていたのは暖かな思いだけだった。漸く逢える恋人への想い。心地良い緊張感があった。彼女の父親に会い、彼女の家族に会う。そして自分には縁がないと思っていた言葉を言う。『お嬢さんをください』――そう言うはずだった。彼にとっての一大イベントが控えていたのだ。だから、あのときオスカーはらしくもなくとても緊張していた。恥ずかしくて照れくさくて、けれど擽ったいような、どこかワクワクするような心地良い緊張感だった。

たった1ヶ月前のことなのだ。いや……もう1ヶ月も前のことというべきなのだろうか……?

今、自分を包む緊張感はあのときとは反対のものだ。この緊張感はオスカーにも覚えがあった。守護聖になる前、軍に所属していたときに感じていたものだった。そう、戦場に赴く前の緊張感と同質のものだった。

オスカーは両脇に立つ2人に目で頷くと、館へ入っていった。

 

 

 

館の中は娼館とは思えなかった。一流の高級ホテル、そんな感じだった。ただ、ロビーと思われるところに男しかいないことを除けば。

オスカーたちは真っすぐにフロントと思しき所に向かう。応対に出た男の態度も一流ホテルのフロントマンを思わせるものだった。それだけでこの娼館の格式が判る。この惑星の中でも最高級に属する娼館なのだろう。

「ご指名はございますか」

男はにこやかに対応する。初見の客の場合、その日のメニューにセックスは含まれない、最低でも3回は同じ娼婦を遊んである程度金を使ってはじめて、正式に客となれる――と男はここのルールを説明する。態々そういったルールを設けているところがこの娼館の自負、プライドであり、ただ性欲を満たす為の場所ではないのだとでもいうように。

「女を買いに来たんじゃない。アンジェリークに会わせてくれ」

すぐにも詰め寄りたいのを抑えて、オスカーは努めて穏やかに男に言う。

愛する女性が売春婦のように扱われることが赦せなかった。いや、確かにアンジェリークは娼婦には違いなかった。リシャールもそれを認めていたし、オスカーも自分の目と耳でそれを知らされている。だが、自分が彼女を『買う』なんてことは出来るはずもなかった。話をするなら、そうすることが一番手っ取り早く邪魔も入らないことは判っていたけれど……。

しかし、男はオスカーの言葉の前半を無視する。

「申し訳ございません、お客様。彼女は店には出ないのです。他の女性ではいけませんか? こちらの女など……」

男はまるで商品を勧めるかのように言う。確かに女たちは彼らにとって商品には違いないのだが……。

「俺たちはアンジェリークに会いたいと言っているんだ。彼女を……売れと言っているわけじゃない!」

『彼女を売れ』……そう言ったとき、オスカーの胸に言いようのない痛みが走った。アンジェリークはこの数ヶ月……いや、彼女の時間では3年以上そうやって『物』として扱われてきたのだ……。

「彼女は通常の商品ではありません。しかるべき方のご紹介があり、こちらでも調査させていただき、お客様を選ばせていただいております。その上で事前にご予約いただかねばなりません」

男は慇懃な口調で言う。

彼女が別格であること、そして簡単には躰を許してはいないであろうことは判った。だが、男の言った『商品』という言葉に、オスカーは頭に血が上った。

「貴様……!」

オスカーはカウンター越しに男の胸倉を掴む。殴りつけようとしたそのとき、静かな、だが有無を言わせぬ迫力を持った声がオスカーを制した。

「ここでは他のお客様のご迷惑になります。どうぞ、こちらへ」

現れた男はアラン・バローだった。孤児院でアンジェリークを連れ去り、そしてアンジェリークの愛人だといわれる男……。

オスカーは無言でアランを睨みつけた。だがそれをアランは無視する。普通の人間ならオスカーの視線の強さに立ち竦んでいるだろう。だが、アランはあっさりそれを受け流していた。

アランは3人を目で促し、奥の自分の部屋へと招いた。

守護聖がこの星に現れたときから遅かれ早かれ、こういうときが来ることは予想していた。アンジェリークは自分の境遇を知られたくなくて、ああいった芝居をした。だが、それが巧くいかなかったのだ。キャスティングミスだ。

リシャールはアンジェリークを愛している。それがどれほどの想いであるかは、アランも知っていた。だから、彼を警戒していた。尤も、アンジェリークが彼を受け入れることは絶対にないと判ってはいたが。

リシャールはアンジェリークを思いやったのだろう。そして、何が本当に彼女を幸せにするのかを考えたのだろう。そして、彼らに真実を話してしまったに違いない。

(役に立たない男だ)

アランは心の中で吐き捨てる。それがアンジェリークの為にならないと判らないのか? 彼女を余計に苦しめるだけだと、何故判らないのだ。

自分の愛し方と違うのは判りきっていた。自分はアンジェリークを幸福にしてやりたいなどとは思っていない。そこまで驕ってはいない。彼女をこの境遇に突き落としたのは他ならぬ自分だ。そこから救い出そうとは思っていない。彼女が何を感じているか、そんなことはどうでもいい。愛されたいとも思わない。ただ、彼女を支配していたかった。彼女の全てをこの手に握っていたかった。

我が事とはいえ、こんな男に愛されてしまったアンジェリークが哀れになる。自分の愛は決してアンジェリークを幸福にはしない。アンジェリークを堕とし、共に堕ちていくだけの愛。そんな愛し方しか出来ない。

だが……それでも、彼女に無用の苦しみは与えたくなかった。それが自分以外の何物かによって齎されるものであれば、なおのこと……。

アランは3人に椅子を勧め、自分も彼らに向かい合うように座る。彼らが焦れているのを知りながら、メイドを呼び飲み物を用意させ、自分は葉巻を燻らせる。目の前のオスカーは明らかに苛ついている。それをアランは意地の悪い表情で眺めた。

メイドがお茶を給仕し下がっていったところでアランは漸く口を開く。

「アンジェリークにお会いになりたいとか? どなたのご紹介ですかな?」

わざとらしくアランは言う。本当の用件など判っている。

「彼女を返してもらう。彼女は……俺の婚約者だ」

オスカーはアランに殴りかかりたくなるのを必死で抑えて言った。

「それは承知しておりますよ、炎の守護聖様。ですが、正確には婚約者だった、と過去形で仰るべきでしょう」

アランは落ち着き払って応じる。その際にオスカーを守護聖と呼ぶことで、自分は全てを承知しているのだと暗に示唆する。

そのことにオスカーは更に頭に血が上る。カッとなって立ち上がろうとした彼の腕を、横からオリヴィエがやんわりと押さえる。

「それはパトゥ伯とやらの猿芝居のことを言ってるのかい? 彼は全部教えてくれたよ」

オリヴィエは常の彼らしからぬ、凄みを利かせた声で言う。

その内容にアランは舌打ちする。やはり、あの男では駄目だった。決して悪人ではない。どちらかというと善人だろう。だからこそ、アンジェリークが望まぬ方向へと事態を進めてしまったのだ。

「全て貴方がご承知だというのであれば話は早いですね。早急に彼女を解放してください」

リュミエールも常の彼からは想像できないほど強い口調で言う。言葉は依頼だったが、口調は完全に命令だった。アランがアンジェリークを解放することを拒めば、女王命令によってでも彼女を取り戻す、場合によっては王立派遣軍の実働部隊を動かしてでも。リュミエールはそう言っているのだった。

「アンジェリークが、帰りたいとは思ってないんですよ? それがお判りにならないんですか」

言葉は丁寧だが、明らかに侮蔑を含んだ声でアランは言う。自分が解放しないのではない。アンジェリークが解放されたがっていないのだ。

「実際、あいつは自分の意志でここにいるんだ。あいつを縛り付けていた借金はもうない」

それまでの口調を一変させてアランは言葉を継いだ。自分が脅迫してアンジェリークにこの仕事をさせた。だが、一億ギルの借金(元々は彼女自身の借金ではないのだが)を返し終わった後ここに残ったのはアンジェリークの意志だ。それが、仮令もうどこにもいけないから、という消極的な理由であったにしても。

「あいつはここに自ら望んで居るんだ。あんたの所に帰りたければ帰ることだって出来たんだ」

勿論、アンジェリークが帰りたいと願っていたことは知っている。けれど、彼女がそれを、娼婦であったがゆえに諦めたことも。

アランは真実を彼らに伝えている。アンジェリークの心情は説明していないけれど、だが、彼女の立場を考えれば、彼らにもそれは容易に想像がつくはずだ。

しかし、オスカーたちはそれでも彼女を返せと言う。

オスカーとて、アランの言わんとしていることが判らないわけではなかった。だが、彼女自身からはっきり拒絶されない限り……『愛していない』と言われない限り引き下がるつもりはなかった。そして、仮令そう言われたとしても、彼女をこのままにしておくことなど出来るはずもない。

「俺が何を言っても聴く耳を持たないようだな。……判った。会わせてやる。あいつが帰ると言ったら、返してやろう」

アランは溜息をつく。アンジェリークが自ら帰りたいと言うことなど有り得ないことを十分に承知した上でそう言った。アンジェリーク自身に拒絶されなければ、いつまでもここで押し問答することになるだろうから。尤も、それで簡単に諦めるような男たちとも思えなかったが……。

アランは仕方なしにデスクの上の電話をとり、アンジェリークを呼び出す。守護聖たちが来ている、と。電話の向こうでアンジェリークが息を呑むのが判った。

アランが電話を切ってから数分後、アンジェリークが現れた。だが、アンジェリークは守護聖たちを見ようとはしなかった。

「リシャールがばらしちまったらしい。守護聖様方はお前を返せと仰ってる」

アランから連絡を受けた時点でそうだとは思っていた。アンジェリークは溜息を1つ漏らす。

「やっぱり人のいいお坊ちゃんだったのね。役に立たない人」

その言葉と口調にオスカーたちは驚きを隠せなかった。アンジェリークがこんな言葉を発するとは……。アンジェリークはそんな少女ではなかったはずなのに……。

オスカーたちの表情を横目で見て、アンジェリークは心の中で安堵の溜息をつく。自分が変わったと思わせることは出来たようだ。

リシャールには後でお詫びをしなければ……。きっとあの心優しい青年貴族はアンジェリークの為に良かれと思ってこういう選択をしたのだ。けれど、自分を思いやって悩んだに違いない。彼に余計な心労をかけてしまった。自分がお芝居を頼んだ所為で。

「わたしは帰る気はないわ。ここがわたしの生きる場所だもの」

アンジェリークはオスカーたちを見ずに、アランに向かって言う。彼らの顔を見る勇気が出なかった。けれど……不運にも彼ら3人は守護聖の中でも人間観察力の優れた人たちだった。そして、自分が愛した人、兄とも慕った人たちだ。彼らの顔を見てはっきり言うことが出来なければ、彼らは嘘を見破ってしまうだろう。

自分を凝視する3対の視線を痛いほどに感じながら、アンジェリークは彼らに向き直った。そして艶やかに――『娼婦アンジェリーク』の表情で微笑んだ。

「オスカー様、オリヴィエ様、リュミエール様にはご足労をおかけしましたけれど、わたしは戻るつもりはありませんの。ここで自分のやりたいことも見つけましたし、この星で生きていくことを選んだんです」

言葉の中に真実の想いを乗せてアンジェリークは言う。確かにアンジェリークはここで、バッカスで生きていく意味を見出してもいたのだから。自分の中にある本当の気持ちを言葉に混ぜることで前半の嘘を本当のことのように見せる。戻れるものなら戻りたい。けれど、こんな自分が聖地に戻ることは許されない……。

「態々こんな辺境までお越しいただいたのに、申し訳ないとは想いますけれど。お詫びといってはなんですが、十分にお持て成しさせていただきますわ」

アンジェリークは妖艶というしかない笑みを浮かべる。

「……芝居は、いいよ。アンジェリーク」

だが、オリヴィエは溜息をつくと落ち着いた声で言った。オスカーも自分を取り戻している、リュミエールも。

アンジェリークが現れてから3人はずっと無言だった。初めはアンジェリークのまとう雰囲気のあまりの変わりように言葉もなかった。外見も変わっている。愛らしい少女ではなく、妖艶な美女。この惑星一のクルティザンヌというのも頷ける女性。

けれど、変わってはいないのだ。彼女から感じるサクリアは。かつて天使と呼ばれていた頃と、変わってはいない。いや、より暖かな、優しいものへと変わっている。それを感じたから、ずっと無言で彼女を見つめていた。

これが他の守護聖なら騙せたかもしれない。けれど、彼女と一番近しい所にいた自分たちは騙せない。アンジェリークもそれを知っていたからこそ、初めは目を合わせようとはしなかったのだろう。そして、それでは自分たちを欺けないと思ったから、敢えて正面から自分たちを見つめたのだ。『娼婦』の仮面を被って。

けれど、その目を合わせる瞬間、ほんの一瞬、アンジェリークの瞳に揺らめいた光。哀しみや、諦めや……そしてオスカーへの愛しさ、それが揺らめいた。

「アンジェリーク。君の本当の言葉を聞かせてくれ」

オスカーは優しい声で、けれどどこか切なげな声でアンジェリークに言う。全てを見透かすかのような、蒼氷色の瞳はアンジェリークを見つめる。

オスカーの瞳に見つめられて、アンジェリークの背筋に震えが走る。そう……5年前も彼は自分をこうして見つめてくれた。氷のような蒼。けれど、それが本当は高熱ゆえの蒼い炎の色なのだということをアンジェリークは知っていた。変わらずに彼は自分を見つめてくれている、真剣な眼差しで……。5年も経っているのに。

5年……? 違う。彼らには1年も経っていないのだ。自分は変わった。境遇は勿論だが、もう二十二歳になっている。そう……オスカーと同じ年になっているのだ。けれど、目の前にいる彼らは自分が飛空都市にいた頃と変わっていない。

「オスカー様……あのとき、聖地にご一緒していればよかった……」

アンジェリークの翠の瞳が哀しげに揺らめく。

「でも、わたしは主星に戻って、今、ここにいます……。5年という時間が過ぎて……その分、オスカー様と隔たってしまったんです」

そう、自分はオスカーと離れて5年を過ごした。オスカーへの愛が失われることはなかったけれど、あの頃と同じ想いではない。あの頃……2人で共に過ごしていた頃に育んでいたものとは違っているのだ。けれど、自分と離れて半年しか経っていないオスカーの愛はあの頃のままだろう……。

オスカーは寂しげな表情のアンジェリークに言葉が出なかった。彼女が何故、突然そんなことを言い出すのか判らなかった。心変わりした、そういうことなのか? だが、彼女の表情から、そんなものは読み取れない。だが……あの瞳の色は? 自分を求めている、けれど、哀しい、諦めを含んだような、切ない眼差しの意味は……?

「もう、5年が経ったんです。わたしは……あの頃の『アンジェリーク・リモージュ』ではない……。……娼婦になってしまったことを除いても、わたしは変わってしまった……。わたしは貴方が愛してくださった天使アンジェリークではないんです」

アンジェリークはそう言って微笑む。その寂しげな微笑みにオスカーは言葉を失う。

「……お会い出来て嬉しかった……。もう二度とお会い出来ないと思っていたから……。でも、もう、お帰りください。わたしのことは……忘れてください」

そう言ったアンジェリークの哀しげな微笑みに、オスカーも、オリヴィエもリュミエールも胸が締め付けられ、言葉を発することが出来なかった。

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女王の来臨

オスカーたちは一先ず体勢を立て直す為にも娼館から辞去することにした。勿論それはアンジェリークの説得を諦めたからではない。当然逆である。なんとしてもアンジェリークを聖地へ、自分たちの世界であり本来彼女がいるべき世界へ連れ戻す為に一旦退いて見せたに過ぎない。

だが、アンジェリークの発した一言は彼らに思いもよらぬ衝撃を与えてもいた。彼らにとっては半年足らずの時間。しかしそれはアンジェリークにとっては5年もの歳月だったこと……。頭では判っていた。半年の間にアンジェリークは高校・大学を卒業してくると約束したいたのだから。

頭では判っていたはずだった。だが、実際に会って話すことにより、半年と5年という違う歳月を過ごした重みが明らかになった。表面的なものでいえば外見。自分たちは正装の衣装こそ変わったがそれ以上の変化はない。しかしアンジェリークはあどけない少女から妖艶な美女へと変貌していた。環境的なものも大きかったのだろうが……。持つ雰囲気も変わっている。かつては守ってやりたい、あどけなく素直で朗らかな少女だった。いうなれば砂糖菓子のような。けれど今は儚く寂しげな、それでいて妖しい危なげな雰囲気をまとっている。そしてそれは彼女の内面に変化があったゆえの変貌に他ならないのだ。

アンジェリークのオスカーを愛する気持ちが消えた、或いは無くなったとは思えない。彼女もオスカーを愛していないとは言わなかったし、彼女の心を彼女以上に察しているリシャールははっきりとアンジェリークはオスカーを愛しているのだと言っていた。また、オスカーたちを警戒しているアランの態度もそれを裏付けていた。

けれど、あの当時――彼女にすれば5年も昔――の無邪気で天真爛漫な少女のオスカーへの想いと、今の彼女の想いが変質していたとしてもそれは無理も無いことであっただろう。多感な時期に誘拐拉致され娼婦として生きるよう強要されたのだ。彼女自身に変化が起きていないはずは無かった。彼女が希望を持たず、全てを諦めるようになっていたとしても……。

それが判っても、しかし彼らは彼女を諦めることなど出来なかった。いや、それゆえにこそ――。

もし同じ立場にいたとしても、彼女が心から笑えていれば、幸せだったら、彼らは彼女を聖地へ連れ戻すことは断念したかもしれない。勿論、娼婦はなんとしてでも辞めさせたであろうが。

しかし、今の彼女は幸せではない。彼女自身は既に己の境遇を諦念と共に受け入れており、その為に不幸とも思ってはいないようだったが……。けれど、アンジェリークをそんな状態にはしておけなかった。

何も知らなかった天真爛漫な少女に戻ることはないだろう。けれど、かつての無鉄砲ともいえる直向さや、何でも良い方向へと考えるポジティブな思考、そして周囲をも幸せにするかのような心からの笑み――。そういったものを取り戻してほしかった。でなければ彼女は幸福にはなれないだろう。

彼らは彼女の笑みを取り戻す為にも、なんとしても聖地へアンジェリークを連れて行こうとしていた。

 

 

 

「では、行ってまいりますね」

リュミエールはそう言って微笑み、次元回廊へと消えた。アンジェリークのサクリアがこの惑星を包み込み、状態が安定しており回廊を開くことが可能になっていた。

リュミエールは一旦聖地に戻り、女王の判断を仰ぐことになったのだ。場合によってはロザリアその人に出馬してもらわねばならない。オスカーが説得は続ける。だが、アンジェリークのあの様子では彼女が首を縦に振ることはないように思えた。説得には時間を要するだろう。

しかし、説得に時間を要するということは即ち彼女がその間娼婦であり続けるということだ。それは看過できることではなかった。だから彼女の親友であるロザリアの力を借りようということになったのだ。女王が聖地を離れるなどもっての他とジュリアスは反対するだろう。しかし、アンジェリークの為にはそうすることが必要だった。

リュミエールは次元回廊を抜け聖地に戻ると、その足でロザリアの許に向かった。次元回廊を開いた時点で女王と内密に話をしたい旨は伝えてあった。アンジェリークの境遇が境遇だけに、仮令たとえそれが首座の守護聖であっても秘しておきたかった。

「ご苦労様です、リュミエール。……アンジェリークは見つかったのね?」

ロザリアは震えそうになる声を抑えて問いかける。リュミエールは秀麗な顔に苦痛の表情を浮かべ、是と答える。そして……彼らがアンジェリークを見つけた経緯、彼女の置かれた境遇、再会してからの一部始終を淡々と報告した。声が震えぬよう、また激昂しないよう、抑える為に淡々とした口調だった。

リュミエールの報告が進むにつれ、ロザリアの顔は色を失い青ざめ、体は小刻みに震えていった。最後には椅子の肘掛に縋り体を支えているような状態だった。

「やはり……あのとき主星に帰すのではなかった……!」

それは彼女の行方不明を知ってから何度も後悔していたことだった。そして今ほど強くそれを思ったことはない。出来得ることなら半年前、彼女が飛空都市を去る前に時間を戻し、自分たちの歴史を変えてしまいたかった。……けれど、女王とはいえ、それは赦されないことだった。いや、女王であるがゆえに。そして、何よりもアンジェリークが何度同じ時を繰り返そうとも選択を変えるとも思えなかった。

「今もオスカーが彼女を説得しています。……けれど容易には行かないでしょう。だから、ロザリア、貴女にお願いしたいのです。彼女と共に女王を目指し宇宙を救った貴女に」

リュミエールは敢えて『ロザリア』と呼んだ。女王ではなくアンジェリークの一番近しいもの、恐らくオスカーでも割り込めぬ深い絆を持つ親友としてアンジェリークを説得してほしいのだと。

ロザリアはその言葉に頷くと、女官に自分の不在を隠すこと、誰も取り次がないことを厳命した上で、リュミエールと共に次元回廊へと消えていった。

 

 

 

一方、オスカーは再びアンジェリークを訪ねていた。娼館の一室、貴賓室とでもいうような豪奢な部屋だった。オスカーは彼女と会う為に彼女を『買った』のだ。勿論、それには抵抗があった。だが面会を申し入れてもアンジェリークは頑なに拒否した。けれど会って話をしないことにはどうにもならない。だから彼女が逃げないようにリシャールを通して彼女が逃げないようにして彼女と会う時間を作り出したのだ。

オスカーの姿を見るとアンジェリークはそのまま踵を返そうとした。

「一旦受け入れた客を拒否するのか?」

オスカーは意図して冷たい声で言った。そうすれば彼女がここに留まるだろうと思ったのだ。実際彼女はそうした。彼女と話をしなければ進展はない。だからこそ買った。しかしその事実はオスカーの胸に言いようのない痛みも与えていた。アンジェリークの日常を見せ付けられたような気がした。こうして彼女は数多の男たちの腕に抱かれ、身を任せたのだ……。アンジェリークを汚いと思う気持ちは微塵もない。彼女を蔑む気持ちも、厭わしく思うことも。ただ、哀しかった。そして、彼女を抱いたであろう男たちに、彼女をこんな境遇に貶めたシャルルとアランに抑えきれぬ怒りを覚えた。

「わたしを……買ったんですものね。お好きになさればいいわ」

アンジェリークはそう言って微笑む。『娼婦アンジェリーク』の表情で。そして徐に服を脱ぎ始める。オスカーはそれを止めると彼女をソファに座らせる。

「抱く為に買ったんじゃない」

「ここは娼館で、わたしは娼婦です。……それが仕事だわ」

アンジェリークは努めて冷静に振舞おうとした。心の中では逃げ出したいと思っても、出来なかった。オスカーは納得しない限り何度でも来る。けれどそれはアンジェリークにとって苦痛以外の何物でもなかった。こんな穢れた自分を見せたくなかった。彼にとっていつまでも『天使』で『俺のお嬢ちゃん』と呼ばれた、可愛い清らかな少女でありたかった。

だが、オスカーに諦めさせるには彼が愛した天使はもういないのだと納得させなければならない。それには今のままの彼女――娼婦としての仕事をしてみせる他なかった。

「俺が買った時間だ。どう使おうと俺の自由だ」

オスカーは強い口調で言う。アンジェリークに反論を許さないように。しかしアンジェリークを見つめる瞳は彼女を包み込むように優しかった。

それからオスカーは適度に距離をおいてアンジェリークの隣に座り、話し始めた。

彼女が去ってからの聖地の出来事。ロザリアの、守護聖の様子。アンジェリークがその情景を想像できるようにゆっくり、細かく。彼女が愛した世界を、人々を想起させるように。

そして、事あるごとにロザリアや守護聖が『ここにアンジェリークがいたら』と言っていたこと。皆が1日でも早い彼女の帰還を願っていたこと。

「皆、君を待ってるんだ、アンジェリーク。俺だけじゃない」

そう言ってオスカーは言葉を切った。オスカーの言葉がアンジェリークの中に染み透るのを待つように。だが、アンジェリークは静かに首を振った。

「皆様が待ってらっしゃるのは5年前のわたしですわ。明るくて能天気で、無邪気で無鉄砲で……。今のわたしではありません」

今の自分はあの頃とは全く違う。何もかも、そう住む世界まで変わってしまった。こんなことにならなければ戻れただろう。5年経っても自分は然程変わることなく、年相応の分別と落ち着きは身につけたであろうが、気持ちの持ち様や考え方までは変わらなかっただろう。その自分であれば喜んで、当然のこととして聖地へ、オスカーの許へ戻っていた。

しかし、今の自分は違う。もう戻ることは出来ないし、あの頃とは全く違う女になってしまっているのだ。

「オスカー様、わたしのことは忘れて聖地へお戻りください」

アンジェリークが哀しげに微笑んだ。それにオスカーが口を開こうとしたときタイムリミットが来た。アンジェリークはオスカーが何かを言うよりも早く部屋を去り、オスカーはアランによって丁重に追い出されてしまったのである。

 

 

 

オスカーがホテルの戻ると、ロザリアが聖地から来ていた。オスカーはロザリアに今日のアンジェリークとの対面の内容を告げ、翌日以降の対策を練った。

ロザリアはアランに対しては有無を言わさず女王命令を発動することにしていた。その為の正式な命令書も用意済みだった。そしてアンジェリークには――。

 

 

 

オスカーが訪ねてきた翌日、アンジェリークはアランに呼び出された。

「これが最後の仕事だ。ホテル・モンパルナス1085号に行け」

「最後って……どういうこと?」

だがアンジェリークの問いにアランは応えない。ただ行けば判る、そう言うだけだった。無表情だったが、その目には憤りと哀しみ、そういった複雑な感情が絡み合っていた。

アンジェリークを呼び出す前にオリヴィエが来たのだ。女王の正式な命令書を持って。それにはアンジェリークを解放すること、彼女に関する全ての記録を抹消することが命じられていた。

如何なアランとはいえ、女王命令には逆らえなかった。女王はこの宇宙の全てを司る、謂わば神にも等しい存在だった。アランもそれに逆らうことは出来なかった。ただ、命令書には彼女を返せ、とはなかった。必ずしもこの命令に従うことがアンジェリークを失うことには繋がらない……アランは自分にそう言い聞かせて命令に従ったのであった。

アンジェリークは釈然としないまま、指定されたホテルへと向かった。

 

 

 

アンジェリークが扉を叩き来意を告げると中から入室を許す声がした。その声にアンジェリークは驚く。懐かしい声。しかしここにあるはずのない、あってはならない声だった。果たして扉を開けたアンジェリークが見たものは懐かしい親友の姿だった。

アンジェリークが何かを言うよりも早く、ロザリアは嬉しそうに笑い、アンジェリークに抱きついた。

「やっと会えた! 嬉しいわ!!」

ロザリアの目には涙が光っていた。アンジェリークは言葉が見つからず呆然とロザリアを見つめる。

「……どうして黙ってるのよ。わたくしを忘れたなんて言うんではないでしょうね」

「……覚えてるわ、ロザリア」

「そう、それならいいわ。……やだ、貴女、随分色っぽくなっちゃって……ずるいわ」

ロザリアは少し拗ねたような口調で言う。

「でも五年も経ってるんですもの、当然ね」

そう言って艶やかに笑うと呆然としたままのアンジェリークに椅子を勧める。

「何でわたくしがここにいるのかって顔してるわね。決まってるでしょ。貴女を迎えに来たのよ」

そう言ってアンジェリークを見つめる。

「貴女のことはリュミエールから聞いたわ。全てね。でも、それを承知の上でわたくしは貴女に戻って来てほしいの」

真剣な眼でロザリアは何かを言おうとしたアンジェリークの口を封じる。

「もっと早く貴女の苦境に気づけなかった自分が不甲斐ないわ」

哀しそうにロザリアは眉根を寄せる。

「だから、貴女がそんなわたくしを許せないって言うなら仕方ないわ。貴女が戻ってこなくても」

「そんな、許せないなんて……」

心外だというようにアンジェリークは言う。今の自分の状況は自分が招いたことであり、ロザリアには一欠片の罪もないのだから。

「だったら戻ってきてくれるわね? わたくしたち約束したでしょう? 一緒に宇宙を支えようって。貴女だけよ、わたくしを判ってくれるのは」

寂しそうにロザリアはアンジェリークの情に訴える。そしてアンジェリークが反論する前に再び口を開く。

「貴女はこの5年で色んなものを見、聞き、知ったわ。聖地にいたわたくしたちが知り得ない人々の苦しみや、色んなことを。それをこれから宇宙の為に活かしてほしいのよ。あの頃の貴女じゃなく、今の貴女だからこそ出来ることをしてほしいの。今の貴女だからこそ、わたくしは戻って来てほしいの。わたくしの隣でわたくしを支えて頂戴」

ロザリアは真摯に訴えた。ただひたすらアンジェリークに、親友に戻って来てほしい、傍にいてほしい、それだけを願って。

そして何よりも……。彼女を今のままにはしておけない。彼女は既に娼婦ではない。ロザリアの命令をアランは承諾したのだから。彼女は解放されたのだ。だとすれば一刻も早くこんな忌まわしい――少なくともロザリアにとって――星からアンジェリークを連れ出したかった。

「貴女は半年前……ううん、貴女にすれば5年前、必ずわたくしの傍に戻ると約束してくれたでしょう? わたくしを支えてくれるって。わたくしが孤独にならないように側にいてくれると言ったでしょう。この半年、わたくしは寂しかった。貴女がいなくて、声を聞けなくて。ただ1日も早く貴女が側に戻ってくる日が来ればいいって、そればかりを願っていたのよ」

そう言うロザリアをアンジェリークは見つめた。ロザリアは変わっていない。いや、女王となってそれらしい威厳は備えているが、目の前にいるのは自分の親友である17歳の少女だった。そう、僅か17歳の少女なのだ。

今の自分は22歳になっている。彼女よりも大人になった。そして自分の意志に関わらず様々なことを経験し色んな人と出会った。社会的に高い地位にある人々とも。某国の皇太子、大企業のトップ、惑星の元首や王――そういった人々。彼らは心を休める為にアンジェリークの許を訪れた。支配者であるゆえの孤独を癒す為に。彼らは自分よりも年上の男性だった。けれどそれは自分を必要とするほど深い孤独だった。

況してやロザリアは17歳の少女に過ぎない。大貴族令嬢、生まれながらの次期女王候補として育てられたとはいえ、それ以前は普通の女子高生だったのだ。それが今では唯一絶対にして神聖不可侵な宇宙の支配者。人でありながら人ではなく、神として崇められる存在。

ロザリアがその気丈な精神でその孤独を抑えていることは容易に想像がつく。そしてそれゆえの孤独の深さも。

「判ったわ、ロザリア。聖地へ行きます。貴女の側へ」

アンジェリークは微笑んだ。それは子を見守る慈母のような微笑みだった。

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帰還と出立

アンジェリークの帰りを待ちわびるリモージュ家に、彼女が見つかったとの連絡が入ったのはオスカーたちの来訪から1ヶ月近く経ってからのことだった。

ノックに応えてドアを開けたカティスの目の前に懐かしい少年たちが立っていた。

「カティス様……」

マルセルは涙ぐみ、感激いっぱいの表情をしている。カティスは我が子を見るような表情でマルセルを見た。

「あ~お久しぶりですね~カティス」

自分が聖地を去ったときと全く変わらぬのんびりした口調でルヴァが言う。懐かしさにカティスも目を細めて笑いを返す。マルセル、ルヴァ、ゼフェル、ランディ。少年3人とそのお目付け役というところか。

「まぁ、入れよ」

用件はアンジェリークのことだろう。幾分緊張しながらそれを表には出さず、カティスは4人を招じ入れた。

居間に移ると、ルヴァは真っ先にカティスが待ち望んでいた報告をした。アンジェリークが見つかりました、と。

「今ね、オスカーとリュミエールとオリヴィエが迎えに行っていますよ」

まだ彼らはアンジェリークがどういう状況にあるのかは知らなかった。アンジェリークのサクリアが発見され、オスカーたちがバッカスに向かった。そして彼女が見つかった、そう連絡を受け(その連絡は孤児院でアンジェリークに会った夜に入ったものである)すぐさま主星のリモージュ家へとやって来たのである。

「そうか……そうか……」

それきりカティスは言葉を失ってしまう。喜びで何も言えなかった。娘が生きていると信じてはいた。けれど確証はなかった。それが今、彼女の生存と所在が明らかになったのだ。喜びが全身を満たす。もっと早く聖地に助けを求めていれば……そういった後悔もあったが、それよりも喜びのほうが大きかった。

「良かったですね、カティス様! 僕も早く大好きなアンジェに会いたいです。もう大人になってるんですよね? 楽しみだなぁ」

うきうきとマルセルが言う。

「尤も、すぐオスカーのおっさんが掻っ攫っていくけどな」

ゼフェルが茶々を入れるように言う。だが彼の声も喜びを含んでいた。

「そうだな。アンジェによれば、オスカーは俺にちゃんと挨拶したいと言っていたそうだし……。奴が俺に『お嬢さんをください』って言うわけだ。楽しみだな」

カティスはそう言って笑う。彼らが見慣れている茶目っ気たっぷりの優しい笑顔だった。彼らはオスカーがそう言う場面を想像し、大笑いするのだった。カティスにとってそれは娘の誘拐以来3年ぶりの心からの笑いだった。

 

 

 

明日はアンジェが戻ってくるという日に、一足先にオリヴィエがリモージュ家を訪ねた。来訪の目的はアンジェのこれまでのことを話すことだった。

居間に家族が全員集まっていた。実際のところ、オスカーもオリヴィエもこのことを告げるべきかどうか迷っていた。告げずに済めばそれがいいと思っていた。カティスたちは傷つかずに済むし、アンジェリークも知られたくはないだろう。

だが、知らないことによって彼らは彼女を傷つけてしまうかもしれない。彼女のこれまでを知ろうとして不用意に彼女の心の傷を抉ってしまうかもしれない。それだけは避けたかった。それに彼らには家族として知る権利があり、義務があると思ったのだ。

オリヴィエから全てを告げられたとき、彼らは顔色を失い、言葉を失っていた。年若い――未だ10代の――アンリには酷過ぎるかとも思った。が、このマルセル似の青年は姉の誘拐という悲劇を経て年齢不相応の優しさと心の靭さを持っていた。それは他の兄弟にもいえることだった。

実際に接したアンジェリークの様子、アランから聞きだした誘拐から現在に至るまでの経過、それらをオリヴィエは冷静に告げる。だが、彼女を売ったのがシャルルであることは言わなかった。知れば彼らの憎悪はシャルルに向かうだろう。だが、あの男には彼らに憎まれる価値はない。あんな男の為に彼らの心に憎悪を植え付けたくはなかった。既にシャルルには女王府司法局の手が伸び、拘束されていた。人身売買という卑劣な犯罪、しかし多くの女性たちの身の上に関わることだけにそれは内密に処理され、彼はナドラーガへの流刑が決まっていた。彼に売られた女性たちは救出され、彼女たちは望むままに故郷へ帰り、或いは新世界へと旅立っていった。中には留まることを望んだ女性もおり、それは本人の選択に任された。

全ての女性――シャルルに関わらない――を救うことは出来なかった。シャルルの為に追いやられた女性たちの心を癒すことも。

人間という欲深き生き物がいる限り、こういった裏社会はなくならない。性風俗産業も『産業』として存在し続ける。出来うる限りそういった社会が存在しなくなるよう、人の心を導いていくしかない。けれど、それでも完全にこの宇宙からそれを無くすことは不可能だろう。人の歴史と共に始まった世界最古の産業なのだ……。

「よくお話くださいました、オリヴィエ様」

いち早く自分を取り戻したジョルジュがオリヴィエに頭を下げる。

「わたしたちはただ……妹が安らげるように見守ります」

アントワーヌも微笑んで言う。未だその微笑みは力のないものではあったが……。

「うん、そうしてあげて。陛下のご判断でアンジェリークは暫く実家で静養した方が良いってことになったんだ。聖地にあの子の館を準備するまでの間……少なくとも1ヶ月はね」

いきなり聖地へ連れて行くよりは家族の許へ。彼女が一番安らげるはずの場所へ。それがロザリアの、そしてオスカーたちの判断だった。

「……あの子が聖地へ戻るときにはオスカーの館の入ることになってた。あの子とオスカーの仲は周知だったしね。でも……」

アンジェリークはそれを拒否した。聖地へ行くことを決めたアンジェリークはオスカーに告げたのだ。全てを白紙に戻してほしいと。ずっと大切にもっていたオスカーから贈られた婚約指輪も返した。そして、オスカーはそれを受け入れたのだ。

「今のあの子は傷ついた小鳥だ。安全な巣の中でその傷を少しでも癒してほしい」

何の心配もない安らげる場所で……。

「わたしたちさ、あの子が羨ましかったんだ」

オリヴィエの言葉は何の関係もないことのように思えた。カティスたちは不思議そうにオリヴィエを見る。

「あの子、すごく素直で前向きで愛らしくて……最上級の愛情を惜しみなく与えられて育ったっていうのがよく判った。だから……そんな愛情を与えていた家族の許でならあの子も安心できるだろう?」

傷を癒すことは、本当はアンジェリーク自身にしか出来ない。本当の意味で彼女が本来の自分を取り戻す手伝いが出来るのは、彼女が愛する男以外にはいないだろう。けれど、心が弱っているアンジェリークに今一番必要なのは、この愛に溢れる父親と兄弟のはずだ。

「判ってる、オリヴィエ。俺たちはあいつに、自分が紛れもなく俺たちに愛し育まれた娘であり姉妹であることを思い出させ、感じさせるさ」

豊かさを司る緑の守護聖。それを感じさせるような深い表情でカティスは応えた。

 

 

 

アンジェリークはオスカーとロザリアに伴われて帰宅した。3年ぶりに対面する家族。懐かしさと愛しさが胸を満たす。

「お帰り、アンジェリーク」

カティスはそう言って微笑むとアンジェリークを抱きしめた。

「パパ……」

アンジェリークは暖かな父の胸に顔を埋める。漸く帰ることが出来た。この温かな場所へ。二度と生きて帰ることはないと思っていた。それでもずっと帰りたかった。この父の、兄たちの腕の中に。

アンジェリークの中で張り詰めていたものがプツリと切れた。堰を切ったように涙が溢れた。

「パパ……パパ……」

「ああ、ここにいる、もう何の心配も要らないぞ」

カティスは幼子をあやすようにアンジェリークの髪を撫でながら優しく応える。アンジェリークを安心させる為に。

カティスはアンジェリークを抱き寄せたまま、彼女の部屋へ連れて行った。彼女の部屋は3年前のまま、そのとき彼女が出て行ったときのまま残されている。置かれていたものはそのままの位置で、あたかもあの日の続きがそのまま始まるかのように。

カティスがアンジェリークを連れて行くと、兄弟たちはロザリアとオスカーを居間へと案内した。

「お久しぶりです、リモージュ先生」

ロザリアはそうジョルジュに挨拶する。彼女はスモルニィ時代に彼の教え子だったのだ。

「本当に」

ジョルジュは感慨深げだった。彼女は確かにとても優秀な生徒だった。その彼女は今女王となり、そして愛妹の親友となっていた。そう、妹の親友であるということ、それが何よりも重要だった。

「妹を探し出してくださったことに感謝いたします、陛下」

心からの謝意を兄弟たちはロザリアに向ける。3年の間どれだけ探しても見つからなかったアンジェリーク。その妹が漸く自分たちの許へ帰ってきたのだ。

どんなに絶望視されても決して諦めはしなかった。けれど、それでもいつも心には不安がいっぱいだった。生きてさえいてくれれば、それだけでいい。そう願っていた。

「アンジェリークに今必要なのはご家族の愛情ですわ。本当はすぐにでも聖地へつれて帰りたかったのです。わたくしには彼女が必要だから」

アントワーヌの淹れたお茶を飲み、一息をついてからロザリアは言った。自分に言い聞かせるように。

アンジェリークのいない半年の間、ロザリアは孤独だった。守護聖たちがいたとはいえ、彼らは臣下であり異性だった。ロザリアにとってアンジェリークはなくてはならない存在だった。共に女王候補として試験を受け、女王を救った。この世に2人だけの天使。その片割れ、自身の半翼。それがアンジェリークだった。半年経てばその半身が戻ってくる、それだけが彼女の孤独を支えていた。

なのに自分はアンジェリークの苦境に気づかなかった。リュミエールから報告を受けるまでアンジェリークは主星で楽しく生活しているものだとばかり思っていた。それはアンジェリークの恋人であるオスカーも、他の守護聖も同様だった。

ロザリアのサクリアの状態を如実に反映するのはフェリシアだった。ロザリアが心を乱せばフェリシアも乱れた。ロザリアの状態はダイレクトにフェリシアに影響した。だから、エリューシオンを見て、アンジェリークの状態を推測してもいたのだ。

この半年、エリューシオンは至って平穏だった。災害もなく、凶作に見舞われることもなく、人心も安定していた。だから、アンジェリークは幸福に過ごしているのだと思っていた。だが、現実は違った。アンジェリークが全てを受け入れたがゆえに……諦めたがゆえにエリューシオンは安定していたのだ。

自分はアンジェリークの苦しみや悲しみに気づくことも出来なかった。半翼といい、親友といいながら。女王でありながら……。

だから、ロザリアはすぐにアンジェリークを聖地へ伴うことを諦めた。何も出来なかった自分は今のアンジェリークを救うことも休ませることも出来ない。今は彼女が最も自分でいられる、自分を偽る必要のない家族の許へ帰すべきなのだ。

「妹もそう言っていただけて嬉しいでしょう。ですが、わたしたちはあれが本当に望まぬ限りあれを聖地にやるつもりはありません」

ジョルジュはきっぱりと言う。5年前も反対したかった。けれどあのときアンジェリークはオスカーという伴侶を選びロザリアと共に宇宙を支えることを心の底から望んでいた。だから反対は出来なかった。けれど今回は状況が違う。だから、敢えてジョルジュはそう言った。

「ええ、判っています。わたくしも無理強いするつもりはありません。彼女が主星に戻ってくれただけでも良いのです」

ロザリアは寂しげに微笑んだ。

「出来れば彼女に聖地へ来てほしい。彼女が望んだら……そしてご家族が納得されたら、そのときに聖地へ来てくれればいいのです。わたくしは待ちますから……。月に一度は連絡を入れますわ」

ロザリアはそう言うと、オスカーを促し、聖地へと戻っていった。

 

 

 

それからリモージュ家では家族6人での生活が始まった。

アンジェリークは外に出ることを嫌い、殆ど外出しなかった。時折父や兄を手伝って庭で草木の世話をする程度だった。

次兄アントワーヌと共に家事をし、長兄ジョルジュの研究の手伝いをし、三兄や弟の話を聞き、そうして穏やかな時を過ごしていった。

夜中に突然飛び起きることもあった。この穏やかな日々は夢ではないのか、本当はあの星で希望もないまま、ただ生命の終わる日だけを望んで過ごしているのではないか、と。

けれど、そんな不安を感じると誰か(大抵はカティスかアントワーヌ)が彼女の部屋にやってきて、彼女が再び眠りに着くまで手を握ってくれていた。

家族は何も訊かなかった。この3年どうしていたのか、どこにいたのかも一切。ただ昔と変わらずアンジェリークを娘として、妹として、姉として愛してくれた。包まれていることをアンジェリークは感じ、自分という存在は昔と変わってはいないのだと安心した。どんな自分になっていても彼らの家族なのだと。そう安心したことにより、アンジェリークの心は次第に穏やかになっていった。

1ヶ月を過ぎる頃にはアンジェリークが真夜中に不安を感じて目を覚ますこともなくなり、笑顔も徐々に取り戻していった。

 

 

 

「本当に行くのか?」

カティスは何度目かの念を押した。

「ええ、行くわ」

アンジェリークは頷く。

「本当は……不安もある。今のわたしは昔とは違うから……」

こんな穢れた体は聖地には相応しくない……アンジェリークはそう思っていた。あの美しく清浄な地に自分は相応しくない。そして、変わってしまった自分をその住人たちは受け入れてくれるだろうか? ロザリアは今の自分だからこそ戻って来てほしいと言ってくれた。5年前ではなく変わった今のアンジェリークだから出来ることもある、と……。

「でもね、ロザリアを放ってはおけないの。とても寂しそうだった……」

自分に戻ってきてくれと告げたときのロザリアを思い出す。ただ、ロザリアの側にいる為に、彼女の孤独を少しでも軽減する為にアンジェリークは聖地へ赴こうとしていた。

「お前がそれを望むなら反対はしない。でも、いつでも戻って来ていいんだからな」

愛娘の決意が固いことを見て、カティスはそう言った。

そして、リモージュ家に三度目の別れのときがやってきたのだった。

願わくばこれが今生の別れとなってくれますように。父も兄弟もそう思った。寂しくないといえば嘘になる。けれど、アンジェリークが彼の地で再び幸福を得られるのであればそれで良い、とそう思った。そう願ったのである。

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聖地への帰還

アンジェリークが聖地に赴く旨をロザリアに伝えて以降の聖地側の対応は素早かった。気が変わっては大変、とばかりに連絡した翌日にはもう出迎えが来たのだ。カティスたちにしてみれば苦笑を禁じえなかった。

聖地側ではアンジェリークの受け入れ準備はとうに出来上がっており、アンジェリークからの連絡待ちだったのだ。女王宮に近い閑静な地にアンジェリークの館は設えられ、執事・侍女・従僕・コック・御者に馬丁などといった使用人はロザリア自らが人選に当たった。執事と筆頭女官についてはカタルヘナ家から信の置ける者を呼び寄せ、その他の者についてはカタルヘナ家をはじめとする大貴族邸からの推薦状を持った者の中から厳選するという念の入れようだった。

また補佐官の執務を補佐する秘書官には筆頭秘書官ミッシェル・マンドランをはじめ10人の有能な職員が選ばれた。彼らは王立研究院をはじめとする各研究機関、或いは女王府内の各部署から選ばれた専門家たちだった。彼らの有能さはもとより、その人柄に重点を置いて選ばれた。守護聖の秘書官たちは職務上、破滅的な欠陥がない限りは人格は重視されず、ただ能力においてのみ選ばれていたが、アンジェリークの秘書たちは能力よりも人柄を重視された。その中でも王立研究院出身の筆頭秘書官ミッシェル・マンドランは誠実で温厚なところをロザリアに見込まれ選ばれた青年であった。

他にも王立派遣軍からの推薦を受け、オスカーとオリヴィエが己の眼と腕で選りすぐった侍従武官隊もあった。尤もアンジェリークの性格からしてそういった組織が自分の為にあることを受け入れるとは思えなかったから、隊長であるリカルド・マクドールが表向きは護衛として付き従うことになった。他のものは隊長のサポートと影供がその任となる。

アンジェリークの為に聖地に招かれた人々。彼らに共通しているのは女王候補時代のアンジェリークを知らないということだった。アンジェリークと一面識もない者が選ばれえた。勿論意図的に。

飛空都市で女王候補たちの特別寮でメイドをしていたシャルロッテはアンジェリークの私邸でメイドを探していると聞いて自ら仕えたいと望んだ。彼女はアンジェリークを妹のように可愛がっていたし、身近にいた者として彼女に尊敬の念を抱いてもいたのだ。だが、ロザリアの意図に反することから却下された。

だが、アンジェリークに仕えることになった者たちのうち、2人だけアンジェリークをよく知る者がいた。行方不明になって以降の彼女を知る者たちだった。辺境星域行政を担当する秘書官のラズロ・リビエールと侍従武官のロベルト・ファロアだった。ラズロはパトゥ伯リシャールの幼馴染で腹心の秘書であり、ロベルトはアラン・バローが信頼するボディガードだった。アンジェリークの事情を鑑み、いざというときリシャールやアランと連絡を取る為にもロザリアとオリヴィエの判断で召致されたのである。ロザリアからの要請を受けて2人は自分の腹心の部下を聖地へ送ったのだ。尤もその際にアンジェリークと顔を合わせたことのない者を選んではいたのだが。アンジェリークを不要に傷つけぬ為に。彼女にしてみればバッカスの全てを忘れたいだろうからと。少なくともアンジェリークが本当に落ち着くまでは彼らの経歴は伏せられることになった。

 

 

 

こういった種々のアンジェリーク受け入れの準備を聖地では進めていたのであるが、態々アンジェリークの私邸が用意されたことを不思議画に思っている守護聖もあった。中堅組以外の事情を知らぬ6人は口に出すか出さぬかは別として、その事実に不審を抱いていたのだ。

元々アンジェリークは聖地に戻る際にはオスカーの館に入ることになっていた。彼の妻として。しかし今、彼女には別の館が用意されている。つまり彼女たちの関係は破綻したとしか思えなかった。だが、ロザリアもオスカーも何も語らず、オスカーは率先してアンジェリークの受け入れ準備を進めてさえいた。

アンジェリークの事情は一切守護聖には明かされなかった。彼女が誘拐されたことは皆知っていたが、それ以上のことは明かされなかった。ただ、犯罪に巻き込まれ辛い思いをしたのだ、それだけが守護聖たちに知らされたのである。アンジェリークに最も近しいロザリア、オスカー、オリヴィエ、リュミエール。この4人だけの秘密だった。だがそれでいいのだ。アンジェリークの知られることは望まないだろうし、守護聖の中で精神的成熟度の最も高い3人が知っていれば彼女を守ることが出来る。彼らはそう考えていた。

 

 

 

アンジェリークを迎えに来たのはオリヴィエだった。オスカーではないことにアンジェリークは安心すると共に寂しさも感じていた。

(……婚約は破棄したのだもの。寂しいって思うなんて我侭だわ……)

だがそうは思ってもやはり寂しく感じてしまうのだ。

「ホントはさ、オスカーが来るはずだったんだけど、アクシデントがあってね」

アンジェリークの心情を察してオリヴィエが説明する。実際直前までオスカーが迎えに行くことになっており、彼もその用意をしていたのだ、だがある星系において過剰に注がれた緑・鋼のサクリアの影響を受けた炎のサクリアが戦争を引き起こし、その対応の為、オスカー、マルセル、ゼフェルは聖地を離れることが出来なくなったのである。

「さ、皆あんたを待ってるよ。行こうか」

こうしてアンジェリークは『約束のとき』から数ヶ月遅れて聖地へと赴いたのである。

 

 

 

聖地へ着くと守護聖たちが待ち構えていた。全員(オリヴィエを除く)が謁見の間に揃い、そわそわしながらアンジェリークを待っていた。アンジェリークが現れると、彼らは表情に出す程度の差はあれ、嬉しそうに彼女を迎えたのだ。

「よく戻ってくれたわね、アンジェリーク。待っていたのよ」

ロザリアが玉座から親友に告げる。

「これから補佐官として誠心誠意陛下にお仕えいたします」

アンジェリークは跪き、女王への忠誠を誓う。けれどロザリアに向ける視線は温かな親友としてのそれだった。

アンジェリークの補佐官任命の儀式が済むと、守護聖たちは先を争うように彼女の周囲に集まった。

「アンジェ、綺麗になったね、びっくりしちゃったよ、僕」

「てめぇ、背ェ伸びやがったな」

「その……大人になったんだね。判ってたはずなのに驚いたよ。あんまり綺麗になってて……あはは」

年少組の守護聖は口々にアンジェリークに声をかけはしゃいでいる。かつて飛空都市では遊び仲間だった彼らだ。

少し離れた所で年長組はアンジェリークを見つめ、彼女が年相応の落ち着きを身につけ補佐官らしい女性となっていることに嬉しさと少しばかりの寂しさを感じていた。

更にそんな守護聖たちを離れた所から見つめているのが中堅組の3人だった。彼らは守護聖たちの様子を観察し、アンジェリークを連れ出すタイミングを計っていた。

「ハ~イ、そろそろいいかな? まだこれからアンジェリークはやることいっぱいあるんだから、話はあと~。これから先時間はいっぱいあるんだからさ。そろそろ解放してあげなよ」

頃合いを見計らってオリヴィエが割って入る。同時にオスカーがアンジェリークの手をとり守護聖の輪の中から連れ出す。

「秘書官たちとの顔合わせの後、後私邸に案内するよ。疲れているかもしれないが、大切だからな」

そう言ってオスカーはアンジェリークをエスコートする。

オスカーがアンジェリークを連れて行ってしまったことを年少組などは不満に思ったが、これからもずっとアンジェリークはここにいるのだと思い直し、彼らは解散して行った。

 

 

 

「ここが君の執務室だ」

オスカーがアンジェリークを案内したのは彼の執務室の向かいの部屋だった。アンジェリークの執務室の隣はオリヴィエ、その向かいはリュミエール、と事情を知る者たちで彼女の周りを固めてあった。その為に執務室の配置換えを行ったのだ。守護聖たちの中には不満を言い立てるものもあったが、ロザリアは女王の強権を発動、反論を許さなかった。が、事情を明かさぬまでも『アンジェリークの為です』という一言で守護聖たちはそれに従ったのであった。

 

 

 

秘書官たちとの顔合わせを終えるとオスカーはアンジェリークを私邸へと連れて行った。女王宮に最も近いアンジェリークの邸である。オスカーの邸ともそう離れてはいなかった。使用人たちとの顔合わせが終わると、オスカーはアンジェリークを今度は自分の私邸へと連れて行った。その頃には既に夕刻となっており、オスカー邸では2人の為のディナーが用意されていた。

聖地に来てからずっとオスカーと共にいた。それが苦しかった。だからアンジェリークはオスカーに謝意を告げ帰ろうとした。だがオスカーはそれを優しい強引さで押しとどめた。

ディナーの席でオスカーは敢えて個人的な話題は口にせず、彼女の秘書官たちのこと、各守護聖付の秘書官・副官たちの情報、力関係、人間関係など補佐官としての彼女に必要なことを語った。オリヴィエと並んで人間観察力に優れる彼の情報はアンジェリークにとっても有難いものだった。中堅の3人はそれぞれ守護聖になった年齢が比較的高い。オリヴィエなどは成人後の就任だった。その為彼らは他の6人に比べて人としての経験も豊富であり精神の成熟度が高かった。年齢こそ年長3人よりも下であるが人生の5~8割を聖地で過ごしている彼らよりも人としては成熟しているのだ。人間観察や人との付き合い方においてオリヴィエ、オスカーに勝る守護聖はいなかった。

食後のコーヒーが給仕され、仕事絡みの話も終わると沈黙が訪れる。そろそろアンジェリークも限界だった。オスカーと2人で過ごすことが。

食事の間も一度も正面から目を合わせることが出来なかった。かつては幸福だったオスカーと共にある時間がアンジェリークには辛かった。

「もう、帰ります」

アンジェリークがそう言うと、オスカーも敢えて引き止めなかった。だが執事に馬車の用意を命じ、自分もアンジェリークと共に車中に入った。

「オスカー様、わたしはもう2人だけでお会いする気はありません。守護聖と補佐官、貴方とわたしの関係はただそれだけです」

アンジェリークは言う。もう婚約者でも恋人でもないのだと。

「ああ、君はそう望んでいる。でも俺は違う」

アンジェリークの心情を慮って2人の関係を白紙に戻すことは了承した。少なくとも彼女には時間が必要だと思ったから。

「君は俺たちの関係を白紙に戻してほしいと言った。俺もそれを承諾した。だが、俺は君を愛している。それに変わりはないんだ。君が俺を嫌いになったとか、俺以外に愛する男が出来たというわけじゃない」

白紙に戻しただけ。マイナスになったのではない。もう一度0からやり直すだけなのだ。いや、互いに愛し合ってることに違いはない。0にはなっていない。

「君に俺との関係を復すよう強要するつもりはない。だが、待ってる。君が俺との関係をもう一度始める気になってくれるのを」

勿論、ただじっと何もせずに待つつもりもないが。

「……そんな気に一生ならないかもしれません」

「それでも待つよ。俺にとって君は生涯でただ1人の本当の愛だ。だが、それを押し付けるつもりはない」

馬車はアンジェリークの邸に着き、オスカーはエントランスまで彼女をエスコートする。

「君は何も気にしなくていい。ただ、君でいてくれれば。君らしくあってくれればそれでいい。俺が待ってることも気にするな。――お休み、愛しい人」

オスカーは穏やかに微笑み、額に口付けると帰っていった。アンジェリークの胸に喜びと戸惑いを残して。

 

 

 

翌日からアンジェリークは補佐官として精力的に働きはじめた。

最優先の仕事はロザリアと共にあること。出来るだけ側にいて食事やお茶を共にする。その合間に各業務について秘書官たちと打ち合わせをする。邸に戻ってからはこれまでの記録に眼を通し、補佐官として必要な勉強をしていった。

高級娼婦として辺境聖域の状況には精通していたし、顧客も政治的地位を持つ人ばかりだったことから、改めて勉強するまでもなく、アンジェリークは申し分のない補佐官だった。ジュリアスですら彼女の補佐官としての有能さを認め賞賛したほどだった。

けれど彼女は取り憑かれたように勉強し、より有能であろうとした。そうでなければ自分がここにいることは出来ないというように。

秘書官たちは彼女の有能さに敬意を抱き良い職場を得たと喜んだ。思いやりに溢れ、それでいて有能なアンジェリークはこれ以上ない素晴らしい上司だった。また彼女の邸の使用人たちも優しく慈愛に満ちた女主人を敬愛し、心から喜んで仕えた。ただ、彼女があまりにも働きすぎる……まるで自分を追いつめるかのように酷使していることに危惧を抱いた。執事と女官長はアンジェリークの健康管理に気を配り、愛する女主人を守るように仕えていった。

 

 

 

アンジェリークが聖地にやってきてから、彼女は一切守護聖たちと個人的な関わりは持とうとしなかった。補佐官として彼らとお茶会を催したるすることはあっても、彼女が個人的な事柄を口にすることは一切なかった。

アンジェリークは変わった。誰もがそう思い、寂しさを感じていた。けれど5年経っているのだからそれも仕方がない、と彼らは次第にそれを受け入れていったのである。

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求愛と拒絶

アンジェリークが聖地に戻ってから、初日を除いて、アンジェリークはオスカーと公式の場以外では一切顔を合わせようとはしなかった。

オスカーは毎日のように彼女の執務室を訪ねてくる。そして、彼女の意を受けた秘書官たちに丁重に追い返される。だが、オスカーはそれを気にするふうもなく、また怒ることもなく、彼らに花束だけを預けていく。

かつての彼はよく薔薇の花束を贈ってくれた。それは彼の情熱を示すかのような真紅の薔薇であったり、アンジェリークをイメージした淡いピンクの薔薇だった。けれど今、彼が贈ってくれる花は薔薇ではなかった。勿論、薔薇のときもある。けれど、彼は自分の好みに固執せず、アンジェリークが少しでも心慰められるよう様々な花を贈ってくれていた。

「補佐官様……」

ミッシェルが遠慮がちにアンジェリークに声をかける。手には恒例の花がある。今日は水仙だった。ラッパ水仙。花言葉は『貴方を待つ』――。実家が生花店だったから、花には詳しかった。次兄はどんな植物にもそれにまつわる色んな話があるのだと伝説を語ってくれたり、花言葉を教えてくれたりした。オスカーは花言葉を知って花を選んでいるのだろうか? 彼のような男性が花言葉を熟知しているとは思えない。けれど、知っているとしか思えない選び方だった。この10日で贈られた花は黄色いスターチス(『愛の喜び』)、赤いカーネーション(『愛を信じる』)、カンナ(『熱い思い』)、風船蔓(『貴方と共に』)、母子草(『いつも思う』)、カンパニュラ(『思いを告げる』)、撫子(『思慕』)、蛇の目菊(『変わらぬ熱愛』)、アネモネ(『君を愛す』)、鹿の子草(『真実の愛情』)だった。中には花の姿として贈り物には首を傾げるものもあったが、その意味に気づいて嬉しかった。

そう……アンジェリークは戸惑いながらも、嬉しかったのだ。オスカーの示してくれる自分への情熱が。

アンジェリークが聖地へ来てから3ヶ月以上が経っていた。自分はオスカーを避けてばかりいる。公式の場でしか顔を合わせようとはせず、必要がなければ眼も合わせない。それなのに、オスカーは毎日彼女の部屋を訪れ、秘書官に追い返され花だけを預けていく。休日には執事が彼を追い返し、花束を預かる。

「補佐官様、差し出がましいことを申し上げますが……オスカー様とちゃんとお話し

なさったらいかがですか?」

花を生けながら、ミッシェルは言う。ずっと気にかかっていたのだ。毎日オスカーを追い返している。そしてオスカーはそれを怒ることなく、ただアンジェリークの様子を聞いて去っていく。彼女の顔色はどうだ、食欲はあるか、困っていることはないか、問題は? アンジェリークの些細なことでも気にかけ、問題ないとミッシェルが告げると安心したかのように笑う。

お前にも迷惑かけてすまないとは思ってるんだ。毎日追い返すのも楽じゃないだろう? だけど……少しでも彼女の側にいたいんだ。俺がいるのだと彼女に知ってほしいんだ。

オスカーはある日そう言った。そのときのオスカーの表情がミッシェルは忘れられなかった。切なそうな表情。それでいてアンジェリークへの深い愛情を感じさせた。

「……心配してくれてありがとう、ミッシェル……。そうね……避けてばかりじゃ駄目ね……」

アンジェリークはミッシェルの言葉に応える。自分がしているのは卑怯なことだと思っていたから……。

「でも……まだ、駄目。もう少し時間を頂戴」

哀しげに目を伏せて言うアンジェリークにミッシェルは一礼すると秘書室へと下がっていった。これで半歩は前進するだろう。ミッシェルはその変化を喜んだ。敬愛する補佐官様だ。美しく聡明で気品に溢れている。女王陛下が頼りになさり主星まで迎えに行かれたのも納得できる。

だが、補佐官様は決して幸福ではない。お幸せそうには見えない。それがミッシェルには気にかかった。そんなときに同僚の1人ラズロが言ったのだ。かつてオスカーとアンジェリークは婚約していたらしい、と。アンジェリークが主星に戻っている間に何かがあってお2人は婚約を解消したらしいとも。

初めはアンジェリークがオスカーを嫌いになったのだと思った。だが、2人を見ているうちに、互いの想いはそれぞれの上にありながら何かがすれ違っているのだと気づいた。だったら、アンジェリークが歩み寄ることで何らかの進展があるのではないか、仮令たとえ元の鞘に納まることはなくても今の状況よりはましなのではないか、ミッシェルはそう思い、アンジェリークに話し合うよう勧めたのだ。

 

 

 

アンジェリークはミッシェルに言われたことを考えていた。オスカーと話せと彼は言う。彼だけではない、オリヴィエにも言われた。恐らくそれを言う為だけに彼は態々書類を自分で持ってきたのだ。大抵は秘書官が持ってくるのに。

「オスカーと向き合わなきゃ駄目だよ。まだ、キツイかも知れないけどさ」

と……。

ずっとオスカーを避けている。けれど、見ている。彼を遠くから。彼を本当に避けたいのであれば、聖地へ戻って来なければよかったのだ。そうすれば、オスカーはそれがアンジェリークの応えであることを受け入れてくれただろう。自分が聖地へ戻ったから、彼は自分を諦めないのだ。

わたしはどうして聖地に戻ってきたの? アンジェリークは自問する。それはロザリアの為。親友の為。たった1人で宇宙を背負うという重責を担っている親友を慰める為に支える為に聖地へ来た。

そう自答するアンジェリーク。だが、心の中で別の声がする。正直になれと。それだけが理由ではないだろうと。もっと他に聖地へ赴きたかった理由があるだろう、と……。

そんなものない、心の声にそう反論したかった。けれど出来なかった。確かにそうだから……。聖地にはオスカーがいる。愛する人がいる。もう二度と結ばれることはなくても、それでも愛する人の側にいたかった。

自分のことなど忘れてほしい、もうわたしを愛さないで……。そう願いつつ、愛されていることを嬉しく思う自分がいる。そして、愛されていることを思うとき、同時に怖くなる。いつまで彼は自分を愛してくれるのだろう?

今の自分がかつての自分と違っていることはアンジェリークは自覚している。17歳と22歳が同じはずはない。況してやあれだけのことを経験させられたのだ。体を売っていたことに限らず、社会の裏側、暗部を見せつけられてきた。変わらないほうがおかしいだろう。

けれど、オスカーの中で自分は飛空都市を去ったときのままなのだ。17歳の続き……。本当は断絶してしまっているのに、オスカーの中では……いや、聖地に住む大部分の中ではあのときの自分が続いていると思われているのだ。

オスカーは自分を愛していると言う。それに嘘はないだろう。けれど、それはオスカーが愛した17歳の自分であって今の自分ではない。もし、今の自分をオスカーが知って、失望してしまったら? そう思うと堪らなく怖かった。だから、本当の自分を曝すのを先送りしている。彼と接しないのはそういうことだ。

本当の、今の自分を見せてオスカーに蔑まれてしまったら……。いや、彼のことだ、蔑んだりしないだろう。そう思いはするが、だが恐怖は消えない。彼が自分を愛してくれている限り、いつまでもその恐怖は消えない。いつか彼に失望される、蔑まれるかもしれない……。

だったら、自分の手で断ち切ってしまえばいい。貴方が愛しているのは今のわたしではなく過去の幻影なのだ……そう告げればいい。そして彼を納得させる為に彼に抱かれてしまえばいい。彼くらい経験を積んだ者ならばアンジェリークが変わったことはすぐに判るだろう。アンジェリークが許多の男に抱かれ変わったことを悟るだろう。躰も、そして心も。そうすれば、彼はもう自分を求めなくなるだろう。自分に過去の幻影を求めることはなくなるだろう。

けれど……アンジェリークにその勇気はなかった。抱かれた後の彼の表情が眼に浮かぶ。それは蔑みではない。自責だ。深い慙愧の表情だ。彼がアンジェリークを救えなかったことで自分を責める表情なのだ……。彼には全く罪のないところで、彼が自身を責める。アンジェリークはそれが耐えられなかった。

そして……何よりアンジェリークはオスカーとセックスしたくなかったのだ。かつてセックスは愛情を確認し高めあう行為だと思っていた。ある種の神聖な行為だと思っていた。だが、自分はそれを汚したのだ。売春していた自分。神聖だと思っていた行為を商売にしていた自分。今のアンジェリークにとってセックスは忌まわしい行為でしかなかった。オスカーを思うがゆえに、彼にだけは抱かれたくない……。

蔑まれたくない、失望されたくない、そして何より哀しませたくない。アンジェリークはどうして良いのか判らなかった。

 

 

 

オスカーは今日も花を持っていって、追い返された。毎日続くその行動に初めは呆れていた副官のヴォルフガングも、今では彼を応援していた。単にオスカーが新任の補佐官を口説いているだけではなく、その裏に何か深い理由が隠されていることに気づいたのだ。敢えてその理由を聞こうとは思わなかった。プライベートに興味本位で立ち入るわけには行かないのだ。

「おや、今日も振られましたか? おめでとうございます、記念すべき百敗めですよ」

わざと明るくヴォルフガングは言う。

「お前、数えてたのか? 暇な奴だな」

オスカーは笑う。副官は文句も言わずにオスカーの行動を援助してくれている。公私共に頼りになる男だった。

「暇ですって? とんでもない! この書類を決裁してくださいね。急がないと、明日は補佐官様の所にいけませんよ?」

副官はそう言って書類をオスカーに渡す。

「そうそう、明日の花はなんにします?」

「そうだな……サルビアにしてくれ」

「了解しました」

副官は明るく答えて発注をかける為に電話に向かう。その姿を見ながらオスカーは思う。花に託した想いはアンジェリークに届いているのだろうか?

アンジェリークが自分を愛していることは感じていた。簡単に――仮令たとえ5年経っていても――彼女の心が変わるとは思わなかった。それだけの愛を女王試験で育んだのだ。互いに一度は諦めようとしたのだ。女王候補と守護聖、そして崩壊しつつある宇宙。けれど、それでもなお想いは止まらなかった。互いがなくてはならない魂の半身であることを自分たちは知っていたのだ。だから、全てを敵に回しても貫き通す覚悟を決めた。その強い意志が2人にあった。だから、周りも認め祝福してくれた。その彼女の愛が、そう簡単に消えるはずはない。

それに、決して自分とは眼を合わせない彼女の視線を感じてもいた。切ない、苦しい、けれど愛しい……彼女の視線は雄弁に彼女の想いをオスカーに伝えていた。アンジェリークが動かない、否、動けないのであれば、自分がその分動く。オスカーはそう決めていた。

アンジェリークが何故動けないのか、薄々オスカーも察していた。彼女は不安なのだ。22歳の、今の自分をオスカーが愛しているのかどうか。17歳の自分の見ているのではないのか……。

正直なところ、22歳のアンジェリークにオスカーも戸惑ったことはある。あまりに美しくなっていた。そして、翳りのある、かつての彼女からは想像の出来ない表情。17歳の彼女とは別人のようだと思った。けれど、ずっと彼女を見ていた。だから、彼女の本質、そう、自分を包み込んだ温かさや優しさは変わっていないことに気づいた。そして、今の彼女に一層惹かれていく自分も。変わったところを見つけてもそれはオスカーが彼女を否定する材料にはならなかった。

「アンジェリーク……君の不安をぶつけてほしい。俺たちはそこから始めなきゃならないんじゃないのか?」

オスカーは1人ごちる。今の君を愛しているんだ、と。過去も君も今の君のアンジェリークであることに変わりはない。ずっと愛している君なのだと。

明日は多少強引に出てみるか……。オスカーはそう決断した。

 

 

 

その日、オスカーはいつもより気合を入れてアンジェリークの執務室を訪れた。出てきたミッシェルはいつもどおり済まなそうにオスカーに補佐官が会わないと言っていることを告げる。しかし、どことなく、彼の表情は明るかった。そして彼は付け加えたのだ。

「補佐官様は、オスカー様と話をすると仰ってました。今はまだ無理だけど、必ずそうすると」

我がことのように嬉しそうにミッシェルは言う。そんなミッシェルを見て自分もアンジェリークも部下には恵まれていると思うオスカーだった。その秘書官がいるなら、フォローは期待できるだろう。

「ああ、いい知らせだ。だが、このままじゃなかなか埒が明かない。何とかする為にも、今日は強引に行かせてもらうぜ」

そう言うとオスカーはミッシェルを押しのけて室内へ入る。慌ててミッシェルはそれを止めようとするが、体格差がありすぎそれも叶わない。

オスカーの突然の乱入に、アンジェリークは驚きのあまり硬直してしまう。大きく眼を見開き、翠の瞳は零れ落ちそうだ。驚いたときの表情は変わらないな……オスカーは心の中で笑う。そう思うだけの余裕が彼にはあった。

「済まんな、アンジェリーク。どうしても話がしたくて無理に入った。ミッシェルは悪くないから、叱ったりしないでくれよ?」

アンジェリークはオスカーのいつもと変わらない声音に躰の強張りを解く。

「ええ、勿論よ……。それで、何か?」

職務以外で言葉を交わすことはなかった。だから、アンジェリークは冷静を装うので精一杯だった。

「現状を何とかしたい。その為に君と話をしたいんだ」

「……そうね。判ったわ。でも。今は執務時間よ。どれだけ時間がかかるかも判らない話になるわ……。今夜、わたしの館に来ていただける?」

まだ、早い。自分の結論は出ていない。どうすればいいのか……。

けれど、これはチャンスなのだ。確かに現状を打破する為の。どうしたらよいのか判っているつもりだ。オスカーに失望されればいい。彼が愛した『アンジェリーク』と自分が別物だと彼が判ればもう彼は自分を求めなくなる。そして、自分は彼の愛を失うことを恐れる必要はなくなる。だから、アンジェリークは自分の館にオスカーを招待した。自分のテリトリーのほうが落ち着いて行動できるだろうから。

「判った。今夜、伺うよ」

オスカーはそう応え、彼女に花束を渡すと部屋を出て行った。優しく微笑んで。

まずは第一関門を突破した。彼女も現状を何とかしたいと思ってはいたのだ。それが自分の望むものとは異なっていることも知っている。彼女が求めているのは、完全な別離。自分が求めているのは2人で歩むこと。望むものが違っている。今夜で全ての問題が解決するとは思えないし、思わない。ただ、今夜は彼女に今のアンジェリークを愛しているのだと伝え、それを信じてもらえるように話すだけだ。

もう二度とアンジェリークを手放すつもりはないオスカーだった。

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困惑と願い

オスカーがアンジェリークの館を訪れたのは9時を回った頃だった。アンジェリークは緊張で食事の味も判らなかった。けれど、来るべきオスカーとの戦い、いや自分自身との戦いの為に無理にも食事を摂った。そして対決する為に着替えた。かつて娼婦をしていたときに使っていたナイトドレスとガウン。黒いシルクのそれはアンジェリークが彼の地から持ってきた数少ないものの1つだった。あのときは意識していなかったけれど、こういうときの為に……対決するときの為に持ってきたのかもしれない、アンジェリークはそう思った。

服を着替え、化粧をし、準備が出来たところで執事がオスカーの来訪を告げる。アンジェリークは彼に指示し、プライベートな居間へと彼を案内させた。アンジェリークが部屋に行くとオスカーは眩しそうにアンジェリークを見た。オスカーは生成りのサマーセーターにスラックスという寛いだ格好だった。自分だけが気負っている、アンジェリークはそう思うとなんとなく悔しくなった。

「綺麗だ……アンジェリーク」

オスカーが心の底から思ったように言う。けれど、アンジェリークは嫌だった。この服は娼婦をしていたときのもの……。

「やっぱり大人になったからかな、そういう格好もよく似合うようになったな」

だが今の彼女を認識させることには成功したようだ。アンジェリークはほっとする。

そしてオスカーもその言葉でアンジェリークが変わったことを認識しているのだ、と告げていた。

「お飲み物は何がよろしいですか、オスカー様? ブランデーとワインなら用意してありますけれど」

アンジェリークはオスカーに勧める。そう、かつて培わされた娼婦としての顔で。その変化にオスカーも気づく。こんなふうに『仕事』をしていたのか、とその一端を見せられ、胸に苦いものがこみ上げる。けれどアンジェリークを厭わしくなど思わなかった。

「今日はゆっくり話をしたいんでね、コーヒーをもらえるか?」

オスカーはアンジェリークのペースに乗ることなく穏やかにそう告げる。アンジェリークは頷くと執事に命じ用意させる。出てきたのはオスカーの好きなカプチーノだ。きちんと準備させていたらしい。こんな状況でも相手の好みに合わせて用意するだけの心遣いしてくれるアンジェリークをオスカーは愛しく思った。

「アンジェリーク。今日ははっきり言う。そして君も隠さず、偽らず話してくれ。今のままでいるのは正直辛い。俺たちがやり直すにしても……完全に別れるにしても、今のままではどうしようもないんだ」

オスカーは先手をきって切り出す。あまりの率直な言葉にアンジェリークは眼を見開く。

「君の不安を判るつもりだ。……君は今22歳で、俺もそうだ。だが、飛空都市で出逢ったとき、君は17歳だった。そして俺は今と同じ。君と俺の中の時間は違ってる。そして、その5年で君の世界は180度変わってしまった。つまり、君はあの頃の君ではない。そう思ってるんだろう? だから、俺が君を愛していると言っても、それは過去の君に向けられたものだと思っている。違うか?」

「……そのとおりですわ」

アンジェリークは驚きが隠せなかった。オスカーがここまで理解してくれているとは思わなかったのだ。きっと過去の自分を愛しているのだと思っていた。

「確かに、初めは戸惑った。君はいきなり大人になってたからな。でも、君を見ていた。ずっと。飛空都市でも、聖地でも。だから、これだけは言える。昔も今も関係ない。俺は君を、アンジェリークを愛している」

どちらの君も君なのだ、変わらないのだ。オスカーはそう言う。けれど、アンジェリークはそれには納得できない。

オスカーが過去の幻影を見ていないことは判った。けれど、彼女にはどうしても過去の自分と今の自分が同じだとは思えなかった。

「わたしは変わりました。それはオスカー様もお判りいただけたんですね。オスカー様のお気持ち、嬉しいです」

アンジェリークは噛み締めるように言う。今日はオスカーに失望されるのだと思っていた。そうなるように仕向けようと思っていた。だが、オスカーが先手を打った。その内容はアンジェリークに喜びを齎すものだった。嬉しかった。

だから、アンジェリークは決心した。自分のさもしい望みの為にオスカーに気を持たせるようなことを続けていてはいけない。きっぱりと決別しなければ。

「お気持ち、嬉しいです、本当に……。でも、わたしはオスカー様のお気持ちに応えることは出来ません」

顔を上げてアンジェリークはオスカーを見つめる。聖地に来てから、正面から目を合わせたのは初めてだった。

だが、オスカーはその言葉に微笑んだ。予想していた言葉だった。アンジェリークは簡単に彼の想いに応えはしないだろう。それだけの傷を心に負っているのだ。

「そう言うと思ってた。だが、俺もそこで引き下がるような男じゃないことは知ってるだろう? 君は俺が君を愛していることを知ってくれた。今日はそれだけでいい」

そう、これで少しは自分たちの関係も変わるだろう。変えていけるし、必ず変える。アンジェリークが幸せになるように。そして、それが自分と共にあるように……。

「ただ、1つだけ聞いておきたい。君が俺の想いに応えられない理由は、君が娼婦をしていたからか?」

それ以外には考えられなかった。だがオスカーは敢えて口にした。アンジェリークがそのことをどう捉えており、それでどんなに苦しんだか、理解しているつもりだったから。そして、彼女がそれを内に閉じ込めてしまっているのを感じていたから。

「そうですわ……わたしはオスカー様に相応しくない、穢れた女ですから」

やはり……オスカーはそう思った。予想どおりの答え。躰を売っていたことは彼女にとって『汚らわしい』ことなのだ。

「相応しくない? 俺はそうは思わないな。俺に相応しいかどうかを決めるのは君じゃない。俺自身だ、アンジェリーク」

オスカーは正面からアンジェリークの目を射抜く。仮令たとえ本人であっても自分が愛する女性を貶めてほしくない。アンジェリークが穢れているとは思わない。況して自分に相応しくないなど……。

思いがけないオスカーの強い視線にアンジェリークは驚く。自分は穢れた女だから、オスカーには相応しくない。だから、別れてほしいと願った。けれどオスカーは違うという。けれど……確かにそうだ。オスカー自身が決めることだ。彼に相応しいかどうか。

「それに……君が穢れてるなんて俺は思ってない。君がどういう状況にあったかは全てバローから聞いている。君には選択肢はなかった。ああするしかない状況だった。君はそれを受け入れただけだ。受け入れざるを得なかっただけだ」

これだけは伝えておかなければ……オスカーは真剣に彼女に語りかける。ある意味、性を踏みにじられた女性が陥りやすい錯覚なのだ。自分が穢れた、と思ってしまうことは。レイプの被害を受けた女性がそのことによってまるで悪いことをしたかのように自分に、周りに追いつめられてしまうこともある。本人に本当は何の罪もないのに。だが、女性というだけでその躰に受けた被害がいつの間にか歪んでいく。男の欲望の犠牲になって、被害を受けている女性には何の罪もない。なのに、女性は『穢れた』と思ってしまう。いや、社会から思わされてしまうのだ。娼婦も同じだった。

確かにアンジェリークは娼婦だった。けれどそれは自ら望んでのことではないし、選択の余地などない状況だった。寧ろ、我が身に災いを受けても家族を守ろうとしたのだ。そして、そんな中でもアンジェリークの優しさは変わっていなかった。アンジェリークの本質には影響していないのだ。

穢れている、というのは心のあり方によるのだとオスカーは思っている。自分の欲望だけ、利己主義に徹したもの、堕落したもの、そういった心の持ちようを穢れているというのだと思う。決して体によるものではない。本当に穢れているのは……そう、己の欲望の為に、他者を不幸に陥れたシャルルのような男だ。

「君はカティスや兄弟を守る為に、バローに従うしかなかった。カティスたちを守る為に選んだこと、選ばざるを得なかったことで、君が穢れるなんてことはないんだ、アンジェリーク。その道を選んだ君を俺は素晴らしい女性だと思う」

オスカーは真剣に訴える。自分が傷つくことよりも家族を選んだ。自分の幸せはその時点で諦めたに違いない。けれど、アンジェリークはその絶望の中でも優しさを失わなかった。彼女は自分に出来ることを、それも素晴らしいことをしてきたではないか。バッカスの民を救うという……。

アンジェリークは意外なことを聞いたというようにオスカーを見つめる。自分は穢れた女だと思った。許多の男に躰を開き、快楽を得て……そして神聖であるべき愛の行為を商売にしていた。けれど、オスカーは違うという。

「わたし……ずっと自分は穢れた女だと思ってきました……。でも……違うんですか……? 判らない……」

アンジェリークは明らかに困惑している。今まで思っていたこと、彼女の中に深く根付いてしまった考え。それをオスカーが否定したのだ。彼女にしてみれば容易に考えを帰ることは出来ないだろう。だが、オスカーの言葉を否定することも出来なかった。オスカーは真剣に、心の底からそう思っているのだ。

「俺は焦るつもりはない。アンジェリーク、よく思い出すんだ。自分の心のあり方を。何を考え、選択してきたのか。よく考えてごらん。必ず、俺の言葉が正しかったと判るから」

オスカーは包み込むような優しい瞳でアンジェリークを見つめる。アンジェリークは今、混乱してしまっている。それは彼女の中に確かにオスカーの言葉が届いた証拠だった。

「俺がいる。そしてロザリアも、オリヴィエも、リュミエールも。他の守護聖たちもいる。皆君を想ってる。皆君を愛してるんだ、アンジェリーク」

だから、もう一度自信を取り戻してほしい。アンジェリーク・リモージュとして、1人の女性として。

「……考えてみます。どんな答えが出るのか、答えなんて出ないかもしれない、でも……考えてみます」

アンジェリークは顔を上げてオスカーを見る。真剣にオスカーが想ってくれている。オスカーだけではなく、親友も、大切な人たちも。その人たちの為にもアンジェリークは自分を見つめ直してみようと思った。見つめ直して、やはり自分は穢れた何の価値もない女だと思い知ることになるかもしれない。違うかもしれない。どんな答えが出るかも判らない。けれど、考えてみよう。自分と向き合ってみよう。これまではただ流されるだけだった。ただ求められることのままに受け入れているだけだった。動いてみよう、自分から。

「ああ、それでいい、アンジェリーク」

オスカーはほっとした。アンジェリークがそういう気持ちになったのなら、大きな前進だった。現状から前向きに進もうとしているのだ、アンジェリークは。今日訪ねたのも無駄にはならなかった。アンジェリークが彼の愛を受け入れてくれたわけではない。尤も、すぐに彼女が受け入れてくれると思っていたわけではない。だが、これで少なくとも彼女がこれまでのように守護聖たちに隔てを置くことは減るだろう。そう思えた。

「今日はこれで失礼するよ、アンジェリーク。まずはゆっくり休むんだ。夜に考え事すると暗いことばかり考えてしまうからな」

オスカーはそう言って、辞去することを伝えた。

「オスカー様……ありがとうございます」

オスカーを玄関ホールまで送り、アンジェリークは彼に伝える。

「いいんだ。いい夢を、アンジェリーク」

オスカーは微笑み、アンジェリークの額にキスをする。アンジェリークもそれを自然に受け止めていた。オスカーの唇が触れたところから全身に温かい何かが流れ込んでくるようだった。

「おやすみなさいませ、オスカー様」

アンジェリークは微笑みで応える。アンジェリークが、再会してから初めて浮かべる優しい微笑みだった。

 

 

 

丁度その頃、ジュリアスの館にクラヴィスとルヴァが来ていた。

「いったい……何があったというのだ……」

ジュリアスは溜息をつく。

「そうですねぇ……陛下もオスカーも何も話してはくれませんし……。カティスもそっとしておいてやってくれ、としか言いませんしねぇ」

ルヴァも顔を曇らせる。話題は勿論アンジェリークのことだった。

以前とは全く違っている。感情豊かな、表情豊かな少女だった。その喜怒哀楽の激しさにジュリアスもクラヴィスも戸惑い振り回されたほどだった。けれど、今のアンジェリークは一切の感情を表に出さない。ただ、微笑みを浮かべているだけだ。それも仮面の微笑みを。アンジェリークの変化は守護聖たちに戸惑いを齎した。確かに何かの犯罪に巻き込まれ、そして女王試験から5年も経っていれば、変わっていたとしても無理はない。けれど、微笑みをなくしてしまった彼女を見ているのは辛かった。

「……あれは自分が聖地に相応しくない人間だと思っている」

クラヴィスが言う。人の感情に敏感な彼はそれを察していた。

「どういうことだ……?」

アンジェリークが聖地に相応しくない? そんなはずはない。彼女の温かなサクリアは以前と変わらず、いや以前よりもより温かな優しさを持っている。補佐官としても有能でこれ以上はないくらい非の打ち所のない補佐官振りを見せているではないか。

「やはり、行方不明だった3年の間に何かがあったんでしょうね……」

人としての自分の存在を見失うようなことが。ルヴァの言葉にジュリアスとクラヴィスも頷く。

「陛下に伺ってみるか」

このままでいいはずはない。何とかする為にもやはり女王に真実を尋ねるべきではないのか。ジュリアスは言う。だが、彼自身にもそれが最良の策かどうかは判断がつかなかった。

「止めておけ。我らに知れても良いことなら陛下なりオスカーなりが伝えてくれているはずだ」

そうしないということは、隠しておきたいことなのだろう。実際、リュミエールですら自分に何も言わなかった。

「そうだな……」

クラヴィスの言葉にジュリアスも頷かざるを得ない。オスカーとオリヴィエ。この2人が揃って口を噤んでいるのだ。あの2人はそれが本当に必要とあれば仮令女王の命令に逆らってでも自分たちの伝えているだろう。

「わたしたちには……見守ることしか出来ないんですね」

ルヴァは溜息をつく。女王試験の際、彼女の父親に頼まれてアンジェリークを見守ってきた。彼女が女王にならなかったのは残念だったが、オスカーと幸せそうに寄り添う姿を見て、ルヴァも幸せな気持ちになった。

「オスカーがいる。大丈夫だろう」

クラヴィスの言葉は不思議な力強さでジュリアスとルヴァの心に響いた。

 

 

 

オスカーとアンジェリークの関係は変わってきていた。オスカーはこれまでと変わらず、アンジェリークに花を届ける。そしてアンジェリークはそれを受け取る。オスカーが門前払いされることはなくなった。アンジェリークの執務が立て込んでいない限り、アンジェリークはオスカーに会っていた。オスカーも出来るだけ彼女が小休止を取る時間に合わせて彼女を訪い、2人でお茶の時間を持つようにした。

随分進歩したと思う。闇雲に避けられることもなくなった。だが、まだ彼女がオスカーへの対応に戸惑っているのは明らかだった。それでもアンジェリークはオスカーと向き合おうとしている。それだけで嬉しかった。だから、オスカーは焦って彼女に愛を求めることはしなかった。2人で過ごす時間には他愛もない話題を選んだ。執務のことや、守護聖のこと。次第に彼女は笑うようになっていった。

アンジェリークに徐々に笑顔が増えた。そのことがオスカーには嬉しかった。けれど、まだアンジェリークの翳は消えてはいない。まだ彼女の中で結論は出ていないのだ。

何か、後押し出来るものはないのか。彼女が自信を取り戻すことの出来る何か……。

「アンジェリーク、だんだん彼女らしさを取り戻してきたね」

オリヴィエが言った。あの夜から1ヶ月近く経ったある日のことだった。オスカーの館にオリヴィエとリュミエールが来ていた。話題はアンジェリークのことになっていた。

「ええ、少しずつ……笑顔を見せてくれるようになりましたね」

リュミエールも微笑む。まだアンジェリークの笑顔はどこかぎこちない。だが、これまで守護聖たちとの接触を避けていたアンジェリークが、彼らと接するようになった。これまで自分の中に閉じこもっていたアンジェリークが、少しずつ周囲に目を向け始めた。

「ああ……」

オスカーも頷く。

「実はさ、リシャール・グランジョルジュから手紙が着たんだ」

オリヴィエが言った。彼はずっとリシャールと連絡を取っていたのだ。アンジェリークのこれまでを知る為に。何か彼女の為になるかもしれないと思って。

「何を言ってきたんだ?」

「これといっては特に、ね。でも心配してた。アンジェリークが過去に囚われているんじゃないかって」

リシャールは気になっていたというのだ、自分の求婚を断ったとき、アンジェリークが『娼婦』であることに拘っていたこと。自分は価値のない女だと思っていたこと。

「そうか……」

オスカーは溜息を漏らす。やはり、それがネックなのだ。

「でね、リシャールに会わせてみるのも1つの手かな、って思って。あの子が一番蔑んでいる時期のアンジェリークを知ってる彼ならまた別のアプローチもあるかなって思うんだ」

過去に向き合うことによって何かが変わるかもしれない。突破口が開けるかもしれない。オリヴィエはそう言うのだ。

過去と向き合うのは辛い作業だ。だが、アンジェリークは今それをしている。その後押しをしてやろう。オリヴィエが言う。それに何かあっても今度は自分たちが、オスカーが側にいるのだ。

「そうだな、賭けてみるか」

オスカーは頷き、ロザリアに彼を召喚するよう要請することにしたのだった。

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穏やかな愛

アンジェリークはあれから考えていた。自分が『穢れた』と思っていることについて。そして、そう思っていることによってこれまで自分がとってきた行動について。

聖地に戻ってきた。ロザリアの要請に応える為に。オスカーには関係を白紙に戻すように頼んだが、オスカーは自分への求愛を止めることはなかった。そして自分もそれをはっきりとは断らずに逃げていた。

他の守護聖たちに対しても、ずっと向き合うことなく避けていた。彼らがそれをどう受け止めているかも考えていなかった。

自分勝手に過ぎる……振り返ってアンジェリークは思う。

自分は全て承知で聖地へ来たのではなかったのか? なのに、この自分の身勝手さはどうだろう。

守護聖たちの気持ちまで考えが及んでいなかった。傷つきたくない、傷つけられたくない、それしか考えていなかった。だから、最小限にしか接しなかった。

聖地は清浄な世界だ。その世界に自分のような女は相応しくない、そう思っていた。まだ、その思いは消えてはいない。けれど、そんなふうに思っている自分に守護聖たちは変わらず接してくれていた。自分を気遣ってくれていた。なのに、それに気づく余裕さえなかった。

どうして自分は今までそれに気づかなかったのだろう。どうして今、それに気づくことが出来たのだろう。そう思ったアンジェリークの脳裏にオスカーの優しい眼差しが蘇る。

そうだ、オスカーが言ってくれたから。変わらず愛している、と。ずっと見つめてきて、それでも変わらず愛しているのだと。あの優しい眼差しが向き合う勇気をくれたのだ。

だから、アンジェリークは少しずつ自分を変えようと思った。自分が聖地に相応しいとは思えない。穢れた女だという思いは消えてはいない。けれど、自分の思いはどうあれ、今アンジェリークはここにいる。そして守護聖たちと共に生きているのだ。ならば出来ることから始めよう。

アンジェリークは守護聖たちを避けることを止めた。これまで秘書官に届けさせていた書類を出来るだけ自分で届けるようにした。すると彼らは嬉しそうに自分を迎えてくれた。初めは緊張していたそれも、今ではそのままお茶会になってしまうこともあるほど、抵抗がなくなっている。守護聖たちがアンジェリークの執務室を訪ねることも増えた。まだ互いにどこまで踏み込んでもいいのか手探りの状態ながら、少しずつ前進していた。

「補佐官様、マルセル様がお見えです」

ミッシェルの言葉にアンジェリークは意識を現実に引き戻した。

「アンジェリーク! おみやげだよ」

ミッシェルの後ろからマルセルが顔をのぞかせる。手には鉢植えを持って。

「綺麗でしょ? アンジェリークにあげるね」

マルセルは鉢植えをアンジェリークに手渡す。

「これ……鈴蘭ですね」

アンジェリークは礼を言って鉢を受け取る。

「うん、綺麗に咲いたから、アンジェリークにって思って」

マルセルはにっこりと笑う。

「バッカスでは、聖母の涙っていわれてたんですよ」

「バッカス? アンジェリーク、そこにいたの?」

「ええ」

マルセルは驚いたように言う。アンジェリークが聖地に来るまでのことを口にしたのは初めてだった。

「よく訪ねていた孤児院の院長がお好きな花で……育ててらしたんです」

これまでバッカスのことは全く口にしなかった。思い出したくもなかったから。けれど、アンジェリークは自然にそう答えていた。

「そうなんだ。どんな所なの、バッカスって」

アンジェリークが過去のことを話してくれたのが嬉しかった。彼女が過去を隠したがっていることはマルセルも感じてはいた。けれど、今こうして彼女が自ら語っている。マルセルは本能的に、それは良い兆候なのだと感じ取っていた。

「歓楽惑星です。でも……優しい人や可愛い子どもたちのいる星です」

辛いことの多い惑星だった。でも、それだけではなかった。

「そう。きっとその可愛い子どもたちはアンジェリークのこと大好きだったんだろうね。僕たちみたいに」

マルセルは屈託のない笑顔でアンジェリークに言う。それがアンジェリークの心にストン、と落ち着く。

「ええ……わたしもあの子たちのこと、好きです」

そう、あの孤児院で出会った子どもたち、それを取り巻く温かな人。自分は彼らが好きだった。バッカスの恵まれない環境の中で精一杯生きる人たち。彼らが好きで、手助けしたくて、ずっと出資して来た。普通に勤めていただけでは到底得られないほどのお金。自分には使い道のなかったそれをスラムの正常化の為に使うことが出来た。そして、顧客に政治家や実業家が多かったから、政治的に働きかけることも出来た。それは『高級娼婦』だったからこそ出来たことだった。だから、あの仕事も、それで得る報酬もそれなりに意味を持たせることが出来た。

そして……『顧客』として出会った人たち、『仲間』として接した女性たち。全員がそうではなかったけれど、いい人が多かった。決して辛いことばかりではなかったのだ……そこには安らぎだってあった。仮初のものに過ぎなかったかもしれないけれど。

アンジェリークはそう思った。バッカスのことを冷静に思い出し、考えることが出来た。

(少しはわたしも進歩したかしら……)

少なくとも前進し始めた。それがどういう結果になるかは判らない。けれど、漸く、過去を落ち着いて受け止めることが出来るようになった気がした。

マルセルは花を抱えたまま、じっと考え込んでいるアンジェリークをどこか嬉しそうに見つめていた。アンジェリークは変わった。飛空都市にいたときとも、聖地へ来たばかりのときとも違う。聖地へ来たとき、アンジェリークは自分たちを拒否していた。踏み込ませない壁を作っていた。それがなくなってきている。それが嬉しかった。

(やっぱり、アンジェには笑ってて欲しいもん。その為なら、悔しいけどオスカー様に頑張ってもらわなきゃ)

ニコニコしながら、マルセルはアンジェリークを見つめていた。

「補佐官様、陛下が至急おいでになるようにと」

マルセルの幸福なひとときを邪魔したのは主席秘書官だった。

「すぐに参ります。マルセル様、折角おいでくださったのに申し訳ありません」

ミッシェルに応え、マルセルに詫びる。

「仕方にないよ。陛下のお召しじゃ。でも、その代わり今度一緒にお菓子作ってね? アンジェのチェリーパイ食べたいな」

マルセルはニコニコと笑っている。

「ええ、いいですよ。日の曜日に作りましょう」

マルセルの笑顔につられるようにアンジェリークも微笑みを返す。そして、アンジェリークはマルセルと共に執務室を出、ロザリアの許へと向かった。

アンジェリークがマルセルと約束したこと、過去の一端を口にしたことはその日のうちに守護聖たちに伝わり、彼らを喜ばせた。誰もがアンジェリークの変化を嬉しく感じていた。

 

 

 

アンジェリークがロザリアの許に赴くと、そこには来客があった。その人物を見、アンジェリークの表情が驚きに変わる。

「パトゥ伯……! どうして貴方がここに……?」

「わたくしがお呼びしたの。貴女の為にね」

ロザリアは微笑み、告げる。そして、2人でお話しなさいと部屋を出て行った。

「久しぶりですね、アンジェリーク。お元気そうで何よりです」

リシャールは優しく微笑む。

「伯爵も……お変わりなく?」

最初の驚きは去り、アンジェリークは不思議と落ち着いた気分でリシャールに接することが出来た。出来れば二度と会いたくない人物だったはずだ。過去を知る人、顧客だった人だから。

「ええ。祖父も元気ですよ。尤も貴女がいなくなって寂しいとは零していますけれどね」

リシャールはそう言いながら、自分の正面に座るアンジェリークを観察する。心配していたほどではないようだ。そのことに安心する。かつての腹心の部下から常に報告を受けていた。その為に彼をアンジェリークの許へ遣ったのだ。彼から、アンジェリークが全てを拒絶していると聞かされ心配していた。何とかアンジェリークに会えるよう取り計らって欲しいと頼んでいたが、なかなか実現しなかった。漸く実現することになったとき、アンジェリークの様子が少しずつ変わったと聞かされた。それも良い方向へ。アンジェリークが過去の自分――これまで彼女を捕らえていたものから抜け出そうとしていると。

「わたくしも公爵様にお会い出来なくなって寂しいですわ。本当のおじい様のように思っていましたから」

「祖父もそれを聞けば喜びますよ。貴女の祖父になり損ねたと、貴女との結婚がなくなったことをわたしより悲しんでいましたから。オスカー様とのご結婚はいつなさるのですか? お祝いを贈らせていただきますよ」

祖父の話題になったことをリシャールはきっかけにして本題に入った。勿論、ラズロからの報告で2人の婚約が白紙に戻っていることは知っていた。だが、彼は敢えてそう聞いた。

「……何も決まってはおりませんわ。婚約は白紙に戻しましたもの」

苦しげな表情になってアンジェリークは応える。オスカーの求愛に応えたいと思ってはいる。紛れもなく自分もオスカーを愛しているから。だが、まだ駄目だ。自分が彼に相応しくないという思いもある。そして、何より、過去から逃げて全てから逃げている今の自分では駄目だ。胸を張って彼に応えられるようにならなければ……。

「それは知っています。でも、進展したと聞いていますよ」

リシャールの言葉にアンジェリークは驚いたように彼を見つめる。

「オリヴィエ様が……?」

「ええ、あのお方からも聞きましたが、実はね、わたしの知り合いもここにいるのですよ。貴女の秘書官にラズロ・リビエールというのがいるでしょう? 彼はわたしの元秘書なんですよ。彼にね、貴女の様子を知らせて欲しいと頼んでおいたのです」

リシャールが語ったことにアンジェリークは声もないほど驚いていた。

「それにね、貴女の侍従武官にロベルト・ファロアという人物もいるでしょう? 彼はアランの部下だった男です」

リシャールはそこまで語って言葉を切る。アンジェリークが言葉を飲み込み、落ち着くのを待つように。

「……わたくしのことを心配して……? それで……」

「ええ。わたしもアランも貴女を大切に思っていた。今でもそうです。だから、貴女が心配だった。過去のことで貴女が傷つけられるのではないかとね。だから、いざというときの為に腹心の部下を貴女の許へやったのです。そして、これは女王陛下、オスカー様のご要望でもあったのですよ」

女王からの使者としてオスカーが自分の許を訪れたときには驚いた。そしてその内容にも。驚きが去ると嬉しくなった。そして安心したのだ。女王もオスカーもアンジェリークの為に用意を整えていることを知って。全て彼女が幸福になれるように。

「貴女が娼婦だったことを気にしていることは知っています。過去の自分を蔑んでいることも……。ですが、アンジェリーク。貴女は間違っています」

リシャールは強い口調で、そう決め付けた。人の考えに対して断定的に表現することは彼の忌むところではあったが、今はそれが必要なときだと思っていた。

「貴女は体を売っていたことを後ろめたいと思っている。では、その貴女たち娼婦を買っていたわたしたちも穢れた存在ですね。そして何より、貴女がそう思うことは、貴女の仲間たちをも穢れた存在だと決め付けたことになるのですよ」

「そんな……!」

そんなことはない、アンジェリークはそう否定しようとした。けれど、出来なかった。そうだ。自分が娼婦であったことで穢れたと思っているならば、同じ仕事をしていた仲間たちをも蔑んで貶めていたことになる。仲間たちは皆素晴らしい女性だった。容姿や知性教養はもとより、その人柄も。人として尊敬できる女性たちだった。高級娼婦ではなく、店に出ている女性たちも皆懸命に生きて、希望を捨てずに前向きに生きている人が多かった。その強さをアンジェリークは素晴らしいと思っていた。自分を娼婦だったからと蔑むことは彼女たちを蔑むことになるのだ……。

「そう……ですね。彼女たちは素敵な人たちだった。尊敬し憧れることはあっても、蔑むことなんて考えられない人たちだった」

自分が接した女性たちを思い浮かべ、アンジェリークは答える。自分が蔑むべきは娼婦だったことではなく、それを言い訳にして逃げていた弱さだ。

「ええ。そして、貴女はその中で頂点に立った女性です。皆、貴女の顧客たちは貴女を懐かしがっています。そして貴女の幸福を願っている。どうしてだか判りますか?」

リシャールは優しく微笑む。アンジェリークが理解してくれたことが嬉しかった。自分の言葉で全てを理解し、考えを変えたなどとは思わない。きっとこれまでアンジェリークがずっと過去について、自分について考えていた結果だろう。自分はその後押しをしたに過ぎない。そして、アンジェリークが前向きに自分と向き合うようになったのは紛れもなくオスカーの愛の力だろう。

「皆、貴女が好きなのです。貴女といると安らげた。自分が好きになれた。貴女はわたしたちを包み込んでくれていました。わたしたちを癒し、全てを許容し……紛れもなく貴女は女王候補に選ばれた人であり、天使と呼ばれるに相応しい人なのだと、そう思っていたのですよ」

だからこそ、アンジェリークは僅か2年で頂点に立つクルティザンヌとなったのだ。

「貴女にとっては辛いことばかりだったでしょう。けれど、その中で貴女は優しさを失わなかった。わたしたちの心の重荷を軽くしてくれた。癒してくれた。そして、貴女はそんな辛いことの中から、ご自分で出来ることを見つけ出しバッカスを変えていった。素晴らしいことです。そんな貴女のこれまでが穢れたことだなんて、わたしは思いません。誰にも貴女を非難させない。仮令たとえ貴女自身にも」

リシャールは真摯に語りかける。

「貴女は素晴らしい女性です。わたしは貴女と出会え、貴女を愛したことを誇りに思います」

だから、貴女は自分を誇っていいのです。

アンジェリークは自分でも気づかぬうちに涙を零していた。自分は蔑まれるべき存在だと思っていた。なのに、人々はこんなにも優しい。自分を愛しいと言ってくれる。そうだった。孤児院の子どもたちも院長も、自分を愛してくれた。そして自分も彼らを愛していた。そんな過去は恥ずかしいことでもなんでもない。

『今の貴女だからこそ、わたくしは戻って来てほしいの』

『君を見ていた。ずっと。飛空都市でも、聖地でも。だから、これだけは言える。昔も今も関係ない。俺は君を、アンジェリークを愛している』

ロザリアの、そしてオスカーの言葉が蘇る。彼らは自分をそのまま、ありのまま受け入れてくれていたのに、自分はそれに気づかなかった。余りにも自分の不幸にばかり目が行っていた。

「ありがとう……リシャール……」

アンジェリークは顔を上げ、リシャールを見つめた。

「判ったような気がします。どうすればいいのか、どうしたいのか。もう、自分が穢れた女だなんて思いません。そんなこと思ったら、わたくしを愛してくれた人を侮辱することになる。わたくしは素晴らしい人たちに愛された……。そんな自分を誇りに思います」

ずっと自分を見つめていた。見つめ直していた。そして、その答えが出た。リシャールが、アランが、ロザリアが、守護聖たちや自分を取り巻く人たちがその答えを見つけさせてくれた。何よりもオスカーの大きな愛情が。

「良かった……。貴女には幸福になって欲しい。それがわたしたちの願いですよ」

リシャールは安心したように微笑んだ。

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地殻変動

突然のリシャールの来訪によってアンジェリークは自分自身を取り戻したような気がした。自分は自分でいいのだ。飛空都市時代の自分も、バッカスでの自分も、どちらも全て今の自分に繋がっている。そして、そんな自分を人々は受け入れ、愛してくれた。後は、わたし自身が前向きに生きるだけでいい。きっと出来る。

「オスカー様に会いに行こうかしら……」

アンジェリークはそわそわと落ち着かない。リシャールが来た昨日はそれでもまだ勇気が出なくて、オスカーの許へは行かなかった。それにじっくりと考えたかった。バッカスでのこと、そこで出会った人々のこと。そして、考えて思い出したのだ。あの頃決して自分は自分を嫌いではなかったことに。いつも死ぬときのことを考えていた。仮初の命だと思っていた。けれどその中でアンジェリークは自分に出来ることを一所懸命やってきた。そんな自分を嫌ってなどいなかった。だが、オスカーに再会した途端、そんな風に懸命に生きていた自分を忘れてしまった。『躰を売っている』……オスカー以外に、愛する男性以外に抱かれて快楽を得ている、それだけしか、考えられなくなっていたのだ。

オスカーに愛されたい。ずっと愛し続けていた人に。正直、オスカーの抱かれることが怖くないといえば嘘になる。自分の躰が変わってしまったこと、強制的に変えられてしまった、変わらざるを得なかったことを彼は哀しむかもしれない。そういう状況に自分が落とされていたことを。けれど、その悲しみは乗り越えられる。オスカーはそれを哀しんでも、それだけでは終わらない。アンジェリークはそう信じていた。

オスカーは自分を見つめてくれている。自分を包んでくれている。彼の愛を、彼の靭さをアンジェリークは信じている。

「よし……! 行くわよ!!」

アンジェリークは思い切って立ち上がると、オスカーの執務室へ向かおうとした。そんなアンジェリークをミッシェルが嬉しそうに見ていた。だが、そこに慌てた様子の王立研究院の職員が駆け込んできたことによって、彼の表情は急変する。

「補佐官様、至急王立研究院へ向かってください。エリューシオンに異変が起こったそうです」

 

 

 

ミッシェルはエリューシオンに異変が起こったと言った。アンジェリークはそれを聞くとすぐさま王立研究院に向かった。

エリューシオン、アンジェリークが女王試験で育てた大陸。彼女の子どもといってもいいほど大切な大陸。そこに異変が起こったというのだ。

王立研究院に着いたアンジェリークを待っていたのは、凶報だった。エリューシオンで大規模な地殻変動が起こり、惑星そのものが崩壊する可能性があるという。

スクリーンに映し出されるエリューシオンの状況は凄惨たるものだった。次々に駆けつける守護聖たちもあまりの状況の言葉もない。

「行かなきゃ……」

エリューシオンに行かなくては……! アンジェリークはすぐにロザリアの許へ向かう。それをオスカーが追いかける。

アンジェリークはロザリアにエリューシオンへ赴く許可を求めた。

「駄目よ! 危険すぎる。もう少し落ち着いてからでなくては……今のエリューシオンへ行くのは自殺行為だわ!」

ロザリアは頑として許可しない姿勢を見せる。

「でも……! 今行かなくてはエリューシオンは崩壊してしまう! わたしたちのあの大陸が! わたしのエリューシオンが!!」

「駄目よ!! 貴女をそんな危険な目には合わせられないわ!」

アンジェリークをロザリアは必死に制止する。だが、アンジェリークは聞かなかった。ロザリアが許可を出さないと判ると再び王立研究院に戻った。そして、守護聖たちの制止を振り切り、次元回廊を開く。エリューシオンの降りる為に。

「ごめんなさい、ロザリア!」

そう言うや、アンジェリークは次元回廊に駆け込んだ。

「アンジェリーク!」

引き止めることは叶わないと悟ったオスカーも続いて次元回廊へ飛び込む。2人を飲み込み、次元回廊は閉ざされた。

「いつでもアンジェリークたちのバックアップが出来るようにエリューシオンから目を離すな!」

「すぐにでも次元回廊を開けるように準備して置いてください!」

ジュリアスが、ルヴァが、次々と指示を出す。そして少しでもアンジェリークたちの助けとなるように、守護聖たちは星の間へ向かった。エリューシオンにサクリアを送る為に。

 

 

 

エリューシオンに降り立ったアンジェリークが見たものはスクリーンを通して見る以上に凄まじいものだった。

「ああ……!」

衝撃の余り跪くアンジェリークをオスカーが支える。だが、アンジェリークは余りのショックにそれに気づくことも出来なかった。

こんなことがあっていいはずはない。エリューシオンの民はいつでも一所懸命生きていた。どんな困難にも挫けることなく乗り越えてきた。そんな彼らが、こんな目に遭っていいはずはない!!

アンジェリークの体がまばゆい光に包まれる。いや、包まれるのではなく、その光はアンジェリークから発せられていた。その光は広がり、エリューシオンを包み込む。蠕動していた大地が、咆哮していた火山が、海が、次第におとなしくなり、鎮まる。

無意識のうちにアンジェリークはサクリアを放っていた。そして、そのサクリアはエリューシオンを包み込み、災害の拡大を抑えたのだ。サクリアを放出し崩れ落ちようとするアンジェリークをオスカーが抱きとめる。

「オスカー様……」

漸くアンジェリークはオスカーの存在に気づく。自分の為にここに来てくれたのだ。

「全く……君は無茶をするな」

オスカーはそう言いながらも優しい目でアンジェリークを見つめる。

「わたしの所為……? エリューシオンがこうなったのは……」

ロザリアの状態を一番よく反映するのはフェリシアだという。だとすれば、エリューシオンが自分の精神状態の影響を受けないはずはない。きっと聖地へ赴いてからの自分の心の鬱屈がエリューシオンに影響したに違いない。

「そう決め付けるのは早急に過ぎるな。何でも君は自分の所為にしたがる」

オスカーは震えるアンジェリークを抱きしめる。

「でも……」

「この大陸が君の手を離れて随分経つ。君の影響だけでこんな災害が起こるとは思えない」

アンジェリークが納得しないと見るとオスカーはそう言う。アンジェリークの状態も影響したかもしれないがそれが全てではないはずだと。

「今は嘆くよりも復興させることが先だろう? 自分を責めるのはエリューシオンが安定してからにするんだ」

「……ええ、そうね」

嘆いている暇はない。自分を責めて自己嫌悪や自己憐憫に浸っている暇があったら、まずはエリューシオンの復興に努めなければ。

「……天使様……? そこにいらっしゃるのは天使様ですか!?」

かつて自分をそう呼んでいた人たちがいた。その声にアンジェリークが振り向くとそこには大神官・リオがいた。年老いて、既に老齢になっているリオ。そういえば、ここはかつて大神官が建ててくれた『天使の家』のある場所だった。

「来て下さったんですね、天使様!」

大神官は感激したようにアンジェリークに駆け寄ろうとする。相場が悪いことと老齢の所為もあってその足許は覚束ない。アンジェリークは大神官の許へ駆け寄った。

「ごめんなさい……わたしが……わたしの所為で……」

大神官に駆け寄り、アンジェリークは涙を流す。跪いて許しを請うように。

「何を仰るんです、天使様! 天使様はこうしてわたしたちの為に来てくださったじゃないですか!」

大神官は驚いてアンジェリークを立ち上がらせる。

「わたしたちは天使様がどれだけわたしたちを愛してくださったか、知っています。だから、大丈夫です。エリューシオンは立ち直ります。こんなことに負けはしません! わたしたちを信じてください、天使様。天使様が愛してくださったから、わたしたちは強くいられます」

大神官は力強く断言する。アンジェリークに愛されたから、それを知っているから、だから自分たちは強い。アンジェリークの愛がずっと自分たちを包んでいるから。

「じゃあ、俺たちにも手伝わせてくれ。俺もこの大陸を愛している。皆で協力すれば少しは早く復興できるだろう?」

それまでアンジェリークと大神官のやり取りを見守っていたオスカーが提案する。それをアンジェリークは驚いたように見つめた。自分は暫くここに留まるつもりでいた。エリューシオンをこのままにはしておけないから。ある程度安定するまで、直にこの地でサクリアを送ろうと思っていた。だが、オスカーまでそうするつもりでいたとは。

「オスカー様……」

「おっと、何も言うな、お嬢ちゃん。俺はもう決めたんだから、反対しても無駄だぜ?」

オスカーはそう言って笑うと大神官と共にかろうじて無事だったという集落へ向かい始めてしまったのである。

 

 

 

それから、アンジェリークは大陸の被害の状況に合わせてサクリアを送り、オスカーもまた炎のサクリアを送った。復興に必要な強さを与える為に。元々、エリューシオンの民の精神は強かった。こんな惨状にも負けることなく前向きに復興に向けて働いていた。オスカーはそれを支えるようにサクリアを与えた。いや、彼らへの敬意を表して、サクリアを贈ったのだ。

サクリアを送るとき以外は、アンジェリークは女性たちと共に、オスカーは男たちと共に働いた。エリューシオンの民はそれを心から喜び、感謝しより復興に意欲を燃やしていった。

「強いな、ここの人々は」

そんな民の姿にオスカーは賞賛の言葉を漏らす。それにアンジェリークも頷く。

「天使様がいてくださるだけで心が休まります。こんな状況にも立ち向かっていけます」

大神官はそう言って笑う。民たちも笑う。こんな悲惨な状況下で、彼らは笑顔を失ってはいなかった。アンジェリークはそのことに涙を流す。悲しいのではない。誇らしかった。民たちが。だから、アンジェリークも精一杯彼らの為に出来るだけのことをした。彼らには幸福になって欲しい。

「素敵な……素晴らしい民たちです……エリューシオンの皆は」

恐らくエリューシオンの災害は自分の所為。なのに、この大陸の人々は自分を受け入れてくれる。負けずに前向きに進んでいる。

「君が愛している大陸だからさ。君の愛を彼らは感じている。だから彼らは強いんだ」

働く彼らを見つめオスカーは言う。掌にサクリアを集中させ、放出する。彼らへの敬意と共に。

そして、アンジェリークに優しく微笑んだ。

「君はこんなにも愛されている、今も昔も変わらずに」

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失われぬ想い

アンジェリークとオスカーがエリューシオンに赴いて1ヶ月近くが経とうとしていた。エリューシオンの復興は進み、人々は漸く落ち着いた生活を始めることが出来るようになった。勿論、災害以前の状態になど戻ることは出来なかったが、それでも、普通に生活することは出来るようになっていた。

アンジェリークたちがエリューシオンに留まっていることに対してロザリアも守護聖も何も言わなかった。ただ、送られてくる守護聖のサクリア、それが優しくエリューシオンを包み込むだけだ。

「そろそろ、聖地へ帰っても大丈夫のようだな」

オスカーが言う。それにアンジェリークも頷きはしたものの、表情はどことなく寂しそうだった。オスカーもそうだった。このエリューシオンの民たちと別れるのが寂しかったのだ。

けれど、いつまでもここにいることは出来ない。守護聖が、女王補佐官がひとつの大陸に、民に深く関わりすぎてはいけないのだ。あと1週間。そう期限を決めて、2人はエリューシオンの復興を見守ることにした。

 

 

 

その日、オスカーは崩れてしまった山の街道を修復する為に男たちと共に出向いていた。アンジェリークは女たちと共に機を織り、食事の用意をしたりと働いていた。

「オスカー様は天使様の恋人なんですか?」

親しくなっている村人たちは作業をしながらオスカーに尋ねてくる。守護聖は神様のような方だと聞いていた。そんな尊い方が自分たちと一緒になって額に汗しながら倒れた木を、崩れた崖の土砂を退かし、片付け、修復している。不思議な気持ちだった。そして、誇らしくなり、力も沸いていた。

そして何よりこの炎神は気さくで夜になれば一緒に酒を酌み交わし、騒いでもくれる。村人たちは次第に彼に親しみ、今ではこんなことまで聞いてくるほどになった。

「そう見えるか?」

「違うんですか? 天使様、オスカー様といるとお幸せそうですよ」

オスカーの問いに村人は応える。

「わたしたちの天使様ですから、本当は誰にも渡したくないんですけど、オスカー様ならいいかなって思います」

「お前たちに認めてもらえたら怖いものなしだな」

オスカーはそう言って笑う。確かにアンジェリークは自分の側で微笑んでくれている。自分に心を開いてくれている。それを感じて、嬉しかった。

「その代わり、天使様を泣かせるようなことしたら、エリューシオンはずっとオスカー様を呪いますよ」

「ははははは、それは怖いな。絶対泣かせるようなことはしないから安心していいぜ」

オスカーはそう言って豪快に笑い、男たちも笑う。だが……

「オスカー様! 危ない!!」

崖が崩れ落ちてきていた。

 

 

 

「天使様! 天使様ーっ!」

村人の1人が駆け込んできたのはアンジェリークが女たちと共に昼食の準備をしていた頃だった。

「どうしたの?」

必死の形相で駆け込んできた村人にアンジェリークは水を飲ませながら尋ねる。

「オスカー様が……オスカー様が……!」

ぜいぜいと息をしながら吐き出された言葉にアンジェリークの顔色が変わる。

「オスカー様が、どうしたの?!」

「崖が崩れて、その下敷きに……」

その言葉を聞くや否やアンジェリークは家を飛び出していた。だから、村人がペロリを舌を出したことには気づかなかった。

 

 

 

オスカー様……オスカー様……!!

アンジェリークは必死に走った。

死なないで、オスカー様。まだ、わたし何も言ってない。貴方に応えてない。貴方にありがとうって言ってない!

何度も転びながら、アンジェリークは必死に走る。オスカーが無事かどうかはサクリアを感じ取れば判ることなのに、アンジェリークはそれに思いつく余裕もなく、ただオスカーの無事だけを願って走り続けた。

ずっとオスカーが見守ってくれていた。このエリューシオンでも支えてくれた。あの悲惨な状況下でも自分の為すべきことを思い出せたのはオスカーの力強い腕が自分を支えてくれたからだ。大きな寛く深い心で自分を包み込んでくれたからだ。

まだ、愛してるって言ってない。アンジェリークは泣きながら走る。

どうして、もっと早く自分に正直になってオスカーに胸に飛び込めなかったのだろう。オスカーがいなければ、自分は息も出来ない。失うかもしれない、そう思うだけでこんなにも、体が引き裂かれるように感じるのに。

「あれ、天使様。どうなさったんですか?」

漸く街道に辿り着いたアンジェリークを迎えたのはのんびりとした村人の声だった。

「オスカーは? オスカーは無事なの? どこにいるの?」

アンジェリークは必死の形相で村人に尋ねる。

「へ? オスカー様ならあちらにいらっしゃいますよ?」

村人は不思議そうに奥を示す。そこにはオスカーが確かにいた。立って、村人たちと楽しそうに笑っている。

「……」

その姿にアンジェリークは力が抜ける。へなへな……と足が崩れ、安堵の余りに腰が抜けたようにへたり込む。良かった……無事だったんだ……。

そのアンジェリークに気づいたオスカーが駆け寄ってくる。どう見てもぴんぴんしている、どこにも怪我をした様子などない。

「どうした?」

呆然と自分を見上げるアンジェリークに目線を合わせるようにオスカーも膝を折る。

「貴方が事故に遭ったって聞いて」

未だ呆然としたまま、アンジェリークは答える。ただ、オスカーをじっと見つめて。

「このとおり無傷だぜ」

オスカーは笑う。安心させるように。確かに崖は崩れたが、オスカーがそれに巻き込まれるようなドジを踏むわけはない。確り周りの村人たちも助け、かすり傷1つなかった。

そのオスカーの笑顔に途端に、アンジェリークの瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。

「馬鹿っ! 心配したのに!」

拳を握り、アンジェリークはオスカーの胸をぽかぽかと殴りつける。オスカーは笑いそうになるのを必死に抑えてそれを受け止める。こんなにも必死になって、自分の許へ駆けつけてくれたのだと思うと嬉しくてどうしても笑みが零れそうになる。

「貴方が……死んじゃうかもしれないって思った……!」

オスカーの胸を殴りながらアンジェリークは言う。

「貴方がいなくなったら生きていけない」

涙に濡れた瞳でアンジェリークはオスカーを見上げる。言いようのない愛しさがオスカーの胸を満たす。

「俺だって、そうだ。君がいなくちゃ、生きてはいけない」

オスカーは真剣な表情でアンジェリークを見つめる。瞳に限りない愛しさと優しさを乗せて。

「さぁ、立って。いつまでも座り込んでちゃ腰が冷える」

茶目っ気を乗せてオスカーは言い、アンジェリークを立ち上がらせる。が、次の瞬間、オスカーは地面に倒れていた。立ち上がらせようとしたオスカーにアンジェリークが抱きつき、バランスを崩したのだ。

一瞬何が起こったか判らなかったオスカーの唇に柔らかな感触。アンジェリークが口付けていた。一瞬の後にそれを悟るとオスカーはアンジェリークを抱きしめる。漸く交わせた口付けにオスカーは陶然となる。思う様互いを求め合い、味わい、漸く離れる。

「オスカー、愛してる」

唇が離れた瞬間、アンジェリークの薔薇色の唇から零れる言葉。オスカーが待ち続けた言葉だった。

アンジェリークはオスカーを見つめる。自分を見つめるその翡翠の瞳にオスカーは吸い込まれそうになる。

「俺もだ。愛してる、アンジェリーク」

そして、オスカーはアンジェリークの頭を引き寄せ、再び口付けようとした。そのとき……周りからワァッと歓声が上がった。エリューシオンの民たちだった。

「えっ」

それまで目に入っていなかった民たちの存在を思い出し、アンジェリークは真っ赤になるとオスカーから飛ぶようにして離れてしまった。それを残念に思いながら、オスカーは立ち上がるとアンジェリークに近づき、恥かしさの余り俯いてしまっているアンジェリークを背後から抱きしめた。自分の体に回されたオスカーの腕に手を重ね、アンジェリークは恥ずかしそうに、そして幸福そうにオスカーを振り返った。

そして、再び、オスカーの口づけを受けた。

「オスカー様おめでとう」

「天使様お幸せに!」

エリューシオンの民は我がことのように嬉しそうに、天使と炎神に祝福の言葉を送ったのであった。

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終章

2人が聖地に戻ってきた。そして、2人を包む空気が変わっていた。砂を吐きそうなほど甘いものに。そのことにロザリアも守護聖も喜んだ。

「色々と……ご心配をおかけしました」

アンジェリークはロザリアと守護聖にそう言って頭を下げた。エリューシオンのことだけではなく、これまでに全てに。守護聖たちは優しくそれに笑った。

「そなたが幸せならそれでよい」

守護聖たち全員の声を代表してジュリアスが言う。優しく目を細めて笑っている。守護聖たちは皆優しい表情でアンジェリークを見ていた。

「じゃあ、早速結婚式の準備をしませんとね~」

妙に張り切っているルヴァが言う。うきうきとした口調だった。あ~雨降って地固まる、とはこういうことを言うんですかね~

「オスカー、鼻の下が伸びてますよ?」

「ってゆーか、顔の筋肉緩みきってるぜ、おっさん」

口々にそう言って揶揄う守護聖たち。

「でも、これだけは言っておくわ。馬鹿ップルは許しませんからね」

「それは無理だよ、陛下。もう、デロデロ甘々の馬鹿ップルになるのは目に見えてるじゃん」

聖地に明るい雰囲気が戻っていた。

 

 

 

ごくっ。

オスカーは緊張して唾液を飲み下す。場所は、主星郊外、リモージュ邸前。隣にはアンジェリークがいる。

「オスカー?」

「ああ……緊張してしまってな……」

心配そうに問いかけるアンジェリークにオスカーは笑ってみせる。大丈夫だ。相手はカティスだ。自分たちの仲は知っているし、どれほど愛し合っているかも知っている。

とはいえ、流石に『お嬢さんを妻にください!』と言いに行くのだ。緊張しないわけがない。

「よし、行こう!」

そう言ってオスカーはアンジェリークの手を取る。そして玄関の扉を開けると。

逆さ箒が立っていた。しかも箒にはオスカーの写真が貼ってある。勿論、嫌な来客を早々に追い返す為のおまじないだ。

「もう、パパったら!」

呆れ半分怒り半分で言うアンジェリークにオスカーは乾いた声で笑う。カティスのことだから何かやるとは思っていた。彼らしいイタズラにオスカーは緊張が解けていく。と同時に戦闘態勢に入る。最終的には認めてもらえることは判っているが、それまでにカティスは愛娘を取られる意趣返しに、色々イタズラ(嫌がらせ)を仕掛けてくるだろう。

「お帰り、アンジェリーク。よくき(やがっ)たな、オスカー」

笑いながらカティスが出迎えた。

 

 

 

それから聖地時間で1ヶ月の後、2人の結婚式が行われた。場所はエリューシオンだった。

式には様々な人が招待された。家族、エリューシオンの民、聖地の関係者はもとより、アラン、リシャール、グランジョルジュ公爵、孤児院の院長や子どもたち。

自分を見守り、愛してくれた人々。彼らに祝福されながら、アンジェリークはオスカーと永遠の愛を誓ったのである。

もう、何があっても離れない。自分の心に嘘はつかない。逃げたりしない。

そう誓いながら。

 

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