オスカーの執務室の前に立ってアンジェリークは深呼吸した。はっと気付いて慌てて窓に映る自分の姿を確認する。髪に結んだリボンが曲がっていないか、確かめて整える。もう一度深呼吸するとドアをノックした。中からオスカーの声が応えると、アンジェリークは執務室のドアを開けた。
「こんにちは、オスカー様。育成をお願いに来ました」
いつもの科白を言う。けれどドキドキして声が上擦りそうになってしまう。
「よう! よく来たな」
オスカーが優しい笑みを湛えて応える。
「俺に逢えなくて寂しかっただろう? ……実は俺もさ」
初めは揶揄うように言っていた科白。だが、今は心の底からの言葉だった。
アンジェリークはオスカーの気障な科白にくすっと笑う。昨日もお逢いしましたよ、オスカー様。でも、わたしもお逢いしたかったです……。心の中でそう応える。恋する者にとっては僅かな時間だって永遠のように思えるのだ、逢えない時間は。なのに、逢っている時間は一瞬のように過ぎ去ってしまう。
「俺の力が必要なんだな?」
いつまでもアンジェリークを見つめていたかったがそうもいかなかった。オスカーは守護聖の表情に戻って言った。
「今日は少しだけ、育成をお願いします」
「少しでいいのか?」
「はい」
たくさんお願いしてしまうと、それだけ建物が建ちやすくなる。それだけ早く女王になる日が来てしまうから。
聖殿に来る途中、王立研究院に寄った。大陸の様子を見ると、9件も新たな建物が増えていた。伝説の島に辿り着くまでにあと僅か9件を残すのみとなっている。もし今夜、守護聖たちが昨日のように贈り物をしてしまったら、もう、明日の朝には女王になってしまう。
「判ったよ。お嬢ちゃんの頼みは確りと聞いたぜ。任せておいてくれ」
オスカーが微笑んで応える。
育成の依頼は終わってしまった。これではもう退室しなければならない。
もう少しだけオスカー様の傍にいたい……そう思ったアンジェリークの表情が寂しげなものになる。
さっきまでは輝くように微笑んでいた。だが、今は寂しそうな表情をしている。そのアンジェリークの表情の変化にオスカーは気付いた。そしてその変化が嬉しかった。
(オリヴィエの言ったとおりか……)
正直なところ、オスカーにはオリヴィエの言葉が信じられなかった。自分がアンジェリークを想うように、彼女も自分を想ってくれているなど……。
だが、自分と逢ってアンジェリークは心の底から嬉しそうに微笑んでいるようだ。白い頬が薄紅色に上気していた。そして今、部屋を去らねばならなくなると、寂しそうな表情をする。
「お嬢ちゃん、次はどこに行くんだ? 俺は今から王立研究院に行くが、途中まで一緒に行かないか?」
このまま別れてしまうのが勿体無くて、オスカーはそんなふうにアンジェリークを誘う。途端にアンジェリークの表情が明るくなり、嬉しそうに頷く。その変化を見てオスカーは再び微笑んだ。
「じゃあ、行こうか」
執務室のドアを開けると、オスカーはアンジェリークを促して部屋を出た。
他愛もないお喋りをしながら、2人は王立研究院へ向かった。アンジェリークがまだ普通の女子高生としてスモルニィ女学院に通っていた頃のこと、厳しくて優しかった兄のこと家族のこと。オリヴィエやルヴァたちの聖地での意外なドジ話。そんなことを。
何ということもない他愛もないお喋り――いや、2人とも細心の注意を払いながら話をした。務めの話はしなかった。その話をすれば互いの立場を思い出してしまうから。女王候補――いや、最早候補ではなく、次期女王というべきか――と守護聖という立場を。恋し合うことの許されない関係を。
王立研究院の前でアンジェリークはオスカーと別れた。研究院の中へ消えていくオスカーの後ろ姿を少し寂しい気持ちで見送ると、アンジェリークは気を取り直して公園へ向かった。
心の力はあと5つ残っている。『少し育成』であれば、2人に依頼できるし、『たくさん育成』でも1人には依頼できる。だが、そうする気にはならなかった。
出来るだけ長く『女王候補』でいたい。女王にはならずに……。頑張っているエリューシオンの民には申し訳ないと思う。けれど女王になってしまったら、恋をすることは許されない。オスカーと2人でいる時間なんて持てなくなってしまうから。だから、少しでも長く女王候補でいたかった。
公園をのんびり散歩すると、森の湖へ向かった。
「ふふっ、綺麗……」
しゃがみこんで、湖面を見つめる。きらきらと光を反射して、湖面が輝いている。
何度かここで守護聖とデートした。一番多いのは勿論オスカーだった。ここに来るといつもとはちょっと違う守護聖の表情を見ることが出来た。妙に落ち着かないジュリアス、微かながら微笑みを浮かべてくれるクラヴィス。いつも気障な科白を言うオスカーが更に輪をかけて気障なことを言ったりした。つい、期待してしまうようなことを。
「オスカー様……」
ついさっきまで一緒にいたのに、逢いたいと思ってしまう。いつでも、いつまでも傍にいて欲しいと……。
「そう言えば……」
以前、日の曜日にここでサラとパスハに会った。そのときに滝の不思議な言い伝えを聞いた。滝の前で祈れば逢いたい人に逢えると……。但し、それには心の力が5つ必要だと。
自分の心の力はちょうど5つ残っている。
「お祈り、してみようかな……」
ふらりと立ち上がると、躊躇いがちに滝の前へと向かう。
滝の前に跪くと、目を閉じる。閉じた目蓋に面影を思い浮かべる。情熱の色をした髪を持つ人を。一番逢いたいと思う人を。オスカーを……。
じっと滝に向かって祈る。――オスカー様に逢いたい、と。
どれほどそうしていたのか、何の変化もないのかと諦めかけたときに変化が起こった。
「また、お嬢ちゃんか」
背後でオスカーの声がしたのだ。
「そんなに俺に逢いたかったのかい?」
驚きと嬉しさのあまり、アンジェリークは一瞬息が止まった。そして頬を染める。
「お逢いしたかったです、オスカー様……」
ほんのついさっきまで一緒だったのに、そんなことを言っては呆れられてしまうかもしれない。けれど、それが偽りのない本心だった。
「そう言われると悪い気はしないぜ、お嬢ちゃん。俺もここにお嬢ちゃんがいるような気がしたんだ。お嬢ちゃんの想いが俺をここに呼んだんだろうな」
オスカーの言葉にアンジェリークは更に頬を赤くする。
オスカーの言葉のとおりだったらどんなにいいだろう。自分の力が、自分の想いがオスカーを招き寄せたのだとしたら。
恥ずかしそうに頬を染めているアンジェリークをオスカーは眩しそうに見つめていた。
逢いたかったのは自分のほうだ。アンジェリークが執務室に訪ねてきてくれて、どれほど嬉しかったか……。王立研究院へ行く、ほんの数分間共に歩いた時間がどれほど幸福だったことか。アンジェリークと共にいる、その僅かな時間だけがオスカーにとって最も幸福な時間なのだ。
だが、不意に昨夜のジュリアスの言葉が蘇る。――守護聖として行動してほしい――その言葉がオスカーの心に重く圧し掛かる。
「俺と『恋人たちの湖』に来るなんて、全く懲りないお嬢ちゃんだな、あんたは」
そんな思っても見ない言葉がオスカーの口から零れる。自分の心を戒めるように。以前に『子どもを相手にする気はない』と告げていたから、それに追い討ちをかけるように。だが、その言葉もすぐに否定するようなことを言ってしまう。アンジェリークの表情が曇ってしまったから……。
「まぁ、いいか。俺も可愛い女の子とデートして悪い気はしないからな」
曇っていたアンジェリークの表情が僅かに明るくなる。その変化を見てオスカーはホッとした。彼女に哀しげな表情は似合わない。いつも輝くように笑っていてほしい。……出来ることなら自分の傍らで。
「ところで、お嬢ちゃんはロザリアと次の女王の座を目指して試験を受けているんだよな」
自分に言い聞かせるようにオスカーは言う。彼女は女王候補なのだ、と。試験など放棄させてしまいたいという思いを戒めるかのように。
「試験の結果、どちらが女王陛下になっても、俺は精一杯協力するぜ。それが守護聖としての務めだ……なんてな。実は、俺は女性の願いを叶えずにはいられない性質《たち》でね。女王陛下の為にも出来る限りのことをしたいのさ」
彼女は女王候補なのだ、と再認識するように言葉を繋ぐ。己の心の揺れるままに、どうも自分でも発言の首尾が一貫しない。それがアンジェリークの表情を不安げなものにしていく。
「しかし、お嬢ちゃんが女王候補なんて、俺には今でのピンとこないな。女王陛下は優雅で気品があって慈愛に満ちた御方でな……どうもお嬢ちゃんとは違うんだ。でも人を明るくしてくれるところなんかはどことなく似てるな。お嬢ちゃんも磨けば光ると思うぜ」
女王になんてしてしまいたくない……。このままずっとただの少女として自分の傍にいてほしい。だが、守護聖である自分がそう願うのは許されないことなのだ。けれど、この幸福な時間が永遠に続けばいいと願わずにはいられなかった。
一方のアンジェリークはオスカーの言葉に一喜一憂させられていた。ちょっとしたオスカーの言葉が嬉しかったり、哀しかったり……。気を持たせるようのことを言うかと思えば、女王候補としてしか見ていないようなことを言う。期待してしまっていいのか、そんなものを抱いてはいけないのか判らない。
(期待なんてしちゃいけないのよ、アンジェリーク。わたしは女王候補なんだから……)
心の中でゆっくりと首を振る。けれど、今この時間だけは恋する少女の幸せな気分に浸っていたかった。
2人は無言で並んだまま、時を過ごした。語り合わなくても、共にいるだけで幸福が胸に広がっていくようだったから。一緒にいるだけで言葉は不要だった。
既に日が暮れかかっていた。随分長い間そうしていたようだった。けれど、ほんの一瞬の時間のようにも感じた。
「そろそろ帰ることにするか?」
(このままじゃアンジェリークを帰したくなくなるからな……)
オスカーは心の中で苦笑してそう切り出した。
「……はい」
まだ一緒にいたい。けれど我が儘は言えない。我侭な娘だなんてオスカーに思われたくはない。オスカーだって色々と忙しいはずなのだから。だからアンジェリークはそう応えた。
「じゃあ、部屋まで送ろう。可愛いお姫様を守る騎士を気取らせてもらうぜ」
少しでもアンジェリークの傍にいたい。だからオスカーは言う。同じ思いでいたアンジェリークも嬉しそうに頷く。
オスカーはそっとアンジェリークの肩に手を回す。
「暗くなってるから、足元に気をつけるんだぞ」
そんな言い訳をしながら。本当は少しでもアンジェリークに触れていたかったのだ。
「はい……」
抱かれている肩が熱い。アンジェリークは恥ずかしくて、嬉しくて、頬を染めて俯いて歩き出す。オスカーに触れられている肩に神経が集中してしまって、足元への注意など向けられるはずがなかった。だから……
「きゃっ」
滝から落ちる水飛沫で濡れていた草の所為で、アンジェリークは足を滑らせる。オスカーが支える暇もなく、アンジェリークは転んでしまう。
「大丈夫か、お嬢ちゃん!?」
(もうっ、わたしの馬鹿っ!! 恥ずかしい!!)
真っ赤になってアンジェリークは俯く。
「立てるか?」
オスカーがアンジェリークの手を取って優しく訊く。
「はい……」
そう応えてアンジェリークは立ち上がろうとした。途端に足首に痛みが走る。立ち上がれずに再び座り込んでしまう。
「痛……」
足首を押さえているアンジェリークの前にオスカーがしゃがむ。そっとアンジェリークの足首に触れる。
「ああ、捻ったらしいな……。痛むだろう、可哀想に……」
アンジェリークの折れそうに細い足首が腫れてしまっていた。オスカーはアンジェリークの体を抱き上げる。
「オ……オスカー様っ!?」
突然オスカーの腕の中に抱き上げられて、アンジェリークは慌てた。
「じっとしてるんだ、お嬢ちゃん。落としてしまうじゃないか。そんなに腫らしてちゃ痛くて歩けないだろう? 俺が抱いていってやるよ」
アンジェリークを労わるように、だが有無を言わせぬ強さをもってオスカーが言う。こんな形であれ、アンジェリークを腕の中に抱く機会が訪れるとは。
アンジェリークは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしている。どうしたらいいのか判らない。恥ずかしくて顔が見ることが出来ない。オスカーの腕の中にいると思うだけでドキドキして体が硬くなってしまう。
「お嬢ちゃん、恥ずかしいんだったら俺の胸に顔を埋めてるんだ。そうすれば誰にも君の顔を見られずに済む」
本当は、自分が他の奴になんて見せたくないのだ、こんなに愛らしい天使の表情を。そんなオスカーの想いは緊張しまくっているアンジェリークには届かない。
そんなことしたら、余計に恥ずかしいです……そうは思ったものの他に手立てはないようだ。顔をあげていることは恥ずかしすぎて出来ないのだし、だとすれば、せめて顔を隠すしかない。それに自分が体を硬くして縮こまっているとオスカーにも負担がかかってしまうようだったから。仕方なくアンジェリークはオスカーの広い胸に顔を埋めた。
オスカーはアンジェリークの温もりを感じながらゆっくりと歩いた。アンジェリークの怪我に余計な衝撃を与えない為、という言い訳をして。少しでも長くこの温もりを抱いていたいという本心を表面上は隠して。
それでも、2人は間もなく特別寮に着いてしまった。途中誰にも遭わなかったことにアンジェリークはホッとしていた。こんな恥ずかしい姿を誰にも見られたくなかったから。そして偶然がくれた特別な時間を誰にも邪魔されたくなかったから。
オスカーはアンジェリークの部屋に入ると、彼女を椅子に座らせた。
「ちょっと待っててくれよ、お嬢ちゃん」
そう告げてから足早に医務室へ向かう。本当はアンジェリークを連れて行ったほうが良かったのだろうが、誰にも邪魔されたくなかった。
オスカーの出て行った部屋でアンジェリークは息をついた。体が熱い。まだドキドキと胸が高鳴っている。逞しい腕に抱き上げられ、広い胸に抱かれて、オスカーの温もりに包まれていたのだから。
「どうしよう……」
あんなふうにオスカーの温もりを感じてしまったら、もう気持ちが抑えられないような気がする。
「待たせたな」
再びアンジェリークが溜息をついたとき、オスカーが戻ってきた。手には救急箱を持っている。
オスカーは部屋に入るとアンジェリークの前に跪く。捻ってしまったほうの足を優しく取ると自分の立てた膝の上に乗せる。そっと靴を脱がせる。
「こんなに腫れてしまって……可哀想に」
アンジェリークの足首は先程よりも無残に腫れあがっている。
「あっ、あのっ、自分で出来ます……!」
オスカーに足首に触れられてアンジェリークは一気に体温が上がったような気がした。
「俺に任せておけ。慣れてるから、巧いんだぜ」
アンジェリークの言葉には取り合わず、オスカーはてきぱきと処置していく。アンジェリークは自分の足首がどんどん熱を持っていくのが判った。怪我の所為ではない。オスカーに触れられている所為だ。そしてその熱は全身へと拡がっていくようだった。
「ランディの奴がよく稽古中に怪我をするんでな、不本意ながら慣れてしまったようだ。あいつも負けん気は強いし、まぁ筋も悪くないんだがまだまだ未熟でな。よく怪我をするんだ」
アンジェリークの緊張を解すように、オスカーは軽く言う。
「いきなり女王候補になって戸惑っただろうが、そろそろ慣れてきて他の守護聖たちとも話をしてるみたいだな、お嬢ちゃんを誘う奴も多いだろ?」
腫れ上がった足首に湿布薬を貼り付けながらオスカーは言った。ランディの名前を出したことでジュリアスの言葉を思い出したのだ。――ランディのことか。そう言えば、あれも似たようなことを訊きに来たな――ジュリアスは確かにそう言ったのだ。ランディも、かなりアンジェリークに本気になっている。
いや、きっとランディだけではないだろう。他にももっといるはずだ。それにアンジェリークはどう対応しているのだろう。それが気になった。同時に、先日の公園でオリヴィエに対して感じたものと同じ感情がオスカーの中に湧き上がる。
突然関係のない話題を振られて、アンジェリークはきょとんとした。
「え? ええ。皆様、時々誘ってくださいますけど……」
「そうか、連中も隅に置けないな。お嬢ちゃんもなかなかやるじゃないか」
アンジェリークの応えに微かに動揺したものの、冷静なふりで包帯を巻いていく。
「で、その中にお嬢ちゃんに本気になっていそうな奴はいるのかい?」
声が掠れそうになる。びくびくと怯えそうな心を隠してオスカーは努めて揶揄うような口調で訊いた。
その瞬間、アンジェリークの体が緊張する。手の中に置いたアンジェリークの足が、それをオスカーに伝える。
「いません、そんな人……」
震える声でアンジェリークは言う。そんなこと知らない。もし本気になっている人がいても関係ない。自分が好きなのは、恋しているのは目の前にいるこの人だけなのだから。オスカーだけなのだから。
何でオスカー様はそんなことを言うのだろう……。アンジェリークの心の中に微かな期待と、正反対の不安が生まれる。もしかしたらオスカー様もわたしのことを……という期待と、彼にまとわりつく自分が鬱陶しくて、遠ざけたくてそんなことを言うのではないかという不安が。
「それじゃあ、仕方ないな、お嬢ちゃん。もっと自分を磨く努力をしたほうがいい」
オスカーは安堵の溜息を心の中でついた。アンジェリークが気付いてないだけかもしれない。けれど気付いていないとすれば、それは多分、彼女が他の守護聖をそういう対象としては全く意識していないからなのだとオスカーは解釈した。そう解釈することで安心しようとしたのだ。
「何なら、俺がつきっきりでアドバイスしてやってもいいんだぜ。勿論、お嬢ちゃんが望むんならな」
声が明るく弾んでいるのが自分でも判った。俺も現金なものだぜ……とオスカーは苦笑する。
その言葉で気分が明るくなったのはアンジェリークも同じだった。今の科白から考えれば、少なくとも鬱陶しいなんて思われてはいないようだ。
「さあ、出来た」
包帯を巻いた足をそっと下ろす。
「明日になれば多少腫れは退くだろうが、無理はするんじゃないぜ、いいな? お嬢ちゃん」
頬を染めたままアンジェリークは頷く。それを見て安心したようにオスカーは微笑む。
「もし、痛んで眠れないようだったら、これを服むんだぞ」
アンジェリークの手を取ると、錠剤を渡す。鎮痛剤だった。
「今日はゆっくり休むんだ。……さて、俺はもう帰るよ。これ以上ここにいたら帰りたくなくなってしまう」
冗談のような口調で、オスカーは本心を言った。
「ありがとうございました、オスカー様」
「礼は要らないんだぜ、お嬢ちゃん。紳士として淑女《レディ》に尽くすのは当然のことだ」
微笑んで応えると、オスカーは軽く手を上げて部屋を出て行った。本当に帰りたくなくなってしまうから。
部屋を出たオスカーは扉に凭れ掛かり、溜息をついた。
腕の中にまだアンジェリークの温もりが残っている気がした。力いっぱい抱きしめてしまいたかった。そうすれば折れてしまうのではないかと思うほど細い躰だった。初めは強張らせていた躰も、やがては力が抜け自分に預けてくれた。安心したように。
アンジェリークの温もりを、柔らかさを知ってしまった。もう忘れることなど出来ぬほど、オスカーの中に刻み込まれてしまった。
「アンジェリーク……」
愛しさを込めて、オスカーは呟いた。
捻ってしまった足に負担を掛けないように気をつけながら、アンジェリークはベッドへと移動した。何とか足に負担を掛けずに着替えると、ベッドにもぐりこむ。まだ夕食は摂っていなかったが、とても食事をする気分ではなかった。
オスカーの思わせぶりな科白に心が乱れていた。そっと自分で躰を抱きしめる。オスカーに抱かれていた肩が熱い。触れられていた足首が熱を持っているようだ。
今でもオスカーの腕の中にいるような気がしていた。オスカーの逞しい腕の中に。広い胸の中に。忘れられそうになかった。
苦しかった。想いが溢れてしまいそうだった。
「……明日はエリューシオンに行こう……」
自分を慕ってくれている大神官の、民たちの顔を見ればきっと抑えることが出来る。女王候補としての責任感を取り戻せる。そうしなければ、自分はきっと責任を放棄してしまう。そんなことは許されないのだ。
宇宙は今、危機に瀕している。現女王の力ではそれを食い止めることは出来ない。女王の力は衰えており、滅亡の日を引き延ばすことしか出来ない。それももう限界に近づいている。力の衰え始めた女王にとってはそれだけでも十分すぎるほど負担がかかっているのだ。自分たちが育てている新大陸、あの生命力に溢れた新宇宙が世界を救うことになるのだ。自分とロザリアがそれを成し遂げなければならないのだ。
だから、自分は恋に囚われていてはならないのだ……。
その夜、アンジェリークは眠れなかった。そして、自分の館に戻ったオスカーも……。
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