テニスの王子様

a Tre~三重奏~

ardente~焼け付くような~

時が一気に動き出した。

綾弥はそう感じていた。

跡部と心と躰は別物と割り切った関係を持って1年余り。

綾弥の心は1年前と変わらず忍足を恋していた。

1年の時、クラスメイトとして出会った忍足。跡部と学内の女子生徒の人気を二分していた男。

確かに人気あるのも頷けた。甘いマスクにセクシーな声。テニス部のレギュラーで頭もよく、地元に戻れば大病院の御曹司。これで人気が出ないほうがおかしい。

帝王として君臨する跡部とは違っていたって気さくで茶目っ気もある。

けれど、綾弥はだから忍足に好意を持ったわけではない。人には見せない忍足の一面を感じたのだ。

人当たりのいい笑顔を振り撒きながら、決して踏み込ませようとはしない。跡部以上に忍足は他人を拒絶している。

綾弥はそう感じたのだ。時折見せる忍足の冷たい瞳から。

そして、興味を持った。

テニス部のマネージャーとして一緒に過ごす時間が増えると、更に色々なことを知った。

忍足は全ての他者を拒絶するのではない。ただ受け入れるハードルが高いのだ。宍戸、滝、向日、芥川、そして跡部。忍足が受け入れているのはこの5人だけだった。

中学時代の3年間、ともにテニスを通じて培ってきた信頼。

それ故にこの5人と接する時、忍足は素の表情になった。クラスメイトと接する時、忍足は笑っても怒っても、眼だけは冷えていた。

けれど、彼らと接する忍足の眼は感情豊かだった。

そんな彼らの信頼関係を羨ましく思いつつ、次第に忍足に惹かれていく自分を綾弥は感じていた。

テニス部のマネージャーとして、懸命にテニスに打ち込む彼らを応援したくて少しでも力になりたくて綾弥は努力した。その真摯な姿からやがて綾弥は忍足からも信頼されるようになった。

跡部たちと同じように自分にも『素の忍足』を見せてくれるようになったことが純粋に嬉しかった。少しだけ周囲の女子生徒より特別になれた気がした。

けれど、そんな喜びもつ束の間のことだった。

実しやかに囁かれ始めた噂。

『忍足に他校の彼女が出来たらしい』

既に忍足への想いを自覚していた綾弥には大きなショックを与えた。

「俺、恋人いてんねん。そいつのこと、ホンマ大切で好きなんや。あいつのことしか目に入らへん。悪いけどあんたとは付き合われへんわ」

偶然目撃した忍足への告白の場面で、彼はそう言っていた。

押したりは背を向けていたから表情は判らない。けれどその声はとても優しかった。『あいつ』と呼ばれた恋人を心から大切に思っているのだと悟らざるを得ない声だった。

忍足と女子生徒が去った後も綾弥はそこから動けなかった。ただ涙だけが零れていた。

何処かで自分は特別なのだと自惚れていた。学内での忍足のことしか知らないのに。学外の忍足のことなど何一つ知らないのに。

忍足が素の自分を見せる女は自分だけなのだと誤解していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも忍足への想いはきえなかった。生まれてしまった恋情は自分の意志ではどうしようもなかった。ただこれまで通り、クラスメイトとしてマネージャーとして、仲間として接する以外にはなかった。

苦しかったけれど、どうしようもなかった。綾弥の様子を心配した兄の玲が根気強く綾弥から事情を聞き出し、泣かせてくれた。

「綾弥は恋をしたけど、成就はしなかった。けど、綾弥は忍足に恋したこと後悔してるのかい?してないなら無理に忘れることはないよ。時間が全てを解決してくれる。今は辛いかもしれないけどね。泣きたい時は兄さんがいる。兄さんの胸は綾弥専用だからね。泣きたい時は遠慮せずに兄さんに言いなさい」

そう言われて泣きたいだけ泣いて、気が楽になった。

好きなものは好きなのだ。仮令、成就しない恋だとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けれど、そう思ってはいても、忍足の後ろに別の女性が見え隠れするたびに綾弥の心は痛んだ。

そんな時だった。跡部との関係が始まったのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

跡部は自分の気持ちなどお見通しだった。

跡部のインサイトは観察眼と洞察力の鋭さの賜物だ。それに掛かれば綾弥の忍足への恋情などあっさりと見破られてしまう。

綾弥の意思など無視したかのような跡部の言動には腹も立ったが、有無を言わせぬ強引さは心地よくもあった。

綾弥は跡部の強引さを利用した。一瞬でも苦い恋を忘れられる性の快楽に身を委ねた。

恐らく跡部は解っていたのだろう。行き場のない恋に綾弥の心が悲鳴をあげていたことに。

『忘れさせてやる』と跡部は言った。実際抱かれている時は忍足のことを忘れられた。

けれど、それでも忍足への想いは消えなかった。情事の後は忍足の顔をまともに見ることが出来ず、忍足を避けた。

そんな綾弥に忍足は怪訝そうな顔をしたが何も言わなかった。そして、跡部も。

跡部が何かを綾弥に要求することはなかった。押したりのことについても口にしたのは初めの1度きりだった。

ただそれまで複数いた『女』とは全て手を切り、綾弥のみを相手にするようになったが、そもそも関係のきっかけは跡部の女関係のだらしなさに綾弥が苦言を呈したことだ。跡部は女たちと手を切る代わりに綾弥を要求したのだから、変化といえるものではない。──その時は綾弥も跡部本人でさえもそう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──そして1年余りが過ぎ、変化は突然やってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺が愛してるのはお前だ、綾弥」

思いもかけず、跡部にそう告げられ、綾弥は言葉を失った。

「…何の冗談よ…景吾」

そう言いながらも冗談などではないことは綾弥にも判っていた。跡部はこんなことで冗談を言う男ではない。

「冗談で言えるわけねぇだろ。俺だって気付いたのは最近だ」

どこか憮然とした表情で跡部は言う。その表情が妙に年相応な少年っぽさのあるもので、こんな場面だというのに綾弥はクスリと笑う。

「あーん?俺様が愛の告白をしてるってのに、何でてめぇは笑ってやがるんだ」

「ごめん。なんか景吾が妙に年相応に見えて、つい…」

クスクスと笑いながら綾弥は応える。そのことによって場の妙な緊張感は消える。

「当然だろうが。惚れた女に想いを告げるのにいつもみたく余裕こいてられるわけねぇだろ」

跡部のその飾らないぶっきらぼうな口調は反って跡部の本気を綾弥に知らしめた。

「ありがとう、景吾。でも…」

「その先は言わなくても判ってる」

跡部は綾弥の言葉を遮る。

「今はまだ忍足のことが好きだってんだろ。勘違いすんな。俺は返事なんて要求しちゃいねぇ」

確かにそうだった。元々話の流れで綾弥が未だに忍足を想っていることからこうなったのだ。

「だからといって俺も退く気はねぇ。元々お前が忍足を忘れれるまで待つ気でいたんだ。まぁ、これからは俺も攻めさせてもらうがな」

ニヤリと跡部は笑う。漸くいつもの跡部のペースに戻ったようだった。

「ってことで綾弥。これからはピル飲むなよ。俺が18になるまであと3ヶ月程度だから孕んじまっても問題ねぇし、寧ろその方が俺様的にはラッキーだ」

「何馬鹿なこと言ってんのよ。何で私があんたの子供妊娠しなきゃいけないわけ?大体私の意思は?」

「必ずお前は俺を愛するようになる。だから何の問題もねぇよ」

「大有りだっつーの。そもそも、もうこの関係を続ける気はないわ」

跡部の気持ちを知った今、綾弥は関係を終わらせる心算でいた。跡部の心が自分にないと思っていたからこその関係なのだ。跡部の気持ちを知ってしまった以上、もう続けることは出来ない。

「何故だ。別に今まで通りでいいんじゃねぇか」

「良くない。景吾の想いを利用なんて出来ない。私を愛してくれる人の想いを利用するなんて…」

自分の心は別の男の許にあるのに、それを知りつつ抱いていた跡部は一体どんな気持ちだったのだろう。

「利用すりゃいいだろ。何も変わらねぇんだ。これまでと」

跡部も退く心算はないようだった。

とは言え、跡部は彼女の性格から綾弥がこう言い出すことを予想はしていたのだが。

「変わるわよ!…特に私がね」

「てめぇの都合で俺を振り回すのか?」

敢えて跡部は綾弥を責めるように言う。跡部自身、自分が想いを告げればこうなることは承知していた。今日が最後だと解っていた。

「だが、てめぇの言い分も解る。だからもう一度抱かせろ。それが最後だ」

深い色を湛えた瞳は否とは言わせぬ強いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『最後』といった跡部の愛撫は優しいものだった。口付けの1つ1つ、指の動き1つ1つがどれをとっても綾弥への想いを込めた限りなく優しいものだった。

否、いつだってそうだった。好意に至るまでは強引な跡部だったが、行為そのものはいつだって優しいものだった。綾弥を包み込むかのように。

「綾弥、愛してる。お前が他の誰を想っていようとも。俺がいることを忘れるな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日以来、跡部が綾弥の躰を求めてくることはなかった。

けれど、跡部は綾弥を諦めたわけではない。心を得る為に動き出したのだ。

跡部はこれまで以上に綾弥を傍に置くようになった。綾弥が他の男と2人でいようものならいつの間にかやってきて割って入る。スキンシップも多くなり、手や肩、頬や髪など綾弥に触れたがる。そして時々耳元で『好きだ』『愛してる』と囁くのだ。

そこまでされると綾弥としても跡部を意識せざるを得ない。元々告白などされていて、意識するには十分な状況だったのだが。

何故自分なのだろうと綾弥は不思議に想う。跡部ならばどんな女性も選り取りみどり選び放題だろうに。

とはいえ、自分の想いを振り返ってみても恋に理由なんてない。気付いたら好きになっているのだ。優しいとか格好いいとか頼もしいとか、そんなものは恋に落ちてからの後付けの理由に過ぎないのだ。

跡部のアプローチは決して強引なものではなく、どこか心地いいものだった。

少しずつ綾弥の心の中に跡部が入り込んできていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テニス部の活動も関東大会で準優勝し、全国大会へ駒を進めることになった。

跡部、忍足らレギュラー陣も、マネージャーである綾弥も忙しさを増していく。

高校最後の大会。この大会を以って跡部と忍足、向日、芥川はプレーヤーとしてのテニスを終える。跡部と忍足は進学するが、将来を見据えて学業に打ち込む為にテニスを辞める。向日と芥川は進学せず就職(家業の手伝い)の為にはやりテニスを止めるのだ。

4人とも趣味としてのテニスをすることはあるだろうが、プレーヤーとしてコートに立つのはこの大会が最後だ。

それだけに全員の力の入り方が半端ではない。悔いを残さないように、1分1秒でも長くコートにいられるように、真剣に最後の調整を行っている。

ライバル校にも不足はない。中学時代から深い因縁のある青学と立海。どちらも今年がベストメンバーだ。

この2校ばかりではない。忍足の従兄弟のいる四天宝寺をはじめ強豪校ばかりだ。

その中で『今年こそ全国制覇を!』と部員一丸となって練習しているのだ。

当然マネージャーである綾弥も忙しい。選手たちの体調管理やスケジュール調整など走り回っている。

そこに更に綾弥を落ち着かなくさせる跡部のアプローチ。

──忍足のことを考える時間は少なくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのまま何事もなければ、綾弥の心は大きく跡部に傾き、やがては跡部を愛するようになったかもしれない。

けれどそうはならなかった。

忍足が動いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「跡部に先越されたんは癪やけど。俺、お前のこと好きやねん。1人の女としての綾弥に惚れとる」

久しぶりに忍足と帰宅している途中、綾弥は忍足から思いもよらない告白を受けた。跡部の告白によって心を乱されていた綾弥にとっては更なる混乱を呼び起こすものだった。

忍足の言葉を理解し最初に沸きあがった感情は紛れもなく喜びだった。ずっと2年以上片恋してきた相手なのだ。

次いで、戸惑い。何故…と。自分は忍足にとって女ではなく対象外だったのではないかと。

そして、綾弥の中には少しずつ跡部への好意も生まれてきていたのだ。

「景吾は私を愛してくれる。私は景吾となら幸せになれるかもしれない」と。

恋ではないかもしれない。けれどそこには跡部景吾という人間に対する信頼があった。跡部と過ごすうちにいつしか穏やかに跡部景吾という男を愛せるようになるのではないか…そんな思いがあった。

とはいえ、忍足への恋情が消えたわけでもない。

「そないに驚かんでもええやん。ホンマはまだ言う気なかってん。テニス部引退してからじっくりいこう思うててんけどな。綾弥、近頃跡部のこと意識しだしたやろ。ちょっと焦ってもうてな。俺も気持ちだけは伝えとかなあかんって思うたんや」

忍足は穏やかにそう言う。その瞳は優しい色をしている。決して嘘を言っているわけではないことはその視線の真剣さからも窺い知れた。

「直ぐに返事くれとは言わん。よう考えてみてほしい。せやな…全国終わったら、答え聞かせてくれるか」

全国大会の決勝までは約1ヶ月弱。短くはないが長い期間でもない。

忍足は優しい笑顔で綾弥を見つめる。

いつもの忍足の表情だ。大騒ぎして遊ぶ向日や芥川らテニス部部員を一歩引いた位置から見ているときのような、包容力を感じさせる優しい笑み。

「…解った。全国終わるまでに考えてみる」

漸く綾弥はそれだけ答える。

「ああ、俺のこと避けたりせんといてな。いつも通りで頼むわ。避けられたりしたら侑くんウサギは寂しゅうて死んでまうからな」

ニッコリと笑う忍足。明るく剽軽な口調に綾弥は笑いを漏らす。

「ウサ耳ついた侑士想像しちゃったじゃない。うわ、気持ち悪」

「失礼やなぁ。せやけど、確かに似合わへん…。自分で想像しても気色悪いわ…。綾弥やったら似合いそうやな。バニーさんとか」

「ウサギ違いでしょ…。っつーか、セクハラ」

「いっそコスプレしてみぃひん?」

「侑士が?」

「綾弥が、に決まっとるやん」

「冗談やめてよ」

「優勝したらご褒美にやってくれへん?そしたら皆やる気倍増やで。ムッツリスケベな2年陣とかな」

「絶対やんない」

「いけずやなぁ」

「うっさい、エロ侑士」

忍足らしい心遣いで綾弥は深刻に思い悩まずには済んだ。後刻考えることにはなるだろうが、今この場で忍足を気まずいまま別れることが避けられたのは2人にとって良いことのように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからの日々は、表面上は取り立てて変化はなかった。

跡部はいつものようにアプローチはしても何か─応えを要求することはなかった。

忍足もこれまでと全く変わらなかった。ただ、綾弥がこれまで気付かなかった自分を見つめる忍足の視線に敏感になっただけだ。そして目が合うと忍足は嬉しそうに優しく笑う。それだけだ。

唯一に変化は毎晩忍足からメールが入るようになったことだ。電話してくるわけではない。ただメールが入るのだ。

『全国まで後10日やな。今年こそ優勝して有終の美を飾ろうな。そん時は祝勝会でバニーさんよろしゅうな』

といった感じの軽いメール。綾弥が忙しかった日にはそれを労うような一文が入ることもある。

そして最後は必ず同じ言葉で締め括られていた。

『好きやで、綾弥』と。

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