「あにうえ、きくはいらぬこにございまするか」
産声以来泣いたことのないといわれる(誇張度300%)末の弟が、えぐえぐとしゃくりあげながら部屋に駆け込んできたとき、虎菊丸は叔父幸村が結婚したとき以上に驚いた。あの叔父が一番厄介なライバルだと見定めていた虎菊丸は如何やって叔父を陥れる、ではなく、出し抜く、基、打ち負かすかを真剣に考えていたのだ。尤も、当時虎菊丸はまだ9歳に過ぎず、一方の幸村は三十路手前。まともに相手にならぬ年齢差ではあったのだが。
「如何したんだい、菊?」
虎菊丸が優しく声をかけると、菊王丸は幼い顔を涙でぐしょぐしょにしながら長兄に突進してきた。抱きつく為に兄の腕の中に飛び込んだのだが、いくら歳の離れた小さな弟(まだ3歳)とはいえ、勢いよく突進してこられれば虎菊丸とてダメージは受ける。腹部にぶつかった石頭──最早城内で菊王丸の頭突きは武器認定されている──にグホっと漏れそうになる声を、虎菊丸は何とか兄の意地で抑え込んだ。
そんな兄の苦労(?)には気づかず、菊王丸は敬愛する兄に抱きつき、えぐえぐと泣き続ける。
「ゆうがうまれたら、きくはいらぬのですか、あにうえ」
ぎゅっと虎菊丸に抱きつきながら菊王丸は泣き声の合間にそう尋ねる。
つい先日、母・甲斐御前は第七子の四女祐姫を出産した。高齢(この時代の36歳はおばあちゃん一歩手前である。しかも既に孫がいるから実際に『お祖母ちゃん』でもある)ゆえに心配されたが、特に問題もなく、翌日には床払いしようとして流石に喜多と衛門と真朱に止められていた。そんな母に祖母義姫は『甲斐殿は年々
しかし、この菊王丸の言葉は一体如何いうことだろう。末姫の誕生を一番喜んでいたのは、この三男坊だったはずだ。
『おとうとならば、けんやばじゅつをしなんいたしまする。いもうとならばわたしがまもりまする』
それまで末っ子らしい甘えん坊だった菊王丸はキラキラと瞳を輝かせてそう言っていたというのに。
「如何してそんなことを思うんだい、菊」
姉の璃桜と虎菊丸は下の弟妹たちに比べれば年が離れている。弟妹たちはほぼ年子か2歳程度しか離れていないが、虎菊丸とすぐ下の妹詩姫は5歳離れていて、一番下の祐姫とは12歳も離れている。先日生まれた姉の長子・道満丸のほうが末妹よりも少しばかり(2ヶ月だが)年長だ。
しかも、虎菊丸はあの父と姉の所為で妙に大人びた子供だった。父と姉だけではなく、叔父の幸村とか、祖父の信玄とか、祖母の義姫とか、ペット(?)の真朱とか、周囲には5歳児を5歳児のままにはしておいてくれない、個性的(?)な大人が揃っていたのだ。
そんな虎菊丸が妹が生まれたときに思ったことは『周囲の大人からの被害はそれがしが食い止めねば』なんてことだった。つまり、弟妹の誕生によって周囲の大人の、特に親の愛情が薄れてしまうかもしれないなんてことには思い至らなかったのである。
「みな、きくよりもゆうのほうがかわいいのです。きくはもういらないこなんです」
如何やら、侍女たちの話を立ち聞きしてしまったらしい。『祐姫様は菊王様よりも手がかからなくて助かりますわね』と侍女たちは言っていたのだ。何も知らない幼い菊王丸はその言葉を額面どおりに捉えてしまったというわけだ。
ヒックヒックとしゃくり上げながら菊王丸は虎菊丸を見上げる。涙と洟でぐちゃぐちゃになった顔に苦笑し、虎菊丸は懐紙を取り出すと、菊王丸に洟をかませてやる。
「そりゃあ、生まれたばかりの赤子だもの。皆可愛がるよ。赤子は皆の助けがなくては生きていけないんだからね」
末弟を膝の上に抱きかかえながら虎菊丸は言う。
「菊だって、そうだったんだよ。ううん、元気いっぱいの祐とは違って、赤子の頃の菊はとても体が弱かったんだ。乳も飲まないし、すぐに熱を出す。皆とても心配してたんだよ。母上はずっと菊に付きっ切りだったくらいだ」
既に嫁いでいた璃桜も心配して頻繁に文を寄越していたし、まだ幼い詩姫も松千代も史姫も末弟を見守っていた。
あの真朱などは化け猫にも関わらず神社仏閣へ度々参詣し、お百度参りまでして菊王丸の健康を祈念したほどだ。それほど乳児期の菊王丸は弱い子供だったのである。
神仏も猫又のお百度参りに感動なさり霊威を発してくださったのか、成長と共に菊王丸は健康になり、今では日ノ本一の腕白坊主といわれるに至った。ついつい家臣や家族が菊王丸に甘くなってしまうのは、そんな幼少期(今もだが)がある所為だった。
「きくも……?」
初めて聞く自分の幼い頃(今も充分幼い)の話に菊王丸は目を丸くする。
「そうだよ。だから、皆、今、菊が元気いっぱいなのが嬉しいんだよ。どれだけ悪戯小僧だろうが、我が侭大魔王だろうともね」
尤も悪戯は少し控えて欲しい。共犯の萌葱や撫子と共に真朱にお仕置きされる回数を月間25回から15回くらいには減らして欲しいと痛切に思う長兄である。
「兄上様、お菊が泣いて兄上様の許へ向かったと聞いたのですが」
そこに現れたのは萌葱の背に乗った詩姫・松千代・史姫の弟妹たちだった。
今日の萌葱はライオンだ。萌葱は猫科の大型獣にならば何でも変身出来る為、気分によって虎になったり、豹になったり、ライオンになったりする。天下統一の為の戦の折にチーターになって、駝鳥になった撫子と共に政宗を追い掛け回したことは今では懐かしい思い出だ。因みに今日のライオンは詩姫のリクエストだった。
詩姫は萌葱の背から降りると漸く涙の止まった菊王丸を見て衝撃に襲われる。菊王丸の顔は涙こそ止まっているものの、泣き過ぎて目も頬も赤く腫れている。
「お菊が泣くなどっ……な、何か病に」
「いえっ、あねうえっ、てんぺんちいのさきぶれやもしれませぬっ」
「まつあにじゃはおきくをなんだとおもうておられるのです」
末弟を心配する次女、末弟の異常事態を地球規模に拡大する次男、そんな次男に冷静に突っ込みを入れる三女。いつもの弟妹の様子に虎菊丸は苦笑する。
父と長姉がああいう人物だからか、虎菊丸から史姫までの兄弟姉妹は比較的穏やかな性質になっている。その中でも詩姫と松千代は特にその傾向が強く、政宗や彰子の側近は実のところ『お二人のどちらとも似ておられぬ。大殿に似たのか』なんてことを思っている。側近たちは世間一般と違って御台所が『穏やかなお人柄』なんて幻想は抱いていないのだ。
「ささ、お菊。こちらにおいでなさい」
詩姫は優しく菊王丸を招く。菊王丸も虎菊丸から離れ、詩姫の許へ行く。年の離れた長兄のことは敬愛している菊王丸だが、兄姉の中で一番懐いているのは詩姫なのだ。
詩姫は物心付いたときには長女ポジションにいた。長姉の璃桜は詩姫が6歳のときに越後に嫁いでいる。長兄は嫡男としての様々な学問や鍛錬に忙しかったから、自然彼女が弟妹と最も多くの時を過ごすことになった。面倒見が良く、滅多に怒らない詩姫は弟妹にとって優しい姉だった。けれど、悪戯が過ぎたり(主に菊王丸)、我が侭が過ぎたり(主にry)、悪いことをすればきちんと窘めた。ポロポロと涙を零しながらの姉の諫止に弟妹たちは幼い胸を痛めたものだ。
『璃桜姉上が詩のようであったらなぁ』なんて、姉で散々苦労した虎菊丸がしみじみと思ってしまったとしても、責める者はいないだろう。
「おや、皆揃っていたのね」
そこに更なる来訪者。虎菊丸を除く下の4人がピキっと固まった。弟妹たちの視線の先には、若い頃の母に良く似た長姉・璃桜がいた。
「姉上、道満丸はよろしいのですか?」
弟妹たちの反応に苦笑しつつ、虎菊丸は尋ねる。弟の空けてくれた座に就きながら、璃桜は微笑む。所作だけは楚々とした淑女のもので当代一の貴婦人といわれる母を髣髴させる。姉の教育をした母や乳母の右近の苦労が窺い知れるというものだ。
「お昼寝しているからね。乳母に任せてきたわ。育児って大変よ。一人でも大変なのに、お母様、よくもこんなにバカスカ産んだわよねぇ」
そう言って璃桜は弟妹たちを見回す。大人しい詩姫や松千代ならまだしも、問題児で手のかかる自分(自覚はあるらしい)や菊王丸、一癖ある虎菊丸や史姫。母は兄弟姉妹を乳母や傅役任せにせず、自分で育ててきたのだ。乳母や傅役は補佐に過ぎない。
「道満は殿に似たのか、大人しい子だから手もかからないしね」
きっと越後の重臣たちは若君が父似(内面)であることに安堵しているに違いないというのは伊達家全員の感想である。
『道満の性格が璃桜に似ちまったら、上杉に申し訳ねぇ』と父の政宗ですら言っていたほどだ。
尤も、傍で聞いていた虎菊丸たちは(姉上は父上似です、間違いなく! 他人事のように言わないでください)と心の中で盛大に突っ込み、思わず口に出してしまった成実は政宗にMAGNUM STEPを食らった。それを見て『流石に殿も齢を重ねて丸くなられたな』『ああ、昔ならHELL DRAGONだったろう』なんて頷きあう綱元と小十郎に頭痛がした虎菊丸である。
「姉上は幼いころからtroublemakerであられましたゆえなぁ……。景虎義兄上もよくもまぁ、姉上を娶られたものにございまする」
姉に振り回されまくった幼い日を思い出し、しみじみと虎菊丸は呟く。景虎と璃桜の結婚は、周囲(幕府重臣と越後重臣)の思惑はともかくとして、本人たちにはとっては恋愛結婚である。景虎にしてみれば、姉とも慕う甲斐御前の愛娘ということで妹とも姪とも可愛がっていたのが璃桜だ。璃桜は幼いころから景虎しか見ていなかった。『わたくしは景虎兄上に嫁ぎます! 叶わぬならば尼になります!』と小さい頃から言い続け、10歳のときにめでたく婚約、15歳で輿入れを果たした。
「父上と母上ほどじゃないけど、殿と私だってLove Love Coupleですからね」
ふふんと自慢げに胸を張る璃桜だが、虎菊丸の疑問の答えにはなっていない。とはいえ、璃桜の言葉も事実で、景虎は年の離れた妻をとても大切にしている。
この時代にあって、中々に難しいことなのだが、政宗夫妻は子供たちに政略結婚をさせる心算は全くない。結果として婚家と実家にとって政略的に意義のあるものになる場合もあるだろうが、飽くまでも当人たちにとっては恋愛結婚をさせたいと思っているのだ。
「そうそう、詩姫、入内が正式に決まったそうね。おめでとう。これからは妹だからと気安く話せないわねぇ。詩は将来主上のお后になるんですもの」
「ありがとうございます、姉様。でも、詩はどなたに嫁いでも姉様の妹であることに変わりはありませんわ」
東宮に入内が決定している詩姫とて、本人たちは幼いながらも仄かな恋を育んでいる相手との婚姻だ。長く武士の世が続き、朝廷の支配が弱まっている現在、仮令主上といえど生活は苦しい。現に今上帝はその財政難の為に即位の儀が即位10数年経っても行えず、政宗の天下統一後漸く幕府の援助を得て儀式を執り行ったほどである。
そういった経緯もあった所為か、幕府との関係を円満に保つよう、主上は皇子たちを時折躑躅ヶ崎館に派遣していたのだ。その結果、歳の近かった末の皇子(生母が中宮であることもあり、東宮となっている)と詩姫はいつの間にやら幼い恋を育んでいたというわけである。
「詩が姉上のようなお転婆でなかったことが幸いでした。仮に姉上が詩の立場だったら、父上も母上も我らも、胃痛と頭痛に悩む日々となったことでしょうからな」
「……虎。喧嘩売ってるなら、買うわよ。越後では大人しくしてるから、stress溜まってきてるし、暴れてあげる」
「それがしとて、いつまでも姉上に振り回されてぴーぴー泣いていた童子ではございませぬ。姉上の鼻っ柱、折って差し上げます」
「とらあにじゃは、りおあねじゃにたいしては、せいかくがわるくなるのう。てぃーぴーおーというやつじゃな」
「りおあねうえ、とらあにうえもおやめくださいませ」
冷静に状況分析をする三女史姫と、おろおろと窘める次男松千代。姉も兄も本気ではないこと知っている詩姫はそんな兄弟姉妹の遣り取りをクスクスと笑いながら見ている。こういう鷹揚で動じないところは詩姫が母に一番似ているのかもしれない。
「姉様、兄様、そこでお止めくださいまし。菊が起きてしまいますわ」
いつの間にか詩姫の膝の上で寝てしまっている菊王丸を示し、詩姫が制止する。
「あらあら……」
そのあどけない姿に、母となっている璃桜は慈愛の篭った優しい笑みを浮かべる。
「重いでしょう、詩。どれ、私が抱きましょう」
自分が嫁いだ後に生まれた弟妹との関わりが薄いことを実は璃桜は少しばかり寂しく思っている。仕方のないことなのだが、それでも愛おしくて、もっとこの弟妹たちと過ごしたいと願うこともあるのだ。尤も、菊王丸の場合、起きているとその生意気さ加減でプチンとキレてついつい苛めてしまうのだが。
詩姫から眠っている菊王丸を受け取り、膝枕をし、その体には袿をかけてやる。
「……ははうえ……」
璃桜の優しい手を母と勘違いしたのか、菊王丸は寝言を漏らす。
「これまで菊王丸は母様にべったりでしたから、祐が生まれて母様を取られたように思ったのでございましょうね」
璃桜の膝枕ですやすやと眠る菊王丸を見ながら、詩姫が呟く。
「まぁ、誰にでも覚えのあることでしょ。ガキの頃から老成してた虎菊丸は別としてね」
「誰の所為ですか」
「父上と私ね」
菊王丸の眠りを妨げぬよう、小さな声で長女と長男は言い合う。久しぶりに兄弟姉妹揃ってのひと時だった。普段は長女とは疎遠な弟妹たちもなんだかんだといっても姉のことも好きなので長兄と長姉の会話を聞いて楽しんでいる。いつもは穏やかで優しい長兄の毒舌に少しばかり驚きながら。
「祐がもう少し大きくなれば、兄弟姉妹7人でまたこのような時を持つこともできましょうか」
家族の仲がいいことが天下泰平には一番良いことなのだと常々祖父母や叔父たちが言っていることを思い出し、詩姫は呟く。
「如何かしらねぇ。そんな時間は持てるだろうけど、7人じゃ終わらないかもね」
クスクスと笑いながら璃桜は言う。なにせ兄弟姉妹の中で当然ながら一番長くあの両親を見てきているのだ。
「流石に母上もお年でございますし、これ以上兄弟が増えることは……」
「判んないわよー。母上激Loveな父上ですもの。前田家のまつ殿が9人目をお生み遊ばしたとかで、父上もなにやら張り切ってたもの」
璃桜のこの言葉は数年後、現実のものとなる。