テニスの王子様

Deep in your heart

Deep inside the darkness

貴方が…名前を呼ぶ。

とても優しい声で。

とても甘い声で。

そして…切ない声で。

 

 

 

 

 

しおり。

貴方が、名前を呼ぶ。

私の名前を…

けれど…

 

 

 

 

 

 

 

 

貴方が呼ぶのは私ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

貴方の心にいるのは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私ではない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「隣、ええですか?」

と、忍足侑士が紫織に声を掛けてきたのは色気も素っ気もない学食でのことだった。

「空いてますからご自由に」

紫織の返答も素っ気無い。

忍足侑士は学内でも有名な学生だ。特に女子学生の間で。

医学部の4回生で、府内でも有数の大病院の次期院長という跡取り息子。

中学と高校は東京の学校に通い、テニスでは有名な選手だったとか。

見た目も男の癖に『綺麗』という形容の似合う顔に、長身で均整の取れた体躯。

女子学生の人気は群を抜いている。

だが、少なくとも学内では女っけもなく、どちらかと言えば女には冷たいといわれている。

「小早川助教授に話あったんですわ」

「そのために態々こっちに来たの? ご苦労様ね」

紫織は食事の手を止めずに応じる。

「小早川助教授に会うにはこっちに来るしかあらへんから」

医学部と紫織が籍を置く心理学科はキャンパスは同じだが、離れている。

侑士は態々、紫織に会う為に来たというわけだ。

「忍足くんと…話すようなことはないと思うけど」

紫織は文学部の助教授で、侑士は医学部の学生だ。

確かに一般教養課程において、紫織は心理学概論を担当したから忍足に講義をしたことはある。だが、それだけの関係でしかない。

「センセと俺…『狩場』被っとるって、知ってはりました?」

侑士の思いがけない言葉に、一瞬、紫織の手が止まる。

「…そう。それは意外だったわね…。『狩場』を変えて欲しいということかしら」

「いえ。俺とセンセの獲物は被らんよって。けど、1つ提案したいことあるんです」

侑士も紫織も世間話をするように会話をしながらも相手の出方を窺っている。

「ここでは…どんな人の目があるか解らないわね。忍足くん、今日の講義は?」

「今日はもうありません」

「それなら…後で、私の研究室へ」

紫織はそう言うと、席を立つ。

「ほな、また後で」

侑士は底の見えない笑顔で紫織を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

侑士が紫織を見かけたのは彼らが『狩場』と呼んでいたとあるバーだった。

学内では女に興味を示さず冷たい侑士だったが、それは同じ大学の女では面倒だからだった。

外に出ればそれなりに遊んでいる。

 

 

 

かつて『一生に一度の恋』といえるほどの恋をした。

もう彼女以外を愛することなどできないと思うほど、愛した人がいた。

いや、今でも彼女を愛している。

けれど、決して2度と結ばれることのない相手だった。

彼女と別れて以来、侑士は女性と恋愛をしたことはない。

心は彼女の元にあり、彼女以上に愛することのできる女性などいなかった。

愛することを拒否するかのように、心が動くことはなかった。

彼女が別の男を愛したと知っても…それは変わらなかった。

だから、侑士が求めるのは一時の快楽のみ。

ただ体を重ね、熱を解放するためだけに、女を求めた。

割り切った一夜限りの関係ゆえに、学内の女では面倒だったのだ。

 

 

 

 

その一夜限りの恋人を見つける為の『狩場』で、紫織を見かけた。

一瞬、それが紫織だとは解らなかった。

学内で見かける紫織とはあまりに違ったからだ。

如何にも男を漁りに来ましたといわんばかりの露出度の高い服。

決して下品ではないが、いつもの紫織とはあまりにかけ離れた格好だった。

それ以前から、紫織のことは知っていた。

一般教養課程で講義を受けた。

清楚で真面目そうな女性。それが第一印象だった。

実際に学内ではどちらかと言えば堅物と言われる女性だった。

講義は解りやすく、内容も濃い。

学生が研究室を訪ねても嫌な顔などせず、求められればより深いことも教えてくれる。

教育者としては文句のない有能な助教授だった。

まだ30代になったばかりという若さで既に助教授であり、将来を嘱望されている学者だという紫織。

とある旧家の出身で元は華族と言われている出自と、如何にも日本美人という清楚な美貌は学内でも有名で、男子学生や若い教職員の中では『高嶺の花』と言われていたのが彼女だ。

だが、侑士が紫織に興味を持ったのは、それゆえではなかった。

ある一点が、かつて愛した少女を思い出させるものだったのだ。

 

 

 

 

紫織と侑士の『狩り』周期は似ているらしく、最初に見かけて以来、時折侑士は彼女を見かけるようになった。

紫織と自分の周期がほぼ重なることを確認した侑士は、行動を起こすことにしたというわけだった。

 

 

 

 

 

 

 

研究室に戻った紫織は、苛立たしげに煙草を咥える。

近頃は何処でも禁煙禁煙で、愛煙家には辛いご時世だ。

学内も例外ではなく、食堂などの人の集まる場所は殆どが禁煙。

愛煙家の権利はどうなると主張したい紫織である。

だが、苛立っている原因は世の中の禁煙ムードではなく、侑士だった。

正確には侑士に『狩場』を知られていることだ。

紫織とて成人女性だ。性欲はそれなりにある。

恋愛は精神エネルギーを消耗するから、仕事が面白い今はそっちに使うエネルギーはない。

恋愛する時間も余裕もない。

だが、性欲はある。

だから手っ取り早くナンパしに行く…というだけのことだった。

適当にセックスフレンドを持つことも考えたが…というより、最近まではいたのだが、その彼が結婚することになり、流石に妻帯者は不味かろうということで、関係を終わらせた。

相手もあくまでも遊びというよりスポーツのパートナーといった感じの関係だったから、あっさりと承諾してくれて、今は新婚の奥様と仲良くやっているらしい。

その男以降、これといった特定の相手は造っていなかった。

大体の男というのは複数回体を重ねると、紫織を自分の所有物のように思い始め、セックス以外のことまで要求し始める。

割り切った体だけの関係で済ませてくれる男は中々いないのだ。

それが鬱陶しくて紫織は1回きりの男を選んでいた。

「何要求して来るんだか…」

紫織は紫煙を吐き出しつつ呟く。

大体の予想はつく。

同じ穴の狢だから、脅迫は成り立たない。そういう男だとも思わない。

いいトコのお坊ちゃまだから金に困っている事もないはずだ。

「…相性次第かな」

たまには年下もいいかもね。

そんな風に偽悪的に考える。

それに…侑士に興味があった。

男としてではない。人として。

あの眼。

何もかも見透かしたような目で、でも何も映していない目。

心が凍っているのだと、その眼を見ればわかる。

面白い研究対象…。

何が彼をそうしたのか。

どういう経緯が彼をああしたのか。

それに興味があったのだ。

「お待たせしました」

ドアがノックされ、侑士が現れる。

「提案とやらを、聞きましょうか」

紫織は座ったまま、嫣然と微笑み、侑士を見つめた。

「小早川センセのことやから…凡その予想はついてはるでしょ」

侑士も魅惑的な笑みを形作って応える。

「大体はね。でも、確認の為にも貴方の口から、言ってもらえるかしら?」

そこにいる紫織は真面目な『小早川助教授』ではない。

本来の紫織の姿だった。

蠱惑的な、何処か妖艶な雰囲気を纏う紫織に侑士はぞくりとする。

雄の持つ本能を刺激させられる…目の前の紫織はまさにそんな存在だった。

「俺と割り切った付き合い、せぇへん?」

紫織の予想通りの答えだった。

「あんたなら、割り切ってセックスできそうやて思うたんやけど」

想像通りの侑士の言葉に紫織は笑いを漏らす。

「確かに…貴方もそうみたいね」

狩場が固定していると、そこに来る男も女も大体決まってくる。

そうなると、『一回きり』というのは中々難しい。

当たり外れもあるし、はずれなんて引いた日には、欲求不満解消の為にナンパして、更に欲求不満になると言う本末転倒な展開もある。

固定のパートナーがいるほうが、楽ではある。

「でも、お互いに満足できる相手なのか確かめてみないとね?」

「確かに相性悪かったら意味あらへんしな」

紫織の言わんとすることを察し、侑士はドアに鍵を掛ける。

「あら…気が早いのね」

「善は急げいうやろ?」

「善…ねぇ」

くすくすと笑いながら紫織は立ち上がる。

「愉しませてくれるかしら?」

「お互いに、お手並み拝見…いうことで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが、始まりだった。

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