テニスの王子様

Deep in your heart

Deep inside your heart

紫織の言うとおりにシャワーを浴び、朝食を摂った。食欲はないと思っていたが、紫織が準備した食事を侑士は綺麗に平らげた。

自分で思っていたよりは、精神状態は悪くないようだった。

(紫織のお陰…やな)

昨夜、無意識の内に紫織に救いを求めていたのだろう。慰めを求めていたのだろう。

苦しさから逃れたくて、荒れ狂っていた心を持て余して、紫織の許へやってきた。

紫織なら受け止めてくれると、自分は知っていたのだろうか。

食事を終え、片づけをする紫織の後姿を眺めながら、侑士はそんなことを考えていた。

ふと時計に眼をやると、既に午前10時だった。

今日は木曜だ。木曜には朝から講義を担当していたはずだが…。

「紫織、大学どないしてん」

「ああ、休講にしたわ。もっと大事なことがあるから」

片づけを終え、2人分のコーヒーを手に紫織はリビングへと戻ってくる。

「私はカウンセラーでもある。心理士でもあるから、守秘義務もあるわ」

侑士の隣に腰をおろし、紫織は言った。

「話してみない?今の貴方の心。貴方が負っている心の傷を私がどうにかできるかは解らないわ。それをするのは貴方自身ですもの。貴方が心に大きな疵を持っていること、それを自覚しながら塞ごうとしていないことは感じてた。それが貴方に興味を持ったきっかけでもあったしね」

紫織は敢えて侑士を見ず、柔らかな声で告げる。

「でも、昨日の貴方は違ってた。もがいてたわ。苦しいって全身が叫んでた。心が縋るものを求めてた。それは貴方が出したシグナルではなくて?貴方の心は傷を何とかしたいと思っているのではない?」

女性にしては低めの落ち着いたアルトの声は穏やかに侑士の心へと入り込んでくる。

「侑士が…私の後ろに他の誰かを見ていることは知ってるわ。貴方は私を通してその人を抱いてた。私自身ではなくね…。そして、それは貴方の疵と関係しているのでしょう?」

やはり気づいていたのか…侑士は思った。

紫織は何かに気づいていると感じていた。

それでも尚且つ自分を包んでくれていたのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛してたんや…」

ぽつりと侑士は呟く。

「俺は栞を愛してたんや…。赦されへん恋やとは知ってた。けどどうしようもなかった。あいつしか欲しゅうなかった。あいつも俺を愛しとった。俺らは愛し合うてた」

侑士の唇から言葉が零れる。

頭で考えるより先に口が言葉を紡ぐ。

心のままに。

「世界中の誰に非難されたかて、俺は構わへんかった。愛し合うてさえいれば、それだけでどんな困難かてのり切れると思うてたんや…。けど、あいつは違うた…。あいつは耐えられへんかった…。自分の兄を愛してしもうたことに…。兄とセックスしてしもうたことに…耐えられへんかった」

侑士の言葉を紫織は何も言わずに聞いていた。

インセストタブー。

近親相姦禁忌。

一番罪が重いとされる禁忌。

何故禁忌とされるのかは明確な根拠はない。社会によってその禁忌の範囲も異なる。

けれど、根拠が明確ではないとはいえ、現代の日本では忌まれる関係には違いない。

決して公には出来ない関係。

両親を裏切るともいえる関係。

きっと侑士の妹はそれに耐え切れなかったのだろう。

いや、よほどの覚悟がなければ、そして心の強さがなければ耐えられることではない。

若しくは、何も考えられないほど愚かで想像力が欠如していなければ。

侑士の妹は至極普通の感覚と精神の持ち主だったのだろう。

そもそも恋愛にタブーはないと考えている紫織だ。

心の動きは誰にも止められない。

仮令、それが禁じられた相手であっても、心がその相手を求めることは自分でもどうにも出来ない。

しかし、それを肉親愛や別のものに昇華できるか否かはその人に掛かっているとも思っている。

社会通念や道徳、周囲への思い。そう言ったもので自分の心を制御するか否か。

恐らく、侑士はそう言ったものを全て考えた上で、それでも妹を女として愛することを選んだのだろう。彼女さえいれば何も要らないと覚悟を定めて。

侑士の妹はそんな侑士を拒むことが出来なかったに違いない。

全てを捨てる覚悟をして愛だけを選んだ者ほど強い者はない。そんな者にとってはその想いだけが全てなのだから。

拒めなかった妹は弱いのかも知れないとも思う。けれど、仕方のないことだと思う。彼女もまた兄を男として愛していたのだから。

愛する者から求められて拒める者はよほど心が強くなければ出来ないのだから。

 

 

 

 

 

 

「結婚が決まったて…電話があったんや…。俺の高校の後輩で…あいつもずっと栞を愛してた…。あいつなら信頼できる。あいつなら栞を幸せにできる。そう解ってんのや…。俺には出来ひんかったことを、あいつなら出来る…。栞が幸せになれるんならそれでええと思うてたはずだった…」

侑士は言葉をつなぐ。

自分の心を吐き出すように。

紫織は何も言わない。ただ侑士の言葉を聞くだけだった。

今はそれが必要なのだ。

今まで誰にも話したことはないのだろう。容易に話せる内容ではない。

だからこそ、苦しみは侑士の心の中に積み重なって溜まっていく。

言葉にして吐き出す。

それだけで苦しみは緩和されるのだ。

言葉にすることは、己の心を整理する作業なのだから。

「けど…違った…俺以外の男があいつを幸せにするんかと思うと…俺以外の男があいつに愛されるんかと思うと…気ぃが狂いそうになった…」

侑士は両肘を膝につき、手で顔を覆うようにしている。苦しくてたまらないというように。そしてこんなにも醜い感情を曝け出す自分の顔を見られたくないとでもいうように。

 

 

 

 

 

 

 

 

「でも…気ぃも狂わへんと今俺はこうしてる…紫織に話しとる…」

突然侑士の声が穏やかになる。

「なんでなんやろな…お前が何もいわんと俺を受け入れてくれる…それだけで…俺はこうしてここにおる…」

紫織にとって思いもしない言葉だった。ここで自分のことが出てくるとは予想もしていなかった。

驚くと同時に嬉しさがこみ上げてきた。

侑士が自分を頼ってくれたこと。

自分が侑士の助けとなれたこと。

それだけで十分すぎると思った。愛されていなくていい。ただそれだけで十分なのだと。

「俺は…まだあいつのこと愛してる…。せやけど…過去に出来る気がしとる…。紫織、お前がいてくれたら…あいつを過去に出来ると…そんな気がするんや」

侑士は顔を上げていた。そして、紫織を見つめている。

「侑士…」

「お前にとっては俺は興味ある研究対象でしかないのかもしれへん。ただのセックスフレンドなのかもしれへん。せやけど…俺は…俺にはお前が必要なんや」

紫織を愛しているとは言わない。

けれど、必要なのだという。

だからこそ、紫織は自分の気持ちを告げることはしなかった。

自分が愛しているのだと告げてしまえば、侑士は更なる罪悪感を持つだろう。愛してくれる女を利用してしまうのだと。

「…ここまで聞いてしもうたし…。ええよ。最後まで付き合うてあげる。侑士が過去にきっちり片つけて、前に進めるようになるまで、私が面倒見たるから」

心の傷はそう簡単に癒えるものではない。

況してや侑士はずっと疵を癒すことを拒んできたのだ。

だから、長い時間が掛かるかもしれない。

けれど、確実に侑士は前進している。疵を過去のものにして、前に進もうとしている。

そして、その道の先は紫織の道と繋がっているのかもしれない。

「侑士が他の誰か…妹さん以外を愛せるようになったら治療完了。それまでは私が侑士の主治医や。治るまで…付き合うてあげる。せやから焦らんでええよ」

いつか、侑士に想いを告げられる日は来るだろうか?

若しかしたら、侑士は他の女性を愛するかもしれない。

それでもいい。

自分は侑士を愛したのだから。侑士を愛せたのだから。

 

 

 

 

それに、自分が侑士に愛を告げられる日は、そう遠くもないのではないかと紫織は感じていた。

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