あと3件。
育成をする気にはなれず、アンジェリークは1人森の湖に来ていた。ぺたりと座り込んで、穏やかな湖を眺めている。
アンジェリークは溜息をついた。あと3件の建物が建てば、自分は女王となってしまう。今日明日中には試験が終了するはずだ。
まだ、大丈夫。まだ、女王になる決意は変わらない。――アンジェリークは自分に言い聞かせる。
「ちょっと、疲れちゃったな……」
波1つない穏やかな湖面を眺めながら再び溜息をつく。
まだ大丈夫だから。自分の気持ちを抑えられるから。少しくらい休んでもいいよね……。そう自分に言い訳をする。
(オスカー様に逢いたいな……)
立てた膝の上にこつん、と額を乗せる。そのとき、かさっと草を踏む音がした。
(まさか、オスカー様?)
ドキッとして顔を上げる。
「おや、アンジェリークじゃないか。偶然だねぇ」
そこに立っていたのはオリヴィエだった。
「オリヴィエ様……」
声が沈む。違ったのか……。
「元気ないね、アンジェリーク。わたしでがっかりした?」
アンジェリークの横に腰を下ろしながら、オリヴィエは言った。
「そんなことないです。お逢いしたかっ……」
すっとオリヴィエが人差し指をアンジェリークの唇に当てた。
「無理しないの、アンジェリーク。ホントに逢いたいのは別の奴でしょ?」
悪戯っぽく笑って、オリヴィエはアンジェリークの言葉を止める。
「もうすぐ来るはずだよ。さっきアンジェリークの部屋に向かってるのを見たから。いないって判れば、まずここを覗いてみるんじゃないかな」
敢えて『誰が』という主語を省いてオリヴィエは言った。
「逢いたいんでしょ? あいつに」
ん? とアンジェリークの顔を覗いてオリヴィエが訊く。今度は素直にアンジェリークも頷く。どうせオリヴィエは自分の気持ちを知っているのだから。
「お逢いしたいんです。でも、怖くて……。お逢いしたら、自分の気持ちが抑えられなくなりそうで……」
膝を抱えたまま、アンジェリークは呟く。
「いいんじゃない? 抑えられなくなってもさ。誰も無理に女王になれなんて言ってないじゃない。そりゃ、あんたが女王になってくれたら嬉しいけど。でもね、アンジェリーク。自分の心を無理矢理押し込めて女王になって、あんたは幸せになれるの? 幸せじゃない女王なんて、きっと誰も見たくないと思うよ」
アンジェリークの心を踏み出させるようにオリヴィエは言う。
「オリヴィエ様……」
アンジェリークは呆然とオリヴィエを見つめた。
「わたしたちはあんたの幸福を願ってるんだよ。本当の幸福をね」
ポンポンとアンジェリークの金色の頭を叩いてオリヴィエは言うと立ち上がる。
「はい、わたしの役目は終わり。バトンタッチ」
そう言ってオスカーの肩を叩く。
「オスカー様……!」
いつの間に来ていたのか……アンジェリークは自分の顔が真っ赤になるのが判った。
「頑張りなよ、オスカー」
「ああ、サンキュー、極楽鳥」
照れ隠しにそうオスカーは応える。その口調に苦笑するとオリヴィエは手をひらひらと振って去っていく。あとにはアンジェリークとオスカーの2人が残される。そう意識した途端、アンジェリークは鼓動が速くなるのを感じた。
「アンジェリーク……」
自分の名を呼び、オスカーがゆっくりと自分に近づいてくる。アンジェリークはその視線に捕らえられたように身動きが出来なくなる。視線が吸い寄せられ、目が離せなくなる。
「アンジェリーク……君に謝ることがある」
アンジェリークの目の前に立ち、オスカーはそっとアンジェリークの柔らかな頬に触れる。アンジェリークは蒼氷色の瞳に捕らえられたまま、立ち竦む。
「君は、俺が今まで出逢ったどんな女とも違う気がするんだ」
これまで彼を取り巻いていた女性は、言ってしまえば肉欲の対象だった。目が離せなくなるような、もっとその内面を知りたくなるような、そして自分を知ってほしいと思うような女性はいなかった。
「どの女にもなかった不思議な魅力が……なんだかとても不思議な魅力がある。それに気付かず、子ども扱いしてきた俺を許してくれ」
本当は、その魅力に早くから気付いていた。しかし、自己防衛本能がそれを認めることを拒んでいた。それを認めれば彼女に惹かれていることを認めることになり、これまでの自分ではなくなることを感じていたのだ。やがては自分の心の制御が効かなくリ、『自分』が壊れてしまう……本能がそれを悟っていた。それほどまでに深い想いになっていたのだ。
けれど、今はそれを認めている。でなければ、彼女を失ってしまうのだから。それが何よりも怖い。
ゆっくりと、優しく、限りない愛しさをこめてオスカーは告げる。
「君と一緒にいると時は瞬く間に過ぎ去り、そうでないときは悲しいほどに永い。今の俺にとって、一緒にいられる僅かな時間が生きていることを最も実感できるときだよ」
真剣な表情でアンジェリークを見つめる。このまま刻《とき》が止まってしまえばいいと願いながら。
オスカーに見つめられ、触れられてアンジェリークは息が止まってしまいそうだった。アンジェリークの心の中を歓びが駆け巡る。オスカー様もわたしのことを……。
アンジェリークはオスカーの瞳を見つめたまま次の言葉を待った。けれど、オスカーはそれ以上は何も言わない。
オリヴィエとリュミエールの背中を押された。いや、こういうチャンスを与えてくれたジュリアスとクラヴィスにも。だから想いを告げる気になった。けれど、未だにオスカーの心のは迷いがあった。本当にこれでいいのか、と。
「そろそろ帰ろう。風が冷たくなった」
思いがけなかったオスカーの言葉に固まっていたアンジェリークをオスカーは促した。
「アンジェリーク……」
部屋に戻るまでずっと無言だったオスカーが漸く口を開く。眉間に皺を寄せ、苦しそうな表情をして。
「オスカー様……? どうなさったんですか?」
今までに見たことのないオスカーの表情に驚いてアンジェリークは訊いた。
2人で部屋に向かいながら、オスカーは決意を固めていた。アンジェリークに想いを告げようと。
「……俺は今悩んでいる。君の為に俺は出来るだけ力を尽くしたい。しかしそうすればするほど、君は女王に近づいてゆく。女王と守護聖の関係になったら、こうして2人きりで過ごすことも出来なくなるだろう。アンジェリーク、君はそれでもいいのか?」
決意が鈍らないように、オスカーは一息に告げる。俺は君を愛しているのだ、と。
オスカーの言葉を聞いたとき、一瞬アンジェリークは愛を告げられているのだとは気付かなかった。けれどいつにないオスカーの真剣な表情に、オスカーの心が伝わってきた。アンジェリークの表情は歓びのものへと変わっていく。
(ああ……! オスカー様……)
歓びが心を充たす。わたしも貴方が好きです、愛してます。『頑張れ!』と、心の中でオリヴィエが微笑む。『そんなの、わたしだって嫌です』 その言葉が喉元まで出掛かる。
――わたしたちの天使様が、宇宙の女王様になられる日を心待ちにしているです。天使様はわたしたちの誇りです。
オスカーの想いに応えようとした瞬間、大神官の声が蘇った。エリューシオンの民の姿が蘇る。自分を慕い、信じている人々の姿が。
そして、昨夜見た夢が。女王とディアの夢。それがただに夢ではないことは既に知っている。現実に交わされている言葉なのだ。自分に期待しているという女王の言葉。滅亡の危機に瀕している宇宙。
「あ……」
駄目だ……自分には女王の座を放棄することは出来ない。エリューシオンの民を、滅亡の危機に瀕している宇宙を見捨てることは出来ない……。
それまで輝いていたアンジェリークの表情が曇ったことにオスカーは気付いた。そして不安がよぎる。それを裏付けるようにアンジェリークの唇から告げられた言葉。
一瞬の沈黙が部屋を充たす。重苦しい空気がまとわりつく。
「……仕方ないな。結局お嬢ちゃんじゃ俺の魅力は判ってもらえなかったようだな。やれやれ、俺としたことがとんだ道化を演じちまったようだぜ」
心の打撃を隠すようにオスカーは軽い調子で言った。アンジェリークが深刻にならないように。アンジェリークが傷付かないように。
「あばよ、お嬢ちゃん。そのうち、俺が驚くほどのとびっきり良い女になって見せてくれよ」
(振られたってのに、俺も人が好い……)
心の中で自嘲する。これ以上アンジェリークと共にいることは辛かった。だから、それだけ言うと、すぐに部屋を出た。
確かにアンジェリークは自分の想いを受け入れようとしていたはずだ。自分の言葉を聞いて、アンジェリークの頬は薔薇色に染まり、表情は輝いていた。けれど、彼女の唇から発せられたのは拒絶の言葉だった。
オスカーの心の中に哀しみと虚しさが満ちていった。
「あら、オスカー様……」
アンジェリークの部屋を訪れようとしていたロザリアはアンジェリークの部屋から出てきたオスカーの姿を見た。
(アンジェリークったら、オスカー様とデートしてたのね。まぁいいわ。女王になってしまったらプライベートな時間なんて持てなくなってしまうものね)
そう思ったロザリアだったが、オスカーの様子がいつもとは異なることに気付いた。遠目でも判るほどオスカーの顔は強張り青ざめている。
オスカーはロザリアに気付きもせず、足早に去っていく。
(何かあった……)
漠然と不安を感じながら、ロザリアはアンジェリークの部屋に向かった。
「アンジェリーク、わたくしよ。入るわよ」
不安を感じたまま、ロザリアは返事を待たずに部屋に入った。
「……ロザリア……」
そこには涙を溢れさせたアンジェリークがいた。
「どうしたの、アンジェリーク!?」
慌てて駆け寄ると、優しくアンジェリークの肩を抱く。
「ロザリア……わたし……オスカー様を傷つけてしまった……っ」
アンジェリークはそう言って、ロザリアの胸に顔を埋めた。それきり何も言わずに、ただ涙を流している。
「アンジェリーク……」
ロザリアはそれだけで状況を理解した。アンジェリークはオスカーを想いながらも女王としての責任を選んだのだ。エリューシオンの民や宇宙を見捨てられなかったのだ。現在の宇宙の状況を理解していた為に……。
「いいわ、アンジェリーク。いくらでもお泣きなさい。涙が涸れるまで」
ロザリアは限りない優しさをこめて言った。
悄然としたオスカーの表情から、オリヴィエは全てを悟った。
「結局アンジェリークは俺よりも女王になることを選んだよ」
明らかな自嘲の笑みを貼りつけて、オスカーは投げ遣りな口調で言った。
「期待に添えなくて悪かったな」
絶望したような表情でオスカーは言う。そして、寝室へと篭ってしまう。誰かと言葉を交わせるような気分ではなかった。
オスカーの館にはオリヴィエとリュミエールが来ていた。『ひょっとしたら、今夜は帰ってこないかもね』なんてことを言いながら、最高に幸せな気分のはずのオスカーを揶揄うつもりでいたのだ。
きっとアンジェリークはオスカーの気持ちを受け入れる。オリヴィエはそう確信していたのだ。自分と湖で過ごしたアンジェリークの微妙な表情の変化からそう確信していたのだ。けれど、結果は逆だった。
「どうして……」
オリヴィエは呆然と呟く。
「優しすぎたのです、アンジェリークは……」
苦しそうな声でリュミエールが応える。
「きっと、彼女は宇宙を見捨てることが出来なかったのです……」
決して女王という地位や権力に執着したわけではない。アンジェリークはそのような少女ではない。だからこそ、自分たちはこれほど彼女のことを愛しているのだ。
彼女は大陸の民たちに『天使様』と呼ばれたのは決して名前の所為ばかりではない。初めはそうだったが、大陸の民たちもやがてアンジェリークの持つ限りない優しさと温かさを感じたのだ。だからこそ、心から『天使様』と彼女を呼び、慕いつづけたのだ。
「辛いね、オスカーも、アンジェリークも……」
「ええ。そうですね……。哀しすぎます……」
2人はオスカーの消えていった扉を見つめた。
「そうか……やはり、そうなったか……」
リュミエールから事の次第を聞いたクラヴィスは驚きもせずに応えた。
「クラヴィス様は、こうなることを予測《わか》っておいでだったのですか……?」
愕然としてリュミエールは言う。
「わたしもジュリアスも……こうなると予測して、女王試験の引き延ばしを決めたのだ」
感情を含まぬ声でクラヴィスは応える。隣にいるジュリアスも頷く。
「あとは、待つしかないか。オスカーが立ち直るのを」
声にいくらかの苦渋を含ませてジュリアスが言う。
「これでは、あまりにもオスカーが可哀想です」
オスカーの絶望したような表情を見てしまったリュミエールは、声に怒りを滲ませてて言う。ジュリアスに言いようのない怒りをぶつけようとする。
「アンジェリークとて……哀れです……!」
怒りが心の中を満たし、声が震える。
「我らとてアンジェリークの不幸を願ったわけではない。あれには幸福になってほしかった。けれど……宇宙は滅亡の危機に瀕しているのだ。それを救えるのはアンジェリークしかいないのだ……!」
言葉に詰まったジュリアスの跡をクラヴィスが引き継ぐ。
「ジュリアスとて辛いのだ。我々は守護聖だ。宇宙を支えねばならぬのだ、リュミエール……」
クラヴィスの声にも悲しみが篭る。
「わたくしは……守護聖であることを今日ほど厭わしく思ったことはありません……!」
なおも収まらぬ怒りを含んだ声でリュミエールは言った。
「……」
重苦しい沈黙が、部屋を支配していった。
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