「フォスティーヌ、今日の茶会の準備をお願いね」
朝食を終えたばかりの私に届いたのは、婚約者ロイクの母、エマ・ド・フロベール伯爵夫人からの手紙だった。挨拶もそこそこに、今日中に屋敷へ来て茶会の準備を手伝うように、とある。
「またフロベール家からかい?」
兄ミシェルが尋ねた。
「ええ。前回は商会への支払い交渉、その前は収支報告書の整理、その前は使用人の配置換えでしたわ」
「それは花嫁修業というより、仕事だね」
兄の言葉に、私は苦笑した。
最初は、婚約者の家に馴染むための手伝いだと思っていた。茶会の準備なら社交の勉強になる。帳簿の整理なら、いずれ家を支える際に役立つ。商人との交渉も、将来のための経験になる。そう考えて、頼まれるたびに出来る範囲で協力してきた。
けれど、手伝うほど仕事は増え、感謝の言葉は少なくなった。今では、私が断る可能性など最初から考えていないようだった。
母テレーズが、魔道具の設計図から顔を上げた。
「フォスティーヌ。あなたが自分から手を貸すことと、手を貸すのが当然だと思われることは違うわ」
「ええ、お母様。ですから今日は、何を頼まれるのか、きちんと確かめてまいります」
私は手紙を畳んだ。今日こそ、はっきりさせよう。わたくしはフロベール家の使用人でも、会計係でも、便利な相談窓口でもないのだから。
思い返せば、最初に頼まれたのは小さなことだった。ロイクの誕生日に開く食事会の招待客を整理してほしい。夫人が急用で席を外すので、菓子商への注文を代わりに伝えてほしい。私は婚約者として役に立てることが嬉しく、頼まれたことを済ませた。
その次は、招待客の好みに合わせて献立を整えた。更に、注文書の金額が請求書と違っていたため、商人に確認を取った。すると夫人は「あなたは数字に強いのね」と感心し、翌週には屋敷の支出記録を渡してきた。
そのころは、頼られることを信頼されている証拠だと思っていた。ロイクも「君がいてくれると助かる」と笑ってくれた。その言葉が嬉しかったから、少し無理をしてでも応えようとしたのだ。
けれど、いつからか「助かる」は「やっておいてくれ」に変わった。確認したいことを尋ねると面倒そうな顔をされ、終わらせた仕事について感想を聞いても「次も頼む」と返ってくる。私が忙しいと伝えれば、「君なら早く済ませられるだろう」と言われた。
私は、相手が困っているなら力になりたい。けれど、私にも予定があり、興味があり、学びたいことがある。母の工房で魔道具の販売計画を考える時間も、兄と商会の帳簿を読む時間も、友人とお茶を楽しむ時間も、決して余りものではない。
それでも私は、婚約者なのだから、と自分に言い聞かせてきた。今日、夫人がどんな仕事を渡してくるのか。それを確かめれば、私がどこで間違えたのかも、きっと分かるはずだ。
伯爵邸に着くと、エマ夫人は応接室で待っていた。約束の時刻より五分早く到着した私に、「遅かったわね」と告げる。
「お待たせしてしまったようで、申し訳ございません。お約束の時刻よりは早く参りましたけれど」
「そういう細かいことを言っているのではありません。さあ、次の茶会について決めましょう」
テーブルには招待客の名簿や献立案、注文書が積まれていた。その隣には、水路の補修工事に関する見積書まである。
「こちらも確認しておいてちょうだい。領地の水路が傷んでいるそうなの。工事費を整理して、予算を整えておいて」
「工事の内容と優先順位は、どなたがお決めになったのでしょう?」
「これから考えればいいじゃない」
「伯爵様のご承認は?」
「あなたが整えてから見せればいいでしょう」
私は見積書を閉じた。工事の区間も、完了の基準も、支出する予算も決まっていない。これでは確認のしようがない。
「予算を組むには、先に決めていただくことがございますわ」
「あなたは質問ばかりね。ロイクのお嫁さんになるのだから、フロベール家のことを覚えるのは当然でしょう?」
「茶会の準備を覚えることと、領地経営の責任を引き受けることは別ではございませんか?」
夫人は不快そうに扇を閉じた。
「いちいち難しく考えすぎなのよ。前回の茶会は評判がよかったのだから、今回もあなたに任せます」
「前回の茶会の費用は、お支払い済みですか?」
夫人の表情が止まった。
「……一部はまだよ。でも商人たちも貴族との取引を大切にしているのだから、少しくらい待ってくれるでしょう」
「前回も、わたくしが事情を説明して支払いを待っていただきましたわね。今回は、どなたが交渉なさるのでしょう?」
「あなたに決まっているでしょう!」
あまりに即答され、私は笑いそうになった。どうやら仕事を任されているのではない。責任を押しつけられているのだ。
そこへロイクが入ってきた。
「何を揉めているんだ?」
「フォスティーヌが細かいことばかり聞くのよ」
ロイクは書類を一瞥した。
「お前は頭がいいんだから、適当にまとめてくれればいいだろう。俺には細かい数字は分からない」
「分からないのでしたら、ご一緒に確認なさってはいかがですか?」
「そんな面倒なことをする必要はない。父上が管理している」
「では、ロイク様は現在の収支をご存じないのですね?」
「だから、お前がやればいいと言っているんだ」
彼は別の帳簿を差し出した。閉山した金山の収益が、今も収入として計上されている。私はその点を指摘したが、ロイクは「以前はそれだけ稼いでいたのだから、直すのはお前の仕事だ」と言うばかりだった。
「現在得られていない収入を前提に、支出を決めることは出来ませんわ」
「お前の家は商売をしているんだから、こういうことは得意だろう? 俺たちにはもっと大切な仕事があるんだ」
「その大切な仕事とは?」
「伯爵家を守ることだ!」
「そのために、収支を把握する必要があるのではございませんか?」
ロイクは苛立って髪をかき上げた。
「お前は将来、俺の妻になるんだ。俺を支えるのは当然だろう?」
「妻になれば、どのような仕事でも引き受ける義務が生じるのでしょうか?」
「当たり前だ!」
「それは婚約契約書のどこに記されておりますの?」
ロイクは言葉に詰まった。夫人が横から声を上げる。
「家族になるのだから、助け合うのは当然でしょう!」
「ええ。助け合うこと自体は、わたくしも当然だと思っておりますわ。ただし、助け合うというのは、一方が全てを引き受けることではございません」
私は書類を机に戻した。
「茶会の準備も、支払い交渉も、領地の補修も、収支管理も、全てわたくしが引き受けるのであれば、ロイク様は何をなさるおつもりですか?」
「俺は跡継ぎだぞ!」
「存じております。跡継ぎでいらっしゃるからこそ、領地のことを把握なさる必要があるのでは?」
沈黙が落ちた。二人とも、答えを持っていなかった。
「こちらの工事は、わたくしが判断することではございません。茶会についても、前回の未払い金の確認もわたくしのすることではございません」
「待ちなさい! あなたは婚約者なのよ!」
「ええ。ですから、お話を伺いに参りましたの」
私は一礼して屋敷を後にした。
馬車の中で、窓の外を流れる街並みを眺めた。怒りよりも、疲れに近い感情が胸にあった。あの二人は、本当に私が何でも引き受けると思っている。なぜなら、私はこれまで、頼まれれば引き受けてきたからだ。
善意で始めたことが、いつの間にか相手の当然の権利に変わってしまった。けれど、最初に手を差し伸べたことを後悔したくはない。困っている人を助けることそのものは、間違いではないのだから。
間違っていたのは、相手の責任まで自分の責任だと思い込んだこと。そして、相手が自分で立ち上がる機会まで奪ってしまったことなのかもしれない。
帰宅すると、父エクトルが家族を集めて話を聞いてくれた。私は今日の出来事だけでなく、これまで何度も商会への支払いを待ってもらったことや、収支の整理を頼まれてきたことも説明した。
「花嫁修業で、他家の債務まで管理する必要はないわよ」
姉フェリシエンヌが呆れたように言った。
「婚約契約書を確認しよう」
兄が書類を持ってきた。そこには婚約者としての社交や贈答については記されているが、それはあくまでもフローベル家に対しての社交と贈答であり、フローベル家としてわたくしが社交や贈答を主導するのではない。そして、フロベール家の領地経営や債務を引き受ける条項はない。
「君がしてきたことは、自発的な協力だ。義務ではないよ」
父は、私が交渉した商会の記録も確認した。五つの商会が、私の説明を信じて支払いを待ってくれている。しかし、明確な返済計画は聞かされていなかった。
「現時点で不正があったと決めつけることは出来ない。だが、財務や領地管理に問題があるのなら、正式に確認してもらう必要がある」
「フロベール家を困らせたいわけではありませんの」
「分かっているよ。だが、相手の家を支えることと、相手の責任まで背負うことは違う」
父の言葉に、胸の奥が少し軽くなった。
「お父様。わたくしは、この婚約を続けるべきなのでしょうか?」
「それは君が決めていい。相手の家の事情だけで決める必要はないんだ」
私は、その言葉を胸に刻んだ。
財務省の監査では、重大な横領の証拠こそ見つからなかったものの、社交費の膨張、未払い金、返済計画の欠如、領地工事の記録不足が明らかになった。監査官は改善を求めたが、伯爵もロイクも必要書類や支出の内訳をすぐには説明できなかった。問題は一度の失敗ではなく、収入を確かめずに支出を続け、困れば誰かに頼る習慣が積み重なった結果だった。
監査後、伯爵家から私に届いたのは、これまでのように経理と商人との交渉を引き受けてほしいという手紙だった。私はそれを父エクトルと兄ミシェルに見せ、婚約契約書を改めて確認した。そこに、フロベール家の会計管理や債務保証を私が負うという条項はない。私がしてきたことは、すべて自分の意思で行った協力にすぎなかった。
再び訪れたフロベール伯爵邸では、伯爵夫妻とロイクが待っていた。私の隣には兄がいる。伯爵は、私たちを見るなり、先日のことは感情的になっていたと切り出した。
「君も、少し考え直してくれたのではないかね。婚約は両家にとって大切なものだ。今ここで解消するのは、あまりにも無責任ではないか」
「婚約を大切に思っているからこそ、これまで協力してまいりましたわ」
「ならば、もう少し協力してくれてもよいだろう!」
「それは、わたくしが自分で決めることです」
伯爵は顔を赤くしたが、兄が契約書を広げると、ひとまず口を閉じた。
「婚約契約に定められているのは、婚約者としての務めです。伯爵夫人やご令息の代行として仕事と面倒を肩代わりすることではない。妹がこれまで協力したのは、好意によるものです」
「好意なら、続けてくれてもいいだろう!」
「好意は、命令によって続けさせるものではありません」
兄は穏やかに答えた。
ロイクが私を見た。
「フォスティーヌ、僕たちは結婚するはずだったんだ。これから一緒に生きていくのに、どうして今になってそんなに線を引くんだ?」
「結婚したあとも、互いに責任を持って支え合うつもりでした。ですが、ロイク様はわたくしが支えることだけを求め、ご自身が担うべき役割については考えていらっしゃいませんでした」
「そんなつもりじゃなかった」
「お気持ちは、わたくしには分かりません。でも、わたくしがそう感じてきたことは事実ですわ」
夫人が、涙ぐんだような声で口を挟んだ。
「あなたが来てくれれば、商人たちも安心するのよ。あなたの言葉なら、皆が聞いてくれる。私たちは、あなたを家族だと思って頼っていたのに」
「家族と思ってくださることは、ありがたく存じます。でも、家族という言葉で、わたくしに責任を押しつけることは出来ません」
私は、夫人をまっすぐ見た。
「わたくしは何度も、必要な情報を教えてください、支出の理由を説明してください、と申し上げました。けれど、皆様は『あなたがやればいい』と仰るばかりでした。助け合いというのは、一方が全てを背負うことではございません」
伯爵は机を指で叩いた。
「君が手を貸さなければ、我が家は立ち行かなくなるのだぞ!」
「それは、わたくしの責任ではございません」
言葉にすると、驚くほど静かな気持ちだった。
「貴家が立て直しに取り組むことは、貴家の責任です。監査官から改善すべき点も示されたのでしょう。まずは帳簿を整え、支出を見直し、債権者と返済計画を立ててくださいませ」
「だから、それを君に頼んでいる!」
「お断りいたします」
私は同じ言葉を繰り返した。相手が声を荒らげても、事情を訴えても、答えは変わらない。
「わたくし、まだフロベール家の嫁ではございません。ロイク様の婚約者であって、貴家の財務責任者でも、債務の保証人でもありませんわ」
ロイクは、手を伸ばしかけて止めた。
「本当に、婚約を解消するのか」
「はい」
「僕が勉強して、これから変わっても?」
「ロイク様がご自身のために変わろうとなさることを、否定するつもりはございません。けれど、わたくしは、変わっていただくために何度もお願いし続ける関係を望んでおりません」
「僕は君を大切に思っていた」
「そうかもしれません。でも、わたくしが何を望んでいるか、尋ねていただきたかったのです。わたくしが何でも引き受けることに安心して、わたくし自身の気持ちを考えてくださらなかった。それが、わたくしには寂しかったのです」
ロイクは顔を伏せた。私は、彼を責め続けたいわけではなかった。ただ、もう一度同じ未来へ戻ることは出来ない。
「婚約解消の手続きは、両家の代理人を通じて進めたいと考えております」
兄が必要な書類を示し、伯爵は不満を隠せない顔でそれを受け取った。夫人は何か言いたそうだったが、結局、言葉にはしなかった。
シュペルヴィエル家では、フォスティーヌが母テレーズの工房で魔道具の試験結果を確認していた。
「冷却時間は十分ですわ。ただ、遠方へ運ぶ場合は魔石の交換費用も考えなければなりません」
「そうね。冷やす機能だけではなく、何をどこまで運ぶかも大事だわ」
母は設計図に書き込んだ。二人は用途ごとに装置の大きさを分ける案を検討し、近隣の商店で試験運用を行うことにした。運送時間、魔石の消費量、商品の傷み具合を記録すれば、量産すべきか判断できる。
「フォスティーヌ、あなたの意見はいつも実際の商売をよく見ているわね」
「お母様の魔道具が素晴らしいからですわ。わたくしは、どうすれば必要としている方に届けられるか考えているだけですもの」
母は嬉しそうに笑った。
この家では、私が意見を出せば、母は耳を傾けてくれる。母が新しい考えを思いつけば、私も真剣に検討する。意見が食い違うことも、何度も試作をやり直すこともある。けれど、誰か一人が全てを背負うのではなく、互いの得意なことを持ち寄って一緒に考える。
私が望んでいたのは、こういう関係だったのだ。
「婚約のことは、寂しくない?」
母が尋ねた。
「寂しくないと言えば嘘になりますわ。長い間、ロイク様と結婚するのだと思っておりましたから」
「そうね」
「でも、後悔はしておりません。結婚してから自分の気持ちを無視し続けるより、今、きちんと終わらせるほうがよいと思いますもの」
母は私の手を握った。
「あなたが決めたことなら、お母様は応援するわ」
「ありがとうございます」
父は、私が決めたことなら応援すると言ってくれた。兄も、商人組合が母の魔道具に興味を示していると教えてくれた。私たちは試験運用の計画を立て、実際に使う商店の意見を聞きながら改良を進めることにした。仕事は山ほどある。計算も交渉も、失敗もあるだろう。けれど、自分で選んだ仕事なら、仲間と相談しながら取り組める。
後日、フロベール伯爵家が監査で指摘された点の改善に着手したと聞いた。伯爵は商人たちに自ら説明し、返済計画を立て始めた。ロイクも帳簿を学び、領地の工事について報告を受けるようになったという。すぐに問題が解決したわけではない。それでも、彼らはようやく自分たちの責任を自分たちで引き受け始めたのだ。
フォスティーヌがいなくなったから家が傾いたのではない。自分たちが責任を果たしてこなかったから、立て直す必要が生じたのである。
私は明日の予定表を開いた。母の魔道具の試作を手伝う時間、商人組合に提出する資料を作る時間、読みかけの本を読む時間。どれも、誰かに押しつけられた仕事ではなく、自分で選んだものだった。
誰かの役に立つことが嫌になったわけではない。困っている人を助けたい気持ちも、得意なことで人を支えたい気持ちも、私の中にある。ただ、その善意を当然の権利だと思う人のために、自分の人生を差し出す必要はない。
いつか、また誰かを好きになることがあるかもしれない。そのときは、相手の役に立つことだけを愛情の証にしない。自分の希望を伝え、相手の希望を聞き、互いに一人の人間として尊重し合える関係を築きたい。
窓の外には穏やかな夕暮れが広がっていた。明日が楽しみだと思える。それだけで、人生はこんなにも違って見えるのだ。
わたくし、まだ婚約者でしたけれど。だからこそ、自分の人生を選び直すことができたのですわ。