テニスの王子様

Deep in your heart

Want to touch…

侑士が提案してきた『恋人ごっこ』を始めて、数ヶ月が過ぎた。

侑士は己が提案したように、紫織の行動を制限することも、心を束縛することもなく、2人の関係は、それなりに居心地のいいものだった。

例えば、紫織が論文に追われていると、侑士は家事を手伝ってくれる。

意外に家事は得意らしく、夕食を作ってくれたりもする。

頭のいい侑士の話は面白いものだったし、映画や小説の好みも似ていたから、一緒にいても飽きる事もなかった。

紫織の生活の中に、侑士は簡単に溶け込み、『居て当然』な存在になっていた。

だから…気づいたのかもしれない。

侑士が、自分の後ろに誰かを見ていることに。

そして、それを哀しんでいる自分に。

 

 

 

 

「紫織、準備できとるか」

侑士がやってきたのは、約束の時間よりも随分早かった。

とはいえ、紫織も既に準備は出来ていたが。久しぶりに和服を着るために余裕を持って準備していたのだ。余裕がありすぎるくらいの時間に準備は完了してしまったが。

今日は侑士と歌舞伎を見に行くことになっていた。

先日実家に戻った侑士が『お袋に押し付けられた』とチケットを2枚持ってきたのだ。

元々侑士の両親が行く予定にしていたのだが都合が悪くなり、侑士がそれを押し付けられたのだという。

紫織は観劇が趣味で、興味がある芝居であれば大阪や東京まで見に行く。歌舞伎は最近見ていなかったから、誘われて直ぐに承諾した。

そして歌舞伎なら…と久しく着ていなかった和服を着ることにしたのだ。

一方の侑士は初めて見る紫織の和装に目を丸くしている。

「紫織…着物色っぽいなぁ…」

いつもの隙のない紫織とは別人のようだった。

見慣れぬ紫織の姿に、楚々とした姿に侑士の中で欲望が身を擡げる。

先日父親から知らされた紫織の過去。

それによって芽生えた、紫織への庇護欲。

そして日々強くなる紫織への独占欲。

「こないな姿見せられたら、それ乱したくなるのが男っちゅーもんやな」

そう言うや、侑士は紫織の着物を乱しに掛かる。

「ちょっと、侑士、待って…」

紫織の制止の言葉も適度な刺激にしかならない。

紫織という存在は、それだけで侑士の雄を刺激するのだ。

「待てへんわ。色っぽい紫織があかんのや」

 

 

 

 

 

 

「あかん…やめて、侑士…」

切なげに紫織が喘ぎをもらす。

「ああ…いやや…堪忍して…」

それでも侑士は止まらなかった。

 

 

 

 

「信じられへんわ、侑士のド阿呆」

侑士によって乱された着物を脱ぎながら紫織はぼやく。

「なんや、脱ぐん?」

それをニヤニヤと侑士は眺める。

「こないに情事の匂いする着物でいけるわけあらへんやろ。アホ侑士」

怒りながらも紫織は着物を脱ぎ、別の着物を取り出すと手際よく着付けていく。

「せやけど…紫織もちゃんと京都弁話すんやな」

生まれも育ちも京都のはずなのに、これまでずっと紫織は標準語を使っていた。講義でも、私生活でも、ベッドの中でも。

けれど、今は京都弁―紫織が本来使っていたであろう言葉に戻っている。

「……!」

恐らく無意識のうちに使っていたのだろう。侑士に言われて初めて気づいたという表情を紫織はする。

「……忘れて」

「いやや。紫織の京都弁、なんか可愛らしゅうてええやん」

「じゃあ、もう話さない」

気づいたことによって紫織の言葉は標準語に戻る。

そうすると、これまで近くに感じられていた紫織の感情が遠くなるような気がした。

「つまらんなぁ。ま、ええわ」

強要することは出来ないからと侑士はあっさりと退く。

けれど、ニヤニヤとした笑いは止まらなかった。

そう…意識せずに出ていた京都弁は、紫織が侑士に心を許している証拠だと思えたから。

 

 

 

 

なんとか開演時間には間に合い、紫織と侑士は歌舞伎を堪能した。

約3時間の観劇を終え、会場を出ようとしたときにそれは起こった。

「そこにいるんは紫織やないか」

背後から、紫織に声を掛けてきた男がいた。

その声を聞いた瞬間、紫織の体が強張る。足が凍りついたように動かなくなった。

「なんや、元亭主の声、忘れたとでもいうんかい」

紫織の様子を不審に思った侑士の疑問に答えるかのように声は続く。

(こいつが…紫織の元亭主。紫織を傷つけた男か)

隣に立つ紫織は微かに震えている。顔は青ざめていた。

「…紫織。俺がいてる。大丈夫や」

侑士は紫織にだけ聞こえるようにそう囁く。

一瞬驚いたように侑士を見上げた紫織は小さく頷くと、声に振り向いた。

「お久しぶり…小野寺さん」

「ほんまに久しぶりやなぁ」

小野寺と呼ばれた男―紫織の前夫は厭らしい下卑た笑いを浮かべる。

離婚して数年経つというのに、結婚していた当時の立場の優位さを信じて疑わないような尊大な態度だった。

けれど、あの当時と紫織は違う。

「確か…離婚した際に一切の私との接触を禁じると弁護士を通じて通達してあるはずですが…。ご自分に都合の悪いことは覚えられないところは変わっていないようですね」

紫織の声は冷たい。一切の感情を廃した声だった。

「……」

そんな紫織の態度に小野寺は不快そうな表情をする。

「紫織、こないな男相手にすることあらへんで。帰ろか」

一秒でも一緒にはいたくないと感じさせる男だった。

侑士自身も小野寺の評判は知っている。が、それ以上に未だに微かに震えている紫織にこれ以上の我慢はさせたくなかった。

侑士の声、そして自分を支えるように励ますように守るように触れている暖かな手に、紫織は力を得る。

「では、失礼します。二度と姿を見せないでくださいませ、小野寺さん」

小野寺には到底真似できない気品と気位に満ちた態度で紫織は告げる。

口惜しげな小野寺の表情を無視して、侑士は紫織を出口へと誘う。

「侑士、ありがとう」

「俺が紫織をエスコートしてんねんで。守るのは当たり前やろ」

そう。紫織を守るのは俺の役目や。

侑士は呟く。

「…おおきに」

紫織はやわらかく微笑んだ。

 

 

 

 

歌舞伎の一件があって以来、紫織は自分の心が変化していることに気づいていた。

いや、あの日に気づいただけで既に変化は以前から起こっていたのだろう。

自分は思っていたよりも遥かに侑士に心を許している。

京都弁が出てしまったのが何よりの証拠だ。

家族にしか使わない京都弁。それを侑士に使ってしまったのだから。

侑士と過ごす時間が紫織にとって何よりも安らぐ時間となっている。

心の深いところに侑士の存在がある。

それを紫織は自覚した。

そして苦笑する。

(まさか、侑士を愛してしまっているなんてね…)

人を愛することなんてないと思っていた。

意に染まぬ結婚をしたときに、もう人を愛することはないと思った。

始めは夫を愛そうと努力した。けれど、夫は到底愛せる男ではなかった。暴力で支配され、自分は心を病んでしまった。

その傷を癒すのには長い時間が掛かった。

漸く癒えたから、京都に戻ってきた。

けれどそれでも人を愛することはないと思っていた。

自分が人を、侑士を愛していることに気づき、紫織は心が温かくなるのを感じた。

愛せないと思っていた自分が人を愛せた。それだけで十分だと思った。

仮令侑士に愛されなくても。

そう…。

紫織は気づいていた。

侑士が自分を見ているわけではないことに。

自分の後ろに、別の誰かを見ていることに。

それは、きっと、別の『しおり』という女性。

(愛せただけでいい。侑士に愛されることは望まない…)

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