真実の愛と王家の責任

 夕暮れの光が、執務室の窓辺を淡い琥珀色に染めていた。

 机の上には、最後の決裁を終えた外交文書が置かれている。ホーエンヴァルト王国との国交縮小に関する手続きは、全て完了した。両国間の貿易や国境警備、必要な外交連絡は維持される。一方で、王家への特別な便宜や、従来どおりの政治的信頼を前提とした協力関係は見直されることとなった。

 全面的な断交ではない。しかし、これまでと同じ関係に戻ることも、もはや容易ではないだろう。

 レオポルト・フォン・ファルケンリートは、最後の書類を閉じると、長く息を吐いた。

「これで、ひとまず終わりだな」

 向かいのソファに腰掛けていたアーデルハイト・フォン・ローゼンベルクが、静かに頷いた。

「はい。これ以上、こちらから申し上げることもないのでしょう」

「向こうがどう受け止めるかは、向こうの問題だ。我々の決定は伝えた。必要な説明も行った。あとは、彼らが自らの問題とどう向き合うかだ」

 レオポルトは書類から手を離した。

 外交交渉の間、ホーエンヴァルト王家は繰り返し、フリードリヒ王太子の死を個人的な悲劇として扱うよう求めてきた。

 愛する女性を失い、深い悲しみに耐えきれず、自ら命を絶った王太子。王家が発表したのは、そのような物語だった。

 彼らは亡き王太子を『真実の愛に殉じたお方』と称え、その悲劇を悼むことこそが、遺された者に求められる態度であるかのように語った。

 だが、ファルケンリート王国が問題にしていたのは、フリードリヒが誰を愛していたかでも、彼がどれほど悲しんだかでもない。

 王太子としての責任を果たしていなかった人物を、王家がどのように扱ってきたのか。そして、その問題が明らかになった後も、王家が責任ある説明を避け続けたことだった。

「殿下は、今回の決断を後悔していらっしゃいますか?」

 アーデルハイトの問いに、レオポルトはすぐには答えなかった。

 窓の外へ目を向け、庭園の木々が夕風に揺れるのを眺めてから、彼は彼女を振り返った。

「後悔する理由があるとすれば、何だと思う?」

「国交を縮小することで、ホーエンヴァルト王国との関係が悪化すること。或いは、両国の商人や国民に多少なりとも影響が及ぶこと、でしょうか」

「そうだな。だからこそ、全面的に関係を断つことは避けた。隣国の国民が、王家の対応に直接責任を負うわけではないからな」

 レオポルトは机上の書類を指先で揃えた。

「だが、影響があるからといって、問題を見なかったことには出来ない。外交関係とは、ただ隣り合っているというだけで維持されるものではない。相手が約束を守るか。問題が起きたときに責任を果たすか。こちらが信頼を寄せるに足る相手か。それを確かめる必要がある」

「ホーエンヴァルト王家は、その信頼を損なったのですね」

「ああ」

 レオポルトは短く答えた。

「フリードリヒ殿下が亡くなられたこと自体を、我が国が責めているわけではない。問題は、その死に至るまでに何があったのか。そして、王家がその問題をどう扱ったのかだ」

 アーデルハイトは、膝の上で手を重ねた。

「フリードリヒ殿下は、本当にグレーテを愛していらしたのでしょうか」

 それは、彼女が以前から抱いていた疑問だった。

 レオポルトは少し考えた。

「本人の胸の内までは分からない。愛していたのかもしれない。彼女を失った悲しみも、本物だったのだろう」

「それでも、殿下は彼女との将来を実現するために、具体的な行動を起こされませんでした」

「そういうことだ」

 フリードリヒには、選択肢がなかったわけではない。

 王太子位を返上する。王家と正式に交渉する。制度上の可能性を探り、グレーテの身分を整える方法を検討する。いずれも簡単な道ではなかっただろう。王太子の地位を手放せば、権力も特権も失う。王家との交渉が決裂する可能性もある。周囲の反対を押し切って結婚したとしても、その後の生活が保証されるとは限らない。

 だが、困難であることと、不可能であることは違う。

「彼は、王太子であり続けることを望んでいたのでしょうね」

 アーデルハイトが言った。

「王太子としての地位も、そこで得られる特権も手放したくなかった。しかし、王太子として果たすべき義務は負担に感じていた。グレーテとの将来を望みながら、そのために自分の立場を変える覚悟もなかった」

「少なくとも、残された記録からはそう見える」

「愛していると口にするだけなら、何も失わずに済みますものね」

 その言葉に、レオポルトは苦笑した。

「厳しいな」

「事実を申し上げただけです」

「そうだな。確かに、そのとおりだ」

 彼は否定しなかった。

 人が誰を愛するかは、その人自身の自由だ。身分も、家柄も、他人の評価も、心そのものを完全に縛ることはできない。

 しかし、愛する相手と生きることを望むなら、そのために何を引き受けるのかを考えなければならない。

 フリードリヒは王太子だった。自分の望みを実現するために、地位を手放すことも、王家と交渉することもできた。或いは、王族としての義務を果たしながら、グレーテとの関係を認めてもらう道を探ることもできたはずだ。

 それらを選ばず、ただ現状のまま愛を語り続けたのであれば、その結果を他人に引き受けさせることはできない。

「私が気になるのは、フリードリヒ殿下ご本人のことだけではありません」

 アーデルハイトは、慎重に言葉を選んだ。

「王妃陛下の対応です」

 レオポルトの表情から、僅かな笑みが消えた。

「アマーリエ王妃か」

「はい。王妃陛下は、フリードリヒ殿下に王族としての責任を学んでいただく必要があると理解していらしたのでしょう? だからこそ、マティルデ様に教育を頼まれたのだと思います」

「そのとおりだろう」

「けれど、実際には、その役目を婚約者に任せてしまわれた」

 アーデルハイトは、ゆっくりと続けた。

「マティルデ様はフリードリヒ殿下と同年代です。本来なら、婚約者として互いを理解し、支え合うべきお立場だったはずです。それなのに、王族としての振る舞いや公務への姿勢まで正さなければならなかった。殿下に嫌われることを承知で、厳しいことも申し上げなければならなかったのです」

「王妃は息子を正したかった。しかし、息子に嫌われることは避けたかったのだろう」

「母親としてのお気持ちは、理解できなくもありません」

 アーデルハイトは否定しなかった。

「自分の子供につらい思いをさせたくない。出来ることなら、いつも笑顔でいてほしい。そう願うこと自体は、自然なことだと思います」

「だが、王妃は一国の後継者の母親でもある」

「はい」

 彼女の声が、僅かに強くなった。

「母親として息子を守ることと、王妃として後継者を育てること。その二つを両立させなければならなかったのです。どちらか一方を選び、もう一方を誰かに押しつけてよい立場ではありません」

 レオポルトは、静かに頷いた。

「マティルデ嬢が厳しく接すれば、フリードリヒ殿下は彼女を嫌う。グレーテは、殿下の不満を聞き、殿下は間違っていないと肯定する。殿下にとって、どちらが居心地のよい相手だったかは明らかだ」

「そして王妃陛下は、息子が婚約者を嫌うことを問題視しても、息子自身の姿勢を改めさせようとはなさらなかった」

「それが、王家の問題だ」

 レオポルトは、言葉を区切った。

「マティルデ嬢に教育を任せた時点で、王妃は自分の責任を他人に分担させたつもりだったのかもしれない。だが、教育の一部を誰かに委ねることと、教育する責任そのものを手放すことは違う」

「マティルデ様がどれほど努力されても、最後に殿下を正す権限と責任を持つのは、王家だったはずです」

「そうだ。婚約者がどれほど優秀であっても、王家の代わりにはなれない」

 アーデルハイトは、目を伏せた。

 マティルデの立場を思えば、胸が痛んだ。

 彼女は王妃に頼まれた役目を果たそうとした。フリードリヒが王族として必要なことを学べるよう、耳の痛い忠告も重ねた。しかし、その努力は彼に疎まれる原因となり、最終的には婚約者としての関係まで損なうことになった。

 勿論、フリードリヒがマティルデを愛さなかったこと自体を責めるつもりはない。婚約者を愛せと命じることは出来ないだろう。

 だが、彼女が担わされていた役割の重さを考えれば、王妃の対応には疑問が残る。

「王妃陛下が、もう少し早く息子に向き合っていらしたら、何かが変わったのでしょうか」

「それは分からない」

 レオポルトは率直に答えた。

「教育を改めたところで、フリードリヒ殿下がグレーテを選んだ可能性はある。王太子位を返上したかもしれないし、王家との交渉が決裂していたかもしれない。何を選んでも、望んだ結果が得られた保証はない」

「ええ」

「だが、結果が保証されていないからといって、責任を果たさなくてよいことにはならない」

 レオポルトの声には、揺るぎがなかった。

「王妃が息子を教育すること。王家が後継者の資質を見極めること。必要ならば、その権限を制限し、地位そのものを見直すこと。それらは、問題が起きる前から王家に課されていた責務だ」

 アーデルハイトは、彼の言葉を噛みしめるように頷いた。

「王家が息子を守ろうとしたことそのものが、間違いだったのではないのですね」

「そうだ。問題は、何から守り、何を守らなかったかだ」

 レオポルトは、窓の外へ目を向けた。

「息子が不快な思いをすることから守った。息子が自分の過ちを認めることから守った。王太子の地位を失う可能性から守った。その一方で、王太子としての責任を学ぶ機会も、自分の選択の結果を引き受ける機会も、十分に与えなかった」

「それでは、守ったことが、かえって息子を追い詰めた可能性もありますね」

「可能性はある。だが、死の原因を一つに決めつけるつもりはない。フリードリヒ殿下が何を考え、何に耐えられなかったのか、我々には全て分かるわけではないからな」

 レオポルトは、そこで一度言葉を切った。

「但し、彼が亡くなったからといって、生前の問題が消えるわけではない。それだけは確かだ」

 部屋に静寂が降りた。夕陽はさらに低くなり、机の上の書類に落ちる光が薄れていた。

 暫くして、アーデルハイトが口を開いた。

「王家は、息子の死を悲劇として語ることで、責任の問題まで終わったことにしたかったのでしょうか」

「そう見えるな」

「フリードリヒ殿下の死を悼むことと、王家の対応を問うことは、両立するはずです。それなのに、こちらが責任について尋ねると、まるで殿下の悲しみを否定しているかのように受け取られました」

「悲しみを前面に出せば、責任を問う側が冷酷に見える。そういう効果はあるだろう」

 レオポルトは、僅かに眉を寄せた。

「だが、それを意図していたかどうかは分からない。王妃も、王族たちも、息子を失った悲しみの中にいるのだろう。彼らの悲しみまで偽物だと言うつもりはない」

「私も、そこを否定したいわけではありません」

「分かっている」

 レオポルトは、穏やかな声で答えた。

「悲しむことは自由だ。愛する者を失った痛みを、他人が測ることはできない。だが、悲しんでいるからといって、責任を問われなくなるわけではない」

 彼は机の上の外交文書に視線を落とした。

「王家が問題を認め、何が間違っていたのかを検証し、同じことを繰り返さないための対応を示していたなら、我々の判断も違っていたかもしれない」

「国交縮小を避けられた可能性もあるのですね」

「少なくとも、信頼を維持するための材料にはなっただろう」

 レオポルトは、落ち着いた口調で続けた。

「だが、彼らはフリードリヒ殿下の生前の行動について、十分な説明をしなかった。王妃が後継者の教育をどのように考えていたのか。問題を把握していながら、なぜ適切な対処をしなかったのか。今後、王族の責任をどう担保するのか。そうした問いに、納得できる答えはなかった」

「王統の安定を守るためだった、と説明されていましたね」

「王統の安定は重要だ。後継者の地位を揺るがせば、貴族間の争いや政治的混乱が起こる可能性もある。それは理解している」

 彼は頷いた。

「しかし、王統の安定を理由に何もしなければ、問題が自然に解決するわけではない。地位を維持するのであれば、教育と監督を強化するべきだった。改善しないのであれば、権限の制限や地位の返上も検討するべきだった」

「どの道を選んでも、何らかの犠牲はあったでしょう」

「そうだろう。だが、政治とは、犠牲が生じる可能性を理解したうえで、より責任ある選択をすることだ。何も選ばず、問題を先送りにすることではない」

 アーデルハイトは、静かに息を吐いた。

「それなのに、王家は最後まで、自分たちの判断が何を招いたのかを正面から認めようとはしなかった」

「認めることができなかったのかもしれない。王家の判断が誤っていたと認めれば、息子の死だけでなく、これまでの統治そのものを問い直さなければならなくなるからな」

「だからといって、認めなくてよい理由にはなりませんね」

「そのとおりだ」

 レオポルトは、彼女をまっすぐに見つめた。

「我々が国交を縮小したのは、ホーエンヴァルト王家がフリードリヒ殿下の恋愛を認めなかったからではない。平民の女性を愛したことを理由に、隣国を非難しているのでもない」

「王家が責任を果たさず、その問題を解決する意思も十分に示さなかったから、ですね」

「そうだ。王家が自らの責任を曖昧にしたまま、従来どおりの信頼だけを求めるのであれば、こちらには応じる義務がない」

 アーデルハイトは、漸く納得したように微笑んだ。

「殿下のお考えが、よく分かりました」

「最初から分かっていたのではないか?」

「考えは理解しておりました。ただ、これで本当に良かったのか、確かめたかったのです」

「君らしいな」

 レオポルトは、少しだけ表情を和らげた。

 そのとき、アーデルハイトがふと思い出したように尋ねた。

「そういえば、グレーテ殺害事件については、最終的にどうなったのでしょう」

「アイヒェンベルク侯爵家の領地で、実行犯と扇動者が法に従って処分されることになった。ジークハルト侯爵もマティルデ嬢も、襲撃を命じた証拠はなかったそうだ」

 王太子の恋人のグレーテは皮肉なことに彼の婚約者の実家の領民だった。それが悲劇の元となった。大恩あるご領主さまのお嬢様の婚約者に領民の娘が手を出したのだ。恩をあだで返すとはこのことだと、グレーテの住む村の住人は怒り狂った。そして、私刑を加えた結果、彼女は命を落とした。

「領民たちは、マティルデ様を守ろうとしたのでしょうね」

「そのつもりだった者もいたのだろう。だが、領主家への忠誠を理由に、人を勝手に裁いてよいはずがない」

 レオポルトは、淡々と答えた。

「主人が命じていないことを、主人の名を使って行う。忠誠心があったとしても、それは正当化の理由にはならない」

「誰かを守りたいという気持ちがあっても、何をしても許されるわけではないのですね」

「ああ。気持ちが本物であることと、行動が正しいことは別だ」

 その言葉に、アーデルハイトはしばらく考え込んだ。

「フリードリヒ殿下も、グレーテを愛していたのかもしれません。王妃陛下も、息子を守りたかったのでしょう。領民たちも、マティルデ様を大切に思っていたのでしょうね」

「そうだろうな」

「それでも、それぞれの行動には責任が伴う。愛していたから、守りたかったから、忠誠を尽くしたかったから――その気持ちだけでは、結果を正当化できない」

「そのとおりだ」

 レオポルトは、彼女の言葉を肯定した。

「そして、王族の責任は、個人の責任よりも軽くなるわけではない。むしろ、地位と権限を持つ者ほど、自分の行動が周囲に及ぼす影響を考えなければならない」

「王冠を戴くということは、望むものを何でも手に入れられるという意味ではないのですね」

「権利だけを求めるなら、王冠など戴くべきではないな」

 その言葉に、アーデルハイトは小さく笑った。

「では、私たちも気をつけなければなりませんね」

「もちろんだ」

 レオポルトは、ためらいなく答えた。

「我々もまた、王家の一員。将来、判断を誤ることがあるかもしれない。自分の身内を守りたいと思うこともあるだろう。だからこそ、身内だからという理由で責任を軽く扱わないようにしなければならない」

「誰かを正す役目を、別の誰かに押しつけることも?」

「そうだ。必要な助言を求めることと、自分の責任を他人に押しつけることは違う。助言を受けたとしても、最後に判断するのは自分だ。その結果を引き受けるのも、自分でなければならない」

 アーデルハイトは、彼の手元に視線を落とした。

「殿下となら、そのことを忘れずにいられそうです」

「それは光栄だな」

「もちろん、殿下が間違われたときには、私も申し上げますよ」

「それは頼もしい」

「マティルデ様のように、嫌われることを恐れずに?」

「できれば、嫌う前に考え直すよう努力するよ」

 今度は、二人とも笑った。

 短い笑い声が、静かな執務室に広がる。

 やがて、アーデルハイトは表情を改めた。

「ホーエンヴァルト王家は、これからどうなるのでしょう」

「それは彼ら次第だ。失われた信頼を取り戻したければ、言葉ではなく行動で示すしかない。自らの責任を認め、問題を検証し、今後の統治を改める。そうした積み重ねがあれば、将来、関係を見直す余地はあるだろう」

「王家が変わらなければ?」

「我々も、今の距離を保つ。それだけだ」

 レオポルトは、最後の外交文書を手に取った。

「我が国は、隣国を罰するために国交を縮小したのではない。信頼できる範囲で付き合うために、関係を見直したのだ。相手が変わらないのであれば、こちらが無理に信頼を差し出す必要はない」

「けれど、いつか相手が変わる可能性まで否定するわけではないのですね」

「もちろんだ。責任を認め、改める意思があるなら、その努力を評価する余地はある。ただし、何も変えずに、以前と同じ信頼を求めることはできない」

 アーデルハイトは、ゆっくりと頷いた。

 窓の外では、夕陽が庭園の向こうへ沈みかけていた。

 フリードリヒは、愛する女性を失った悲しみの中で命を絶った。彼が何を思い、どのような苦しみを抱えていたのか、そのすべてを知ることはできない。

 アマーリエ王妃も、息子を失った母親として深い悲しみを抱えているだろう。彼女が息子を守りたいと願ったことまで、否定する必要はない。

 しかし、悲しみがあることと、責任がなくなることは同じではない。

 愛情があったことと、正しい選択をしたことも同じではない。

「殿下」

「何だ?」

「今回のことを、一言で表すとしたら、何になるのでしょう」

 レオポルトは、少し考えた。

「そうだな……」

 彼は机上の書類を置き、静かに答えた。

「愛は自由だ。しかし、責任は別勘定、ということだろう」

 アーデルハイトは、思わず笑みをこぼした。

「それは、外交文書に記載するには少々率直すぎる表現ですね」

「だから、記載しなかったのだ」

「賢明なご判断です」

「君にそう言われるなら、間違いないな」

 二人は、もう一度顔を見合わせて笑った。

 やがて、レオポルトは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。夕暮れの空は、すでに深い藍色へと変わり始めている。

「アーデルハイト」

「はい」

「我々がこれから王家を担うことになったとき、忘れてはならないことがある」

 彼は、彼女を振り返った。

「誰かを愛することも、誰かを守ることも、大切なことだ。だが、そのために責任を放棄してはならない。身内を守るために誤りを隠せば、その誤りはやがて、もっと大きな問題になって返ってくる」

 アーデルハイトは、真剣な面持ちで頷いた。

「はい。私も、そのことを忘れないようにいたします」

「そして、我々が間違えたときには、互いに指摘しよう。耳の痛い言葉を避けるために、相手を甘やかすようなことはしない」

「お約束します」

 彼女は立ち上がり、レオポルトの隣に並んだ。

 二人の視線の先には、夕暮れの庭園が広がっていた。

 国交縮小の手続きは、すべて終わった。

 ファルケンリート王国は、隣国との関係を完全に断つことなく、信頼できる範囲で付き合う道を選んだ。その決断は、フリードリヒの死を否定するためでも、ホーエンヴァルト王家を懲らしめるためでもない。

 王族としての責任を果たさなかった者が、その責任を問われないまま、地位と特権だけを守られる。そのような統治を信頼することはできない。それが、ファルケンリート王国の判断だった。

 愛する者を失った悲しみは、本物だったのかもしれない。

 息子を守りたいという母親の気持ちも、本物だったのだろう。

 けれど、気持ちが本物であることと、行動が正しいことは同じではない。

 王冠を戴く者には、王冠に伴う責任がある。

 そして、その責任は、悲劇という言葉で覆い隠せるものではなかった。

 レオポルトは、隣に立つ婚約者の手をそっと取った。

 これから先、二人にも難しい判断を迫られる日が来るだろう。何を選んでも、誰かを傷つけることがあるかもしれない。守りたいものを守るために、何かを手放さなければならないこともあるだろう。

 それでも、二人は選び、判断し、その結果に責任を持たなければならない。

 それが、王冠を戴く者の務めなのだから。

 そして、愛という言葉は、その務めを免れるための免罪符ではないのだった。