I even have so many secret…maybe more than you
それは侑士にとって突然のことだった。
遠い異国にいる妹から、数年ぶりの電話があった。
離れてから3年。
初めての妹からの電話だった。
『お兄ちゃん、私、長太郎と婚約したの』
「……栞…!!」
いつもと侑士の様子が違う。
前触れもなくやってくることは変わりはないから、それは問題ない。
食事をして、会話をして…。
けれど、侑士の心は何処か遠くにあるようだった。
目が、虚ろだった。
そして、紫織を狂ったように抱いた。
何度も何度も名を呼びながら。
…それは彼女の名前でありながら、彼女の名前ではなかった。
情事の後、疲れたように眠る侑士を紫織は寂しげに見つめた。
自分が愛されているわけではないことは感じていた。
自分の後ろに侑士が別の誰かを見ていることも感じていた。
それが辛くないわけではない。
哀しくないはずはない。
寂しくないはずはない。
けれど、それでも良かった。
仮令侑士が自分ではない『しおり』を求めているのだとしても…。
少なくとも侑士は自分の下へやってきた。
心の何処かで、侑士は自分に慰めを求めてやってきたのだから。
「ねぇ、侑士…。貴方は知らないでしょうけど、私は貴方を愛してるわ。だから、甘えていいのよ。ぶつけてくれて構わないわ…。貴方の苦しみは私が受け止めるから」
そう、侑士が自分を支えてくれたように。
前夫と再会したあの日。
自分ひとりだったらきっと逃げ出していた。
恐怖がフラッシュバックし、目の前が闇に覆われた。
この街に戻ってきてこれまで会わなかったことのほうが奇跡だったのだ。
尊大で傲慢で鬼畜のような前夫。
結婚してからずっと理不尽な暴力に曝され、恐怖で支配されてきた。
ただ恐怖することしか出来なかった日々は紫織から本来の彼女を奪っていった。
けれど、実家のことを考えると離婚はできなかった。
いや、離婚を言い出せば、更なる暴力が加えられる。
我慢していれば、これ以上酷くはならないはずだ…。
紫織はそう思い、じっと耐えていた。思えばその頃は既に正常な思考能力を失っていたに違いない。それほどまでに前夫は紫織にとって恐怖の対象だったのだ。
子供を失い出産できない体になるという代償を払い、紫織は自由になった。
恩師と家族の愛情で、紫織は自分を取り戻すことが出来、立ち直ることが出来たと思っていた。
けれど、違った。
離婚に際して、紫織は一切前夫と顔を合わせなかった。流産により入院してから、事情を知った忍足院長と家族が徹底して前夫を拒絶したのだ。
だから、立ち直ったとはいえ、それは完全ではなかった。
前夫から逃げ出した紫織は、その心もまた逃げ出したままだった。前夫は紫織にとって恐怖の対象のままだったのだ。
前夫の声を聞いた瞬間、紫織は過去に逆戻りしそうになった。
恐怖に支配され、足元が崩れていくのを感じた。
そんなときに、優しい手を感じた。
侑士が紫織の背に腕を回したのだ。支えるように。守るように。
『俺がいてる。大丈夫や』
低い侑士の声を聞いた瞬間、紫織は過去の恐怖から解放された。
侑士がいたからこそ、紫織は過去から抜け出すことが出来たのだ。
そして漸く、自分の口で夫を切り捨て決別することが出来た。
何もかも、侑士を愛したからこそ、出来たことだと紫織は思っていた。
侑士が何かに苦しんでいることは知っている。
その苦しみこそが、侑士に興味を持つきっかけだったのだから。
全てを見透かしているようで何も映していない眼。
心に開いた大きな疵を放置し塞ごうともせず受け入れている。
その原因は、恐らく『しおり』という名の女性。
自分と同じ名を持つ、女性。
いつからだろうか。
侑士がベッドで自分の名を呼ぶときに別の誰かを呼んでいるのだと気づいたのは。
不思議と傷つきはしなかった。
ただ、ああそうなのか…と思った。
侑士が自分を見つめていた理由、自分に近づいた理由が解ったと思った。
侑士は嘗て愛した女性に…今でも愛しつづけている女性に自分を重ねているだけなのだ。
彼女を得られない代わりに、自分を抱いているのだと。
そして、今。
自分を抱きながら、自分ではないもう1人の『しおり』を抱いている侑士。
彼自身にもどうしようもない心の嵐を紫織にぶつけている侑士。
愛したのだから、愛されたいと願わないわけではない。
身代わりではなく自分自身として愛されたいという想いは確かにある。
けれど、それでも。
紫織はそれでもいいのだと思っていた。
身代わりでも、侑士が求めてくれるのなら。
侑士が自分にその哀しみや苦しみをぶつけてくれるのなら。
少しでも侑士の苦しみを紛らわせることができるのなら、それだけで紫織は十分だった。
精神状態の影響なのか、目が覚めた侑士は体が重いように感じていた。
突然の妹からの電話。知らされた婚約。
――嘗て愛し合った少女からの知らせは、侑士の心を打ちのめしていた。
愛しい少女の幸福を願わないわけはない。
彼女には幸福になって欲しかった。
自分とともにあることとが彼女にとって不幸にしかならないと悟ったから、別れを選んだ。
決して本意ではなかった。
侑士には世界中全てを敵に回してでも、世界中に非難されたとしても彼女を愛しぬく自信と覚悟があった。
だか、繊細な彼女はそれに絶えられなかった。
禁忌の恋。
彼女はそれに押し潰されそうになっていた。侑士の愛だけでは耐え切れぬほどに。
だから、別れを選んだのだ。
覚悟はしていたはずだった。
自分の手を離れた少女はいつか他の男の手を取る。
そして、その男と幸せになるのだ。
なのに、それが現実となると、侑士の心は自分でも予想しなかったほど荒れ狂った。
自分が彼女を愛しつづけているように、彼女もまた自分を愛しつづけているのだと、心の何処かで思っていた。
もう結ばれることはなくても、心は繋がっているのだと何処かで思い込んでいたのだ。
しかし、現実は違った。
電話の妹の声は幸福に満ちていた。
まるで自分と犯した罪はなかったかのように、自分を1人の男として愛した過去などなかったかのように。
彼女が自分に連絡するまでにどれだけの苦悩があったのかは、想像すら出来ていない侑士だった。それほどまでに侑士は疵を受けたのだ。
「……俺も女々しい男やな…」
いつまでも過去に出来ない。いや、するつもりもなかった。生涯愛する女は彼女だけだとそう思ってきたのだから。
だが…
気が付けば、ここに来ていた。
そして、紫織を抱いていた。
もう1人の『しおり』にぶつけられぬ想いを紫織にぶつけていた。
怒り、苦しみ、哀しみ、どうにもならない想い。
それを紫織にぶつけていた。
もし、紫織がいなければ、自分はどうしていただろう。
衝動のままに、彼女の住むアメリカへと向かっていたのだろうか。
それとも、収まりきれぬ想いをぶつける為に破壊衝動にでも駆られていたのだろうか。
実際はどちらでもなかった。
ただ、紫織の元へ行くことしか考えていなかった。
紫織ならば…何も言わずに自分を受け止めるという確信があったのかもしれない。
「あら、やっと起きたのね」
不意に紫織の声がした。ドアから顔を覗かせている。
「ああ…今起きたわ」
「そう。…まだ寝ぼけてるみたいだから、シャワーでも浴びてきなさいよ。少しは気分もすっきりするわ。それから朝ご飯ね」
「……食欲あらへんわ」
「ちゃんと食べなさい。先ずは確り食事をすること。そうしないと、心も健康にはなれないわよ」
含みのある紫織の言葉に侑士は紫織を見つめる。
紫織は自分の想いを知っている…?
「悩むのも苦しむのも結構。人間ですもの、当然あることよ。でもね、ちゃんと食事してそれからにしましょう。じゃなきゃ、正しい思考は導き出せないわよ」
紫織は微笑んで言う。
「ああ…せやな」
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