I wanna know your little secret that you have deep in you
紫織と擬似的な恋人関係になってから数ヶ月が過ぎていた。
表面上、侑士と紫織の関係に変化はない。
会って会話をして食事をしたりセックスをしたり。
侑士は理想的な恋人として過ごした。
紫織が望むように、彼女を決して束縛せず、彼女の行動を邪魔することはしなかった。
彼女が疲れていれば寛げるよう心がけたし、家事を手伝うこともした。
仕事の資料を整理するなど手伝うこともあった。
だから、徐々に紫織は侑士に対して心を開いていくように感じてもいた。
そして、侑士はそのことを嬉しいと感じていた。
紫織が自分をテリトリーに入れたこと。
自分が他の男よりも紫織の心の中に入り込めていること。
だが…侑士は気づいていなかった。
どうして嬉しいと感じているのか。
そもそもどうしてここまで自分が紫織に拘っているのか。
独占したいと願うのかを…。
それは父親の蔵書を借りる為に実家に戻ったときのことだった。
「侑士、お前、小早川の嬢と親しゅうしとるらしいな」
唐突に父親が言ったのだ。
「なんや、いきなり…」
これまで自分の交友関係に口出ししたことのない父親の言葉に侑士は少なからず驚いた。
父親は『若い頃は恋愛をたくさんしたほうがいい』というポリシーの持ち主で、将来的に侑士が病院の為になる結婚を割り切ってできるのであれば問題ないとはっきりと口にしており、侑士の女性関係に口を挟む事はなかったからだ。
「小早川の嬢は、ええ女や。付き合う分には構へんけど、結婚はあかん」
父親の口から侑士が思っても見なかった言葉が出る。
「結婚て…俺まだ学生やで。そないなこと考えたこともあらへんわ」
大体、自分と紫織はそんな関係ではない。
「それならええ」
父親はそう溜息をつく。
「親父、小早川助教授のこと、知っとんねんな」
自分と紫織のことを知っていることは不思議には思わなかった。この父の事だから、侑士の交友関係など調査済みだろう。特に女性関係ともなれば、将来に関わる問題だけに調べているはずだから。
「小早川の家とは親しゅうしとるからな」
意外な、けれど考えてみればありうる話だった。忍足の家はそこそこの名家である。この地域で一番の個人病院の経営者だ。そして、小早川の家も代々続いた古い家柄の正真正銘の名家だ。交流があって当然といえば当然だった。
しかし、それならば何故、父は『結婚はあかん』等というのだろう。
家同士の格から言えば、小早川のほうが上である。紫織と結婚したとしても忍足の家に損はないはずだ。
「せやけど、せやったら何で結婚はあかんなんて言うんや?」
「…小早川の嬢は石女やからな」
一瞬、父親の言った言葉が解らなかった。
うまずめ…父は確かにそう言った。
紫織は子供が産めないのか。それならば父が結婚はだめだという理由は納得できる。侑士は後継ぎなのだから。後継ぎの一番の役目は更なる後継を作ることだから。
だが…
「なんで、親父がそないなこと知っとるん…」
「嬢が流産したときに処置したんは儂やからな」
父親の言葉は思いもかけないほど侑士に衝撃を与えた。
事情を聞いた後、侑士は「ともかくまだ俺は結婚なんか考えてへんから余計な心配せんでええ」と適当に言葉を継いで家を出た。
侑士は思いもかけない形で、紫織の過去を知ってしまった。
紫織が結婚をしていたこと。
流産をして、子供が望めなくなったこと。
それゆえ離婚をしたこと。
「小早川の嬢は災難やったんや。あないな阿呆な亭主持たされて」
父はそう言った。
「元々は嬢の兄である次期当主が下手打って、嬢はその尻拭いで結婚せなあかんようになったんや」とも。
紫織の兄であり、現小早川の当主である貴志が事業に失敗し、多額の負債を負ったのだという。
その巨額の負債の為に、紫織は債権者であった成金のもとへ嫁がされることになった。
その婚家は侑士も知っている。あまり評判はよくない相手だ。
表向きは経営コンサルタントを営んでいる家だが、高利貸しや土地転がし法の目を掻い潜るような商売をしているときいたこともある。
そして紫織の夫であった人物自身も評判はよくない。
それでも紫織は『私が嫁がなければ、社員が路頭に迷うことになる』と結婚を承諾したのだ。
「儂は小早川の親父と付き合いがあったよって、嬢のことも子供の時分からよう知っとった。明るくて聡明ないい娘やった。小早川が兄貴やのうて嬢に家を継がせたがってたことも知っとる」
小早川の当主が長兄よりも娘に目をかけていたことが、兄の焦りを生み、それが無謀な投機へと走らせ、結果事業に失敗した。そしてその尻拭いの為に紫織は不本意な結婚を強いられることとなった。
そもそも小早川の当主は紫織に跡を継がせる気はなかった。継がせたいと思ってはいたが、紫織が経営よりも学問を志していることを知っていたからだ。そして、長兄が努力していることを知っていたからだった。
けれど、結果はこうなってしまった。それが紫織の不幸の第一段階だった。
結婚後、紫織は滅多に家の外に姿を見せることはなくなった。
ごく稀にパーティなどで見かける程度だった。
小早川の父に聞いてみれば、肉親ですら滅多に紫織と会うことは愚か、電話すら取り次いでもらえないのだという。
そして、悲劇が起こった。
その日、忍足の父は病院に泊まりこんでいた。
そこに、紫織が急患として運ばれてきた。流産だった。
原因は…夫の家庭内暴力だった。
紫織の命が助かったことが奇跡だったと父は言った。
それほどまでに酷い状態だった。
一命を取り留め、意識を回復した紫織の状態は酷いものだった。
『堪忍してください。申し訳ありません。私が悪いんです』
紫織は虚ろな目で、壊れたテープレコーダーのようにそう繰り返すだけだった。
目の前にいるのが幼い頃から親しんだ父の友人である忍足院長であることも認識出来ていない状態だったのだ。
体は痩せ細り、肌は病的なまでに白く、体中いたるところに殴打の跡が残っていた。
精神科の医者は長期間に渡るドメスティックパイオレンスにより心を病んでしまっていると診断した。
直ぐに小早川の父親にそのことを告げた。
小早川の父は直ぐに夫に離婚を言い渡した。夫は当然のように渋った。成金である彼には名家である小早川の名は貴重なものだったのだ。けれど、DVの証拠があること、それゆえに流産したこと、離婚に応じないのであればDVを警察に訴えることを告げると、渋々ながら夫は離婚に応じた。
離婚が成立しても、紫織の心の病は中々治らなかった。
そんなときに現れたのが、紫織の大学の恩師だった。
既に京都大学を定年退職していた彼は、東京の私立大学で教鞭をとっていた。
紫織の在学中から目をかけ、大学院進学を勧めていた彼は紫織が結婚の為に進学しないことを残念がっていた。
紫織を愛弟子として慈しんでいた彼は、紫織の卒業後も紫織と連絡をとり、紫織の実家とも懇意にしていた。それ故、紫織の不幸に対して直ぐさま行動を起こしたのだ。
彼は今は紫織がこの町から離れることも必要だと説き、彼女を東京へと連れて行った。自分が教鞭をとる大学で彼女を助手とし、やがて紫織はその大学の大学院へと入った。そして、徐々に彼女は傷を癒し、自分を取り戻していったのである。
異常なまでに束縛を嫌う紫織。
それに納得がいった気がした。
単に自由を束縛されていたというだけではないのだ。
よくぞ立ち直ったとさえ思った。
「お前は、強い人間やなぁ、紫織…」
恩師の力があったとはいえ、自分の心の傷に向き合い、見据えたからこそ、紫織は自分を取り戻したのだ。
侑士の中で、今までとは違う何かが芽生えていた。
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