テニスの王子様

Deep in your heart

Reached out to your heart

何を言い出すのだろう、この男は…。

一瞬紫織は呆気に取られた。

自分たちは束縛を嫌うからこそ、割り切ったセックスフレンドという関係にあるというのに。

それを恋人ごっことは…。

これまでの3ヵ月、そう割りきった関係で、なんら不都合はなかったはずだ。

まして…侑士の感情が動いたとも思えない。

侑士が自分を見る眼は、この関係を持ち出したときと同じ、雄の眼。

それ以上でも以下でもない。

「ごっこ…ねぇ…」

侑士の意図が読めず、紫織は戸惑う。

「せや。なんかセックスして終われば、はいさよなら…いうのもちょっと寂しいなぁ思てな」

侑士が要求すればコーヒーくらいは出すが…基本的に、食事も何もしない。シャワーとセックス。会えばそれだけだ。

「紫織と俺と…お互いに恋愛感情ないのんは解っとる。だから、ごっこや」

そう言って侑士は自分の提案したことを説明する。

要は、普通の恋人たちのように、セックス以外もしようということだ。

だが、心は自由。心は勿論束縛はしないし、行動の制限もかけない。

「せやけど、セックスだけはお互いのみ、っちゅーことで」

「…つまり、一緒に食事したり、お喋りしたり、泊まったりさせろってことね」

敢えてセックスの条件については触れず、紫織は侑士の言葉に応える。

「そういうこと」

「………」

侑士が口にしたことが全てとは思えない。

けれど、特に不都合はないように思える。

断ったとしても、問題はないだろうが…だが、侑士がどうしてこんなことを言い出したのか、それが気になる。

「…解ったわ。試しに恋人ごっこやってみましょうか」

それに付き合うことによって、侑士の考えが解るかもしれない。だから、紫織は承諾することにした。

これまでよりも共に過ごす時間が増えることは即ち侑士を観察する時間も増えるということ。

侑士の内面…心の疵に興味のある紫織としては、それは願ってもないことだったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

紫織が自分の提案を受け入れたことに侑士は少なからず驚いていた。

最初にくどいほど紫織は念を押していたのだ。

自分たちの関係はセックスに限定した、割り切った関係なのだと。

実際彼女は自分がここに来る事も本当は嫌がっていた。

束縛されることを、紫織は異様に嫌う。

恋愛に費やすほどのエネルギーがないから恋人を作らないのだと紫織は言うが、侑士とてこの3ヵ月紫織を見てきたから、それだけではないことに気づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

旧家の出身である紫織には様々な制約があった。

名家の出だけに本人や家族ではなく、周囲が彼女の行動を制限してきた。

それは女性である、ということも大きく影響している。

旧家の女性には、この現代にあってすら、自分の意思を貫くことは厳しいのだ。

連綿と続く血を持続させる為に『家』の為の結婚を強いられる。

そして、そのためには家に、家族に従順であるべく育てられる。

自分の意思で『家』存続の為の道を選ぶ、強い意志を持った女性もいるが、それはそう選択するべく、幼い頃から教育されているケースが殆どだった。

それでも、紫織は比較的恵まれていた。

彼女の『家』は女性の能力を抑えこむような家ではなかったからだ。

それには彼女の遠祖たちが大きな影響を与えている。

彼女の姓は今は小早川だが、これは江戸時代中期に分家して名乗った姓なのだという。

本家の姓は『毛利』。更に祖先を遡れば『大江』という姓になる。

毛利は戦国大名として高名な毛利元就の家系であり、大江は奈良時代から鎌倉時代にかけて学問の家として高名な家だ。

その中には平安期第一の学者とされる大江匡房、その曽祖父にあたり、一条朝の大学者といわれる大江匡衡がいる。

また、平安朝で1、2を争う歌人と言われる和泉式部(百人一首には『あらさらん此よの外のおもひ出に いま一度のあふ事も哉』が撰されている)、その和泉式部を抑えて藤原定家に『古今第一の歌人』と称えられた赤染衛門(百人一首には『やすらはてねなましものをさよ更て 片ふくまての月を見しかな』が撰されている)の女流歌人がいる。

そういった家系であるが故に、女性であろうと才能があればそれを伸ばせばいいという家風が小早川家にはあり、旧家の長女とはいえ、紫織は己の才を伸ばし、活かすことができたのだ。

とはいえ…彼女とて完全に自由だったわけではなかったのだが…。

それが彼女の精神に大きな影響と疵を残していたのだが、このときの侑士はまだその出来事のことは知らない。

だが、氷帝時代には『食わせ者』と称された侑士だ。

それは人物観察眼に優れていたからこその渾名でもあった。人を見抜くからこそ、裏をかいたり、翻弄したりできる。

そんな侑士だからこそ、過去のことを知らずとも、紫織の内面を少なからず見抜いていた。

恐らく、これまでの紫織の『恋人』たちは彼女を束縛してきたのだろう。

彼女の精神的な自由を奪っていたのだろうと思う。

紫織は自立心が強い。そんな彼女にとって、精神的な自由を奪われることは、耐え難い屈辱だったろうと容易に想像ができる。

だから、彼女は束縛の象徴である『恋人』という存在を持つことを厭うのだ。

それに気づいた侑士は、だからこそ『ごっこ』を持ちかけた。

彼女を、束縛するために。

 

 

 

 

 

 

 

 

切っ掛けは、偶然街で見かけた紫織だった。

その時、紫織は1人ではなかった。男が一緒にいた。

その男は親しげに『紫織』と名を呼んでいた。

侑士の知る限り、紫織を名で呼ぶ男は自分だけだった。

勿論侑士の周りにいるのは同じ学生か教職員だから、普段は当然紫織を『小早川助教授』と呼ぶ。

中にはプライベートでも交流のある教職員もいるから、『紫織』と呼んでいる者もいたかもしれないが、侑士が知る限り、彼女を名前で呼ぶのは自分だけだった。

だが、他の男が彼女を『しおり』と呼ぶのを聞いたときに、侑士は自分でも信じられないほどの衝撃を受けた。

(俺以外に…その名前を呼ばせたらあかん…!)

そのとき侑士ははっきりと自分の中に紫織に対する独占欲があることを自覚したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

けれど…

それは『小早川紫織』という女性に対しての独占欲ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紫織への独占欲を自覚した侑士は、彼女を自分だけのものにする為に策を練った。

だが、彼女は自分に恋愛感情を持っているわけではない。

それは自分も同じだから、お互い様と言うわけで別に問題はない。

独占欲と恋愛感情は別物。少なくとも侑士はそう思っていた。

では、互いに恋愛感情のない自分たちが、相手を独占するためにはどうしたらいいのか。

恋人になりましょうと言っても、互いの心を知っている自分たちでは、無理がある。

それに、紫織は恋人という存在を嫌悪している。

だから、侑士は『恋人ごっこ』を持ちかけたのだ。

心は自由だ、束縛はしない。ただ、セックスの相手はお互い限定にする。

そう提案した。

ごっことはいえ、恋人であれば、これまでより共に過ごす時間を増やすことができる。

つまり、紫織が他の男と過ごす時間を減らせる。

より侑士が独占できる。

そう考えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それぞれに己の心の奥に潜むものに気づかないないが故に、紫織と侑士は迷宮の中を彷徨っていた。

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