Open!
ここはエリューシオン王国の首都・フェリシア。その首都の中でも高級地に属するアルフォンシア街に『聖地』はあった。
『聖地』――それは全ての女性に誇りと安らぎと夢を与える場所。
素晴らしい9人の男たちが、貴女をおもてなしする場所。
ホストクラブ『聖地』へようこそ。
「たっだいま~」
『聖地』のスタッフルームに、そんなふうに言って入ってきたのは、ホストの1人、オリヴィエ・ヴァイスだ。彼はこれまでとある仕事で『出張』していた。
「お帰りなさい、オリヴィエ」
そう声をかけたのは同じくホストのリュミエール・ヴィダン。
「無事、ミッション完了か」
そう言ったのはオスカー・ジャルジェ。
3人はほぼ同時期に『聖地』に入った、同期の仲間だ。年齢も、オスカーとオリヴィエが25歳、リュミエールが24歳と近い。性格はまったく違う3人だが、それがなかなかにいいバランスで、悪友・親友といった感じだった。
「あったりまえじゃない。わたしを誰だと思ってるのさ」
疲れた体を投げ出すようにソファに座って、オリヴィエは応える。そんなオリヴィエにリュミエールがハーブティーを差し出す。
「ありがと、リュミちゃん」
リュミエールからお茶を受け取り一息つくと、オリヴィエはまるでマシンガンのように『出張』中の仕事先への罵詈雑言を並べ始めた。
「でもさ~、オーナーも人遣い荒いよ。ここ2ヶ月で3回だよ! わたしのミッション」
「仕方ないだろう、お前が最適な依頼が立て続けに舞い込んだんだから」
「まーね。今回のは、わたしも許せなかったしねー。綺麗になりたい女心を弄んだ罪は重いからね」
そんなオリヴィエたちの会話を別の一角で聞いていたジュリアス・アムは眉間に皺を寄せる。仮令『身内』しかいない所であっても、こういったことを軽々しく口にするのはどうか、と彼は考えていたのだ。そんな彼の心を見透かしたかのように、クラヴィス・ミンクは薄く笑いを浮かべる。
「何がおかしい、クラヴィス!」
「いや、別に」
「それが、別にという態度か! 大体貴様……」
「まぁまぁまぁ……ジュリアス~落ち着いてくださいな~」
そう言っていつものレクリエーション(?)を止めに入ったのはルヴァ・ファールス。3人はこの『聖地』の最古参のホストである。ルヴァが最年長の29歳、ジュリアスとクラヴィスは28歳だった。3人とも10代の頃からの付き合いで、ジュリアスとクラヴィスは幼い頃から一緒に育った、兄弟同然の中だった。一見犬猿の中に見える2人だが、言いたいことが言い合える、実は互いに確りと信頼し合っている関係なのである。
それぞれ3人組が2箇所で思い思いの会話を楽しんでいるとき、ドアが開き、1人の男性が入ってくる。バーテンダーのカティス・リモージュだ。
だが6人はさっと立ち上がり、敬礼をする。
「おいおい、ここは『サンクチュアリ』じゃないぞ」
苦笑してカティスが言うと、6人もそれに倣った。
「つい……オリヴィエの奴がミッションの話をしてたもので」
「ハイハイ、わたしのセイなわけね」
そう言うオスカーには以後から膝カックンをかけてオリヴィエが言う。
「ああオリヴィエご苦労だったな、オーナーがお前にたっぷり有給休暇をくれると言ってたぞ」
「やった、そうこなくっちゃ!」
実は、『聖地』にはもう1つの顔があった。それが『サンクチュアリ』。女性に害を成すものを依頼によって始末する、女性を助ける為の、そうまるで『必殺!仕事人』のような組織『サンクチュアリ』。司令官がこのカティスで、カティスの許に『緋川亜紗子』なるメンバーにとっては厄介な女性から依頼が入るのである。
依頼を持ちこむ人間は厄介でも、それぞれが天性のホストとして女性の窮状を見過ごせない性質なので、彼らは情熱を持って任務にあたる。
バックアップ体制も万全だった。『聖地』のオーナーであり『サンクチュアリ』のボスでもあるアンジェリーク・リモージュはエリューシオン最大の財閥リモージュ財団の総帥なのだ。その財力と組織力を彼らは存分に利用できる。
「皆さん、用意はよろしくて? 開店の時間ですわよ」
支配人であり、総帥秘書のロザリア・デ・カタルヘナが顔を出す。ホストたちはそれぞれ最後の準備に取り掛かった。
『聖地』には様々な女性が来る。仕事を持っている女性、名家・上流階級の女性、分け隔てはない。尤も、決して安い店ではないから、それなりに確りとした収入を持っている女性でなくてはならないが。
彼女たちは一夜の夢を求めて、或いは安らぎを求めてここへやって来る。彼女たちの要望にホストたちは応えていく。そして彼女たちはまた自分の世界に戻っていくのだ。
「いらっしゃいませ」
ドアボーイ兼クロークのロキシーが新たな来客を伝える。まだ若い女性だった。20歳をいくつも超えていないだろう。柔らかな金色の髪、透き通るような白磁の肌、澄んだ翡翠の瞳。
「今日はどなたを? オーナー」
ロキシーが言う。そう、彼女がここのオーナーであり、リモージュ財団総帥のアンジェリーク・リモージュだった。
「オリヴィエを」
「はい」
彼女が客としてここを訪れることは少ない。客としてやって来るのは『サンクチュアリ』としての任務を完了させたメンバーを労うときだけなのだ。オーナーとしての分別でもあり、またここでホストをしている恋人が、他の女性に優しくする姿を見ない為でもあった。
オリヴィエにエスコートされ、奥の席に着くと、オスカーがカクテルを持って現れる。
「ようこそ、アンジェリーク」
オスカーがオリヴィエのヘルプについているわけだった。
「いや~、気分いいわ~。先月のナンバーワンをヘルプに出来るなんて。これもアンジェちゃんのお陰だね」
ウィンクをしてオリヴィエ。アンジェリークは小さく笑いを漏らし、オスカーを見た。オリヴィエのヘルプにつくのは不本意だが仕方ない、といった感じだった。彼だって、自分の天使が他のホストと、仮令労う為とはいえ一緒にいる姿を指を咥えてみているのはいやだったから。そう、アンジェリークの恋人というのが、実はこのクラブのナンバーワンホスト・オスカーなのだ。
カティスとロザリアの配慮でアンジェリークが指名したホストにはオスカーがヘルプに付くことになっている。だから、本来はまだヘルプでしかないランディ・ゼフェル・マルセルにナンバーワンのオスカーがヘルプにつくなんてとんでもないことも、たまに起こっていた。
「大体お義父さんはアンジェリークに甘いよ!」
本来オリヴィエのヘルプについているマルセルは暇になってしまったので、カウンターで義父に向かって文句を言っていた。
「そう言うな、マルセル。判ってはいるんだがな。まぁ、仕事では甘やかしてないんだからいいだろう」
カティスは苦笑して言う。確かに自分が姪のアンジェリークに甘いことは十分に判っている。アンジェリークは歳の離れた姉の忘れ形見だった。
アンジェリークの母・フランソワーズはアンジェリークによく似た美しい女性だった。だがその見かけとは裏腹に、かなりのやり手で女傑と呼ばれたほどだ。大企業と辛うじて呼ばれる程度だったリモージュをエリューシオン一の財閥にしたのも彼女だ。そして、この『聖地』の素地を作ったのも。
アンジェリークは母親の死後全てを受け継いだ。まだ16歳のときだった。そのアンジェリークを支えてきたのがカティスであり、フランソワーズに育てられたジュリアス・クラヴィスであり、従兄のルヴァだった。彼らはアンジェリークがリモージュの総帥として立派にやっていけるように教育してきた。幼い頃から経営者としてのノウハウを叩き込んできた。十分厳しくもしたつもりなのだが、アンジェリークにはどうしても甘くなってしまうのだ。
いや、彼らだけではない。今もアンジェリークの後ろに控えている軍人上がりのボディガードであるヴィクトール・レーヴェも、リモージュの顧問弁護士エルンスト・ヴォルトも、同じだった。アンジェリークがその愛らしさから『天使の微笑み』と呼ばれている笑顔を向けてお願いされると逆らえないのだ。ちょっとでも悲しそうな表情をされると思わず謝ってしまうほどなのだ。唯一、ちょっとだけ厳しめに接することが出来るのは親友のロザリアくらいなものだった。
「仕方ないさ、アンジェリークには誰だって甘くなっちゃうんだから」
こちらも暇になってしまったオスカーのヘルプ・ランディがカティスに賛同する。彼を含めて年少のホストはアンジェリークとさほど歳が変わらない為、どちらかというと遊び友達といった感じになっているが。アンジェリークと同い年のゼフェルなどは悪戯の共犯者的な感じが一層強かった。ちなみにランディは1つ年上の21歳でマルセルはまだ15歳(注 エリューシオンに『児童福祉法』は関係ありません)である。
「あれ、そういえばゼフェルは? ルヴァ先輩のヘルプにはついてないみたいだけど……」
フロアをきょろきょろと見まわし、マルセルが言う。
「ああ、PCルームにいる。調査を頼んだからな」
「ということは、また依頼が?」
「ああ。昨日緋川女史が来てね。今、依頼内容の情報を集めてる」
カティスの許に依頼が来ると、それをまず調査する。その依頼が本物であるかどうか、依頼人がどういった人物なのか、本当に『サンクチュアリ』が動くべきなのか。それは主にコンピュータに長けているゼフェルの役目だった。
「あいつも……一歩間違えば犯罪者だよな」
ゼフェルはかなり優秀な『ハッカー』だった。その気になればエリューシオン国防省のメインコンピューターにだって侵入できる。
「俺たち全員、そうだろ」
いつの間に戻ってきたのか背後からゲシっとランディの頭を殴って応えたのはゼフェルだった。
「確かに……。僕たち、必殺仕事人みたいなものだしね~」
ゼフェルの言葉を受けてマルセルが言う。リモージュの財力・政界に対する影響力と司法界の有力者であるロザリアの父親のお陰で、『サンクチュアリ』は半ば超法規的組織となってはいるが、やっていることは犯罪と紙一重だった。まだ年少組の知る限りでは、殺人の依頼を受けたことはないし、死者を出したこともないはずだった。ただし、彼等は正メンバーではなく『お手伝い・サポート』がメインの準メンバーなので、詳細は知らされないことが多かったのだが。
「カティス、オールグリーン。問題なしだぜ」
こうして『サンクチュアリ』は新しい依頼を受けることとなった。
「よし、閉店後全員PCルームに集まるよう伝えてくれ」
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The Beginning
オスカーが彼らの訪問を受けたのは、漸く難攻不落の堅物シーモア助教授とディナーの約束を取り付けた日のことだった。
「あ~、オスカー・ジャルジェ? 貴方がそうですか~?」
そう言ってやって来たのは、学内一の博識を誇るのではないかといわれている、史学部のルヴァ・ファールス講師だった。一応学内の有名人ではあるから知ってはいたものの、これまで面識のない相手だった。
「実はねぇ……貴方にお願いがあってやってきたんですよ~」
緊張感の欠片もない口調でルヴァは言う。その後ろには巨大な黒い影……クラヴィス・ミンクが立っていた。こちらも有名人だ。この大学の関係者ではない。エリューシオン王国一の黒魔術師であり、占い師だった。尤もオスカーは黒魔術や占いなど信じるタイプではなかったから、胡散臭そうにクラヴィスを見た。
「突然やって来て、いきなり何ですか」
オスカーは取り敢えず年長者への礼儀を失しない程度に丁寧に応える。だがはっきりと不審感が目に現れていた。
「済まぬな、オスカー。事態は急を要するのでな」
そこに、オスカーも親しくしている人物が現れた。ジュリアス・アム。この大学の3年前の総代で、自治会長をしていた人物だ。自治会に籍を置き、またフェンシング部でも乗馬クラブでも一緒だったことから、学部は違えどもオスカーはジュリアスを先輩として尊敬していた。
今、ジュリアスはエリューシオン最大の財閥・リモージュ財団の幹部として働いているはずだった。忙しいはずだ。その彼が態々大学の自分の所まで出向いてきたのだ。何かがありそうだった。
「貴方までいらしていたとは……判りました。お話を伺いましょう……」
今夜のデートはキャンセルだな……オスカーは溜息をつきつつ、そう応えた。
あまり人目に付くのはまずいということで、4人はオスカーのアパルトマンへと移動した。尤も、それぞれ4人が人目を惹く容姿をしている為、それもあまり効果はなさそうだったが……。
「ねぇねぇ、あれって、絶対なんかあると思わない?」
面白そうな表情で、オリヴィエが隣のリュミエールをつつく。
「また、オスカーが何か馬鹿なことをしでかしたのではないでしょうか……」
ふぅ、と溜息交じりにリュミエールが応える。
「ちょっと、リュミちゃん。そりゃあんまりじゃない? あいつだってトラブルメーカーってわけじゃないんだし……」
「でも、彼がトラブルに巻き込まれ、貴方やわたくしが更に巻き添えを食うことが多いのも事実でしょう」
「そりゃ……確かにね」
オリヴィエ・ヴァイスとリュミエール・ヴィダン。オスカーの高校時代からの親友である。オリヴィエはオスカーと同じ大学で同じく心理学を専攻しており、リュミエールは国立芸術大学でヴァイオリンを学んでいる。
「でもさぁ……あいつが悪いわけじゃないだろ? わたしたちだって、つい自分から巻き込まれちゃうんだしさぁ」
「そうですね……馬鹿な子ほど可愛いと申します。わたくしたち、彼を放っては置けないんですねぇ……」
さり気なくひどいことを言っているリュミエールだった。だが実際のところ、いつもトラブルを大きくするのはこのリュミエールだったりしたのだ。儚げな容姿に似ず、かなり血の気が多いのである。
「さ~て、わたしたちも行こうか!」
オリヴィエはリュミエールの腕をがっちり掴むと、意気揚揚とオスカーのアパルトマンに向かったのである。
「実はそなたに頼みたいことというのはな、ボディガードなのだ」
オスカーの部屋について落ち着いてから、ジュリアスがそう切り出した。そして、1枚の写真をオスカーに見せる。
写真に写っているのは名門女子校スモルニィ女学院の制服を着た少女だった。柔らかそうな金の髪、パールピンクの肌、印象的な翡翠の瞳。とても愛らしい少女。年は16、7歳だろう。つまりはオスカーの守備範囲外だったわけだが……しかし2、3年もすれば極上のいい女になりそうな少女だった。
「え~わたしの従妹でね、アンジェリーク・リモージュというんですよー」
のんびりとしたルヴァの口調に危うく聞き流してしまいそうになったが、オスカーははっとして顔を上げた。
「では……彼女がリモージュのオーナー?」
オスカーの問いに、ジュリアスが頷く。
リモージュ財団は王国トップの財閥である。先年そのオーナーで女帝と呼ばれていたフランソワーズ・リモージュが死去し、その後を継いだのが1人娘のアンジェリークだった。
「いったいどういうことなんです? リモージュのオーナーのガードを俺みたいな素人に任せるなんて」
オスカーはそう言って説明を求めた。
アンジェリークが共に暮らしているジュリアスやクラヴィスに不審を打ち明けたのはつい先日のことだった。共に暮らしているといっても肉親でも恋人でもなかった。だが、家族だ。孤児だったジュリアスとクラヴィスをアンジェリークの母が引き取り、里親として育てていたのだ。アンジェリークにとって彼らは兄同然だった。
「なんだか、このごろ誰かに見張られてる気がするの……」
だが、それが企業絡み、政治絡みのことではないらしいとアンジェリークは続けた。ジュリアスたちが詳しく聞くと、どうやら、ストーカーの被害にあっているらしかった。今のところ危害を加えられてはいない。精々、毎日のようにメールが入るだけだ。それも朝と夜に入るだけで気味が悪いという回数ではなかった。だが、内容はアンジェリークを怖がらせるに十分だった。美辞麗句を連ねながら、アンジェリークの1日の行動を見張っているような内容なのだ。
「なぜもっと早く言わなかったのだ!」
打ち明けられて、思わずジュリアスが怒鳴る。空かさず、クラヴィスがジュリアスの後頭部をスリッパで叩き冷静さを取り戻すように促す。極端に無口なクラヴィスはこういったお茶目な行動をよくとる。そしてそれはアンジェリークを笑わせ、場を和ませ鎮静化させる効果を持っていた。
「だって……兄さまたち、お忙しいでしょう? わたしがまだ確りオーナーのお仕事が出来ないから……その分兄さまたちが大変な思いしてる……。だから、心配かけちゃ駄目だって思って……」
翡翠の瞳に涙を浮かべて、アンジェリークが言う。
「お前に何かあっては……その方が心配するぞ?」
アンジェリーク以外の誰にも聞かせないような優しい声でクラヴィスが言う。そして、目で続きを促す。
「ジュリアス兄さま、きっと大騒ぎすると思ったの。父さまに連絡してSP派遣してもらったり、リモージュの私設軍隊動かしたりするんじゃないかって思って……」
「あたりまえだ! お前はリモージュのオーナーなんだぞ!」
それにわたしたちの可愛い妹なのだ! とジュリアスは叫ぶ。そのまま、電話を取り上げ、まずは警察に連絡しようとする。それを慌ててアンジェリークがとめる。
「まだ、被害を受けたわけじゃないもの。警察は動いてくれないわよ!」
「だが、リモージュのオーナーだ! お前を護る為に動く!」
「それは駄目よ!」
アンジェリークはジュリアスに負けずに怒鳴るように言う。
「オーナーが変わったばかりなのよ? しかも、17歳の小娘に! こんなこと外部に漏れたら、リモージュのイメージダウンになってしまうわ! そんなこと、オーナーとして赦せないの! そんなこと避けなくちゃ」
偉大な母の死後、リモージュの株価は下がっている。何かがあったわけではない。だが、『女帝』とまで呼ばれた経営者の死。後継者は女子高生。それが市場に不安を与え、株価に影響しているのだ。
「あ~流石はフラン叔母上が手塩にかけて教育しただけはありますね~。立派ですよ、アンジェリーク」
それまで黙っていたルヴァがぱちぱちと拍手しながら言う。ルヴァは父方の従兄だった。
「そうですねぇ……今の時点では軍やSPを動かすのは避けたいですねぇ……。余計な誤解を招きかねないですし……」
ルヴァが味方についたことでアンジェリークはほっとする。
「で、メールはとってありますか?」
「ええ。何かの役に立つかもしれないと思って……」
アンジェリークはそういって、ルヴァにMOを渡す。必要になるだろうと思い準備していたのだ。
「では早速読ませていただきますね~」
こんなときでも常と変わらぬのんびりした口調でルヴァは言い、パソコンを立ち上げメールを開く。それは男で成人の彼らが見ても悪寒が走るような内容だった。厭らしい表現があるわけでもないし、グロテスクな記述があるわけでもない。ただ、アンジェリークの1日の行動をつらつら書き連ね、その感想を述べているのだ。
「随分と学内での記述が詳細だな」
嫌悪感に眉を寄せてジュリアスが言うと、
「スモルニィの教職員が怪しいな」
とクラヴィスがその言葉を受ける。
名門のスモルニィにそんな職員がいるとは信じられないが、だが、それが一番可能性が高かった。
「となると……誰かが学内に潜入する必要がありますねぇ……ジュリアス、なにか伝はありませんか?」
アンジェリークの希望で秘密裏に事件を解決したい。その為には表立ってボディガードなどつけるわけにも行かない。アンジェリークのボディガードであるヴィクトールは学内には入れない。
「うちの部で、コーチを探していたわよ?」
アンジェリークがその言葉に応える。部活のコーチとは都合がいい。アンジェリークの側にいても怪しいまれない。
「ではわたしが行こう」
「あ~、それはどうでしょうねぇ……。ここはリモージュとは一見無関係の人間のほうがいいでしょう。リモージュが動いたとなると犯人が警戒してしまいますからねぇ……あまり得策ではないと思いますよ~」
穏やかに、だが正論でルヴァがジュリアスの言を却下する。
「誰か、信頼できる人を知りませんか、ジュリアス。乗馬のコーチが出来て、アンジェリークを守ることが出来て、頭が回る人……」
かなり条件の厳しいことをルヴァはなんでもないことのようにさらりと言う。だが、これが最低条件だった。
「心当たりがないこともない……オスカー・ジャルジェなら、大丈夫だろう」
ジュリアスが信頼する大学の後輩。
「では、早速明日にでも打診しましょう」
ルヴァがにっこりと笑って、場をまとめた。
オスカー・ジャルジェ……
アンジェリークはその名に胸をときめかせていた。
オスカーが……彼がわたしを守ってくれるの……?
「なるほど、そういうわけですか。そこまで信頼してくださったのなら、お引き受けしないわけにも行きませんね」
話を聞き終えて、オスカーは言った。信頼にも応えたかったし、心理学(犯罪心理)を特に学んでいるオスカーにはまたとないサンプルともなる。そして何より、まだまだ発展途上とはいえ美しいレディの窮状を救うというのがオスカーの騎士道精神を刺激したのだ。
「任せてください。アンジェリーク嬢を守り、薄汚い野郎を捕まえて見せますよ」
自信たっぷりにオスカーは笑って見せた。
それから4人はアンジェリークが在籍するスモルニィ女学院へと向かった。オスカーがアンジェリークの所属する馬術クラブのコーチとして潜入する下準備の為である。最低限院長には話を通しておかねば厄介なことになる。オスカーの目的が目的なだけに、誤解を招くこともあるかもしれない。何しろ良家の令嬢ばかりが通うお嬢様学校なのだ。ことに若い男性が絡むとなると、神経過敏といってもいいほど警戒していた。
案の定始め院長は難色を示した。教師ですら若い男性は数えるほどなのだ。それも、確りとした紹介状が無ければ決して採用しない。そんなところに一介の学生に過ぎないオスカーを、コーチとして迎えろと言うのだ。
「これが表沙汰になれば、当然学院の名にも傷がつく。アンジェリークは……いや、総帥はそれを懸念しておられるのだ」
ジュリアスが院長を説得するように言う。勿論、でまかせだ。確かにアンジェリークは表沙汰にはしたくなかった。それには2つの理由があった。1つはリモージュの総帥としての判断であった。財団に不名誉な傷がつかぬように、と。そしてもう1つは個人的な、人としての思いだった。ストーキングなどという卑劣な行為を行う者ではあっても、恐らく顔見知りの犯行だろうから、出来る限り穏便に処理したいと願ったのだ。
「確かに、アンジェリークさまのお心は尊いことだと思いますわ。学院を、そして犯人さえも思いやり、穏便に処理なさろうというのですから。ですが、こちらの方を学院にお入れするのは……」
院長はオスカーをちらりと一瞥する。確かにオスカーがこの幼稚舎から大学までの女の園にやってきた場合、騒ぎが起こる可能性は高かった。
教育関係者として、院長は勿論オスカー・ジャルジェのことを知っていた。昨年・本年度のフェンシング及び馬術の学生チャンピオンであり、学生でありながら既に犯罪心理学では博士号を有しているのだ――エリューシオンでは博士課程の院生ではなくとも優れた成果をあげれば博士号が与えられる。勿論審査は厳しいものだったが、中には中学生で博士号を有している者もいた――。
この評価だけから判断すれば、オスカー・ジャルジェという男性は文武両道の好青年だろう。代々続いた軍人の家系の次男で、父も兄も現役の陸軍将校であり、家柄もよい。
家柄もよく、エリートでしかも若い美丈夫なのだ。女性が放っておくはずが無い。おまけにオスカー自身も堅物の朴念仁などではなく、割り切った関係なら歓迎するというタイプだった。それゆえ、オスカーの周りには華やかな噂が絶えることは無かった。
つまり、院長の危惧はそのことだったのである。女ばかりの園に狼を解き放つようなもの。オスカーが知れば『TPOを弁えないほど無節操じゃない』と侮辱と受け取るようなことを院長は考えていたのである。
「院長、オスカーの務めを許さぬとあれば、リモージュとしてもそれなりのことを考えさせてもらうぞ」
いい加減焦れていたジュリアスは高圧的な態度に出る。
「そうですねぇ、今期はうちの業績も伸び悩んでいることですし、今年度の寄付の上乗せはなし、ということで」
にっこりと笑ってルヴァが追い討ちをかける。院長はサーっと青褪める。スモルニィは私立である。在校生の殆どが名門の令嬢であるから、寄付金も多額に上る。その筆頭がリモージュだ。そのリモージュに寄付金を断られては大変なことになる。が、更に……
「生ぬるい。資本を引き上げさせてもらおう。最大の出資者のささやかな要請すら受け入れられぬのであれば、金を出すだけ無駄というものだ」
冷厳そのものの口調でジュリアスが言い、院長は蒼白。実は寄付だけではなく、リモージュはこの学校法人の最大の出資者でもあるのだ。企業でいえば筆頭株主とでもいうか……尤も金は出すが、経営には口を出さないというありがたい出資者ではあったが。
「お待ちください。何もお断りしているわけではありません。ただ当学院はご承知のとおり4歳から22歳まで1000名ほどの女性ばかりがおります。中にはこちらのジャルジェ氏に御迷惑をおかけするものがおるやも知れません。そう思いまして……」
院長は慌てふためいて釈明する。
「無用の心配だ」
クラヴィスが呟く。オスカーが女性に言い寄られて困るはずが無い。仮令、年少さん(4歳児)に言い寄られたとしても『15年後にデートしような』と未来の約束を取り付けるに決まっている。
「オスカーはアンジェリークの許婚候補の筆頭だ」
(うっそぴょ~ん)と心の中で呟き、クラヴィスは言葉を継いだ。クラヴィスの大嘘に本人であるオスカーも、ジュリアス・ルヴァも驚いたのだが、流石に顔には出さない。確かにそう言っておけば、院長も無闇に反対はしないだろう。現に院長は安堵したような表情をしており、その言葉の与えた影響は大きかった。
アンジェリークの許婚(候補)ともなれば、スモルニィの生徒がオスカーに迫ることは無いだろう。アンジェリークはリモージュの令嬢という以上に、この学院のソサエティ(俗にいう生徒会のようなもの)の会長を務めており、皆に慕われているのだ。その彼女を悲しませる、或いは機嫌を損ねるようなことをする者はいないだろう。縦しんばそんな者がいたとしても、アンジェリークの親友にしてソサエティ副会長ロザリア・デ・カタルヘナ公爵令嬢を筆頭とする親衛隊が黙ってはいまい。
そして……許婚『候補』であるオスカーは決してアンジェリーク以外の生徒を誘うような真似はしないはずだ。そんなことをすれば候補から外されてしまうのだから。
「判りました。では、明日から」
院長はそう言って肯いた。漸くオスカーの潜入ガードが認められたのである。
その帰路。今度はオスカーをリモージュ邸へと連れて行く。アンジェリークやそのボディガードと引き合わせる為である。
「しかし……許婚候補だなどと言って、アンジェリークが納得するのか?」
後ろを歩くオスカーには聞こえないようにジュリアスがクラヴィスに問う。
「そうですねぇ……あれでアンジェリークもなかなか頑固ですし、納得いかなければ、全ておじゃんですよ~」
一向に緊張感の無い口調でルヴァも頷く。
「嘘は言っていない……」
クラヴィスは言葉少なに呟く。
「水晶球の示したことを言ったまでだ」
その言葉に、2人は更に驚いたようにクラヴィスを見つめた。
オスカーはリモージュ邸の応接室に1人残されていた。3人は事情をアンジェリークに説明する為に彼女の許へ行っている。
つい先ほど見たアンジェリークの写真を思い出す。美しい少女だった。かなりの美少女だ。だが、それ以上に写真ですら読み取れるほど意志の強そうな瞳に惹かれた。
「お待たせして申し訳ありません、ムッシュー・ジャルジェ」
柔らかな声と共に、アンジェリークが現れた。後ろにはボディガードのヴィクトールと、ジュリアスらがいる。だが……オスカーの意識にはその4人の姿は無かった。アンジェリークしか目に入らなかったのだ。
天使が舞い降りたのかと思った。
アンジェリークの美しさばかりがそう思わせたのではない。彼女自身の雰囲気が、そう思わせたのだ。そこにいるだけで和やかな気持ちにさせる……アンジェリークはそんな少女だった。
「このたびは、大変なことをお願いして申し訳ありません」
アンジェリークはオスカーの正面に立つと、そう言って深く頭を下げた。漸くオスカーは我に返る。それまで惚けたようにアンジェリークを見つめていたのだ。
「あ、いや、気にすることはありませんよ、マドモアゼル。困っている女性をお助けするのは紳士として当然のことです」
いつもの調子でオスカーは答える。だが、いつもに比べて5割増で本気の言葉だった。そう、オスカーは本気で、今アンジェリークを守りたいと思っていたのである。
それまでは『厄介なことになったが……まぁ、サンプルにもなるだろうし、退屈しのぎにちょうどいい』という程度の思いだった。だが、今は本気でアンジェリークをストーカーの魔手から守ってみせる、と思っていたのである。こんな可憐な少女を苦しめるようなものは許せない、本気でそう思っていたのだ。
「でも……お嫌ではありませんか? その……勝手にわたしの許婚候補にされて……」
小鳥のように首を傾げてアンジェリークが問う。申し訳なさそうに。
「とんでもない。こんなに愛らしいマドモアゼルの恋人役が出来るのに、それが嫌だと言う奴がいたらお目にかかりたいね。君こそ、俺のような奴が相手で嫌ではないか?」
「貴方がお嫌でなければ、わたしは構いません」
にっこりと微笑んでアンジェリークは言った。
(嬉しいんです……)
心の中でそう呟く。
そう……アンジェリークは実はオスカーのことを知っていたのである。ジュリアスについてフェンシングや馬術の大会を見に行っていた。そこで、オスカーを知った。そして憧れていた。だから、嬉しかった。
「そうか……」
少しばかりオスカーは落胆していた。アンジェリークが自分のことを特別気にしてはいないように感じたのだ。アンジェリークの心の中には気づかなかった。
「では、これから俺のことはオスカーと呼んでくれ。俺も君をアンジェリークと呼ぶから。仮にも恋人なら、そうしたほうがいいだろう?」
「はい……」
オスカーの提案に対して、アンジェリークは頷く。そして、その頬は微かに赤くなっていた。そのことにオスカーは少しばかり嬉しさを感じていた。
それから、細かい状況の分析へと移った。
これまでにきているメールをチェックする。アンジェリークのプライベート用のメールアドレスにそのメールは来ていた。そればかりではなく、携帯にも電話がかかり、メールが入る。こちらはご丁寧に番号非通知だ。メールアドレスのほうも隠している。
内容はぞっとするものばかりだった。
『今日のランチは、Aセットだったね。君の嫌いなピクルスが入ってたねぇ。でも最後に我慢して食べてた君は偉いよ。オレンジジュースで流し込んでたみたいだけど、そんな君も可愛いね』
『数学は退屈だったかい? こっそり隠れて5回もあくびしていたね。まぁ、あの授業では君には物足りなかったかな』
『3限目の体育は見学していたね。見学していたのは生理痛かい? いつも君は薬で痛みを抑えているようだけど、ひどいようなら婦人科で見てもらったほうがいいよ。君1人の体じゃないんだ。僕だって心配だよ』
そんなメールが何通も入っている。
「メールアドレスは、変えたのか?」
「何度も変えたの……。こんなメールが来始めてから、もう3回変えたわ。2、3日は大丈夫なんだけど、また、来るの」
ぞっとした表情でアンジェリークは言う。
「1人で我慢してたんだな……。頑張ったな、アンジェリーク。でも、もう我慢しなくていいんだぜ?」
オスカーはアンジェリークに優しく微笑む。その表情にアンジェリークは安堵する。そんな安心を与える笑顔だった。
「ありがとう……。それで……何か判る?」
「今のところは、新たな収穫はなしだな。だが、ジュリアスたちの推測どおり学院の関係者というのは間違いないだろう」
「どうすればいいの?」
不安げな表情でアンジェリークが問う。なんとしても守らなければ……オスカーはそう決意する。
「これまでどおりに。今まで無視してるんだろう? それでいい。奴は今君に自分の存在を認めさせようとしている。もし認められたら、奴の妄想はもっとひどくなる。だから、今のところは無視してるんだ。それが続けば、奴も焦りだす」
そうしているうちに尻尾を出すだろう。
それに……自分という『恋人』が現れれば、攻撃の対象は自分へと移るはずだ。
「君は安心して俺に全て任せればいい。大丈夫だ」
再びアンジェリークを安心させるようにオスカーは微笑んだ。
「オ~ス~カー!!」
リモージュ邸を出たところで、オスカーはいきなり背後から抱きつかれた。往来でこんな馬鹿なことをやるのは1人しかいない。なので、オスカーは遠慮なく肘鉄で腹を一撃。オリヴィエは咳き込みながら抗議する。
「リモージュ邸に連行されるなんて何をやったんです、オスカー?」
リュミエールが心配そうな表情で、だが目は確り好奇心一杯といった状態で問うてくる。
「言葉を選べ! ……ここじゃなんだ、うちにいくぞ」
オスカーはそう言って2人と共に家へと帰っていった。この2人が偶然ここにいたとは思えない。恐らく始めから付けていたはずだ。だとしたら、無闇に隠しては面倒なことになる。それならばいっそ、調査の為に借り出してしまったほうがオスカーとしても動きやすくなる。
部屋に戻り、オスカーは2人に事情を説明する。
「そうですか……アンジェリーク嬢がそんなことになっていたのですね」
リュミエールの口ぶりにオスカーは驚いたように目を見開く。
「どうしてお前が彼女を知ってるんだ!」
その声音にオリヴィエは『おや?』というように眉を上げる。
「ロザリア嬢の親友ですからね、何度かお目にかかったこともありますよ?」
リュミエールはロザリアのヴァイオリンの個人教授を引き受けていたのである。学生ながら既にいくつかのコンクールで賞を受賞しているリュミエールである。ただ、本人はプロの演奏家として活動するだけのバイタリティはないといって、学生の身分を楽しんでいた。
「そうか……」
今度はあからさまにオスカーが安堵の溜息をつく。
「なぁに? 一目ぼれしちゃったわけ~?」
オリヴィエが揶揄うように言う。
「そう見えるか? まぁ……こんなに1人の女性を守ってやらなければ、と思ったのは初めてだな。だが、惚れたっていうのとは違う気もするな」
多分、騎士道精神を刺激されたのだ。オスカーはそう自分の感情を分析していた。
「ふ~ん」
どこか納得していない表情でオリヴィエは頷く。
「で、あんたがわたしたちにここまで話したってことは、協力してほしいってことだよね?」
「ああ、そういうことだ」
リュミエールはロザリアとの個人的な関係があるから、ロザリアからの情報収集をしてもらう。オリヴィエにはその機動力行動力でオスカーの調査結果の裏づけを取ってもらう。そう役割を振って、3人は解散した。
「女の子を脅えさせるやつなんてサイッテー! 絶対ぼこぼこにやっつけてやろうね!!」
オリヴィエの言葉は表現の違いこそあれ、3人共通の心情だった。
翌日からオスカーはアンジェリークと共に行動を始めた。
朝はアンジェリークを迎えに行き、そのまま一緒に登校する。アンジェリークが授業を受けている間は学内を探索する。新人のコーチという設定があるから、学内を知る為という理由があるし、どんな所に入り込んでも不案内だからという言い訳が成立した。
一番怪しいのは教職員だ。オスカーはまずそこから調べることにした。だが、表面的な経歴を調べても何も出ないことは判りきっていた。何しろスモルニィの教職員だ。経歴は確りと調べられ、確かな推薦者がなければ採用されないのだ。だが、心の中の問題は履歴書には現れない。
「突き止めること自体は簡単だな」
オスカーは呟く。リモージュのネットワークを使って、メールの発信元を特定することは可能だ。いくらアドレスを隠していても、必ず記録は残っている。既にルヴァに依頼して特定を急いでもらっている。IPアドレスやその他の情報が特定できればあとはストーカーと対決するだけだ。
自分の務めはアンジェリークの精神的な負担を軽くすること。つまり攻撃の対象を自分へと移すことだった。
実はストーカー対策に第3者の異性が介入するのは非常に拙い事態を招きかねないことでもあった。ストーカーは自分の存在を彼女に認められたがっている。それが認められずに、奴は攻撃性を持ち始めているはずだ。そんなときに更に奴を排除する為の行動をとれば、確実に、攻撃性ストーカー行為へと発展していく。
初めオスカーは対策をジュリアスたちに伝えるだけに留めようと思った。犯人を特定することは不可能ではないし、それさえ出来れば、アンジェリーク自身からストーカーに対してのアクションを起こすことが出来る。妄想型のストーカーでなければ、そのほうが有効な解決方法なのだ。そう、例えば、かつてのアンジェリークの恋人がストーカーだった場合には(こういったストーカーを恋愛ストーカーと呼ぶ)。
だが、詳しく事情をアンジェリークから聞いて考えが変わった。まず第一に、既にメールアドレス・携帯電話の番号の変更をアンジェリークがしていたこと。これは一方的な交渉の拒絶であり、そのことがストーカー本人の中では『傷つけられた』という認識となっていること。恋愛ストーカーの場合であれば、これは致命的なミスだ。確実にアンジェリークやその周囲への攻撃性を持ち始めている。となれば、自分が『恋人』となることにより、攻撃は自分へと向かってくるだろう。そのほうが対処もしやすかった。
第二に、妄想型かもしれない可能性があること。妄想型であれば、それは医学的な治療の対象となる。ストーカー本人の為にも、専門的な知識を持つ者がいたほうがいい。
そして、最大の理由はオスカー自身がアンジェリークを守りたいと思ったことだった。オリヴィエには誤魔化したが、恐らく自分は彼女に惹かれている。『恋人』という立場で接するのだ。より互いを知ることが出来るだろう。彼女のことを知りたかったし、自分のことも知ってほしかった。
「オスカー、お待たせ!」
午後の授業を終えて、アンジェリークがオスカーの許にやってくる。
「そんなに走らなくても俺はここにいるぜ、お嬢ちゃん」
オスカーが甘い笑みを浮かべて言う。その表情にアンジェリークは胸が高鳴る。恋人は『振り』だけなのに、つい期待してしまう、そんな笑みだった。
「じゃあ、行こうか」
オスカーはアンジェリークの手を取ると、エスコートして馬場へと向かう。
「あ、待って、オスカー」
馬場へと向かう途中、アンジェリークは歩を止めた。そして近くにあった木にいきなり登り始める。
「おい、何してるんだ!」
「待って! よいしょっと」
オスカーを無視して、アンジェリークは危なげない所作で木に登っていく。
「ほ~らもう大丈夫よ。怖かったの? 登ったのに降りられなくなっちゃったのね」
木の枝に腰掛けたアンジェリークの膝に子猫が抱かれていた。どうやら鳴き声を聞きつけたか何かで気づいたのだろう。
「オスカー! 受け止めてね!!」
そう言うや、アンジェリークはそこから身を躍らせる。
「アンジェリーク……!」
慌ててオスカーはアンジェリークを抱きとめる。幸い難なく受け止めることが出来た。
「全く……君はとんでもないお転婆だな」
少しばかり怒った口調でオスカーが言う。
「ふふふ」
アンジェリークは可笑しそうに笑うと、胸に抱いていた子猫を下ろしてやる。
「もう、無茶しちゃだめよ?」
アンジェリークの言葉が判ったのか、子猫は『ンニャ』と鳴き、それからごろごろとアンジェリークの足に体を摺り寄せてから去っていった。
「ったく……それはこっちの台詞だ!」
オスカーは怒っていた。アンジェリークがお転婆なことではない。そんな危ないことをさせてしまった自分に。そして、一言自分に言えばいいのに、何も言わなかったアンジェリークに。
アンジェリークのお転婆を見るのはこれが初めてではなかった。ボディガードとして一緒に行動するようになってから3日だ。その間何度も見てきている。彼女が最初のイメージと違うことは十分に知っていた。
柔らかで、暖かで……。それは変わらない。けれど、大人しやかな少女だと思っていたのだが、それは大きな間違いだった。リモージュの令嬢だから、大人しい、如何にも『お嬢様』な印象を持っていたのだ。ところが、かなり違っていたというわけだ。
だが、それでオスカーの彼女への興味が失せたわけではなかった。いや、一層彼女に惹かれていった。そして、彼女が飾らないありのままの自分を見せてくれたことが嬉しかった。そう、初めて会ったときの彼女の姿は飽くまでも『リモージュ令嬢』としての彼女の公的な姿だったのだ。彼女自身を見せていたわけではない。そんな他愛もないことで嬉しくなる自分が可笑しかった。まるで恋に初心な少年のようだ。
「……さて、馬場に向かうか、俺のお転婆天使?」
「もう、オスカーったら、すぐ『俺の』とか言うんだから!」
アンジェリークは真っ赤になって抗議する。でも本心では嫌がってはいないのだ。少し寂しいだけ。この関係は嘘だから……。
オスカーは笑いながらアンジェリークの肩を抱くと馬場へ向かった。アンジェリークのオスカーの腕を心地よく感じながら、共に歩いていった。
――そんな2人の姿を暗い視線で見つめる男には2人とも気づかなかった。
馬場につくと、アンジェリークは少しばかり不機嫌になった。
馬術クラブは高等部・大学部が合同で活動している。当然女子大生のお姉さま方がいるのだ。そのお姉さま方はアンジェリークを気にすることなく、オスカーに接近してくる。今も、オスカーの回りにきれいに化粧をして着飾った数名の学生が集まっている。
「オスカーってば、あんなに鼻の下伸ばして……」
「彼はもてていますねぇ、わたしから見れば羨ましい限りです」
背後からアンジェリークにそう声をかけた者がいる。振り向くとそこには物理担当の教諭であるシュナイダーが立っていた。くたびれた白衣を着て、薄汚れた眼鏡をかけている。
「先生……どうなさったんですか? こんな所にいらっしゃるなんて……?」
めったに物理準備室から出てこない教師だ。その彼が態々出てくるとは……。
「いえね、ちょっと気分転換に」
「そういえば、今論文を書いていらっしゃるんでしたね。大変ではありませんか? 授業もありますのに」
アンジェリークは公式の表情になってそう話していた。実はあまりこの教師が好きではなかった。なんとなく生理的に受け付けないというか……。だが、彼が何かしたわけでもないからそれを態度に表すのは失礼だと思い、努めてにこやかに対応していた。
「ああ、気にしてくれていたんですか、リモージュ君。ありがとう。でも、目処もつきましたからねぇ、こうして気分転換してるんですよ」
アンジェリークとしては早々に会話を切り上げたかったのだが、シュナイダーはなかなか立ち去りそうにはなかった。
「アンジェリーク! 何をしているの? 早くこちらにいらっしゃい!」
そこに助けが入る。アンジェリークの親友で馬術クラブの部長をしているロザリアが呼んでくれたのだ。
「では、先生。失礼します」
丁寧にお辞儀をして、アンジェリークはロザリアの所へ行った。
「助かった~ありがと、ロザリア!」
「ったく、シュナイダーなんか無視してればいいのよ。あんな変態教師!」
「変態って……別に何もしてないじゃない、シュナイダー先生」
「根暗で、なんか粘着質な感じじゃない? 気持ち悪いわ」
「そんなこと言っちゃ失礼だよ、ロザリア。……でも、やっぱり苦手……」
「でしょう?」
そんなふうに会話する2人をオスカーは見ていた。周りにいる女性たちには適当に返事を返しながら。そして、自分に向けられた敵意も感じ取っていた。
「今日はどんな感じだ?」
帰宅してから着替えた後、アンジェリークはメールをチェックする。その中から、例のストーカーからのものと思われる送信者不明のメールをオスカーが確認する。
「5通も着てるのか……。鬱陶しいな」
『アンジェリーク……君にまとわりつくあの男はなんだい? あの無節操で軽薄な男は? 君には相応しくないよ。きっと君は迷惑してるんだろうね、あんな男に付きまとわれて。きっと君を弄ぶつもりなんだ。他の女にしているように。あの男のいい噂は聞かない。早々に手を切ったほうがいいよ。君が傷つく前に。あんな男、僕が排除してあげるよ。僕が君を助けてあげる。君は僕に救いを求めているんだろう?』
そんなことを延々、メールに綴っている。
漸く、ストーカーは攻撃対象としてオスカーを選んだようだ。オスカーはほっとした。アンジェリークに攻撃が向かうこともありえたのだ。
「オスカー……貴方、危ないんじゃないの……?」
メールを見たアンジェリークが不安そうに見つめる。
「そうだな……でも心配は要らないぜ? これでも兄貴と一緒に訓練は受けてる。そこそこ有能なSP程度には戦えるからな」
アンジェリークを安心させるようにオスカーは笑う。でも、アンジェリークはそれで安心は出来ない。仮令オスカーがどんなに強くても、危険に曝されることにはなるのだ。
「こういった手合いはいきなり暴力的な手段には訴えないだろう。まずは嫌がらせからだろうが、理由が判ってる嫌がらせなんていくらでも対処できるからな。心配は要らないさ」
まだ不安げなアンジェリークにオスカーは再び微笑んで見せる。
「俺の役目は君の不安を取り除くことなんだぜ? そんな顔しないでくれよ、俺のお嬢ちゃん?」
「でも……」
アンジェリークはそれでも表情を曇らせたままだ。自分の為に誰かが傷つくなんていやだった。それがオスカーならなおさら……。
「心配してくれるのは嬉しいが……俺を信じて任せてくれ。いいな、アンジェリーク」
オスカーはそう言うと、そっとアンジェリークの額に口付けた。アンジェリークは突然のことに驚いて目を見開く。その反応にかすかに笑って、オスカーは帰っていった。
オスカーがアパルトマンに戻ると、オリヴィエとリュミエールが来ていた。
「敵さん、動き出したみたいだよ」
そう言って、オスカーにMOを差し出す。オスカーはパソコンを立ち上げると、メールをチェックする。大量のメールが入っていた。送信者は不明。中にはウィルスメールも入っていた。勿論、セキュリティが自動的に排除する。
メールの内容はオスカーの予想どおり、アンジェリークから離れろ、手を出すなといったものだった。それが脅迫まがいの言葉で綴られている。気の弱い人間なら、或いはただプレイボーイとしてアンジェリークを弄んでいるだけなら、即刻アンジェリークと別れようと思わせるほど、悪意に満ちたものだった。
「あんたの所にも随分着てるねぇ……」
「ひどいものですね……。人はここまで醜い言葉を使うことが出来るのですね」
リュミエールもオリヴィエもそのメールのひどさに嫌悪感を表す。
オスカーは続いてオリヴィエから渡されたMOを開く。そこには大量のメールが保存されていた。
「学内のPCやあんたの知り合いにばら撒かれたメールだよ。学内には事前にあんたが悪質な嫌がらせを受けてるって通知出しておいたから、皆保存してわたしの所に回してくれたんだ。しかし……ひどいもんだね」
メールの内容は誹謗中傷だった。とことんオスカーを貶めようとしていた。それはありもしないオスカーの女性関係を作り上げ、オスカーが女衒紛いのことをしているように書かれていた。それこそ、このメールの内容を鵜呑みにする者がいれば、社会的に抹殺されるようなことまで……。幸いオリヴィエが手を回しておいてくれたおかげでオスカーへの害とはならずにすんだが……。
「これで……ほっとしたよ」
メールに一とおり目を通して、オスカーは呟いた。完全に攻撃対象は自分になっている。アンジェリークは安全だろう。
「あんた……アンジェリークにマジになってる……?」
その表情を見たオリヴィエが恐る恐るといった風情で尋ねる。これまでオスカーが本気の恋などしてこなかったことを知っているから。だが意外にもオスカーはあっさりとそれを認めた。
「そうだな……もう、かなりマジで惚れてるな……」
苦笑がもれる。騎士道精神だと思っていた。か弱い女性を守っていて、そんな気になってしまったんだと。
だが、今日、アンジェリークがあの教師と2人でいるところを見てオスカーは嫉妬していたのだ。天使の微笑を惜しげもなく振りまく彼女に怒りを感じてもいた。そして、ロザリアとの会話から、アンジェリークが実はあの男を嫌っているのだと知って、安堵した。そんな自分に気づき、オスカーは改めて自分がアンジェリークに惹かれていることを……そう、彼女に恋していることを認めたのだ。
「これが終わったら、身辺整理しないとな。俺の本気を伝える為にも」
「じゃ、まずはさっさとこっちを片付けることだね。メールのコピーはもうルヴァ講師に渡してある。2、3日中には結果が出そうだってさ」
もっと簡単に判るかと思っていたが、意外に犯人はネットワークに強いらしくなかなか尻尾を掴ませなかった。
「ああ、万一ってこともある。アンジェリークに被害が及ばないうちに片をつけたい」
オスカーはこれまでオリヴィエたちですら見たこともないほど真剣な目をしていた。
オスカーの携帯に犯人が特定できたと連絡があったのは3日後のことだった。部活を終え、着替えてくるアンジェリークを待っているときにルヴァから連絡が入ったのだ。
この3日の間にオスカーへの嫌がらせは執拗になっていた。日に何度も携帯に無言電話が入る。サーバのメールボックスがいっぱいになってしまうほど大量の嫌がらせメールが入る。『殺してやる』という言葉が延々2MBもの大容量で羅列してあったときには思わず感心してしまった。オスカーが一向にアンジェリークの傍を離れないことに犯人は相当苛立っているようだった。
また、アンジェリークの許へ届くメールは回数こそ減ったものの、過激さを増していた。露骨に性的な表現を用いてくるようになっていた。そして、オスカーへの憎しみも。そのことがアンジェリークを不安にさせていた。自分への嫌がらせ(ストーカーにとっては愛情表現)は我慢できた。だが、オスカーのことが心配だった。もし、自分の所為でオスカーの身に何かあったら……。
「さぁ、行こうか」
「……ええ……」
日増しにアンジェリークの表情が曇っていく。それが自分のことを心配するゆえだと思うとオスカーは不謹慎にも嬉しかった。だが、いつまでもアンジェリークにこんな表情をさせてはいられない。アンジェリークには笑顔こそが似合うのだから。
『奴』が自分たちをつけていることには気づいていた。だから、オスカーはこの日、一気にけりをつけるつもりでいた。気づかれないようにアンジェリークのボディガードであるヴィクトールに連絡を入れ、待機していてもらう。
そして……アンジェリークの家についたオスカーはいつもと違う行動をとった。いつもはそのままアンジェリークと共に館に入る。だが、今日はそこで別れを告げる。
「え……?」
意外そうに、そして寂しそうな表情をするアンジェリークにオスカーは愛しさがこみ上げる。
「すまない、アンジェリーク」
オスカーはそう言うと、アンジェリークの顎を指で上向かせ、唇に口付けた。
アンジェリークは一瞬、何が起こったのか判らなかった。呆然としていると、オスカーが更に角度を変え、深く口付けてくる。
初めての口付け、しかもそれは十分に濃厚な大人のキスだった。アンジェリークは躰から力が抜けていく。崩れそうなアンジェリークを支えるようにオスカーがアンジェリークの細い腰を抱く。アンジェリークはオスカーの腕をつかみ、体を支えている。
初めて味わうアンジェリークの唇は甘かった。目的を忘れてそのままのめりこんでしまいそうだった。だが、冷静な部分も残していた。でなければ、アンジェリークの意思を無視して口づけた意味がない。目の端でずっと尾行していた男の動きを捉える。
「うわあああああああああ貴様離れろっ、俺のアンジェリークに何をするんだああああああ」
突然物陰から男が飛び出す。濃厚なアンジェリークとオスカーのキスに我慢ならなくなったのだ。
予期していたオスカーはアンジェリークを控えていたヴィクトールに預けると、男に向き直る。男の手にはナイフが握られていたが、それを蹴り飛ばす。すかさずそのナイフをこれも控えていたオリヴィエが奪う。その間にオスカーは男を抑え、動きを封じる。
「放せええええええ」
男は狂ったように叫ぶ。
その男に、アンジェリークが近づく。
「そんな……シュナイダー先生……」
そう、ストーカーは、物理教師のシュナイダーだったのだ。
「どうして……なぜ、こんなことなさったんですか……」
アンジェリークの声は震えていた。
「君と僕は愛し合ってる。なのに、皆で僕たちを引き裂こうとしている!だから、こうするしかないんだ!!」
シュナイダーは現実を見ていない眼でそう言う。
アンジェリークは愕然として、シュナイダーを見つめていた。
シュナイダーは妄想型のストーカーだろうと思われた。取り敢えずオスカーに対する傷害未遂で警察に連れて行かれ、取調べを受けることになった。そして場合によっては(妄想型である可能性が高まれば)精神鑑定を受けることになる。
シュナイダーは自分とアンジェリークが愛し合っているのだと主張していた。ただ、自分は教師であり、アンジェリークは学生であることから、慎み深いアンジェリークはそれを言い出せなかったのだと。だから彼女が勇気を出せるように自分から愛を告げていたのだと。
どうしてそんな妄想を抱くようになったのか……それはアンジェリークの態度が原因だった。何も思わせぶりな言動をしていたわけではない。他の教師に対する態度と全く違いはなかった。ただ、シュナイダーは他の学生からは蛇蠍のごとく嫌われていた。そんなシュナイダーにしてみれば、アンジェリークの態度は自分への愛情だと思えたのだ。
全てが解決した。オスカーは役目を終えて去っていった。事態に呆然としていたアンジェリークはオスカーとあまり話すことが出来ず、とおり一遍のお礼だけで終わってしまっていた。
冷静になると、アンジェリークは次第に怒りを感じてきた。シュナイダーにではない。彼には何の感情も動かない。アンジェリークが怒りを感じていたのはオスカーに対してだった。
『すまない』
キスする前にそう言ったのは、こういうことだったのだ。オスカーは自分が好きでキスしたのではない。ただ、シュナイダーを激昂させる為にキスしたのだ。ただ、目的を果たす為だけにキスしたのだ。自分のことを何とも思っていないのに……。
「初めてだったのに……」
アンジェリークの目に涙が浮かぶ。
いきなりだったけれど、キスされて嬉しかった。この1週間でアンジェリークの想いは憧れから恋に変わっていたから。憧れがそのまま恋になったのではない。
アンジェリークが憬れていたのは表面だけの彼だった。その外見とフェンシングを、乗馬をしている姿から『王子様』に対するような憧れを持っていた。だが、現実のオスカーは王子様なんかではなかった。一緒にいるときもよく女性からの電話があった。耳に甘い言葉を電話の相手に囁いていた。アンジェリークのことは初めこそレディ扱いしたものの、それからはずっと子どもも扱いだった。いい加減なプレイボーイなの? とショックを受けもした。
だが、自分を守ってくれていた。精神的にどれだけオスカーに支えられたことだろう。オスカーが心配ないと笑ってくれるだけで、心が軽くなって温かくなった。そして、アンジェリークが深刻になりそうなときほど子ども扱いしてアンジェリークを怒らせて、そうすることで元気付けてくれていた。
だから、憧れとは別にだんだんオスカーに惹かれていった。子ども扱いされるたびに悲しくなった。オスカーがこうして傍にいてくれるのなら、ストーカーがいつまでも捕まらなければいいとさえ思いもした。オスカーが標的となったと知ったときには目の前が真っ暗になった。彼が自分の所為で危ない目に遭うなんて嫌だった。
キスされて嬉しかった。なのに、オスカーにとってあれはお芝居だったのだ。あんなにも情熱的なキスをしてくれたのに……。
その夜、アンジェリークは一睡も出来なかった。
「気になることがあるのなら、直接確かめたほうがいいぞ」
翌日、クラヴィスはアンジェリークの顔を見るなりそう言った。この兄には何の隠し事も出来ない。恐らくアンジェリークが何を悩んでいるのかなどお見通しなのだろう。
「悩んでばかりでは解決しないし、お前らしくない」
そう言って、クラヴィスはアンジェリークの背を押してくれた。そしてジュリアスは何も言わずにアンジェリークを車に乗せ、大学へと向かった。
大学についたアンジェリークは漸くのことでオスカーがいるという講義室に辿り着くことが出来た。そこは講義では使っていないらしく、殆ど人影はなかった。ただ、2人がいただけだった。だが、その2人の人影を見たとたん、アンジェリークは踵を返して駆け出していた。
キスしていた。女性が半ばオスカーに覆い被さるようにして、オスカーはその女性の腰を支えるように抱いて、キスしていた。
背後から自分を呼ぶ声がしたような気がしたが、無視してアンジェリークは走りつづけた。
「アンジェリーク……!」
声が追いつき、同時に強い力で腕を捕まれる。
「俺に会いにきてくれたんだろう?」
「まだ……ちゃんと御礼を言ってなかったから……」
アンジェリークは振り返らずに言う。オスカーの顔を見たら泣いてしまいそうだったから。そして詰ってしまいそうだったから。
「それだけか?」
「……ええ……」
「じゃあ、どうして逃げるんだ? どうして俺の顔を見ない?」
「……」
アンジェリークは無言で俯いたまま、オスカーの顔を見ようともしない。
「俺のことが嫌いか?」
そんなことはないと確信しながらオスカーは尋ねる。もし嫌いなら、ここまでやってはこない。自分のキスシーンを見て逃げ出したりしない。
「……嫌い……大嫌い……! 誰とでも簡単にキスしちゃうオスカーなんて……大嫌い!!」
漸く振り返って、アンジェリークは叫ぶ。その顔は涙に濡れていた。
「そうか、困ったな……。俺がキスしたいのはアンジェリークだけなんだけどな」
アンジェリークの涙を指先で拭いながらオスカーは言う。こんなシチュエーションで口説くなんて自分らしくないと苦笑しながら。でも、本気の告白に形振りなど構ってはいられない。
「嘘。今だって他の女の人とキスしてた……」
「されたんだよ。別れ話をしたら、最後にキスさせろって」
「ほんと……?」
「ああ、本当さ。全部けりをつけたら君の所に行くつもりだったんだ。愛の告白をする為にね」
真剣な目でアンジェリークを見つめてオスカーは言う。驚いたアンジェリークの目からは涙も止まっていた。
「本当……? 本当に?」
「ああ。本当だ。君を愛してる。いつの間にか俺のハートを君は奪っていってしまったんだぜ?」
気障なことを言いながら、オスカーの目元はうっすらと照れたように赤くなっていた。
途端にアンジェリークの目から再び大粒の涙が溢れ始めた。今度は喜びの涙が。
その後、アンジェリークはある決意をする。長旅から帰ってきた叔父・カティスとも相談し、ある組織を作り上げる。それは、警察には相談しにくいような悩みを抱えている女性や被害に遭っている女性を救済する為の組織。表の顔は母がはじめたホストクラブ。そしてその裏の顔が『Sanctuary』となる。
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Mission code-01
「おい、ゼフェル、ちょっと来てくれ」
開店前の準備をしているところへ、バーテンのカティスに呼ばれた。
呼ばれたゼフェルは、(なんだよ、面倒くせぇなぁ)と思いつつ掃除道具をランディにこれ幸いと預けてカティスの所に向かった。
「なんだよ、カティス」
「こっちだ」
カティスがゼフェルを招じ入れたのはいつものスタッフルームではなく、『裏』のミーティングルームだった。それに気づいた途端、ゼフェルは緊張した。
カティスはデスクにつくと、柔らかなバーテンの顔から厳しさを持った『ガーディアンズ』の司令官の表情へと変わった。
「ミッションだ、ゼフェル」
「俺が!?」
慌てて周囲を見渡す。だが、他には誰もいない。
ゼフェルは準メンバーだ。準メンバーはいわば見習であり、正メンバーの使いっ走りである。だから、誰か正メンバーがいるだろうと思ったのだ。自分が組むとなれば、恐らくオスカーかルヴァが。ちなみに正メンバーはジュリアス、クラヴィス、ルヴァ、オスカー、リュミエール、オリヴィエの6人であり、準メンバーはランディ、マルセル、そしてゼフェルの3人だった。
「お前1人だ、ゼフェル。そろそろお前たちにも任せてもいいだろうということになってな。この件に関してはお前が適任だろうということで正メンバーも賛成している」
そんなゼフェルの戸惑いを察したかのようにカティスは言った。
「これから依頼人に会う。依頼内容は一応オーナーから聞いてはいるがな」
カティスはそう言うと書類をゼフェルに渡した。
依頼人の名はミレイユ・シャンピア。妙齢の女性だった。オーナーであるアンジェリークと同じ大学に在学し、ロザリアの遠縁にあたる。依頼内容は――
「実の両親探し?」
書類に目を通しゼフェルは言った。どこか不満げな声だった。
ホストクラブ『聖地』の裏の顔『サンクチュアリ』。そこは女性の為の闇の仕置人といった組織だった。社会的な汚濁を排除したり、無念を晴らす為の……。勿論、荒っぽい仕事ばかりではなく、調査し、証拠を集め社会的に抹殺する、或いは制裁を加えるといったことが中心だったが。そういった仕事の中心はジュリアス・クラヴィス・ルヴァであり、ボディガードや潜入しての調査など危険を伴うものを担当するのはオスカー、オリヴィエ、リュミエールだった。リュミエールなどは虫も殺さないような顔をして、あれでなかなかの手達だったりするのだ。
「不満そうだな」
「……別に、そういうわけじゃねぇけどよぉ……」
不満ありありの顔でそういう。
「確かに地味な仕事にみえるがな、それがそうでもないらしいんだ」
続きを読むようにカティスは目で促す。
ゼフェルは書類を読み進めるうちに面白くて堪らないといった表情になっていく。
そこにはこのエリューシオンでも優秀だと折り紙つきの探偵社、事務所、調査機関の惨敗記録が載っていたのだ。彼女が養女であること以外、何も全く調べ上げることが出来なかったのだ。しかも養女というのは公的な記録にも記載されていて、調べろといわれれば、素人でも簡単に判ることだった。
「やるな?」
「おう、やるぜ」
こうしてゼフェルの初仕事が決まった。
カティス、アンジェリーク同席の許、ゼフェルは依頼人であるミレイユに会った。
「で、何で今更実の両親のことなんて知りたいって思ったんだ?」
依頼内容を直接、再度確認し、彼女が中学生になる頃には養女であることを知っていたと聞いてから、ゼフェルは訊ねた。
「結婚が決まったのです。これまでにも気にはなっていたのですが、結婚を機に、自分のルーツを探してみようと思いましたの」
大人しやかな外見には似合わぬ意志の強そうな目で、彼女は答えた。
「簡単に判ると思っておりましたけれど……まったく何も判らない状態で不安になって……だからアンジェリーク様にご相談申し上げたのですわ」
そして、ここを紹介されたのだ言う。
「判った、俺が必ずあんたの親、探し出してやるぜ。あ、と……そうだ、髪の毛1本もらえるか?」
髪の毛1本からでも十分なDNA情報は引き出せる。病院のデータと照合すれば、色々な調査の道も開けるはずだ。
ミレイユはここに来た時点から全てを信頼して預けるつもりでいたようで、素直に髪の毛をゼフェルに渡す。勿論、ゼフェルに対する信頼ではなく、大学の後輩であり、エリューシオン最大の財閥『リモージュ財団』の会長であるアンジェリークへの信頼ではあったが。
「じゃあ、さっそく調査にかかるから。期待して待ってろよ」
ゼフェルは小さなサンプル用の袋にミレイユの髪をしまいながら、言った。
やがてミレイユは安心したように帰っていった。
「ゼフェル、ひょっとしたら、これが必要になるかもしれないから、渡しておくわ」
アンジェリークはそう言うと1枚のメモをゼフェルに渡した。それには10文字前後のアルファベットが記入されていた。
「おい、まさかこれ……」
思い当たったゼフェルははっとしてアンジェリークを見る。
「使っていいのは、今回の調査に関係することだけよ?」
悪戯っぽく笑ってアンジェリークは言うと、ちょうど彼女を迎えに来た恋人と共に帰っていく。
ゼフェルの手元に残ったメモに書かれたアルファベットの羅列。それはリモージュ財団特別パスワードだった。
エリューシオン王国第一の財閥であり、実は過去も現在も王家と深い関わりを持つリモージュ家に与えられた特権。それがこのパスワードなのだ。国家的最重要機密以外であれば、王国の政治に関する全ての情報にアクセスすることが出来るというパスワードだった。これまでにこのパスワードを知っているのは3名だけだった。当主であるアンジェリーク、その後見人のカティス、リモージュ家及び財団の顧問弁護士であるエルンスト。秘書であるロザリアですら知らないパスワード。それをゼフェルは与えられたのだ。尤も、この調査終了後パスワードは変更されるかもしれないが……。
つまりそのパスワードを使わねばならないほどの秘密が隠されているかもしれないのだ、ミレイユの出生には。ゼフェルは震えた。興奮の為だ。武者震いだ。
「よっしゃー、やってやるぜ!」
ゼフェルは元々はアンジェリークたちとはまったく関係のないコンピュータオタクの少年だった。様々な企業や機関のコンピュータのセキュリティを掻い潜ってハッキングすることを楽しんでいた。別に秘密を握って脅迫するとか、悪事を働くとか、そういった目的があるわけではない。ただ純粋にシステムに侵入することが目的だった。ゲームを楽しんでいるだけだった。
そのゼフェルが最も苦労したのが、リモージュ財団のコンピュータだった。流石に王国随一の財団だけあって、そのセキュリティは強固だった。それに比べれば、国防総省のメインコンピュータのほうが遥かに容易かった(もっとも最重要機密にはどうやってもアクセス出来なかったが)。何度もトライしては撃退され、それを繰り返していた。そして、ぎりぎり後一歩というところで、ゼフェルはリモージュの私設警備隊に捕まったのだ。
ゼフェルの許にやって来たのは当主アンジェリークの警備隊長も兼任する隊長のヴィクトール、そして、オスカーだった。だが、彼らはゼフェルを警察に突き出すのではなく、丁重にリモージュの屋敷へと彼を連れて行った。(尤も、オスカーが開口一番に言ったのは『こんな坊やが、天才ハッカーか?』という、ゼフェルにとっては怒髪天を突くような言葉だったが……)
リモージュの屋敷ではコンピュータセキュリティの責任者で考案者でもあったルヴァとエルンスト、そしてアンジェリークが待っていた。ゼフェルにとって彼らは思いもよらない提案をしてきたのだ。
つまり……ゼフェルにリモージュ財団のコンピュータセキュリティを作り上げてほしいと。そして、彼はリモージュ財団のコンピュータ部門の特別顧問となったのである。ちなみにその後、リモージュのコンピュータにハックしようとしたハッカーは、いつのまにか出会い系サイト(アブノーマル専用)や怪しい宗教系サイトに飛ばされるという不思議な経験をすることになったという……。
まず、ゼフェルがやったことは、新聞社、孤児院、養護院といった施設のデータにアクセスすることだった。そこでミレイユが養女となった15年前までの記録を調べたのだ。ミレイユに該当する少女がいないかどうか。もっともこちらから何か見つかるとは思っていなかった。とっくに他の探偵たちが調べているはずだから。念の為にという程度のことで、ミレイユの毛髪からDNAデータを抽出し終わるのを待つ間の暇潰しだった。
それが済むと、今度は王国治部省にアクセスする。ここに全て王国内で生まれた人物の出生記録があるのだ。尤も、これもさして期待してのことではない。ミレイユと同じ年に生まれたのは数万人、首都フェリシアで女性に限定しても1000人は下らない。そこで更に『ミレイユ』という名前で篩いにかけると対象は15人になった。
「おっ、これなら何とかなるぜ」
ミレイユ・タックス
ミレイユ・セーラム
ミレイユ・タパス
ミレイユ・パパガロ
ミレイユ・リコッタ
ミレイユ・ピステ
ミレイユ・エスカ
ミレイユ・ベシエ
ミレイユ・リチャーズ
ミレイユ・アルフィオ
ミレイユ・リヴィエール
ミレイユ・ラクレーム
ミレイユ・ティムシェル
ミレイユ・サミュゼ
ミレイユ・コンティーゴ
この15名について、まずは現在の所在確認だった。初めに大学の学生情報のデータベースにアクセス。タックス・セーラム・タパス・エスカ・ベシエ・リチャーズ・ラクレーム・ティムシェル・サミュゼ・コンティーゴの10名は大学に確かに在学中。次に各企業の社員情報を検索すると、パパガロ・リコッタ・ピステの3名が見つかった。そのうちの1人ピステはリモージュの本社の受付嬢だったりした。
だが、どうしても、残りの2人は発見できなかった。ミレイユ・アルフィオとミレイユ・リヴィエール。再度新聞社にアクセスし、死亡記事を検索したものの、それもない。ただ、アルフィオとリヴィエールの両親に関する記事を発見した。
アルフィオは15年前に世間を騒がせた盗賊団の一味で、それが捕まったという記事。リヴィエールは科学者夫妻で、これも15年前、何者かに殺害されたという記事。2つの記事には『ミレイユ』という娘に関する記述は何もなかったが……。
「この2人のうち、どっちかが、ミレイユの可能性があるな」
幸いなことにどちらも警察が関わっている。犯罪者と被害者という違いはあるが。これならば警察のデータにきっとDNAデータも残っているはずだ。
「へへへ、チョロいもんだぜ」
ここまで、僅か3日だった。
翌日、ゼフェルはとっくに届いていたミレイユのDNAデータと警察のコンピュータから得たアルフィオ、リヴィエールの両親DNAデータの照合を行った。
そして、簡単に、リヴィエールがミレイユの実の両親であることが判ったのである。
「あー、なんだよ、もうミッションコンプリートかぁ?」
ゼフェルは不満げに呟く。だが、それも僅かなことだった。報告書を書く為にリヴィエールの両親の事件の捜査記録を読み進むうちに不審を持ったのである。
まず、明らかな殺人事件であるのに、犯人が捕まっていないこと。別に密室事件だとか不可解な殺人で名探偵の登場を必要とする事件とも思われない。実際、不審な人物を見かけたとの目撃証言もあった。だが、犯人は捕まっていない。捜査が途中で打ち切られているのだ。つまり、何らかの圧力が警察にかかったのだろう。
改めてゼフェルはリヴィエール夫妻の履歴に目を通す。
夫 ジョルジュ・リヴィエール。科学者。細菌学専攻。
妻 イレーヌ・リヴィエール。同じく科学者、医学博士。伝染病についての研究で名高い。
科学者、細菌、伝染病……。そしてミレイユが引き取られたシャンピア家の当主は国防軍の元帥。
「軍部絡み、か……」
俄然面白くなってきた、とゼフェルは笑った。
取り敢えず、そこまでを調べた段階で、ゼフェルはカティスに報告することにした。
「ほう、もう、判ったのか! 流石だな、ゼフェル」
ゼフェルの仕事振りを賞賛した後、カティスは深刻な表情になる。
「15年前か……。確かにあの頃、何かの実験が行われていたらしいことは親父からも聞いていた。かなり反対して、圧力もかけたらしいがな」
カティスの父親は当然先々代のリモージュ当主である。だがその頃はまだリモージュは国内5指には入る財閥ではあったものの今ほどの力は持っていなかった。中止させるまでには至らなかったのだ。
「それがどんな実験だったかは聞いてねぇの?」
「ああ。そこまではな。俺もまだジュニアハイに行ってる歳だったしなぁ」
「そっか。じゃあ、俺、もう少し調べてみっから」
そういってゼフェルが出て行くと、カティスはオスカーとオリヴィエを呼んだ。
「ゼフェルのガードを頼む。厄介なことになるかもしれん」
2人が現れるとそう命じる。
「意外に奥が深い事件だってことだね」
オリヴィエが眉を寄せる。
「ああ、杞憂ならいいんだがな」
「任せてください」
オスカーが請合う。彼らは特殊訓練もつんでいるのだ。それこそSP顔負けの腕を持っている2人だった。
オスカーたちにゼフェルの身辺護衛を任せると、カティスはリモージュの屋敷へ向かった。アンジェリークに報告する為である。
「そうなの……。叔父様、わたし、王宮まで行ってきます」
「ああ、そうしてくれ」
「ええ」
そう言うとアンジェリークはヴィクトールを呼び、出かける旨を伝えた。
その頃、ゼフェルは再びコンピュータルームに篭り、国防省のメインコンピュータにアクセスしていた。その結果、予想どおり、十五年前、リヴィエール夫妻が軍部の依頼を受け何らかの実験に関与していたことまでは判った。だがそこから先はトップシークレット扱いで、どうやってもアクセス出来ない。
PPPPPPPPP
「ちっ、またか……」
何度目か数えるのも馬鹿らしくなって、ゼフェルははき捨てた。これ以上は拙い。逆探知されてしまう。暫くほとぼりを冷ます意味も含め、ゼフェルは気分転換に出かけることにした。
「流石に眩しいぜ……」
外に出るのは4日ぶりだった。ずっとコンピュータルームに篭っていたのだ。ゼフェルは大きく伸びをして新鮮な空気を吸い込むと、まずは腹ごしらえをする為に行きつけのカフェへ向かって歩き出した。その後についてくる2組の尾行者には気づかずに。
「やっぱりおいでなすったね。カティスの読みは外れちゃいなかったわけだ」
当然尾行者の1組はオスカーとオリヴィエだった。彼らの前をもう1組がゼフェルを追っている。
「外れてくれればいいもんを。まぁ、俺たちの出番なしってのも癪だしな」
「そーゆーこと~」
明るくオスカーに答えて、オリヴィエは歩き出した。
ゼフェルがカフェを出て散歩の為に公園に向かう。途中、人気のない路地に入った所で、彼らは行動を起こした。
ゼフェルを追い詰めると、彼らは銃をゼフェルに突きつける。
「どこまで知っている」
低いどすの効いた声で男はゼフェルに問う。
「な……何のことだよ」
取り敢えず、ゼフェルはとぼけて見せる。
「しらばっくれるな。リヴィエールのことを嗅ぎまわっているだろう」
もう1人の男が問う。
「お前は知らなくてもいいことを知ったんだ。身から出た錆と思うんだな」
突きつけた銃の安全装置を解除し、トリガーをひこうとした瞬間、男の肩にダガーが突き刺さり、男は銃を取り落とす。すかさず、ゼフェルはそれを手の届かない所に蹴り飛ばす。
「そ~んな無粋なもの使ってちゃ、もてないよ~」
「まったくだぜ」
背後に長身の2人の男。当然オスカーとオリヴィエである。ゼフェルを追い詰める為に袋小路に入っていたのが災いした。男たちは退路をオスカーらに絶たれた形になっている。
「クッ……」
「さて、こんな無粋なものは使いたくないんだが、まぁ、いいか。無粋な男相手にはちょうどいい」
オスカーは銃を拾い上げると、無傷の男に向かって、狙いを定める。
「俺は優しい男だからな、お望みの場所から撃ってやるぜ? 肩か? 膝か?……ああ、心臓はやめておくぜ。殺しはしないからな」
男たちはオスカーとオリヴィエの迫力に押されている。彼らも一応訓練を受けているから、2人の身のこなしに隙がないことを見て取っていた。逃げることは不可能なのだ。
男たちは、オリヴィエの連絡を受けて迎えに来たヴクトールによって、リモージュ家へと連れて行かれた。
そのまま、ゼフェル、オスカー、オリヴィエの3人はシャンピアの屋敷へ向かった。
ゼフェルのハッキングがばれていたのだとしても、それが『ゼフェル』という人物に結びつくにはあまりに早すぎた。恐らくどこかから情報が漏れていたに違いない。そしてそれは依頼人のミレイユからしか有り得なかった。
オスカーの連絡を受けたカティスがシャンピア家に先行し、大体の事情は聞き出していた。ミレイユが実の両親探しをゼフェルに依頼したことを養父母に話していたのだ。それを聞いていた屋敷の新しいメイドが、情報を漏らしていたのである。
シャンピア家の当主であり国防軍元帥のジャン・ピエールは軍人とは思えぬ穏やかな風貌をした初老の男性だった。
ゼフェルらが訪れると彼は自らで迎え、詫びた。
「娘の所為で、大変危険な目に合わせていまい、申し訳ありませんでした」
そういって詫びた後、彼は全てを話したのである。
今から15年前、軍部では隣国アルヴィース帝国の脅威に対抗する為、生物兵器の開発に取り組んでいた。特殊な気候条件下で猛威を振るう細菌を発見したシャンピア夫妻は半ば強制的に軍部に協力させられた。だが、そのあまりの恐ろしさに、シャンピア夫妻は人として、科学者として耐え切れず、実験の成果を全て抹消したのである。そのことが当時実験を進めていた軍幹部の怒りを招き、見せしめの意味も含めて夫妻は殺されたのである。そして、友人であったシャンピア元帥(当時は将軍)は友人を救えなかったことの贖罪の意味もこめて遺児であるミレイユを養女としたのだった。
「わたしたちが全てを話しておれば、貴方方に御迷惑をおかけすることもなかったのに……申し訳ありませんでした。だが……話す勇気がなかったのです。友人を救えなかったことをミレイユに責められたら……恨まれたら……そう思うと怖くて……」
養父のその言葉に、ミレイユは涙をたたえた目を養父母に向ける。
「そんなこと……。お義父様とお義母様がどれほどわたしを慈しんでくださったかは、わたしが一番よく知っています。恨んだりなどいたしません」
ミレイユははっきりと、両親に告げる。
「ミレイユ……」
「結局、実の両親より、育ててくれた養父母への愛情のほうが強かったって訳だな」
全てを終えて、シャンピアの館を出てからゼフェルは言った。
「実の親より育ての親、ってことだね。まぁ、いいんじゃない?」
『聖地』へと戻りながら、彼らは今回のミッションのことを話していた。
「取り敢えず、初ミッションコンプリートだ、よくやったな、坊や」
オスカーが子ども扱いで、ゼフェルの髪をかき回す。
「坊やって言うなよ、おっさん」
「だれがおっさんだ? どこから見ても好青年の俺を捕まえて……」
「まぁまぁ。あ、ということは、今度はアンジェリークがあんたを指名するわけで~、すると、オスカーはあんたのヘルプに付くって訳だ」
「げっ」
「やった、扱き使ってやるぜ、おっさん!」
後日談。
この事件の後、軍部内で大幅な人事異動があり、かつて実験の推進者であった幹部は強制的に退役させられた。軍人という肩書きのなくなった彼に対して、司法当局はゼフェルに対する殺人教唆の容疑で逮捕。更に、国家が関わり、政府高官が犯した罪に時効はないという国法に基づき、リヴィエール夫妻の殺人についても罪を問われた。彼は70歳という高齢にもかかわらず、極寒の地にある刑務所へと送られた。また国王エドアール3世は過去に忌まわしい実験が行われたことを発表、勇気ある科学者夫妻によって国は救われたのだと、リヴィエール夫妻に対し謝意を表した。
それからまもなく、ミレイユはシャンピア夫妻の娘として、婚約者の許へ嫁いでいった。
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Mission code-02
エリューシオン公国首都フェリシア。アルフォンシア街ホストクラブ『聖地』。
「マダム、ようこそお越しくださいました」
ナンバーワンのホストであるオスカーが甘い笑みを浮かべて客を出迎える。彼の最上級顧客の『マダム紫乃』である。
「お久しぶりね、オスカー」
マダム紫乃は嫣然と微笑む。オスカーは彼女の手をとり、恭しく口づける。
「お見えにならないので案じておりました。お体でも壊されたのでは、と」
オスカーは彼女をVIPルームへエスコートしながら、内心で舌打ちしていた。マダムにではない。マダムの連れに対して。マダム紫乃はオスカーにとって、いや、このクラブのホストたちにとって非常に厄介な女を連れてきたのである。
VIPルームに着き、オスカーとヘルプについているランディが女性たちを持て成す。
「緋川……さま、ご指名は」
オスカーが問いかける。敬称をつけるのが思いっきり嫌そうである。尤もそんな素振りを見せるのはマダム紫乃がこの『緋川』がどれだけ厄介なのか、それをホストたちがどう思っているのか、更には彼らの『仕事』を知っている所為でもあった。彼女は単に顧客というだけではなく、バックアップしてくれる存在でもあったのだ。つまり、オスカーたちも気を許しているのだ。
「何? その嫌そ~な顔。それでよくナンバーワンなんてやってられるね」
緋川と呼ばれた女は判っていながら意地悪そうに言う。
「決まってんでしょ。カティスよ」
やっぱり……オスカーは溜息をつく。が、その反面、これから起こるであろうことに気分が高揚していくのだった。
「で、今回のミッションはわたし?」
スタッフルーム――但し、裏の――にはオリヴィエが呼ばれていた。
「ああ。お前が適任だろう」
カティスがオリヴィエに応える。そして依頼を書いた書類を渡す。
「俺と緋川で裏は取ってある、確かに怪しいし、警察も動いてくれない。まぁ、奴らとしては動けない、というところだな」
カティスの言葉を聞きながらオリヴィエは書類に目を通す。
「ふ~ん、なるほど」
「で、オリヴィエにはここに潜入してもらおうってわけ」
いつの間にか来ていた緋川が言う。この女、全くの正体不明で神出鬼没である。カティスの知り合い、ということしかオリヴィエたちは知らされていないが、いったいどういう知り合いなのか……。一度カティスに聞いたところ……『あ~~……その、だな……。人生色々、というやつさ。はっはっは』という謎の答えしか返ってこなかった。ただ、緋川がこの斡旋で収入を得ているという話も聞かないし、善意でやっていることではあるようだった。(尤も、ガーディアンたちはこの女に善意があるとは思っていなかったが……)
「潜入ね。ま、慣れてるけど」
「うん。今回はホステスだから」
なんでもないことのように緋川が言う。
「はい?」
なんか変なことを聞いた気がする……。
「リュミちゃんかマル坊とも思ったんだけど、リュミちゃんじゃ品がありすぎるし、マル坊はまだお子ちゃまだしね。庶民的なお店だからね、あんたがいいかな、って」
更に緋川は言葉を継ぐ。
「きっとあんたなら綺麗なホステスに化けられるでしょ? 頼むね」
「……ちょっと待って。緋川、あんた、ホステス、って言った?」
「やだなぁ、ヴィエ。あんたわたしより10歳も若いのにもう耳が遠くなったの? そうだよ、ホステス」
「それはわたしに女装しろって言ってるのかい?」
オリヴィエのこめかみに怒りマークが出現。ぴくぴくと頬が引きつっている。
「いいじゃん、いつも似たような格好してるんだしさ」
けらけらと笑って言う緋川。
「……という冗談はそこまでにして、そろそろご到着じゃないか?」
それまで2人の陰険漫才を『触らぬ神に祟りなし』とばかりに無視していたカティスが口を挟む。その途端にオリヴィエも緋川も真剣な表情になる。
「まぁ、さ。今回の件は依頼人も結構精神的に参っちゃってるから、あんたのその包容力に期待してんのよ。頼むね」
先ほどまでとは打って変わった表情で緋川が言う。
「OK。そんな期待されてるんじゃ、頑張るしかないね」
オリヴィエがそう応えたところで支配人のロザリアが来客を告げる。依頼人の登場だった。
「はじめまして」
依頼人は緊張しているようだった。心持青ざめてもいたが、見知った顔を見てほっとしたように力なく微笑んだ。
「大丈夫、こいつらに任せておけば、万事解決するから」
緋川が力づけるように言い、カティスが座るように勧める。オリヴィエが優しく彼女を誘導する。
「さとみと申します。今回は、ありがとうございます」
依頼人の女性は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「気にしないで。困ってる女性は放ってはおけない性質なんだ」
さとみの緊張をほぐすようにオリヴィエが優しく笑いかける。そのオリヴィエをさとみは驚いたように見つめる。ホストだと聞いているが、派手な化粧といいその容貌といい、男とは思えない。
「そいつが、今回の担当のガーディアンなの。一応男。オカマじゃないって言ってるけど本当のところはどうだか。見た目は怪しいけど、中身はわたしよりはまともだから安心して」
緋川がそうオリヴィエを紹介する。
「……そんな紹介じゃ、こちらのお嬢さんも安心できないだろう」
苦笑してカティスが言う。それにつられたようにさとみも小さく笑った。
「俺がリーダーのカティスだ。安心して任せてくれ。俺たちが必ず貴女の不安を取り除いてみせるから」
カティスがさとみに微笑みかける。それは安心を与える微笑みだった。
「大体のところは女史から聞いているが、改めてお嬢さんの口から聞かせてもらえるかな?」
さとみが緊張を解いたところでカティスは切り出した。
「はい」
さとみは頷くと、依頼に至るまでの経緯を話し始めた。
さとみの母は『三月うさぎ』というスナックを経営している。さとみ自身もその手伝いをしてカウンターに入っているという。店の客は顔見知りが多く、一種近所の社交場というか息抜きの場というような気さくな雰囲気の店だ。だが、その平和な店に異変が起こった。2、3ヶ月ほど前から店を手伝ってくれていた女の子や常連の女性が数人、連絡が取れなくなってしまったのである。家を訪ねていっても誰もおらず、電話にいたっては繋がらない状態だという。
「原因に思い当たるところは?」
オリヴィエが尋ねる。さとみは一瞬躊躇うように視線を彷徨わせたが、また話し始めた。
「半年くらい前から……昔付き合っていた男性が来るようになったんです」
1ヶ月ほど付き合ったことのある男だった。付き合っていた頃、余りにもその男が暴力を振るうのでさとみは耐え切れず、逃げるようにして別れたのだという。
「最初は追ってきたのかと思って驚きました。でも、それは違ったようで安心しました。楽しそうに再会を喜んだように挨拶してきました」
それから男は毎日のように来店している。突然、他のお客様に絡むこともあるという。ただ、さとみはそれは酔って絡む客は他にもいるし、別に気にしていなかった。1点を除いて。
「実は、彼は体質の関係でお酒は飲めないはずなんです。付き合ってるときもお酒は一切口にしていませんでした。今でも店に来てはコーヒーしか飲んでいないんです。それなのに店に来るときには、既に酔っているような感じなんです。泥酔しているように足元もおぼつかない様子で、感情の起伏も激しく、突然怒ったり笑い出したり」
さとみは不審そうに眉を顰める。オリヴィエもカティスも真剣に話を聞いている。
そういった元彼の様子と現れた時期、そこに女性たちの失踪と関連があるような気がしてならないのだ。思い切って一度は聞いてみたものの、知らないと言われ、かつて暴力を受けていただけにそれ以上は追求できなかったという。
「警察に連絡して彼女達の捜索願も提出しようとしました。でも、身内以外の人間が言っても真剣に取り合ってくれなくて、『同時期に消息が途絶えたのは偶然では?』って言われました。わたしの方でも何か出来ないかとインターネットを利用して人探しのHPに『彼女達を見かけたら連絡ください』って投稿したんです。大量のひやかしのメールがきました。情報も何件かはありましたが、どれも違っていました」
そう言って、さとみは辛そうに顔を俯かせてしまう。慰めるようにオリヴィエが優しく彼女の肩に手を掛ける。
「そんなときに緋川さんからメールをいただいて励ましていただいたんです。そのメールに返信して……と何度かメールのやりとりをしているうちに、彼のことも含めて話していました。そうしたら先日、こちらの事を教えていただいたんです。『聖地に行ってカティスを指名してごらんなさい。彼に話してみたら道が開けるかもしれないわよ。』って……」
こちらだけが頼りなんです、さとみは必死の表情で言う。
「実は……消息不明になったお客の中に、幼なじみがいるんです。小さい頃からよく遊んでて、わたしがこっちに戻ってからもお店に顔を出してくれたり、休みの日には一緒に遊んだりしていました。連絡を絶つ数日前に、幸せそうに『彼氏が出来た』って言ってた彼女が、突然連絡を絶つなんて、考えられない!」
堪えきれずにさとみは泣き出してしまう。オリヴィエはそっとさとみの頭を抱き寄せ、彼女の涙が止まるのを待った。
「大丈夫。絶対探し出して見せるから。安心して」
そう言いながら、オリヴィエは励ますように彼女の背を撫でる。
「お願いします。彼女を……彼女たちを探してください! 必要であればお店にはスタッフとして来ていただいてかまいませんし、わたしで出来ることがあれば何でもやる覚悟はあります。どうか! どうかお願いします!」
さとみは顔を上げ、必死な瞳でオリヴィエを見上げる。それにオリヴィエは安心させるように力強く頷いてみせる。
「大丈夫、オリヴィエが手がけた事件で解決してないのは1つもないから。さとみさん、安心していいよ」
横から緋川もさとみを力づける。
「皆を見つけ出して、犯人はぎったんぎったんにやっつけてやるから、安心して。で、まずあんたはその暗い顔をやめること。無理もないけどさ。こんなときこそ笑顔を忘れないで。笑顔は幸運を呼び込むんだから、ね?」
オリヴィエがさとみの目を覗き込みながら言う。
「……はい……」
オリヴィエの、カティスの態度に、さとみは漸く希望を見出したようだった。
「ホステスってのは冗談じゃなかったのかい……?」
『三月ウサギ』に潜入したオリヴィエである。彼は苦虫を噛み潰したような表情をしている。それも無理はなかった。彼が着ているのは真紅地に大輪の牡丹をあしらった大層ゴージャスなチャイナ服だった。それだけならいい。チャイナも嫌いではないし、こんな派手……もとい豪奢な衣装は彼でなくては着こなせない。彼の髪を飾る櫛も黒地に金の鳳凰をあしらった豪華なものだったし、耳には指の先ほどもあるコンクパールのイヤリングである。どれをとっても彼の為に誂えたといって過言ではないほど豪奢なものだった。態々今回の任務の為に総帥アンジェリークが贈ってくれたものだった。
ただ、問題だったのはチャイナ服は束帯といった男性用のものではなく、旗袍だったことである。旗袍、つまりチャイナドレスのことである。それも腿のあたりまでスリットの入った、とてもセクシーなドレスだった。
「あの……よくお似合いですよ?」
「そぉお? うふ、あたしって何でも似合っちゃうのよね~……って違うでしょ、さとみちゃん!」
思わず乗ってしまうオリヴィエであった。
「だが、行方不明になってるのは女性ばかりだからな。まぁ、囮も兼ねておいたほうがいいだろう」
そう言うのは今回サポートについているオスカーだった。丁度他のミッションもないこともあり、また状況的に荒っぽい仕事もありそうだと踏んだカティスの指示で彼がサポートについているのだ。他にも情報収集をゼフェル、別角度からの調査をジュリアス・ルヴァが担当していた。
「取り敢えず、クラヴィスの占いで行方不明の女性たちの生存は確認されてるから安心してくれ、お嬢ちゃん」
軽くウィンクをしてオスカーが言う。自分よりも年上の女性をお嬢ちゃん呼ばわりするあたりが流石にオスカーである。ちなみに彼はバーテンとして潜入している。
店のナンバーワンとナンバーツー(オリヴィエは実はナンバーツーのホストなのである)が一度に抜けることに支配人のロザリアはいい顔をしなかったが、元々『聖地』は採算は度外視して作られた店でもあり、裏の仕事優先ということもあって仕方なく了承していた。
「まぁ……仕方ないね」
漸く女装に納得したのか、オリヴィエが溜息混じりに呟く。
「すみません……」
「いいっていいって! こうなったらとことん楽しんじゃうもんね~。あ、わたしのことはオリヴィアって呼んでね~」
申し訳なさそうにするさとみにオリヴィエはひらひらと手を振って気にしないように言う。
こうして、オリヴィエ(+オスカー)の潜入捜査が始まったのである。
一方、『サンクチュアリ』。
「じゃあ、この男の裏を探るんですね?」
写真を手にランディが言う。
「ああ、まずは尾行からだな。店に行くまででいい。店を出た後はオスカーがやる。店に行く前にどこに行っているのか、どこで酔ったような状態になっているのか、それを突き止めるんだ」
カティスが指示を出す。
「ラジャー!」
ランディは張り切って、応える。
「おい、データ出たぜ」
そこへゼフェルがやってくる。今までずっと薬物関係について調べていたのだ。さとみの元彼――由和というらしい――は酒を飲めない、しかしその様子は酔っているように見える、ということから何らかの薬物が関わっているとカティスは見たのである。そこでゼフェルが彼の指示を受け、調べていたのだ。
「ま、結構似たり寄ったりの症状は出るけどさ、でもこれが一番怪しいぜ」
ゼフェルがデータをカティスに渡す。そこにあったのは『アスベエル』と呼ばれるドラッグだった。
「まだ、出回り始めてそんなに経ってない。新種のドラッグだ」
「また、大層な名をつけたものだ。『神に見捨てられた者』とはな」
クラヴィスが言う。アスベエルとは『旧約聖書偽典』エチオピア語エノク書に出てくる堕天使の名前だった。症状としては覚せい剤と変わらない。気分の起伏が激しくなり、次第に幻覚に悩まされることになる。その幻覚は名前に相応しく、ただの幻覚ではなくまさに『神に見捨てられた者』悪魔に生きながらにして食われる、といったような恐ろしいものであるらしい。しかし、このドラッグの性質の悪いところは定期的に摂ることによって幻覚が抑えられる、ということだった。薬をやめようとすれば禁断症状の他にその恐ろしい幻覚に悩まされることになる。禁断症状だけでも耐え難いのに、生き地獄をまさに体験するような幻覚を味わわされ、やめるには非常な意志の力を要する。そんな意志の持ち主であればそもそも麻薬に手を出すこともなく、結果、ずるずると泥沼に入り込むことになるのだ。
「で、こっちがそのドラッグを今扱ってそうな組織のリストだ」
確りそこまで調べているゼフェルである。色々な裏社会の組織のコンピュータにハッキングし、情報を集めたらしい。ついでに、そこのコンピュータに爆弾(ウィルス)も仕掛けている。
「やつらが持ってるデータも、司法局に転送しておいたぜ」
にやりと笑うゼフェル。こいつを味方に引き入れておいてよかった、そう思うカティスだった。
「由和の住居がここ、奴の行動半径がこれくらい。とすると、怪しいのはこの辺りか……」
リストの中からいくつかの店をピックアップする。更には組織に関連しそうな会社・事務所も。
「この店や場所の奴が行ってないか、それも確認してくれ」
リストをランディに渡しながらカティスは指示を出す。個人の売人という線も考えないではなかったが、その可能性は低いと判断したのだ。由和が失踪した女性たちと関係があるとすれば、彼1人の力で女性たちをどうにかするのは難しい。既に初めの失踪からは3ヶ月が経過している。失踪している女性は1人や2人ではない。そんな期間複数の女性を彼1人で監禁するのも難しいはずだ。とすれば何らかの組織が関わっているはずだった。女性たちの生存はクラヴィスの占いによって確認されている。しかも、エリューシオン国内にいることも。クラヴィスの占いは『サンクチュアリ』では100%の信頼を置かれている確かなものだった。
「では、行ってきます」
ランディが一礼と共に部屋を出て行く。それと入れ替わりにジュリアスとルヴァがやってきた。
「政府と司法局のほうは押さえた」
ジュリアスが言う。これで大概のことは融通が利く。司法局のデータを見ることも可能だし、政府からも情報を引き出すことが出来る。
「国王陛下からも、思う存分にやってよい、と許可をいただきましたよ~」
ルヴァも言う。つまり、どんな政府高官が関わっていても、軍事機密が関わっていたとしても気にしなくていい、という許可だった。
全て総帥アンジェリークの指示だった。女性が複数失踪している。しかも調べたところ、この半年で女性の失踪者は前年よりも30%も増えているのだ。届けが出ているだけでも。出ていないものも合わせれば相当な数になる。そのことからアンジェリークは人身売買が関係しているに違いないと判断したのだ。それも大掛かりな。とすれば、大きな組織があるであろうし、それには政府高官が関わっている可能性もあるとみたのである。だから、ルヴァとジュリアスを自分の代理として政府・司法局・国王の許へ行かせたのだ(本当は彼女自身が向かおうとしたが、大学が前期試験の最中であり、ジュリアスに反対された)。
「よし、バックアップ体制は整ったな」
カティスは頷くと、更にガーディアンズに指示を出していくのであった。
オリヴィエたちが潜入して1週間が経っていた。初めはオリヴィエ(オリヴィア)のど派手さに度肝を抜かれていた常連たちも今ではすっかり馴染み、オリヴィアは結構な人気者となっている。また、オスカーは店の女性たちにも評判がよく、どちらもすっかり『三月うさぎ』になじんでいた。
一方、肝心の捜査のほうはまだ進展を見せてはいなかった。由和は確かに店に毎日やってくる。そして、さとみの言っていたように感情の起伏が激しかった。時折、店の客に絡むこともあったが、常連は慣れていることもあって適当にあしらっていた。そうして店で騒ぎつつ、由和は予想に反してオリヴィアに接近することはなかった。
『お前みたいなごつい女は好みじゃないんだろう』とオスカーなどは言うのだが、今までの女性たちも店で彼と親しくしていた気配はなかったことから油断は出来なかった。
勿論、2人とも由和が動き出すのを指を咥えて待っているわけではなかった。店の客や女の子たちにそれとなく探りを入れたりしたのだ。そしてリュミエールや他のガーディアンに裏づけを取ってもらい、今現在のところ由和と関係のありそうな女性はいなかった。
「いらっしゃいませ」
ドアが開き、新たな来客を告げる。が、それは庶民的なこの店には場違いな男だった。ジュリアスである。
彼はオスカーに向かって言うのだった。
「いつまでこんな所で遊んでいるつもりだ。拗ねていないで家に帰れ」
オスカーは、ここでは家を飛び出した放蕩息子という設定になっている。そして、ジュリアスは彼を連れ戻しに来た兄、というわけだ。そして、その言葉の意味するところは『オスカーは撤退せよ』だった。
ほぼ同時期にオリヴィアと店に出始めたオスカーを常連は『オリヴィアの男』(オスカーはそれを知ったとき眩暈を起こしてしまった)と思っているらしいのだ。それは由和も同様で紐付きの女に手を出すはずはない。そう判断して、オスカーは陰に回ることになったのだ。
「だがな、兄さん、簡単にやめられない。仕事なんだぜ」
一応の抵抗の振りをするオスカー。そしてそれを説得する振りのジュリアス。事前に知らされていたさとみが頃合いを見計らって、『何とかなるから』とオスカーを説得する。
こうして、バーテンダーのオスカーは『三月うさぎ』を去ることになった。
それから、漸く事態が動き始めたのは3日後のことだった。店の仕事を終えて帰路に着くオリヴィアに由和が接触してきたのである。
「大掛かりな人身売買が行われているのは確かだ」
そう報告したのはジュリアスだった。彼は『リモージュ財団幹部』という地位を利用して政治家や財界人、それも余り評判のよくない人物たちを中心に調べていた。その中の1人の尻尾を掴んだのである。
「社会的地位にある者の為の秘密クラブがあるらしい」
ジュリアスが言葉を続ける。そこは一種の娼館のような所であり、どうやらそこの女性(中には男性もいる)たちは大半が非合法な方法で連れてこられたらしい。そして、彼女たちは商品として扱われ、その消耗は激しいという。
「変な趣味持ってる奴も多そうだしねぇ」
オリヴィエが溜息混じりに言う。
「で、どこにあるんですか、そのクラブは」
「今、ルヴァが探っている」
実は一番社会的地位が高いのが彼だった。その彼が陰の噂を聞きつけたとしてその尻尾を出した政治家に接触しているのだ。自分にもそのクラブを紹介して欲しいと。王族であり、現国王の甥に当たる青年の頼みを聞いてやることのメリットを計ったその政治家はルヴァの頼みを聞きいれ、彼を連れて行くことを承諾していた。それが丁度今日なのである。
「ただいま戻りました~」
タイミングよくルヴァが現れた。げっそりとやつれた表情をしているが、目には十分な成果を得たという光があった。
「いましたよ、行方不明になっていた女性が」
全員は見つからなかったという。しかし、確かに数名の女性を発見したのだ。
「早く助けないと、大変なことになります」
そう言ってルヴァはポケットから一包の薬を取り出した。
「これ……『アスベエル』じゃねぇか……?」
「ええ~そうです。クラブでね、もらったんですよ。お酒に入れて飲むそうです。わたしはね、入れた振りして持って帰ってきたんですけど」
これと同じものを女性たちも飲まされていた。ルヴァのパートナーとなった女性は一流企業の秘書をしていたという頭のいい女性で、ルヴァは信用できると判断し、『貴女たちを助けたいですねぇ』と言ってみたのだ。ルヴァの持つ誠実で優しい雰囲気にその女性はやはりルヴァを信頼できると判断したのだろう、嬉しそうに涙を流した。だが、助けるのは無理だといったのだ。
ここに連れて来られた女性たちは最初にこの薬を投与される。そして一度、幻覚を味わわされるのだ。その段階で発狂してしまう者もいるという。その恐ろしさに女性たちは薬を飲む。薬を断てばどうなるか一度体験させられているだけに彼女たちは言いなりになるしかないのだ。
「薬を手に入れましたから、リモージュ科学研究所の総力を挙げて解析して、解毒できないものか調べてみます」
ルヴァが珍しく強い口調で言う。実際に被害者に会い、その涙を見ているだけに、彼は怒りを強く感じているのだ。早速、カティスはアンジェリークに連絡を取り、薬を研究所に回した。
「場所も判ってるんだな?」
「ええ、確りとね」
ルヴァはにっこりと笑う。こんな風に笑うルヴァが実は何よりも恐ろしいことを皆熟知していた。
「じゃあ、その場所にオスカーとゼフェルを案内してくれ。セキュリティや人の出入り、そういったものを調べるんだ」
「了解」
「マルセルは研究所を手伝え。お前の知識が役に立つかもしれん」
「はい!」
マルセルは嬉しそうに返事をする。実は彼は植物学では博士号を持つ権威だった。特に毒草の分野においてはエリューシオン一といわれている。『アスベエル』の成分を解析してそれを無効化できるものはないか、その際に彼の毒薬の知識が生きてくるはずだった。
「カティス、由和が動きました!」
ランディのサポートとしてずっと連絡を取っていたリュミエールが報告する。
「リストにあった店に行ったようです。そこで数名の男たちと密談していたということです」
リュミエールが報告を続ける。
由和が行ったのは『イェクン』というクラブだった。
「またしても悪魔の名前か。……いい趣味だ」
クラヴィスが呟く。イェクンはアスベエルらを唆して堕天させた存在だといわれている。名前の付け方からして無関係ではないだろう。
「イェクンはガデルエル系の店だぜ」
リストを見ながらゼフェルが言う。カデルエルは元々はエリューシオンの組織ではなく、隣国アルヴィース帝国系の組織だった。
「決まりだな。ガデルエルも悪魔の名だ」
クラヴィスが言う。笑止な限りだ。トップはそれなりの拘りを持って名前をつけたのだろうが、それが繋がりを示すことになる。
「証拠固めだな」
「オリヴィエが失踪することになったら、それが証拠になるな」
彼らは頷きあい、互いの役割にそって動き始めた。
「今夜、大切な話があるんだ」
由和はオリヴィアにそう言った。彼が彼女に初めて接触してから2週間経っていた。その間由和は毎日彼女とデートをし、彼女も由和との交際を楽しんでいた。由和にとってのただ1つの誤算は意外にも彼女のガードが固く、未だ肉体関係を結ぶに至っていないことだった。自分のものにしてから女を組織に渡す、それがこれまでの由和の仕事であり役得だった。だが、組織からも早く次の女を寄越すように催促されていたこともあり、仕方なく今夜決行することにしたのだ。
ほんの好奇心から知り合いだった組織の人間に勧められるまま薬に手を出した。そして抜け出せなくなった。だが、定期的にこの薬を使っていれば問題はなく、しかも女を調達しさえすれば薬は組織から与えられる。更には巨額の報酬も入る。元々女性には不自由しないタイプだったから、女を調達するのも簡単だった。今では自ら進んでこの仕事をしていた。
(そろそろ、町を出たほうがいいかもしれないな)
だが、1箇所で何人も行方不明が出れば怪しまれる。実際にさとみは自分に疑いを持った。あれからは何も言ってはこないが、疑いを捨てたわけではなさそうだ。
(これを最後にするか)
「今夜だ」
サンクチュアリのスタッフルームにガーディアンズが集まっている。
「一気に片をつける」
カティスが気迫を込めて言う。
既にジュリアス、オスカー、ゼフェルの調べで人身売買と麻薬製造密売についての証拠は揃っていた。だが、現場に踏み込んで押さえないことにはその証拠も弱いものでしかない。
「秘密クラブにはジュリアスとルヴァが行く。メインは王宮の特別捜査官たちだ」
ルヴァが頷く。秘密クラブの顧客は政治家や財界人であり、中には王族も混じっていたことから国王直属の調査官が派遣されることになった。
「ガデルエルの事務所にはクラヴィスとランディ。これには司法局の精鋭が同行する」
と同時に麻薬の製造工場にはリュミエールとゼフェル、そしてやはり司法局の捜査員が向かう。
「オリヴィエは由和に案内させろ。恐らく失踪させられた女性たちの監禁場所に連れて行かれるはずだ」
実はあれからの調査の中で女性たちは一度1箇所に集められそこでまず『調教』されるのだということが判ったのだ。それを教えてくれたのはかつてルヴァのパートナーとなった女性だった。ルヴァは何度か秘密クラブを訪れ、内部から建物の構造やセキュリティを探り、また女性から情報を得ていたのである。
「オスカーはリモージュ私設警備隊の連中と一緒にオリヴィエの陰供と、女性たちの救出だ。ああ、くれぐれも犯人たちを殺すなよ」
カティスの指示に従い、全員が配置に着く為に飛び出していった。
「お義父さん!」
それから数分後、笑みを浮かべたマルセルが駆け込んできた。
「出来たよ! 出来た!!」
「そうか!」
あれからずっとリモージュ科学研究所は『アスベエル』の解析を行っていた。成分解析自体は容易だった(尤もそれは世界でも最高水準の頭脳集団であればこそのことだったが)が、この成分の無効化には時間がかかったのだ。そして、漸く動物実験を繰り返し、100%無効化できる解毒剤の生成に成功したのである。僅か2週間。しかし、その間研究員たちは殆ど不眠不休であり、主任研究員だったレイチェルなどは出来た瞬間に意識を失うようにその場で眠ってしまったほどだった。
「今、フル回転で大量生産してる。取り敢えず500、出来てるから。ルヴァ様の話だと秘密クラブで働かされていた人は200人だってことだったから、250ずつ、ルヴァ様とオスカーさんに届けるように手配しておいた」
「ああ、それでいい」
よくやった、とカティスは息子の頭を優しく撫でる。
「……へへへ……もう……限……界……」
安心したのか、マルセルは義父親の腕に倒れこむようにして、眠ってしまったのである。
「ここなの?」
オリヴィアは不安そうに由和を見下ろした。元々180センチの長身である上に10センチもあるヒールを履いているのでどうしても由和を見下ろす形になる。オリヴィアが連れて来られたのは郊外の廃工場だった。
「ああ、入れ」
由和はそれまでオリヴィアに見せていた優しい仮面を脱ぎ捨て、強引にオリヴィアを建物の中に入れる。
「なんなの……これ……」
中に入ってオリヴィアは驚愕する。建物の中には50人を超す女性たちと20名ほどの少年たちが囚われていた。そして、如何にもマフィアといった男たちが10名。
「今日はこの女か?」
その中の1人が由和に問う。由和の注意がオリヴィアからそれる。
「敵は10名。武装はピストルとナイフ。男たちの配置は……今見せる」
オリヴィエはイヤリングに手を当て、小声で言う。イヤリングがマイクになっているのだ。そして、チョーカーに着いている大きな宝石はカメラになっているのだ。ゼフェルの作った精巧な装置だった。
『確認した。今は位置についている。5分後に突入する』
オスカーの返答。それを受けて、オリヴィエは男たちの動きを観察する。
「こっちだ!」
1人がオリヴィエの腕を引っ張り、女たちの中に突き飛ばす。
「大丈夫ですか」
突き飛ばされたオリヴィエを支えた形になった女性が尋ねてくる。その顔に見覚えがあった。さとみの幼馴染の女性だった。
「ありがと。助けに来たよ」
オリヴィエはウィンクして応える。思いがけない言葉に女性は目を丸くする。こんな状況で助けに来たと言われても頭がおかしいとしか思えなかったのだ。
「合図したら、皆奥に下がるんだ。でないと巻き添え食っちまうからね」
そう笑いながら周囲の女性たちに言い、オリヴィエはヒールを脱ぐと踵を折る。女性たちは不審に思いながらも『助かるかもしれない』という僅かに差し込んだ光明に縋るかのようにその言葉を全体に伝えていった。
由和に目をやると、リーダー格らしい男たちとなにやら話している。幸いなことに男たちの半数がその一角に集まっていた。
『5』
耳元で再びオスカーの声がする。
「4」
『3』
「2」
『1』
その声と共にオリヴィエが折ったヒールを由和たちに投げつける。
「走れ!」
オリヴィエが合図し、囚われていた全員が建物の奥に向かって走り出す。と同時に眩い閃光が男たちの目を貫く。
『突入!』
男たちが戦闘力を失った隙を衝いて、オスカーの指揮する私設警備隊が突入して来た。
「かんぱ~い」
オリヴィエは明るく音頭をとった。『聖地』VIPルームである。そこにはオリヴィエとヘルプについているオスカー、マダム紫乃、緋川、そしてアンジェリークの姿があった。ミッション終了の恒例行事だ。
「さとみさんが、本当にありがとうって言ってたよ」
緋川が嬉しそうに言う。
「麻薬組織も、人身売買組織も潰せましたし、オリヴィエも大活躍でしたこと」
マダム紫乃はそう言い、お祝い兼ご褒美、と店で一番高いシャンパンをオーダーする。
全てに片がついていた。ガデルエルは壊滅、工場も潰し、秘密クラブも潰れた。捕まえられ、ドラッグによって縛り付けられていた人々は解放された。開発された解毒剤のお陰で幻覚もなく、通常の生活に戻っていった。
「でも、ここのところ、お偉いさんの病死が多いねぇ。まぁ、自業自得だけど」
その殆どが発狂死であることは発表されていない。国王はこの犯罪に関わった政治家や財界人に2とおりの対処をした。素直に認め罪を償うことを誓約した者には解毒剤を与え、被害者たちへの慰謝料を支払わせ、また社会福祉に貢献させる為、様々な病院・施設・研究所にそれぞれの年収の30%を今後10年間寄付させることにした。一方認めなかった者に対しては薬は与えず、そのまま放置した。その結果が多数の『病死』だった。もはやドラッグは存在せず、彼らが助かることはなかったのだ。
また、マスコミを通して、『アスベエル』の情報は公開され、各地の司法局に届け出れば解毒剤は無料給付されることになった。但し、その際には登録され、薬物対策課によって今後10年、生活を管理されることになる。また、ボランティア活動に参加が義務付けられ、彼らは地域社会の為に働くことになるのである。
「全て解決、一件落着~!」
オリヴィエが楽しそうに笑う。
「あ~~~!!!」
そのとき、何かを思い出したようにアンジェリークが叫んだ。
「どうした、お嬢ちゃん」
「忘れてたの! オリヴィエの女装姿見せてもらうの!!」
それはそれは悲しそうにアンジェリークは言う。オリヴィエの顔は見事に引きつっていた。
「大丈夫! さとみさんから写真預かってるよ!」
「わ~~~っ、余計なもん見せんじゃねぇっ緋川っ」
「や~ん、見せて見せて」
「わたくしも見たいわ♪」
VIPルームはらしからぬ喧騒に包まれたのであった。
数日後、緋川の許に1通の手紙が届いた。依頼人であるさとみからの感謝の手紙だった。
緋川様
先日は、ありがとうございました。皆さんのおかげで、従業員やお客さんたちも無事に戻ってきました。
まさか、あんなに大きな事が裏で起こっていたなんて…。
わたし1人では何も出来なかったです。感謝なんて言葉では言い切れないくらいです。『サンクチュアリ』の皆様に、特にオリヴィエさんに…よろしくお伝えください。
ところで、また店で問題が起きてるんです。実は…オリヴィアさん(笑)のファンだったお客さんたちが、『オリヴィアちゃんはどこに行っちゃったの~?』と毎日のように聞いてきます。
本当は男性だったなんて、言えませんし…(苦笑)
それから、オスカーさんのファンのお客さんも、『オスカーちゃん、戻ってきてー』と叫んでます。おばちゃんやおじちゃんまで魅了してしまうなんて、流石『聖地』のナンバーワン&ツーですね!(笑)
わたし自身、オリヴィエさんにもうお会い出来ないのかと思うと悲しいです…。いつか、またお会いしたい…なんて考えるのはいけないんですよね。
今は、この写真を眺めては、あの3週間に日々を思い返しています。女装していないときの写真も撮っておけばよかったかな…(苦笑)。ふふ、わたしって欲張りなんですね。事件が解決したのに、オリヴィエさんに会いたいなんて…。
『サンクチュアリ』の事は他言はしません。お約束します。
あのときの事は、『夢』だったのだと思うようにします…。
あ、お礼と現状報告だけのつもりだったのに、長くなってしまいました。ごめんなさい。
本当にありがとうございました。
さとみ
追伸
わたしに「薬」を強要しなかったのが、由和の最後の優しさだったのかもなんて考えてしまうのは、甘いのでしょうか?
「もう会えないなんてさ、そんなことはないよん。わたしも遊びに行くし、さとみちゃんも来てよ。サービスするからね。サンクチュアリのことは忘れても『聖地』は忘れないで」
でも、もうオリヴィアには絶対ならないからね! オリヴィエはそう言って艶やかに笑った。
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Mission code-03
「いらっしゃいませ」
来店した2人の淑女をホストが出迎える。ジュリアスとオスカーである。
「マダム由貴、ようこそ御出でくださいました」
ジュリアスは恭しくマダム由貴の手を取り、甲に口づける。
「マダム・チェリィ、お越しをお待ちしておりました」
蕩けてしまいそうな魅惑的な笑みを浮かべオスカーがマダム・チェリィをエスコートする。
2人は婦人をVIPルームに案内する。マダム由貴もマダム・チェリィもこの店のオープンの頃からの顧客であり、最上ランクのVIPでもあった。ただ1つ、厄介な知り合いさえいなければ、それはもうホストたちにとって文句なしの。
「マダム紫乃から伺ったの。また、素敵なことをなさったのね」
ジュリアスに微笑みかけながらマダム由貴が言う。
「オリヴィエが活躍したそうね」
マダム・チェリィがオスカーに問う。
「もうお耳に入ったのですか」
ジュリアスはご婦人方の情報の速さに驚く。
実はこの2人のマダムもマダム紫乃と同じく『ガーディアンズ』の強力なバックアップメンバーだった。
「緋川さんも今日お誘いしたのだけれど、お仕事があって来れないのですって」
残念そうにマダム由貴は言うが、ジュリアスとオスカーは心底ほっとした表情をしている。それを見て2人のマダムはおかしそうに笑う。
「本当に緋川さんが苦手なのね、貴方たち」
くすくすと笑いながらマダム・チェリィは言う。
「当然でしょう」
憮然として応えるオスカー。フェミニストな彼にとって緋川は『女』ではないらしく、疫病神でしかなかった。
「でも、カティスとは連絡を取ったみたいだから、また貴方たちの出番かもしれなくてよ」
「そうね、子ども絡み……と言ってたわね。子どもが絡むと緋川さんも黙ってはいられないようね」
2人のマダムはそう言い、ホストたちを見る。
「であれば、カティスから指令が入るでしょうね。ですが、今日はお楽しみください、マダム」
その頃、『サンクチュアリ』の司令室にはルヴァが呼ばれていた。カティスと緋川、それに本来ここには入れないはずのチャーリー・ウォンがいた。
「依頼が入った」
カティスの言葉にルヴァは頷く。書類を受け取り目を通す。
「……幼児虐待ですか……」
ルヴァが溜息と共に呟く。
「そうなの。ルヴァ、助けてあげて」
緋川がいつになく真剣な表情で言う。かつて教育関係の仕事についていた緋川にとって、子どもに関する問題は放ってはおけないものだった。
「今回はチャーリーもミッションに加わる」
カティスが言う。チャーリーがここにいる時点でそうではないかと思ってはいたが、ルヴァは意外に感じた。チャーリーは『ガーディアン』ではない。緋川と同じくバックアップメンバーだ。本来はリモージュ財団の主要企業である『ウォン・トレーディング』という商社を任されている社長である。
「俺なぁ、小さい頃虐待受けとったんや。お袋がな、たぶん親父が構ってくれへんのが寂しかったんやろ。それを俺にぶつけとって……。幸い、俺はこうしてトラウマにもならんとまともに育ったんやけど……放ってはおけへんのや。せやから、カティスさんに頼み込んで手伝わせてもらうことにしたんや。よろしゅう頼んます」
チャーリーが普段のおちゃらけた様子など微塵も見せず、真剣な表情でルヴァに言う。
「ええ、よろしくお願いしますねぇ。被待体験のある貴方なら、わたしが見落としたことでも判るかもしれません」
ルヴァは頷く。この明るいチャーリーに被待体験があるとは意外だった。きっと彼の精神力が強かったのだろう。彼はその精神的なダメージを克服したのだ。誰よりも強力な助っ人だった。
「じゃあ、依頼人に会ってもらおう」
依頼人がロザリアに案内されて通される。20代後半と思われる女性だった。
「よろしくお願いします」
依頼人――りん――はそう言って頭を下げる。
「気を楽にして。まずはお座りください」
カティスはりんに椅子を勧める。りんが腰を下ろし落ち着いたのを見ると、話を進めた。
「大体のところは女史から聞いているが、改めで詳しく話してもらえるかな?」
「はい」
そして、りんは今回の依頼に至る経緯を話し始めた。
7年前からメリーという保育園に勤めています。ここ数年、無認可保育園での事件が相次いだ所為か、子どもが減ってしまい、園長とわたしの2人でやっているような小さな保育園です。
先月、新しい園児が入ってきたんですが、その子の様子が変なんです。亮君、あ、その子の名前なんですが、亮君の家庭は、お母さんが育児ノイローゼで虐待を繰り返してきました。それが原因でご両親は離婚し、亮君は父親に引き取られ、お父さんが仕事に行っている間、うちの保育園に入るようになったんです。
以前は商業地区に勤めていたそうなんですが、離婚を機に友人の紹介で会社を移り、こちらに引っ越してきたと聞きました。
保育園に入った当初は虐待があったなんて信じられないくらい、明るく元気な子でした。
その子が最近傷を作ってくるようになって……
殴られたような痕でしたが、本人に聞いても何も答えてくれず、ただ黙って部屋の隅で絵本を読み続けているんです。
お父さんが虐待を……とは考えたくありませんが、お父さんの様子も以前とは変わっていて……
一度、家庭訪問をしたとき、何かに怯えているかのように玄関先で追い返されてしまいました。
亮君の怪我も増える一方だし、警察に相談してみましたが、『こういう件は児童相談所に行ってください』と言われ、児童相談所に行ってみたんですが『判りました』というだけで、亮君の様子は何も変わらず、児童相談所がちゃんと活動をしてくれているのかどうか……
このままでは埒が明かないと思い、もう一度警察にお願いしたんですが、答えは前と同じでした。
最終的には、少しだけ武道の心得があるので、力尽くででも、亮君の怪我の原因を探るつもりでした。
でも下手なことをして、亮君に何かあったらと思うと……
どうしたらいいのか途方にくれていたところ、緋川さんに声をかけられここのことを、そしてこちらの事を聞きました。
亮君を助けたいんです。原因を突き止め亮君を救ってあげたいんです。
どうか助けてください。
それで、1つお願いなんですが……全面的にお任せしたほうが、話は早いのかもしれませんが、もしよければ、あたしにも協力させてくださいれませんか? 『あとはお願い』で人任せにするのは逃げるようで嫌なんです。
「亮君の笑顔を取り戻す為にも何かしたいんです!」
りんはそう言って話を終えた。
「絶対、助けたる。亮君の笑顔、必ず取り戻したるから!」
チャーリーが言う。りんを力づけ励ますように。
「チャーリーは保育園に潜入してくれ。そこで子どもの……亮君のケアと彼からの情報収集、そして彼女のケアもな」
「ほいな。任せとき!」
チャーリーは軽く返事をする。どんなときでも明るさを忘れないところはオリヴィエと似ているかもしれない。
「あ~、でも素人がお邪魔しては保育園にご迷惑では……?」
保育士は有資格の職業である。心配そうにルヴァが言う。
「俺、素人とちゃうで。ちゃんと資格持ってんねん」
意外なチャーリーの言葉だった。チャーリーはちゃんと保育士の資格を持っているのである。保育士は幼児教育過程の大学を出ずとも資格を取れる。他の教職と同じである。ただ、クリアしなければならない試験が多い(社会福祉、児童福祉、発達心理学及び精神保健、小児保健、小児栄養、保育原理、教育原理及び養護原理、保育実習の8科目の試験を3年以内に合格しなければならない)のでなかなか大変ではあるのだが。更にいうと、実はチャーリーは資格マニアで実に49もの資格を持っているのだ。
「それなら、ぜひお願いします」
「まっかせとき~」
そうして、チャーリーはメリー保育園へ潜入することになったのである。
「チャイルド・アビューズか……」
食後のエスプレッソを飲みながらジュリアスが呟いた。リモージュ邸である。
「ええ……悲しいことね」
こちらはココアを飲みながらアンジェリーク。
「あれは子どもの心に深い傷を残す。対応を間違えれば大変なことになる」
アイリッシュカフェのカップを置きながらクラヴィスが言う。
「だから、チャーリーが適任だと思って。彼は被待経験者だから……」
デリケートな問題だった。安易な気持ちでは介入できない。けれど放ってもおけない。
「子どもは国の……ううん、世界の宝だもの。虐待なんて……絶対あっちゃ駄目なの」
アンジェリークは沈痛な面持ちで言う。
「そうだな……」
ジュリアスも応える。実は彼も被待経験者だった。その事実をアンジェリークは初めて知った。
「まさか、お母様が……?」
「いや、フランソワーズ母上ではない。実の親だ」
アンジェリークはジュリアスの実の両親を知らない。ジュリアスもクラヴィスもアンジェリークが生まれたときには既にフランソワーズの養子になっていた。
ジュリアスは実の両親から与えられるべき愛情と保護を一切与えられなかった。フランソワーズに引き取られたときジュリアスは3歳だったが、その身長体重は2歳児の平均値を大きく下回っており、言葉も殆ど話せない状態だったのだ。カウンセラー、保育士、小児科医、様々な人々の協力を得て、フランソワーズはジュリアスを育てた。物質的な保護を与え、そして愛情を惜しみなく注いだ。ジュリアスは徐々にフランソワーズ、そして共に引き取られていたクラヴィスに心を開くようになっていた。
「お母様が、兄さまの心を救った……?」
「ああ。だが、本当にわたしを救ったのはお前だ、アンジェリーク」
ジュリアスは優しく微笑み、クラヴィスも温かな瞳でアンジェリークを見つめる。
ジュリアスは引き取られた当初不安を抱えていた。親に見捨てられたいらない子ども、自分をそう思っていた。だから、きっとフランソワーズも自分をいらないといつか捨ててしまうに違いない。自分はいてはいけない子どもなのだ……。
だが、フランソワーズはジュリアスを捨てたりしなかった。朝になればおはようのキスを与えてくれた。食事も一緒に。遊んでもくれた。お風呂に入れてくれて、ちゃんと清潔な下着や服を与えてくれた。おやつだって作ってくれた。寝るときには絵本を読んでくれた。眠りにつく前には額にキスをしてくれて、『いい夢を。また明日ね』と言ってくれた。
時には叱られることもあった。ジュリアスが悪いことをしたときに。けれど、それは『怒られる』ではなく『叱られる』だった。どうして叱られるのか、どうしてそれが悪いことなのかフランソワーズはジュリアスにも判るように説明してくれた。だから、ジュリアスは叱られたことは二度としなかったし、叱られたことで不安になることはなかった。
フランソワーズだけではなかった。突然出来た『弟』のクラヴィスもいつも一緒にいた。幼いながらにもクラヴィスはジュリアスの不安を感じ取っていたのだろう。何をするにもジュリアスの後をついて来た。『じゅりあちゅ、あしょぼう』 そう言っては積み木やブロックやおもちゃを持ってきた。初めの頃は無視していたジュリアスもだんだんクラヴィスと遊ぶようになった。どこに行くにも何をするにも一緒だった。
そうして、ジュリアスはだんだん、不安を感じなくなっていった。叱るときには叱り、けれどいつも愛情を示してくれるフランソワーズ。一緒に行動して、時には悪戯の共犯としてフランソワーズに叱られるクラヴィス。彼らは自分をいらないとは言わない。そう思えるようになったのだ。
漸くジュリアスがそう思えるようになった頃、フランソワーズが身ごもった。事情があって結婚はしていなかったが、時々やってくるその人がジュリアスはとても好きだった。フランソワーズ母上が愛しているその人との間に子どもが出来たのだ。
ジュリアスは不安になった。僕は母上の本当の子どもじゃない。母上に子どもが出来たら、僕はいらなくなるんじゃないか……
「ジュリアスは弟と妹、どっちがいい?」
フランソワーズはそう言って優しく笑った。ジュリアスの不安を知っているようだった。
「これからは4人家族になるわね」
家族……僕も家族なの? 僕はいていいの?
「当り前でしょう? ジュリアスはママの大切な息子よ」
そう言ってフランソワーズは優しくジュリアスにキスしてくれた。それでジュリアスの不安は消えた。けれど、幼児期に受けたネグレクトの傷はそう簡単に消えるものではなかった。心の奥底にいつでも『自分はいらない子どもじゃないのか』その不安はあった。
そして、子どもが生まれた。女の子だった。
初めてアンジェリークと接したときのことをジュリアスはよく覚えている。20年も前のことなのに。
フランソワーズが出産した翌日、ジュリアスとクラヴィスはカティスに連れられて病院の特別室へと行き、そこで赤ん坊と対面したのだ。
ベビーベッドで眠る赤ん坊は可愛かった。ジュリアスは恐る恐る赤ん坊に手を伸ばす。触ったら壊れてしまうんじゃないかと思った。
そのとき、赤ん坊がジュリアスの指を握った。ぎゅっと赤ん坊とは思えない強い力で。ジュリアスが指を引き抜こうとしても赤ん坊は放さなかった。
そして赤ん坊は笑ったのだ。天使のような愛らしい笑み。
ジュリアスは涙をこぼした。求められている……ジュリアスはそう感じた。
今ではあれが赤ん坊特有の反射であり、笑顔に意味がないことも知っている。けれど、あのときのジュリアスにとって、赤ん坊が指を離さなかったこと、そしてあの笑顔、それは何よりも自分の存在を肯定するものに感じたのだ。
「母上……名前、もう決めたの?」
「いくつか考えてはいるけど、まだ決めてないわ」
「じゃあ……『アンジェリーク』は……? 駄目かな?」
『アンジェリーク』……天使。ジュリアスの目に赤ん坊は天使に見えた。
「アンジェリーク……いい名前ね」
フランソワーズはにっこりと微笑み、ベッドで眠る娘に語りかけた。
「お嬢ちゃん、貴女は今日からアンジェリークよ」
その日から、ジュリアスは二度と不安を感じることはなくなった。
「じゃあ、兄さまがわたしの名付け親なのね」
「ああ……。尤も、天使にしてはお転婆すぎるが」
「もう、兄さま、ひどい。クラヴィス兄さま、何とか言って!」
「こればかりはジュリアスに賛成だ。尤も、それがお前らしいから仕方ない」
ジュリアスはトラウマを解消することが出来た。そして厳しいながらも溢れるほどの愛情をアンジェリークに注いでくれた。
「わたし、兄さまの妹でよかった」
メリー保育園に潜入する前日。チャーリーは引越しをした。この調査の期間の間の仮住まいである。チャーリーと共にゼフェルもいる。メリー保育園に程近いアパートだった。
「ほな、お隣に挨拶してきますよって」
荷物をとき、早速パソコンのセッティングをするゼフェルに一言言うと、チャーリーは挨拶のお菓子を持って隣の住人を訪ねた。『瀬尾』表札にはそうある。
ベルを鳴らすと1人の男が出てきた。真面目なサラリーマン、そういった感じの男だった。
「隣に越してきました、チャーリー・ウォン、いうもんです。よろしゅうたのんます!」
チャーリーはにこやかに挨拶する。すると、男の足元から小さな男の子が顔を覗かせた。
「ぱぱ、お客しゃま?」
「ああ、そうだよ。向こうに行ってなさい」
「お子さんですか? か~いらしいなぁ」
チャーリーはそう言うとしゃがみこみ子どもに目線の高さを合わせる。
「ぼん、何歳や?」
「ぼん、じゃないよ。亮だよ」
「そっか~、亮君か。ほしたら、亮君。お年はいくつですか?」
「4さい!」
亮は元気に応えた。
チャーリーと、亮、父親・瀬尾仁との初接触だった。
「今日から皆と遊んでくれるチャーリー先生よ」
りんに紹介されたチャーリーは『ども~!』と子どもたちに挨拶する。そしてきょろきょろと周囲を見回す。それに気づいたりんが部屋の一角を示す。そこには1人で絵本を読んでいる亮の姿があった。
「亮君やないか。ここにおったんか」
チャーリーは亮の許に行くとしゃがみこんで声をかける。
「ちゃーちゃん?」
「そや、今日からここのせんせーなんや」
人好きのするキャラクターのチャーリーは昨日挨拶の後、ちゃっかり瀬尾宅に上がりこんでいたのだ。引越しの荷物が片付いていないというと、瀬尾は食事も出来ないのでは? と夕食に招待してくれた。
夕食も済むと、父親とチャーリーはチャーリーがお礼にと持ち込んだビールで酒盛りをした。チャーリーのキャラクターが父親の気持ちも軽くしていたようだ。そのとき、亮はビデオを見ていた。子どもに人気の特撮ヒーローもので『科学戦士隊コーエーファイブ』というドラマだった。
「お、亮君、コーエーファイブ、好きなんか?」
「うん! 好き!」
「おれな、コーエーレッドと知り合いやで?」
嘘ではない。コーエーレッドを演じている役者と知り合いである。実はリモージュ財団は子ども向けの番組には積極的にスポンサー参加しており、この『科学戦士隊コーエーファイブ』には『ウォン・トレーディング』がスポンサーとなっているのだった。
「ホント?」
亮は目を輝かせる。
「いいなぁ。ちゃーちゃん」
羨ましそうにチャーリーを見る亮。そんな様子は極普通の幼児の姿だ。食事の際に見せていた明るさといい、りんの話とは違っている。(ちなみにちゃーちゃんとはチャーリーの呼び名で、『おじちゃん』と呼ばれたチャーリーが『おじちゃんやない! ちゃーちゃんや!』とそう呼ぶことを主張したのである)
「いつか、会わせたるからな!」
「うん!」
そう言って、その後暫くしてチャーリーは瀬尾宅を辞した。その後虐待が行われた様子はなかった。(夜型人間のゼフェルが徹夜で隣家の様子を窺っていたのである。ちなみにこの為にゼフェルはここに来ており、昼間は眠っている)
チャーリーは保育園でも帰宅してからも亮の行動を観察していた。家での様子は普通の子どもとなんら変わることはない。しかし、保育園での亮の様子は確かに聞いたとおりだった。1人で本を読んでいる。余り遊びにも参加しない。
(う~ん……ちょっと様子がちゃうな……)
フィジカル・アビューズ(身体的虐待)を受けている子どもの場合、挑発的な行動をとることが多いと聞いている。それから、虐待者である父親に引っ付いているというようなべったりとした行動。しかし、亮の行動はどちらでもなかった。尤も一概に枠にはめることも出来ないから、亮の行動からチャイルド・アビューズが行われていない、と判断するのは早計に過ぎる。
保育園での様子はどちらかというとネグレクトを受けている子どもの反応に近い気がしたが、家庭を観察する限り、ネグレクトも起きてはいない。
(いったい何があるんやろ……)
何かが起こっているのは確かなのだ。実際に、チャーリーはまだ亮の笑顔を見てはいなかった。
「お父さんのほうを調べてきましたよ」
そう言ってルヴァが訪れたのは潜入して5日目のことだった。
「ええと……瀬尾仁さん、32歳、会社員。お勤め先は有野物産という小さな会社です。勤務態度はとても真面目で評判もいいですね。すごくお子さんを可愛がってると評判でしたよ」
確かに仁はチャーリーが見ている限りでもとても亮を可愛がっている。叱るときには確り叱り、だが、手を挙げることはなかった。
「ただ……3ヶ月ほど前、とても様子が変だった時期があるそうです。その後落ち着いたようですが」
チャーリーは顔を上げる。目が合うと、ルヴァはええ、と頷いた。
「丁度、亮君の体に傷が出来始めた時期です」
仁が亮を虐待しているという証拠はない。虐待しているのは仁ではないかもしれない。しかし、亮の身に何かが起こっているのは確かだ。それには3ヶ月前の、仁に起こった出来事が関係しているはずだった。
「チャイルド・アビューズというのは虐待する側も心に傷を負っている可能性が高いのです。そのトラウマによるもの、という説もあります。取り敢えず、今、リュミエールが彼の故郷に調査に行っていますから、そこで何か判るかもしれません」
引き続き、亮君と瀬尾さんの観察をお願いしますね、そう言ってルヴァは帰っていった。
「虐待か……嫌なもんや……」
チャーリーは溜息をつく。
『虐待』という問題が一般に認識されるようになったのはそう古いことではない。しかし、それは昔はなかったというのではなく、社会的に認識されていなかったというに過ぎない。なぜなら、『親は子どもを無条件で愛し、育む存在であって、そんな親が子どもを傷つけるはずはない』という『家族神話』があったからだ。しかし、漸く今、それが認識され、政府も民間もその対策を講じるようになった。
『虐待』は現在4つに分類されている。
◆身体的虐待
親などの保護者から加えられる身体的暴力によって子どもが何らかの身体的な傷を負ったもの。傷の程度は問題ではなく、子どもの体を傷つけるような行為を保護者が故意にとることは全てこの身体的虐待と見做される。大阪府検討会議定義に拠れば、『親または親に代わる養育者により加えられた身体的暴行の結果、児童に損傷の生じた状態で、以下の要件を満たすもの。虐待行為が1.非偶発的であること(単なる事故ではないこと)、2.反復・継続的であること、3.単なるしつけ、体罰の程度を超えていること』となっている。
◆ネグレクト
かつては育児放棄、放置と呼ばれたもの。大阪府検討会議定義に拠れば、『養育者による児童の健康と発育・発達に必要な保護、最低限度の衣食住の世話、情緒的・医療的ケア等が不足または欠落した為に、児童に栄養不良、体重増加不良、低身長、発達障害(運動・精神・情緒)等の症状が生じた状態で、以下のいずれかによるもの。1.養育の放棄・拒否、2.養育の無知(養育者に育児知識または能力がない)』となっている。
◆性的虐待
昔からあるにも拘らず、一番社会が認めたがらない虐待。SCOSAC (Standing Committee on Sexually Abused Children)定義に拠れば、『性的接触に同意できる年齢以下の子どもに対して、性的に成熟した大人が、子どもとの関係における通常の社会的責任を無視して、大人の性的満足に至る好意を持つこと』、大阪府検討会議定義に拠れば、『養育者により、児童が性的暴行、性的いたずらを受けたもの』となっている。
◆心理的虐待
上記3つに分類されず、子どもの心に傷を与えるもの。代表的なのは言葉の暴力。カリフォルニア州法定義に拠れば『子どもに何らかの心理的苦痛を与えたり、もしくは子どもの情緒的な健康度を損なうような行為』となっている。
一番一般に知られているのは、身体的虐待、そしてネグレクトだろう。一番発見しやすいから。だが、どの虐待であってもそれは子どもの心に深い傷を残すことに変わりはない。漸く行政も虐待について真剣に取り組み始めているが、まだまだ十分な対応はとられていないのが現状だった。
「だからこそ、わたしたちが何とか出来ることはやらなくちゃね」
アンジェリークはそう言って、ケア施設の設立に動き出した。そして、チャーリーも積極的に関わっている。
「せやけど、まずは亮くんのことやな」
絶対に、真実を突き止めて、亮の笑顔を取り戻そう、そう決意するチャーリーだった。
何事もなく日が過ぎ、亮を虐待していたのは仁ではないのでは……そうチャーリーたちが思い始めた頃、それは起きた。
チャーリーにしても油断していたわけではない。隣人として仁と付き合ううちに、仁の人となりを知るにつけ彼が亮を虐待しているのではないかという疑いと、逆にそれを否定する気持ちと、相反するものがチャーリーの中に生まれていた。
仁は穏やかで優しい父親だった。亮をとても可愛がり、絵本を読んでやったり一緒に遊んだりもしていた。仕事よりも育児を、亮とすごす時間を大切にして、夕食だって必ず手作りだった。端から見てもとても仲の良い親子だった。
けれど、時折亮の表情が翳るときがある。父親の顔色を窺うような……。それは例えばテレビを見ているとき。亮は仁の顔色を窺い、仁がいつもと変わらないのを見るとほっとしたかのようにテレビを見るのだ。大抵、それは仲の良い母子、そんなものが映し出されたときだった。キーワードは『母親』のようだった。
(やっぱ……亮の母親が関係しとるんやろうなぁ……)
チャーリーはその確信を深める。そして亮の母親――離婚前の両親の様子の調査を依頼した。
そんなときだった。
「ごめんなさいっ!! パパ、ごめんなさいっっっ!!」
夜中に突然聞こえた亮の叫び声。飛び起きたチャーリーにゼフェルが頷く。2人は部屋を飛び出した。
ゼフェルが7つ道具を使って瀬尾宅のドアロックを解除すると同時にチャーリーが部屋に飛び込む。
「瀬尾はん!?」
チャーリーの目に飛び込んできたのは蹲る亮を激しく打ち据える仁の姿だった。
「瀬尾はん!」
ゼフェルが仁を羽交い絞めにして亮から引き離し、チャーリーが亮と仁の間に入り背後に亮を庇う。
「……あ……」
はっとしたように仁の表情が変わる。見る間に青ざめ、震えだす。
「わたしは……わたしは……また……」
そんな仁の様子を見つめていたチャーリーの耳を亮の声が打った。
「良かった……。パパに戻ったんだ……」
あの後、亮は意識を失ってしまった。ゼフェルからの連絡を受け訪ねて来たルヴァに亮を診察してもらい(彼は医師免許も持っている)、何の異常もないことを確認した。今、亮は自室で眠っている。
「落ち着いたか」
チャーリーは呆然と座り込んでいる仁に声をかけた、その言葉で仁は意識を現実に引き戻したようだった。
「ウォンさん……亮を助けてくださってありがとうございます」
仁は深々とチャーリーに頭を下げる。そうしていると先刻の鬼の形相が嘘のようだった。しかし、同一人物なのだ。チャーリーの母親だってそうだった。普段は優しい笑顔を絶やさない母親だったが、チャーリーに暴力を振るうときは般若だった。
「さっき……『わたしはまた』て言うてたな。前にもあったんか?」
チャーリーの言葉に仁の肩がびくりと震える。
「全部……いや、全部すっかり話せとは言わへん。けど、俺に話してみんか? 一応俺も幼児教育の専門家やし、力になれるかもしれへんし。話すだけでも、なんか違うてくるんやないか?」
チャーリーは出来るだけ穏やかな、それでいて真摯な口調で仁に語りかける。
「このまんまじゃ亮くんが可哀想や。それに――あんたも辛いやろ、瀬尾はん」
チャーリーのその優しい声に仁は意を決したように顔を上げた。
「――亮はわたしの宝です。何よりも大切な、愛しいわたしの宝です。なのに……何故、わたしはこんな事をしてしまうのか……!」
「うん、あんたが亮くんを凄く大切にしとるのは見てる俺にもよう判る。羨ましいくらい仲のいい親子やもん、あんたら。せやけど、あんたかて人間や。完璧なはずない。どっか無理しとるとこ、ないんか? いいお父さんになろうて無理してるとこないか? 時々、亮くんが鬱陶しいことや憎たらしいこと、ないか?」
チャーリーは仁に語りかける。仁もそれに応じていく。
「……とても大切なのです。愛しいのです。けれど……時折、亮さえいなければ……そう思うことがあります」
仁は苦しげに告白する。そんなこと思ってはいけない……そう思っていた。口に出すなど、許されないと思っていた。そんなことを思うこと自体、父親の資格がないのではないか……そう思ってすらいたのだ。しかし、チャーリーはそれでいいのだという、仁だって1人の人間である以上、完璧であることはありえない。そう言うのだ。
仁の生活は亮を中心に回っている。全ての中心のあるのは亮だ。その為に様々なことが犠牲になっている。仕事もそうだった。かつては一流企業のビジネスマンとして世界中を飛び回り、大きなやりがいのある仕事も手がけてきた。しかし今は――。
母親がいないから、亮の世話は全て仁がしなければならない。母親がいればもっと仕事に打ち込めるだろう。だが、離婚し父子家庭となっている今は駄目だ。少なくとも、亮が中学生になるまでは……。
離婚さえしていなければ……そう思うこともある。しかし、離婚していなければ、亮はずっと母親に虐待を受けていただろう。虐待によって子どもが死んでしまう事件も少なくない昨今だ。あのときは離婚以外の選択肢を自分は選べなかった。けれど……亮がいなければ離婚することはなかった。そう思うと……亮が疎ましく、憎くなるのだ。
亮を世界一の宝と思う。その思いに嘘はない。けれど、疎ましくも思う。仁の中に相反する感情が同居していた。
親ならば……、いや、親といえど人間ならば、そういうことも珍しくもないし、寧ろ当然なのだ。人間は誰しも自分の中に矛盾を抱えている。二律背反する感情を持つことも当然といえる。しかし、それが仁には納得できなかったのだ。亮を疎ましく思う気持ち、それを抑え込もうとし、結果として仁を追いつめ虐待へと走らせたのだった。
「昔の同僚から電話があったのです。大きなプロジェクトに携わっていると。転職しなければ……あの会社を辞めなければわたしが加わっていただろう……。彼はそう言いました」
仁もまたそう思っているということだった。離婚後、亮を育てる為に今の会社に移った。亮と過ごす時間を増やす為に。そしてそのことは今でも正しいことだったと信じている。後悔はしていないはずだった。けれど……ビッグビジネスに携われる元同僚が羨ましかった。妬ましかった。そして、亮がいなければ自分もその立場にいたのだと思うと、亮が憎くなり抑えられなかったと言う。
「そっか……。気持ち、判らんでもない。俺はあんたやないから、完全に理解できるとは言わへんけど、何となく判るで」
「――……責めないのですか? 亮を傷つけているのに……」
「他人の俺が責めるのは簡単やけどな。責めるより先にすることあるし。亮君はあんたのこと好きやし、あんたも苦しんどる。責める暇あったら何とかする方法考えよ」
そう。責めるのは簡単だ。それでも親か、お前に親の資格はない。そう言うのは誰だって出来る。けれど責めることで問題は解決しない。余計に加害者を追いつめてしまう。それよりも苦しんでいる父子を現状から脱却させる方策を探るのが先だ。
「あんたはこのままでいいとも思ってへんし、自分が酷いことしとる自覚もある。ただ、どうしたらいいのか判らへんのやろ? せやったら、専門家の力借りるんが一番や」
チャーリーはそう言って、仁へカウンセリングを勧めた。
「カウンセリング……」
そのチャーリーの言葉に仁は躊躇する。自分が心を病んでいるというのか? 認めがたいことではある。けれど、そうなのかもしれない。
「精神病とか、重く考えんといてな。カウンセラーなんて愚痴の聞き役と変わらへん。俺もよう愚痴りにいくんや。言いたいこと言ってすっきりするで。それに心の専門家やから、ええアドバイスもくれるし、気が楽になる」
チャーリーは安心させるように言う。
「そうですね……。紹介していただけますか?」
このままでは何も変わらない。何かを始めなければ、亮も自分もこのままだ。だったら……。仁はそう決意した。
仁はチャーリーの紹介したクリニックでカウンセリングを受けることになった。が、カウンセリングを受け始めたからといってすぐに状況が良くなるわけではない。だから仁と話し合い、いくつかの予防措置をとった。
まず第一に、暫くの間亮は一時保護所に預けられることになった。ある程度仁のカウンセリングが進み状態が落ち着くまで、万が一に備えて保護されることになったのだ。
それから、チャーリーが出来るだけ仁の許に顔を出す。仁に亮の様子を報告したり、仁自身のケアの為に。そうして、仁と毎晩のように話をし、仁の心に溜まったものを吐き出すようにしていったのだ。勿論、それはカウンセラーにも伝えられた。
そんな中で様々なことが判っていく。仁は徐々に本来の自分を取り戻していった。
仁のことは一先ずこれで良いだろう。カウンセリングは一朝一夕で結果の出るものではないが、仁が心から『何とかしたい』と思っているから、必ず事態は好転するはずだ。チャーリーが紹介したクリニックはリモージュ財団が運営するものの1つだから経過の報告も入ってくる。
後は亮のケアだった。生活自体は心配は要らない。一時保護所となったのは、リモージュ家である。事情は確り把握しているし、アンジェリークは聖母に喩えられる優しさと慈しみの心を持っている。それでいて亮と一緒に悪戯をしてジュリアスに叱られるというところも見せている。亮はすっかりアンジェリークのことを『お姉ちゃん』と呼んで慕っている。それに、リモージュ家にはジュリアスがいる。被虐経験者がいる。それもトラウマにすることなく、周囲の愛情に支えられて立ち直った経験者が。
だが、1つだけ、チャーリーは気にかかることがあった。
『パパに戻った』
あのとき、亮は確かにそう言ったのだ。そのことがずっとチャーリーの心に引っかかっていた。
その言葉の意味が判ったのは、リモージュ財団の定例の報告会が終わって、アンジェリークと亮のことを話しているときだった。
アンジェリークによるとテレビに向かって亮が物を投げつけたのだという。それは亮が大好きな『科学戦士隊コーエーファイブ』を見ていたときだった。画面に出てきた悪役怪獣『ルヴィパ』に向かってクッションを手当たり次第投げつけたのだ。『パパから出て行け!』 そう言って。
ルヴィパは人の心に取憑いて子どもに害を成す怪獣だった。
「パパにはルヴィパが取憑いてるんだ。いつもはパパが抑えてるけど、でも、時々ルヴィパが出てくるんだよ」
その夜訪れたチャーリーに亮はそう語った。いつもは優しい父の信じられない暴力――亮の幼い心は自分を守る為にそう信じたのだ。
真実からは目を背けたことになる。けれど亮は父の愛情を信じているし感じてもいた。だから、父の相反する態度をそう捕らえたのだ。
虐待を受けた子どもは原因を自分に求めることが多い。『自分がいい子じゃないから、パパは僕を打つんだ。いい子になればパパは僕を打たない』 そう思い、次第に親(虐待者)の顔色を窺うようになる。それが余計に虐待をエスカレートさせる。そして子どもはだんだん自分の価値を見失っていくのだ。しかし、亮は幸いというべきかその悪循環には陥っていない。普段の父と虐待する父親を分けて考えているから。
「自分を守る為です。それでいいのかもしれない……」
チャーリーから相談されたカウンセラーはそう言った。やがて真実を知るときが来るかもしれない。けれどそのとき、亮が成長し、父の心情も思いやれる年齢になっていれば、トラウマにはならずに済むのではないか。
だから、チャーリーは亮に言った。
「じゃあ、ちゃーちゃんがコーエーレッドに頼んで、パパの中のルヴィパを退治してもらったる」と。
「ホント!? ちゃーちゃん?」
「ああ、ちゃーちゃんは嘘は言わへんで。その代わり、ルヴィパを退治するまでもうちょっとアンジェねぇちゃんのお家にいるんやで。ええな?」
「――……うん、寂しいけど、我慢する」
そうして、再び一緒に暮らせる日の為に、仁と亮は動いていったのだった。
「お疲れ様でしたね、チャーリー」
ルヴァがチャーリーを労う。実に半年以上に及ぶ長丁場だった。その間ずっとチャーリーは本業の傍ら仁・亮親子のケアを続けてきたのだ。そしてついに先日、仁が亮を迎えに行き、再び父子の生活が始まったのである。
仁が亮を迎えに行くとき、チャーリーともう1人の男性が同行した。その男性はヨゼフ・太田桐という俳優で、亮にとってはまさに『コーエーレッド』本人だった。仁と亮の感動の再会がひと段落した後彼は現れ、『コーエーレッド』として亮に接した。
「お父さんの中のルヴィパは俺が倒したから安心するんだ、亮くん。でもな、俺よりもお父さんが頑張ったんだぞ。お父さんは君と一緒に暮らしたい、そう思って、一生懸命自分の中のルヴィパと戦ったんだ。そしてルヴィパを追い出した。パパのほうが俺よりもずっと立派な戦士だったぞ」
「じゃあ、もうルヴィパは生き返らないの?」
「君もテレビで見て知ってるだろ? ルヴィパは何度でも生き返る。でも、もうパパに取り付くことはない。だから安心していいよ。でももし、他にルヴァパに取憑かれている人がいたら、チャーリー先生に言うんだぞ? 俺が倒してやるから」
憧れのコーエーレッドにそう言われ、亮は力強く頷く。そして興奮気味の様子で父と仲良く手を繋いで家路を辿ったのである。
「でも……お父さんもお子さんもお幸せになれて本当によかったわ。本当に良いことをなさいましたわね、ウォン社長」
マダム由貴が微笑んで言う。彼女も『母』であるだけに無関心ではいられなかったのだろう。いや、彼女だけではなく『母』である殆どのサポートメンバーの顧客が、今回の件では援護してくれていた。
「仁さんも被害者やったんです」
瀬尾仁もかつて被待児童だったのだ。彼の場合両親ではなく祖父ではあったが……。仁の実家のある田舎町では根強く家父長制が残っていた。旧い因習に縛られていた祖父は躾と称しては仁を折檻していた。両親は仁を可愛がってはくれたがそれでも祖父には逆らえず、防波堤にはなりえなかった。
仁はおとなしく真面目な青年へと成長していったが、どこか人の顔色を窺って行動するような面もあった。極端に自己評価も低かった。
仁が高校生のとき祖父が死去し、仁は祖父の呪縛から解放されたかに見えた。事実、祖父の死を契機に、仁はもう怯えなくてもいいという安心感から本来の自分らしさを取り戻し、精神的に安定していった。それでも刷り込まれた自己評価の低さは変わらなかった。
それが変わったのは社会に出てからだった。仁の誠実な人柄と高い能力から、彼の人望は高まり、仕事の大きなものを任されるようになった。次第に仁は自分に自信を持つようになった。それを決定付けたのは後の伴侶となる曾我邦子とであったことだった。
彼女と出会い、愛し愛される喜びを知った。愛した分だけ、いやそれ以上の愛情で応えてくれる彼女との関係に仁は満足していた。尤も彼自身が後に語ったところによると、見返りを求めていた時点で歪んだ人間関係を結んでいた、結局は祖父の呪縛から完全には逃れられておらずトラウマとなっていたのだろうということだった。
仁は邦子と結婚し、亮も生まれた。それは仁に大きな喜びを齎した。『世界一の宝物』と亮を可愛がり、また仕事もどんどん任され、公私共に充実していった。しかし、それが悲劇の幕開けだった。
邦子が育児ノイローゼから虐待に走ってしまったのだ。仁が気づいたときには、亮は殆ど笑わなくなっていた。仁が気づくのがもう少し遅ければ亮は命を落とすところだった。仁は怒り、結局は離婚した。当然親権は仁が取った。そして、亮を育てる為フェリシアへと転居、仕事も替わったのである。
けれど、仕事への不満・ストレスがどんどん仁の心を蝕んでいった。そんなときに、邦子から再婚を知らせるハガキが来た。それが引き金になった。自分はやりたいことも出来ずにいるのに――。
亮さえいなければ。仁はそう思ってしまった。亮さえいなければもっと仕事に打ち込めるものを。いや、そもそも離婚しなくて済んだのに。それが仁を虐待へと駆り立てた。
仁はずっと祖父の怨霊に縛られていたのだ。祖父に否定されたこと、家父長制の強く残る家で絶対者たる祖父に自分の存在を否定され続けた。そのことにより仁は自己不信と自己認識の低さがあった。
そして邦子との関係は、邦子によって自分が認められたという喜びが大きかったのだ。それを、亮によって奪われた――。仁はそう思ってしまった。
亮を愛しているのに憎くも思ってしまう。相反する思い。
それら全てが漸く解消された。解放されたのだった。
「子どもを……命を育てるというのは難しいことね」
マダムチェリィが溜息をつく。
「そうね、子どもを育てるというのは、一緒に親たちも自分を育てることですものね」
マダム由貴の言葉にホストたちも心から頷いた。
「それで、リモージュ財団で虐待救急センターを作ることにしたんです。1人1人が身近にある問題として捉えなければならないと思うから」
アンジェリークが言う。『Child Abuse Care Center』、通称『CACC』である。虐待時の保護とケア、加害者の治療を目的とした施設だった。
「あら、それならわたくしも出資させていただくわ」
「わたくしも」
2人のマダムはすぐに申し出る。
「うちの宿六のゴルフを減らせば、いくらでも出資できるわ」
「そうそう、晩酌のビールのランクを下げてついでに本数も減らして」
マダムたちはにっこりと笑う。一応財閥夫人なのだが、妙に庶民的なことを言う2人だった。
「マダムたちの足が遠のいてしまうのは寂しいですね」
そう言うオスカーにすかさずマダムチェリィは微笑みかけた。
「それは大丈夫よ。抑える出費は亭主の分ですから」
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