「来週の遠出ですが、湖畔の庭園はいかがでしょう?」
「いいですね。エヴリーヌ嬢が以前、行ってみたいと仰っていた場所ですね」
王宮の庭園で、マルスラン・プルスト王太子と、その婚約者であるエヴリーヌ・ルパープ公爵令嬢は、午後のお茶を楽しんでいた。二人の間に流れる空気は穏やかだ。来週の外出先を相談しているだけなのに、エヴリーヌが楽しそうに微笑むたび、マルスランの表情も自然と和らいでいた。
そんな二人のもとへ、ひとりの令嬢が足早に近づいてきた。
「マルスラン様!」
明るい声とともに現れたのは、アホナ・パジュー伯爵令嬢だった。
十日ほど前、王都の外れにある聖泉と呼ばれる泉で、眩い光とともに現れたという少女である。泉の管理人や近隣の村人が目撃したのは、 確かにいつもとは違う明るい光だった。しかし、それが神の光だったと証言した者はいない。
ただ、古い寺院の記録に『異界より聖なる乙女が現れる』という伝承があったため、泉に最も近い領地を治めるパジュー伯爵家が、ひとまず彼女を保護することになったのだ。
ところが、当の本人は自分の立場について、既に疑いを持っていなかった。
「わたし、アホナです! 覚えてくださっていますよね?」
「……パジュー伯爵令嬢ですね」
「もう、そんな他人行儀な!」
アホナは当然のようにマルスランの隣へ回り込み、その腕に自分の腕を絡めようとした。
マルスランは、すっと身を引いた。空を切ったアホナの手が、所在なさげに宙を彷徨う。
「えっ?」
「何かご用でしょうか」
「何かって……わたし、聖女なんですよ? マルスラン様だって、聖女には特別な興味がおありでしょう?」
アホナは胸を張った。
異世界に転移した。光の中から現れた。ならば自分は聖女に違いない。そして、聖女と出会った王太子は恋に落ちるものだ。
アホナの頭の中では、既に物語の筋書きが出来上がっていた。
「パジュー伯爵令嬢」
マルスランは静かに尋ねた。
「あなたは聖女なのだろう?」
「そうです! やっぱり、解ってくださったんですね!」
アホナの顔がぱっと輝く。
「それなら、どうして婚約者のいる男性に、断りもなく触れようとするのですか?」
「えっ?」
「聖女という立場なら、猶更他人の気持ちを考えるべきではありませんか」
アホナは一瞬、言葉を詰まらせた。しかし、すぐに気を取り直す。
「そ、それは……わたしとマルスラン様は、特別なご縁があるからです! 普通の婚約とは違うんですよ!」
「普通の婚約、ですか」
マルスランは隣のエヴリーヌへ視線を向けた。
「私はエヴリーヌ嬢との婚約を、とても大切に思っていますが」
「わたくしもですわ」
エヴリーヌは微笑み、マルスランの手元にそっと自分の指を重ねた。その仕草はあまりにも自然だった。マルスランも、まるで当然のことのように彼女の手を取る。
アホナの笑顔が引きつった。
(何よ。あの女、邪魔ばっかりして!)
物語なら、ここで婚約者の令嬢が嫉妬に狂い、聖女である自分に嫌がらせを始めるはずだ。そうなれば、マルスランが自分を庇ってくれる。そこから二人の恋が始まるのだ。
アホナはそう信じて疑わなかった。
「……解りました。今日はまだ、お二人とも本当の気持ちに気づいていないんですね」
「何の話でしょうか?」
マルスランが首を傾げる。
アホナは意味ありげに微笑んだ。
「いいんです。聖女のわたしには、解っていますから!」
そう言い残し、彼女は満足げに去っていった。その背中を見送り、エヴリーヌは不思議そうに瞬きをした。
「……随分、自信のある方ですのね」
「そうですね」
マルスランは彼女の手を握り直した。
「ですが、私たちの予定は変わりません。来週は湖畔の庭園へ行きましょう」
「ええ、楽しみにしておりますわ」
二人は再び、穏やかな午後のお茶へと戻った。
アホナの思い描く物語が、二人の間に入り込む余地などなかった。
数日後、王宮の客間では、パジュー伯爵家から届けられた茶葉と菓子を楽しむ、小さなお茶会が開かれていた。
パジュー伯爵家が王家へ献上した品のお披露目を兼ねた席であり、保護されているアホナも同席を許されていた。アホナは、それを絶好の機会だと考えていた。
(王宮で王太子様とお茶会! これって、完全に恋愛イベントじゃない!)
彼女は念入りに身なりを整え、マルスランの近くに座ろうとした。しかし、そこは既にエヴリーヌの席だった。
「こちらへどうぞ、パジュー伯爵令嬢」
侍女に案内された席は、二人から少し離れていた。
(何よ、あの女。わざと離したんじゃないでしょうね)
アホナは不満を飲み込み、笑顔を作った。
お茶が運ばれ、菓子が並べられる。ところが、侍女のひとりが茶器を置く際、僅かに手元を滑らせた。紅茶がソーサーの縁から零れ、テーブルクロスに小さな染みを作る。
「きゃっ! ちょっと、何してるのよ!」
アホナが甲高い声を上げた。侍女は顔を青ざめさせ、深く頭を下げる。
「申し訳ございません!」
「せっかくのお茶会なのに台無しじゃない! 聖女のわたしがいる席で、こんな失敗をするなんて!」
客間の空気が静まった。マルスランがカップを置く。
「パジュー伯爵令嬢」
「はい、マルスラン様!」
アホナはすぐに笑顔を取り戻した。叱られるとは思っていない。寧ろ、自分が聖女として尊重される場面だと考えていた。
「あなたは聖女なのだろう?」
「もちろんです!」
「ならば、失敗した相手を労わることは出来ないのですか?」
「えっ?」
「わざと零したわけではないでしょう。謝罪もしています。それ以上に責める必要がありますか?」
アホナは口を尖らせた。
「でも、聖女がいるんですよ? 普通なら、もっと気をつけるべきじゃないですか。聖女って、特別な存在なんですから!」
「特別な存在なら、他人の失敗を許せないのですか?」
「そ、そういう意味じゃ……」
「では、どういう意味でしょうか」
マルスランの声は穏やかだった。だからこそ、アホナは言い返すきっかけを見つけられない。
その間に、エヴリーヌが侍女へ目を向けた。
「手にお茶がかかっていませんか? 熱かったでしょう。どうか確認なさって」
「ありがとうございます、ルパープ公爵令嬢。私は大丈夫でございます」
「それならよかったわ。クロスのことは、他の者に任せればいいのですから」
エヴリーヌはそれ以上、侍女を責めることも、アホナを見せつけるように諭すこともしなかった。ただ、必要なことをしただけだった。
アホナは面白くなかった。
(何よ。ちょっと優しくしたくらいで、いい人ぶっちゃって)
そのとき、若い給仕が新しい紅茶を運んできた。整った顔立ちの青年だった。アホナの表情が一変する。
「あら、あなた。お名前は?」
「給仕を務めております、ロランと申します」
「ロラン様ね。ふふ、素敵なお名前」
アホナは身を乗り出し、茶器を受け取るふりをして彼の手に指先を触れさせた。
「また、わたしのお世話をしてくださる?」
青年は戸惑いながら一礼した。
「ご用がございましたら、侍女を通じてお申しつけください」
「もう、堅いんだから」
アホナは楽しげに笑った。そこへ、年配の従僕が空いた皿を下げに来る。
「こちらのお皿をお下げいたします」
「ちょっと、邪魔なんだけど。今、お話ししてるでしょう?」
従僕の手が止まった。
「失礼いたしました」
彼は淡々と頭を下げ、皿を下げていった。マルスランは、二人の給仕を見比べるようにしてから、アホナへ視線を戻した。
「聖女なのだろう?」
「……はい?」
「相手の容姿によって、態度を変えるのですか?」
「そ、そんなことないですよ! ロランさんは話しやすそうだったから、自然に笑顔になっただけです」
「では、先ほどの従僕には、笑顔を向ける必要がなかったと?」
「だって、あの人は……」
アホナは言いかけ、口を閉じた。
見た目が好みではないから。そう言えば、ますます印象が悪くなる。彼女にも、その程度の判断はできた。
「……相性ってあるじゃないですか」
「相性が合わなければ、礼儀を欠いてもよいのですか?」
「そんな、細かいこと……」
「相手が誰であっても、礼儀は必要でしょう」
マルスランはそれだけ言うと、紅茶に口をつけた。アホナは頬を膨らませた。
(なんなのよ、この人。もっと聖女を特別扱いしてくれてもいいじゃない!)
しかし、彼女はまだ諦めていなかった。侍女たちが菓子を取り替えている隙に、アホナはマルスランの隣へ身を寄せた。
「マルスラン様。少しだけ、お話ししてもいいですか?」
「ここでお話しください」
「二人きりで、です」
「必要があるとは思えませんが」
「王太子って、大変ですよね。婚約者がいて、周りの目もあって……自由がないでしょう?」
アホナは、いかにも理解者らしい顔をした。
「でも、わたしならマルスラン様を自由にしてあげられます。聖女と一緒になれば、きっと国だって幸せになりますよ!」
そして、今度こそ逃がすまいと、マルスランの腕に手を伸ばす。マルスランは椅子を僅かに引き、その手を避けた。
「私は、エヴリーヌ嬢との婚約を窮屈だと思ったことはありません」
「えっ?」
「彼女と過ごす時間を、心から楽しんでいます」
「でも、聖女と一緒になったら、もっと幸せに――」
「聖女なんだろう?」
マルスランの言葉に、アホナはぱっと顔を輝かせた。
「そうです! だから――」
「ならば、なぜ婚約者同士の仲を裂こうとするのですか?」
アホナの笑顔が固まった。
「わ、わたしは、マルスラン様の本当の幸せを考えているんです!」
「私の幸せは、私自身が決めます」
「でも!」
「あなたが聖女であるかどうかと、私があなたを愛するかどうかは、別の話です」
静かな言葉だった。しかし、アホナはまるで理解できないものを聞いたかのように目を見開いた。
(どうして? 聖女なのに? 王太子なのに? ここは、わたしを選ぶところでしょう?)
理解できない苛立ちは、やがて目の前の女性へ向かった。
「……やっぱり、あなたのせいね!」
アホナはエヴリーヌを指さした。
「あなたがいるから、マルスラン様は本当の気持ちを言えないのよ! そうやって王太子様を縛りつけて、聖女のわたしを遠ざけようとしているんでしょう?」
エヴリーヌは驚いたように瞬きをした。それから、静かに尋ねる。
「あなたは、聖女だから王太子殿下に愛されるとお考えなのですか?」
「当たり前でしょう? 聖女って特別な存在なんですよ! 普通の令嬢とは違うんです!」
「では、聖女でなければ、あなたには殿下に愛される理由が何もないということですか?」
「なっ……!」
アホナは言葉に詰まった。
そんなことはない、と言いたかった。自分には魅力がある。明るくて、可愛くて、現代の知識だってある。マルスランが自分を選べば、絶対に楽しいはずだ。
けれど、そうした自分の魅力を説明しようとするほど、頭の中では別の考えが邪魔をした。
――だって、自分は聖女なのだから。
聖女だから選ばれる。聖女だから特別扱いされる。聖女だから、この世界の誰よりも幸せになる資格がある。その前提を外したとき、彼女には何も答えられなかった。
マルスランは、そんなアホナを見つめていた。
「聖女というのは、他人から愛されるための称号ではない。人を救い、他者を思いやる者にこそ、相応しい言葉なのだろう?」
アホナは唇を震わせた。
「あなたは自分が聖女だと繰り返すばかりで、誰かを幸せにしようとしたことがあるのか?」
「そ、それは……!」
「今日、この席であなたがしたことを、少し考えてみてください」
マルスランはそれ以上、言葉を重ねなかった。
アホナは顔を赤くして、二人を交互に見た。
(なによ、なによ、なによ!)
これはきっと、物語の試練だ。ヒロインが周囲から誤解され、意地悪な婚約者と王太子に冷たくされる。それでも最後には、真実の愛が勝つ。そういう展開に違いない。
(今はまだ、わたしの魅力が伝わっていないだけ! 絶対に、あとで後悔させてやるんだから!)
「……もう、いいです!」
アホナは勢いよく立ち上がった。
「皆さん、聖女のわたしを理解する気がないんですね!」
「パジュー伯爵令嬢」
マルスランは、去ろうとする彼女を呼び止めた。
「本日のお茶会は、これで終わりにしましょう」
それは、アホナに向けた言葉というより、席にいる全員への告知だった。誰も引き止めなかった。
アホナは、自分が物語の主役であることを疑っていない。けれど、この場にいる誰も、彼女を主役として扱ってはいなかった。
お茶会が終わると、マルスランはアホナを呼び止めた。
「パジュー伯爵令嬢。今後、私やエヴリーヌ嬢に、必要もなく接触することは控えてください」
「……どうしてですか?」
アホナは不満げに顔をしかめた。
「わたし、聖女なのに」
「あなたが聖女かどうか、私には判りません」
マルスランは、淡々と答えた。
「しかし、少なくとも私の妃に相応しい人物ではありません」
アホナの顔から、表情が消えた。
「そんな……。わたしは、マルスラン様のことを思って……」
「私が望んでいないことを、私のためだと言われても困ります」
マルスランはそれだけ告げると、エヴリーヌへ向き直った。
「エヴリーヌ嬢、お待たせしました。帰りましょう」
「ええ、殿下」
エヴリーヌはアホナを見て、勝ち誇ったように笑うことも、嫌味を言うこともしなかった。ただ、マルスランの差し出した手を取り、いつもどおり彼と並んで歩き出した。その背中を、アホナは呆然と見送った。
やがて、迎えに来ていたパジュー伯爵が、保護対象の少女へ声をかけた。
「アホナ嬢。話があります」
「伯爵様……」
伯爵の表情は厳しかった。
「あなたを保護したのは、身元の判らない異国の少女を放置できなかったからです。王族に取り入るためでも、周囲の者に無礼を働くためでもありません」
「でも、わたしは聖女なんですよ!」
「それが事実であろうとなかろうと、礼儀を守る必要がなくなるわけではありません」
「そんな……」
「侍女に謝罪しなさい。今後は礼儀作法を学び直していただきます。王宮への訪問も、当面は伯爵家の者が同行できる場合に限ります」
「わたしを閉じ込めるつもりですか!?」
「いいえ。あなたが他人に迷惑をかけないよう、責任をもって指導するだけです」
伯爵は声を荒らげなかった。アホナを見捨てるつもりもなかった。但し、彼女が聖女を名乗るからといって、何をしても許すつもりもなかった。
「自分が特別だと思うのなら、まずはその立場に相応しい振る舞いを身につけてください」
アホナは納得していなかった。
けれど、伯爵はそれ以上、議論を続けなかった。こうしてアホナには、礼儀作法の勉強と、日々の決まりを守る生活が待ち受けることになった。華やかな王宮で王太子に愛され、何不自由なく暮らすはずだったのに。
(……まあ、いいわ)
自室に戻ったアホナは、鏡の前で髪を整えながら、自分に言い聞かせた。
(これは一時的なバッドエンドルートよ。ここを乗り越えれば、きっとマルスラン様もわたしの魅力に気づくはず!)
彼女は、反省しなかった。自分の振る舞いを振り返ることもなかった。ただ、物語の続きがまだ訪れていないのだと信じていた。
数日後。
王宮の庭園では、マルスランとエヴリーヌが、再び午後のお茶を楽しんでいた。
「来週の遠出、晴れるといいですね」
「ええ。湖畔の庭園は、今がいちばん美しい時期だそうですから」
エヴリーヌが微笑むと、マルスランも嬉しそうに目を細めた。二人の間には、変わらぬ穏やかな時間が流れていた。
「そういえば、パジュー伯爵令嬢は、礼儀作法を学び直しているそうですね」
エヴリーヌがふと思い出したように言った。
「ええ。伯爵も、きちんと指導なさるようです」
「いつか、ご自分の振る舞いを振り返ってくださるとよいのですが」
エヴリーヌの言葉に、マルスランは少しだけ考えるような顔をした。
「聖女なんだろう?」
「まあ」
「自らの慈愛で、周囲を幸せにしてくれるのではないでしょうか」
エヴリーヌはとうとう、小さく吹き出した。
「殿下ったら。聖女という言葉が、随分便利なものになってしまいましたわね」
「本人がそう仰るのですから」
「では、わたくしたちも、その慈愛の恩恵に与れる日を待つことにいたしましょうか」
「それは楽しみですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、マルスランはテーブルの上に置かれたエヴリーヌの手を取った。
「ですが、少なくとも、私の婚約者を不幸にするような聖女は御免です」
「ご安心くださいませ。わたくしは、殿下を幸せにいたしますわ」
「私も、あなたを幸せにします」
エヴリーヌは少し頬を染め、それから、そっと彼の手を握り返した。
二人の未来は、二人で決めていく。誰かが自分を聖女と名乗ったからといって、誰かの愛情が奪われるわけではない。誰かが物語の主役を名乗ったからといって、その人の望みどおりに世界が動くわけでもない。
その頃、パジュー伯爵家の自室では、アホナが机に向かっていた。目の前には、礼儀作法の教本が積まれている。
「……もう、こんなのばっかり!」
アホナは教本を閉じ、不満げに頬を膨らませた。
「せっかく異世界に来たのに、どうしてこんなことしなくちゃいけないのよ!」
それでも、彼女の頭の中には、少しも疑いがなかった。
「今はバッドエンドルートに入っただけ。次こそは、マルスラン様があたしの魅力に気づくはず!」
彼女は、まだ知らない。自分がいつか主役になる物語など、最初から用意されていなかったことを。
そして、彼女が聖女と名乗るずっと前から、王太子とその婚約者は、お互いを大切に思い合っていたことを。
――聖女なんだろう?
その言葉に込められた意味を、アホナが理解する日は、まだ来そうになかった。