アンジェリーク

哀しみの必要

「あら、アンジェリーク。早いのね」

寮の食堂で朝食を摂っていると、ロザリアが声をかけてきた。

「あ、おはよう、ロザリア」

「おはよう、アンジェリーク。あんたのほうが早いなんて、雨でも降るんじゃないかしら」

最近のロザリアはそんな冗談も言うようになっていた。ロザリアも女王候補ではあるのだが、実はとっくに敗北を認めているのだ。アンジェリークの明るさ、優しさ、素直さ。自分にはないものを持っている。きっとアンジェリークのほうが素晴らしい女王になるだろう。

自分が女王候補として力不足だとは思っていない。だからもし、競争相手がアンジェリークでなければ、きっと自分が女王になったと思っている。けれど、アンジェリークに対しては、自分のほうが劣っていることを素直に認めざるを得ない。もし許されるならば、ディアのように女王アンジェリークの補佐官となり彼女を支えていきたいと思っている。アンジェリークには守ってあげたいという保護欲をそそられる。支えてあげたいと、柄にもなく思ってしまうのだ。

「あんた、よく眠ってないんじゃない? 目が腫れてるわよ」

「えっ、やだなぁ……」

誤魔化すようにアンジェリークは笑う。事実、アンジェリークは昨夜よく眠れなかったのだ。

「じゃ、先に行くね」

ロザリアは案外鋭いところがある。何か言われないうちに、アンジェリークは席を立つ。

「あんまり食べてないじゃない。ダメよ、体調管理だって試験のうちよ」

「以前、マルセル様からいただいたお菓子、あったでしょう。昨夜、つい食べすぎちゃって。苦しくって、よく眠れなかったの」

作り笑いをして、アンジェリークは言う。

「じゃあ、お先に」

そう言うと、まだ何か言いたそうなロザリアを残してアンジェリークは足早に自室に戻った。

「さ、育成のお願いに行かなきゃ」

王立研究院から届けられた『星の望み』を広げる。何の力を送るか考える為に。

「一番望みが強いのは……炎……」

と、その言葉に反応したかのように、扉をノックするものがあった。覗き窓から確かめると、オスカーが立っていた。

「オスカー様……」

扉を開けることを躊躇っている間にも、オスカーはノックを続ける。

(どうしよう……)

日の曜日でもないのに、オスカーが誘いに来てくれたことは嬉しかった。けれど、同時に恐ろしかった。もし、昨日のようにオスカーの言葉に傷付いてしまうことがあったら。或いは、もしこれ以上気持ちが抑えられなくなってしまったら。

「……いないのか……」

扉の外でオスカーが溜息をついたのが判った。迷っていた為に、結果的に居留守を使ってしまったことになる。

「オスカー様……」

 

 

 

「あら、お姫さま。珍しい」

どちらかというと仲の悪いロザリアが訪ねてきたことに少々オリヴィエは驚いた。

「今日は、育成?」

「いいえ、お話に参りました、オリヴィエ様。アンジェリークのことで」

育成を依頼するときよりも真剣な表情で、ロザリアは言う。

「オリヴィエ様はアンジェリークととても親しくていらっしゃるから……何かご存知なのではないかと思いましたの」

そう言いながら、ロザリアは心配そうに眉を顰める。

「アンジェリークが、どうかしたの?」

心配そうなロザリアの表情がとても優しいものであることに気付き、オリヴィエの声も柔らかくなる。

「昨夜、アンジェよく眠っていないみたいなんです。何か心配事があるのではないかと思って……。それをオリヴィエ様ならご存知ではないかと思いましたの」

「アンジェリークが?」

オスカーの馬鹿の所為だと思ったものの、表情には出さない。

「エリューシオンのことじゃないの?」

「エリューシオンのことだったらわたくしに相談してくれます。わたくしたち、自分たちの大陸がより良くなるように、一緒に研究したり相談したりしてましたもの」

意外なことをロザリアが言う。

「わたくし、こう言ってしまっては女王候補としては失格かもしれませんけれど、アンジェリークに女王になって欲しいんです。彼女のほうがずっと相応しいから。だからわたくしはあの子を支えてあげたいんです。心配なんです」

ロザリアの瞳は真剣だった。嘘をついてる瞳ではなかった。

「意外に優しいんだ、ロザリアって。でも、アンジェリークが何も言わないんならしょうがないじゃない。ごめんね、わたしも何も知らないんだ。アンジェリークが来たらそれとなく聞いておいてあげるよ」

嘘をついていることは少々心苦しかったが、オリヴィエはそう応えた。

「お願いします、オリヴィエ様」

そう言って、ロザリアは部屋を出ようとする。

「あら、育成はいいの?」

「はい、力を使ってしまいましたから」

「そう」

ぺこりとお辞儀をしてロザリアは出て行こうとする。その背中にオリヴィエは優しい眼差しを向け、呟いた。

「あんたの優しさに感動しちゃったから、夢のサクリアを送っておいてあげるよ」

 

 

 

「じゃあ、お願いします、ジュリアス様」

アンジェリークは挨拶をしてジュリアスの執務室を出た。

「次は……ルヴァ様の所ね」

呟いて歩き出す。すると、『アンジェ』という声と共に突然後ろから抱きつかれた。

「マルセル様?」

驚いて振り向くとマルセルが笑っている。

「ジュリアス様の所へ行ってたの? 次はどこへ行くの? 僕の所は?」

仔犬のように戯《じゃ》れつきながら、小鳥のように囀る。

「今日は、これからルヴァ様の所へ……」

「えー、僕の所は?」

「今日は……」

「えー、なーんだ、つまんないの!」

ジュリアスの執務室の前で、そんなことも気に留めずマルセルは囀る。

「あっ、マルセル! 何やってんだ、お前!」

2つ先の扉が開き、部屋の主であるランディと、今ではそれなりに関係改善し友人となっているゼフェルが出てくる。

「てめー、何アンジェに抱きついてんだよ。離れろよ!」

最近、アンジェリークを気に入り始めたゼフェルは怒鳴る。

「やだよ。僕はアンジェが大好きだもん」

理由になっているような、なっていないようなことを言って、マルセルはアンジェリークに負ぶさるようにして抱きついたまま離れない。

子ども扱いされるといっては怒っているマルセルだが、こんなところが実に子どもっぽい。アンジェリークはそれに苦笑する。

「アンジェが困ってるだろ、マルセル、離れろ」

今度はランディが言う。

「やだよ」

「離れろよ」

「離れやがれっ」

「やだーっ」

場所柄を弁えず少年守護聖たちは騒ぎまわる。その結果……

「いい加減にせぬか! そなたら!!」

部屋の主、ジュリアスに叱られることになる。

 

 

 

妙に廊下が騒がしい。ただでさえ苛立っていたオスカーは遂に我慢が出来ず、部屋を出た。

ジュリアスの部屋の前に数人の守護聖が集まっている。ジュリアス、ランディ、マルセル、ゼフェル。そして、アンジェリークもいた。

「アンジェリーク……」

知らずに名前が口から漏れる。

どうやら少年守護聖たちが何かやったらしい。ジュリアスが彼らを叱っている。

「おや、オスカー、貴方もですか?」

隣の執務室からリュミエールが出てきている。リュミエールも騒ぎを聞きつけて出てきたらしい。

「マルセルたち何騒いでんだろ。あら、アンジェリークもいるわね」

いつのまにか、階下からオリヴィエとルヴァもやって来ている。

「全くそなたたちには守護聖としての自覚はないのか」

近づいていくと、そんなふうにジュリアスがランディを叱っている。ランディたちは自分たちが場所も弁えず騒いでしまったことを自覚しているから、神妙に叱言を聞いている。

「アンジェリークもアンジェリークだ。この者たちと一緒になって騒いでどうするのだ」

「ちょっと待てよジュリアス。アンジェは悪くねーだろ。騒いでたのはオレたちなんだから。アンジェはとばっちり受けただけだぜ」

流石にむっとしてゼフェルが言う。

「そうです、僕が悪いんです。だからアンジェまで叱らないでください」

必死になってマルセルも言う。

「いったい何遣らかしたのよ、あの子たち」

と、オリヴィエはそこにいたクラヴィスに話を向ける。何事にも無関心だったはずの闇の守護聖も、流石に騒ぎの中心がアンジェリークだというので執務室から出てきていたのだ。

「どうやら、あれたちがあの娘を奪い合っていたようだな」

思いっきり誤解を招きそうな科白でクラヴィスが応える。微かに笑みを浮かべて。

「とにかく、今後は気をつけるように。良いな」

話しているうちにジュリアスは叱言を終わらせたようだ。いつのまにか全員集まってしまっている守護聖たちを見て、ジュリアスは苦笑した。騒ぎの中にアンジェリークがいたことで全員集まってしまったのだろう。いつのまにか全員の心を掴んでいたアンジェリークの女王としての資質にジュリアスは驚きと共に満足感を感じていた。

「そなたたちも戻るのだな。遊んでいる暇はないぞ」

いつものような冷厳な口調で言ったが、どこか柔らかくなっている。それだけ言うと、ジュリアスは執務室へと戻った。

「全く、てめーの所為だぞ、マルセル」

「ごめんね、アンジェ」

「いいえ」

ゼフェルに小突かれて謝るマルセルにアンジェリークは微笑んだ。そして、集まってしまっている守護聖たちに気付いて、恥ずかしそうに笑う。

「お騒がせしてしまって申し訳ありません」

ぺこりと頭を下げる。

「お前が悪いのではあるまい」

クラヴィスはそう言って微笑む。尤も誰も気付かないほど微かにではあったが。だが、いつもは冷たいはずの声が暖かかったことは誰もが気付いた。

「そうよ。マルセル、あんまりアンジェリークを困らせちゃ駄目よぉ」

つん、とマルセルの額を突いてオリヴィエが言う。

「はい……」

しゅんとしてマルセルが応える。

「まぁ、マルセルにも悪気があった訳ではありませんし……」

リュミエールが優しく微笑んで言う。

やがて守護聖たちはそれぞれの執務室へと戻っていく。

「本当にごめんね、アンジェ」

「気になさらないでください、マルセル様」

安心させるように笑うとアンジェリークは歩き始める。思わぬところで時間を取ってしまったから、早くルヴァの所へ行かなければ日が暮れてしまう。

「じゃあね、アンジェ。今度は僕の所にも来てね」

バイバイと手を振ってマルセルも自分の部屋へ戻る。

去っていくマルセルに後姿を見送ってから、アンジェリークも再び歩き始める。が、すぐにその足が止まる。オスカーがいたのだ。

オスカーがじっと自分を見つめている。かぁっと顔に血が上るのが判った。昨日はオリヴィエと一緒にいるところを見られてしまい、今日はマルセルに戯れつかれているところを見られてしまった。恥ずかしくてまともにオスカーの顔を見ることが出来ない。今朝(結果的にとはいえ)居留守を使ってしまったことに後ろめたさも感じていた。

ペコンと会釈をして、アンジェリークは足早にオスカーの横を通り過ぎた。心臓がドキドキしていた。

自分の横を無言で通り過ぎてしまったアンジェリークの後姿を見つめながら、オスカーは深い溜息をついた。

「嫌われたかな……」

苦笑して1人ごちる。だがそれで諦めるオスカーではない。オスカーはアンジェリークが消えていった方向へ歩き始めた。

 

 

 

コンコンとノックすると中から穏やかな、ちょっと間延びした声が応えた。

「失礼します、ルヴァ様」

顔を覗かせてアンジェリークは言う。

「おやーアンジェリーク。よくいらしてくださいましたねぇ。さぁ、どうぞ入ってください~」

人柄を窺わせる穏やかな笑みを浮かべ、ルヴァが言う。その笑顔にアンジェリークは心の中が暖かくなるのを感じた。オリヴィエとは違った意味で、ルヴァのことを頼りにしている。つい悲しいことや嫌なことがあったりすると、ルヴァに会いたくなる。ルヴァのちょっと(?)呆けたところが、自分を優しく包んでくれるような気がするのだ。

「さっきは大変でしたねぇ」

「すみません、お騒がせしてしまって……」

ルヴァ様もいらしたんだっけ、と少々恥ずかしくなってアンジェリークは照れ笑いする。

「いいえ、いいんですよ。貴女のお陰で皆明るくなって、とてもいいことだと思ってるんですから。貴女が女王になれば、聖地もきっと楽しくなるでしょうね、うんうん」

1人納得しながら、ルヴァは頷く。

「あー、すみませんね~。今日はどのようなご用件でいらしたんですか?」

「育成をたくさんお願いします」

アンジェリークが言うと、ルヴァはいくつかの調査書類を取り出した。アンジェリークの大陸エリューシオンの現在の状況を見る為である。

「あー、わたしの力よりもオスカーの力が必要とされているのではありませんか?」

「ええ。望みが一番高いのは。でも、現在の数値もかなり高いですから。もっと民の精神を向上させないと危険だと思うんです。優しさを伴わない強さは本当の強さではないと思いますから。兄からもいつもそう言われていましたし」

「あー、貴女のお兄さんは確かスモルニィ女学院の先生をしていらっしゃいましたね。そういえば、ジュリアスに何となく似ているとロザリアから聞いたことがありますよ」

思い出したようにルヴァが言う。

「ええ。とっても厳しい人なんです」

クスクスと笑いながら、アンジェリークは応える。アンジェリークには歳の離れた兄がいた。アンジェリークにとってはとても厳しく、またとても優しい兄だった。少しジュリアスに似ていた。だから、ジュリアスに対するときもあまり緊張せずにすんだのだ。

「そうですね。ちゃんと考えてあるわけですね。えー、判りました。ちゃーんと、送っておきますよ」

のんびりした口調と微笑みでルヴァが応える。

「お願いします、ルヴァ様」

再びお辞儀をして、アンジェリークはルヴァの部屋を出た。

 

 

 

ルヴァの部屋を出ると、既に日が暮れかけていた。

「わぁ、もうこんなに暗くなっちゃってる。早く帰らなきゃ」

ルヴァを訪ねたことで、アンジェリークの心はすっかり落ち着いていた。ルヴァといると心がほんわかと暖かく軽くなってくる。ときめきは全くないけれど。

実は、ルヴァは何となくアンジェリークの祖父に似ている。雰囲気が。尤も、こんなことルヴァには言ってない。穏やかな、どこか1本抜けているようなルヴァでもお爺さんに似ていると言われて嬉しいわけはない。まだ、20代半ばの青年なのだから。

「さ。早く帰ろう。あー、お腹が空いたー」

足取りも軽く、アンジェリークは聖殿を出る。

「アンジェリーク」

自分を呼ぶ声にアンジェリークの足が止まる。その声が自分の名前を自分の名前を呼んだことはなかったはずだ。まさかと思って振り向くと、そこには確かにその人――オスカーが立っていた。

「もう、日が暮れてる。送っていこう」

驚きに固まってしまっているアンジェリークの肩をそっと押して、オスカーは言った。

「あ……ありがとうございます……」

声が震えた。嬉しかったから。けれど2人でいるのも怖かったから。

暫くの間2人は無言だった。オスカーはゆっくりと歩く。アンジェリークは一歩下がってオスカーの後をついて行く。一緒に歩けるのは嬉しいが、横に並ぶのは少し恥ずかしい。

「今日、お嬢ちゃんを誘いに行ったんだ。お嬢ちゃんはもう出かけてしまっていたみたいだがな」

オスカーが沈黙を破る。

「居留守を……使われたのかと思った」

その言葉にアンジェリークの足が止まる。オスカーはゆっくりとアンジェリークを振り返る。

「あ……あの……わたし……」

結果的にとはいえ、それは事実だから、アンジェリークは口篭もる。

「君に嫌われてしまったのかと思った……」

オスカーはそう言って、少し寂しそうに笑った。

「そんなこと……ありません……!」

わたしは貴方のこと、嫌ってなんていない。好きなんです……! 心の中でそう言いながら、アンジェリークは必死に首を振る。

「良かった……。それを聞いて安心したよ」

再びオスカーは笑う。そっとアンジェリークの背を伸ばし、促して歩き出す。アンジェリークが離れてしまわぬように、軽く背に触れたまま。

「昨日は済まなかった。勝手に誤解して……。後からオリヴィエに怒られたよ。君を傷つけたってね」

勝手に誤解してしまうほど、自分はこの少女に囚われているのだ。彼女の言葉に一喜一憂してしまうほどに。

「オリヴィエ様はお兄さんっていうか、お姉さんみたいな感じなんです」

オスカーの言葉に応えるようにアンジェリークは言った。

「お姉さん、か。言い得て妙だな」

そう言ったきり、オスカーは沈黙する。アンジェリークもつられたように無言になる。

オスカーが触れている背中が熱い。胸がドキドキと五月蝿いくらいに高鳴っている。オスカーに聞こえてしまうのではないかと思うほどに。アンジェリークはとても幸福な気持ちになっていた。オスカーと並んで歩いている。オスカーと一緒にいる。おまけに誤解は解けているのだ。

「……くしゅん」

既に冷たくなっている風にアンジェリークはくしゃみをしてしまう。

(オスカー様と一緒にいるのに……恥ずかしいっ……)

真っ赤になってアンジェリークは俯いた。

「ああ、風がもう冷たいな。大丈夫か?」

オスカーはそう優しく尋ねる。そして自分のマントを外すと、アンジェリークを包むように掛けてやる。

「これで少しはましだろう?」

優しい瞳でアンジェリークの顔を覗く。

「ありがとうございます……」

含羞《はにか》んでアンジェリークは俯く。

「何なら寒くないように抱きしめてやろうか?」

冗談のような口調でオスカーが言う。

「オ……オスカー様っ!」

アンジェリークは真っ赤になって顔を上げる。冗談でそんなこと言って欲しくない。

「ハハハ、悪かったよ、お嬢ちゃん。さぁ、帰ろう」

冗談に紛らしてしまったが、抱きしめたいと思うのは本当だった。抱きしめて離したくないと本気で思っていた。だからマントを掛けた肩をそっと抱いた。触れるか触れないかの優しさで。

「ああ……。もう着いてしまったのか。もう少し一緒にいたかったんだがな」

本心から残念そうにオスカーは言った。

「お嬢ちゃん、ゆっくり休むんだぜ」

「はい。あの、ありがとうございました」

マントを脱いで、オスカーに返す。オスカーはそれを受け取ると羽織る。

「今度はオレとデートしてくれよ、お嬢ちゃん」

そっと、細心の注意を払ってオスカーはアンジェリークの頬に触れた。アンジェリークが微かに頷くとオスカーは安心したように微笑んだ。

「じゃあな、お嬢ちゃん」

軽く手を挙げて、オスカーは特別寮をあとにする。自分を見送るアンジェリークの視線を感じながら。

「君の香りが……温もりが残ってるよ、アンジェリーク……」

そっと、オスカーは自分のマントに触れた。

 

 

 

オスカーの姿が見えなくなるまで見送って、アンジェリークは自分の部屋に戻った。部屋の様子は今朝とは何も変わらないのに、今朝とは違って明るく見えた。自分の気持ちが変わった所為だ。

「現金ね、わたしも」

苦笑して、アンジェリークは呟く。

でも、それでもいいのだ。オスカーに触れられていた肩から、優しい暖かさが広がっていくようだった。

 

 

 

一方オスカーは執務室へは戻らず、王立研究院へと向かっていた。頼まれてはいないが、エリューシオンにサクリアを送ろうと思ったのだ。

研究院の中の育成の間へ足を踏み入れると、そこには既に数人の守護聖がいた。アンジェリークに育成を依頼されていたジュリアスとルヴァ。ロザリアに頼まれていたリュミエール。そしてオスカーと同類のクラヴィスとランディ、マルセル。

「あらー、いっぱいいるねぇ」

順番を待っていたオスカーにオリヴィエが声を掛ける。

「さっきアンジェリークと一緒だったでしょ? 謝ったんだ?」

「ああ」

見られていたのか、とオスカーは内心舌打ちする。

「それならいいけどさ」

軽く笑ってオリヴィエは言う。

「でも、エリューシオンへの贈り物も多いねぇ。あんたにクラヴィス。それにランディか。あーらら、今日だけでもう7件も建っちゃてるじゃない」

既にオスカーの前にいたクラヴィスまでがサクリアを送っていた。7人の守護聖で合計7件の建物。オスカーのサクリアの数値もかなり高かったから、おそらく2件は増えるはずだ。これでエリューシオンの建物数は62件になる。

「ってことは、今週中にでも新女王陛下誕生かもね」

「……ああ……」

オリヴィエの言葉に応えたオスカーの声は低かった。

「いいの? このままで」

不意に真剣な目をして、オリヴィエが言う。

「……」

「確かにわたしはアンジェリークが女王になってくれたらいいなって思ってる。ううん、ジュリアスもクラヴィスもルヴァも、ガキんちょ共も皆ね。それにロザリアだって。きっと陛下やディアだってそう思ってると思うわ。だけど、あのコ自身はどうかな。あんたもね、オスカー」

女王候補として聖地に来た。だから、本来ならば女王になることは当然であり、それが最も良い道のはずだ。だがアンジェリークは恋をしている。隣にいる男に苦しいくらいに恋している。そしてその男も。だからオリヴィエにはアンジェリークが即位することが必ずしもアンジェリークの幸福には繋がらないのではないかと思ってしまう。

「アンジェリークは……女王に相応しいだけのものを持ってる。……ジュリアス様たちも、アンジェリークが女王になる日を待ち望んでいるんだ……」

重い声でオスカーが言う。

「あんたはそれでいいの、オスカー?」

「……嗾けてるのか、オリヴィエ?」

オスカーの声が尖る。

アンジェリークを愛している。他愛もなく嫉妬してしまうほど。誰の目にも触れないように自分だけのものにしてしまいたいと思うほど。

だが、アンジェリークの女王としての資質も識《し》っている。あのジュリアスやクラヴィス、ゼフェルまでもが認め、女王にと望ませてしまうほどの資質を。アンジェリークが新女王となれば、きっと素晴らしい女王となるだろう。アンジェリークの許で宇宙はこれまでにないほどの安定と繁栄を得るだろうことも予測している。そのアンジェリークをただの女にしてしまってもいいのか。

守護聖としての責任感と、1人の男としての意識が鬩ぎあっている。女王になって欲しいのだが、そうなれば彼女は遠い存在になってしまう……。

「わたしは、ただあのコに幸せになって欲しいだけさ」

再び真剣な声でオリヴィエは呟いた。

 

 

 

オスカーはまだ明かりのついていたジュリアスの館を訪ねていた。自室に篭っていては考えすぎてしまうから。オリヴィエの言葉が頭から離れないでいた。

――あんたはそれでいいの、オスカー?

いいはずはない。だから苦しいのだ。

「そなたの番だ、オスカー」

チェス盤を挟んで向かい合っているジュリアスがオスカーに声を掛ける。

「あ……はい」

ぼんやりとしていたオスカーは慌てて駒を動かす。

「心此処に在らずといった感じだな。何か心配事か」

「いえ……そのようなわけでは……」

「それならばよい。間もなく女王が交代する。今が大事なときだ。そなたには次代の守護聖首座として確りしてもらわねばならぬからな」

ジュリアスが言う。次の守護聖の長――何となく判っていたことだ。ジュリアス、クラヴィス、ルヴァ。現女王の即位以前から守護聖である彼らがその座を退くのはそう遠い未来のことではないはずだ。そうなった場合、最長の守護聖となるのは自分と、ほぼ同時期に来たリュミエール。自分とリュミエール、そしてオリヴィエの3人の中堅守護聖の誰かがその責務を負わなければならない。押しの弱いリュミエールには務まらないだろう。オリヴィエは『柄じゃない』の一言で拒否するだろう。となれば自分がなるしかない。

以前はそれが誇らしかった。女王の剣であり盾であることを自認するオスカーなのだから。だが、今はそんな期待を掛けられることが重荷になっている。いや、『守護聖』であること自体が。自分が守護聖でなければ、きっと彼女を攫っていってしまっただろう。それが出来ただろう。

「間もなくアンジェリークが女王となる」

オスカーの内心の苦しみに気付くはずもなく、ジュリアスが言う。

「初めはあれにそんな重責が務まるのかとも思ったが……要らぬ心配だったようだ。きっと素晴らしい女王になるだろうな」

うっすらと満足そうな笑みを浮かべジュリアスは言う。

「ジュリアス様……もし……もしもの話ですが、アンジェリークが女王になることを、女王試験を放棄してしまったらどうなるのでしょう?」

言ってしまってからオスカーは後悔した。自分は何を考えているのか……。

「アンジェリークがそのようなことを言ったのか? 女王になりたくないと……?」

ジュリアスがオスカーの意外な言葉に眉を顰める。

「いいえ、そのようなことは……。ですが、彼女に本気になっている守護聖もおりますので……もしや、と……」

俺自身のことだがな……と内心苦笑しながらオスカーは言う。

オスカーの発言に思い当たるところのあるジュリアスは気付かれぬほど微かに溜息をついた。だが、直接咎めるようなことは言わず、別の人物の名を挙げた。

「……ランディのことか。そういえば、以前あれも似たようなことを訊きにきたな」

ジュリアスの言葉がオスカーを驚かせる。ランディは自分と並ぶほど守護聖としての責任感の強い青年だ。女王への忠誠心が厚い守護聖だ。そのランディが……。

だが、自分だって彼女への想いを自覚するまではそうだったのだ。今でもそうあるつもりだ。だから、苦しいのだ……。

「これまでにそういう話は聞いたことがないな。だが、アンジェリークほどの資質を持った者が試験を放棄し守護聖の誰かと結ばれたとしたら、恐らく女王補佐官として聖地に残ることになるだろう。新女王となった者が、この場合はロザリアだが、それを許せば」

ジュリアスは言う。これまでにそういう例はないが。現女王だってクラヴィスの想いを受け入れず、女王となったのだ。

ジュリアスの言葉にオスカーは一筋の光を見出したような気がした。だが……。

「しかしそのようなことにはなるまい。いや、なってはならぬのだ。アンジェリークは素晴らしい女王となれる資質を持っている。ロザリアとて女王となるに十分なものを持ってはいるがアンジェリークには及ぶまい。誰もがアンジェリークが女王になることを望んでいるのだ」

俺は望んでいないかもしれない……オスカーは心の中でそう呟いた。

「ランディにも、守護聖として行動して欲しいものだ。オスカー……そなたにも……そなたにもそれを期待したい……」

オスカーの内心を見透かしたようにジュリアスは言った。

「……」

オスカーはジュリアスの真剣な表情を無言で見つめた。

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