俺はスパーノ・デ・パネッラ。
パネッラ子爵家の三男として生まれたが、俺は自分がそんなチンケな下級貴族のごく潰しで終わるような男ではないと理解していた。
何しろ、我がパネッラ家は建国の英雄、勇者の末裔なのだ。
この国は、かつて魔王を倒した勇者、聖女、聖騎士、大賢者の四人によって築かれた。聖騎士は王となり、聖女は大神殿で神に仕え、大賢者は公爵位を授かって宰相となった。そして勇者は侯爵位を得て、大将軍に任じられた。ところが、我が祖先は建国から十年後に何やらやらかして伯爵に降格。その後も代を重ねるごとに没落し、今では子爵家にまで落ちぶれている。実に嘆かわしい話だ。
だが、俺には関係ない。俺には前世の記憶がある。組織の仕組みも、人間の心理も、出世のための立ち回りも知っている。
そんな俺のために将来の妻として選ばれた相手こそ、ザノッティ公爵家の嫡女、リヴィア・マウラ・デ・ザノッティだった。
ザノッティ公爵家は、かの大賢者の末裔にあたる名門である。
この国では、公爵位は必ずしも夫から妻へ、あるいは父から息子へと受け継がれるものではない。家ごとに定められた継承権に従って相続される。ザノッティ家の場合、代々の当主は女性であり、リヴィアの母もまた女公爵だった。その母は数年前に亡くなっている。
現在、リヴィアは未成年ながら公爵家の正統な後継者として認められていた。成人するまでは、母方の叔母の夫である宰相が後見人となり、家政と財産の管理を監督している。
一方、リヴィアの父親は下位貴族出身の男だ。亡き女公爵に婿入りしたことで公爵家の一員となったが、公爵位を持っているわけではない。ましてや、家督を継ぐ権利もない。あくまで当主の夫であり、娘の父親という立場だ。
それでも公爵家の邸宅に住み続けているため、本人は自分も偉くなったつもりらしい。まったく、身の程を知らない男である。
もっとも、俺だって公爵位を継げるとは思っていない。俺がリヴィアと結婚しても、公爵になるのは彼女だ。俺は公爵夫君という立場にとどまる。
だが、それがどうした。妻が当主であろうと、実際に家を動かす人間が別にいることは珍しくない。俺が有能な夫として振る舞い、リヴィアが俺の意見を尊重すれば、実務上の主導権を握ることは十分可能だ。
俺はそう考えていた。
そもそも、この婚約は王家の仲介によるものだ。没落しつつあるパネッラ子爵家を立て直すため、王家がザノッティ公爵家との縁を取り持ったのである。俺が三男で、家督争いに関わらずに済む立場だったことも、選ばれた理由の一つだろう。
つまり、俺には役割がある。パネッラ家の再興という役割だ。それを果たすためにも、ザノッティ公爵家との婚姻関係は重要だった。
リヴィアは美人で頭もいい。ただし、賢すぎるきらいがある。こちらが何か意見を言えば、すぐに根拠を尋ね、数字を確認し、別の選択肢を提示してくる。まるで俺の上司にでもなったつもりだ。
前世にも、そんな女がいた。俺の後輩だったくせに、いつの間にか俺より上の役職に就きやがった女だ。リヴィアと話していると、どうしてもそいつを思い出す。
その点、リヴィアの異母妹であるアンブラはいい。
アンブラ・ヴェント。リヴィアの父親が、亡き女公爵との結婚中にもうけた娘だ。要は愛人の子で庶子。貴族の婚姻によって生まれた子ではなく、ザノッティ家の血も引いていない。公爵家の爵位を継ぐ権利もなければ、貴族としての身分もない。つまり、平民である。
彼女は貴族教育を受けておらず、読み書きも計算もろくにできない。礼儀作法など、そもそも知っているのか怪しい。だが、そこが可愛い。俺の話を素直に聞き、難しいことを言えば目を丸くする。リヴィアのように、こちらの言葉尻を捉えて反論してくることもない。女は少しくらい無知なほうが扱いやすい。
もちろん、アンブラを社交界に連れていくわけにはいかない。貴族の社交場は、身分と礼儀を重んじる場所だ。平民の彼女を婚約者の代わりに連れていけば、俺自身の立場まで危うくなる。
だから、アンブラが何度も『私も一緒に舞踏会に行きたい』とせがんできたときには、俺は困った顔をしてこう言った。
「すまない、アンブラ。俺は婚約者をエスコートしなければならないんだ」
すると彼女は、不満そうに唇を尖らせながらも引き下がった。尤も、その後には決まって『だったらお姉様との婚約を破棄して』と言い出すのだが。全く、困ったものだ。
俺だって、女としてはアンブラのほうが好みである。だが、結婚というものは恋愛だけで決めるものではない。身分も、家柄も、将来性も大切だ。アンブラにはそれがない。本人がどれだけ公爵夫人になりたいと願っても、なれるはずがないのだ。
俺はその現実を理解している。だからこそ、リヴィアとの婚約は維持しつつ、アンブラには優しく接してやるつもりだった。
ところが、ある日。アンブラが、とんでもないことをしでかしたのである。
* * * * * *
その日、俺はザノッティ公爵邸の応接室に呼ばれていた。
部屋に入ると、リヴィアが紅茶を飲んでいた。その向かいにはアンブラが座っている。アンブラの顔には、何やら不満がありありと浮かんでいた。
「それで、話というのは何だ?」
俺が尋ねると、アンブラは待ってましたとばかりに口を開いた。
「お姉様にお願いがあるの!」
「お願い?」
「私を公爵夫人にしてほしいの!」
俺は思わず額を押さえた。またか。この娘は、本当にどうしようもない。
リヴィアは紅茶のカップをソーサーに戻した。
「アンブラ。それは、どういう意味ですか?」
「そのままよ! スパーノ様と結婚するのは私がいいと思うの!」
俺は慌ててアンブラを制止しようとしたが、その前にリヴィアが口を開いた。
「あなたが公爵家を継ぐことはありません。ザノッティ公爵家の後継者は私です。あなたには公爵家の相続権も、貴族としての身分もありません」
「でも、お父様は公爵家の人でしょう?」
「父は公爵家に婿入りしただけです。公爵位を持っているわけではありませんし、父の身分があなたに受け継がれるわけでもありません」
「でも、ここに住んでいるじゃない!」
「住んでいることと、爵位を持つことは別です」
リヴィアは淡々と説明した。
「それに、あなたは父が公爵家とは関係のない女性との間に作った娘です。ザノッティ家の継承権はありません」
「そんなの、おかしいわ!」
「制度が気に入らないことと、制度が存在しないことは別です」
アンブラは眉を寄せた。
そりゃそうだろう。貴族の制度など、彼女にはさっぱり分からないのだ。まともな教育を受けていないのだから、仕方がない。
だが、リヴィアも少しくらい融通を利かせてやればいいものを。
「それに、スパーノ様との婚約は王家から依頼された政略的なものです。私たちの個人的な恋愛によって結ばれたものではありません」
「せいりゃく?」
「家と家の事情によって結ばれた婚約、ということです」
「でも、スパーノ様は私に優しいわ!」
アンブラが俺を見た。助けて、と言いたげな目だった。やれやれ。仕方がない。ここは俺が大人の対応をしてやるか。
「リヴィア、アンブラはまだ子供なんだ。君が姉として譲ってやればいいだろう?」
リヴィアが俺を見る。
「何を譲るのですか?」
「だから、アンブラが君の代わりに……」
「私の婚約者を、ですか?」
俺は内心でほくそ笑んだ。やはり、リヴィアは俺に惚れているのだ。普段は澄ました顔をしているが、アンブラが俺を欲しがると、こうして感情を露わにする。女というものは分かりやすい。
「落ち着けよ、リヴィア。別に俺はアンブラと結婚するなんて言っていないだろう?」
「ええ。あなたはまだ何も決めていませんね」
妙に冷静な返答だった。
「とにかく、アンブラはまだ世間を知らないんだ。君が姉として、もう少し優しく教えてやればいい。最初から突き放す必要はないだろう?」
「では、あなたはアンブラに何を教えたのですか?」
「何?」
「アンブラは、あなたが公爵夫人にしてくれると思っているようです。あなたは彼女に、そう約束したのですか?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。約束などしていない。ただ、アンブラが公爵夫人になりたいと言うたびに、頭ごなしに否定しなかっただけだ。そのほうが機嫌よく過ごしてくれるし、俺にとっても都合がよかった。
「いや、俺はただ……」
「では、ここで確認しておきましょう」
リヴィアは背筋を伸ばした。
「スパーノ様。あなたは、私との婚約について何か誤解をなさっているようです」
「誤解?」
「はい。この婚約は、王家からの依頼によって結ばれたものです。落ちぶれたパネッラ家を立て直すため、あなたをザノッティ公爵家と結びつける。そのための婚約です」
「そんなことは知っている」
俺は不快感を隠さずに答えた。
「だが、俺は君の婚約者だぞ。俺を選んだのは君だろう?」
「王家からの依頼を受けたのです。そして、あなたを選んだ理由は、あなたがパネッラ家で家督を継ぐ立場になく、他の家族の利害と衝突しにくい三男だったからです」
「つまり、俺自身には価値がないとでも言いたいのか?」
「そのようなことは申し上げていません。私は、婚約を結んだ理由を説明しているだけです」
リヴィアは少しも動じなかった。
「私はあなたを愛しているわけではありません。また、結婚後に公爵家の実権をあなたへ譲るつもりもありません。公爵家の当主は私です。家政や財産の管理についても、後見人である宰相の監督のもとで、私が責任を持って学び、決定していきます」
「夫婦なのだから、俺の意見を尊重するのは当然だろう!」
「意見を聞くことと、決定権を渡すことは別です」
リヴィアは即答した。
「あなたが公爵家の一員になったとしても、それだけで当主の権限を得るわけではありません」
……何を言っているんだ、この女は。俺は彼女の婚約者だぞ。将来は夫婦になるのだ。ならば、俺の意見を尊重するのは当然ではないか。
いや、分かっている。公爵位を継げるとは思っていない。だが、実際に家を動かす人間になれるかどうかは別の話だ。
リヴィアが俺の能力を認めれば、自然とそうなるはずなのだ。それを、この女は。
「リヴィア。君は少し、言い方というものを考えたほうがいい」
「そうですか」
「俺は君の夫になる男だぞ。そんな態度では、結婚してから苦労することになる」
「ご心配には及びません」
リヴィアは淡々と答えた。
「私は、あなたとの婚約を続ける必要があるかどうか、既に王家へ報告しています」
俺は顔を上げた。
「報告?」
「はい。あなたが公爵家の運営に関与することを望んでいること、そして、私がその要望に応じるつもりがないこと。婚約の目的と照らし合わせ、今後の方針を相談しました」
何だそれは。俺に断りもなく、そんな話をしていたのか。
「それで、王家は何と言った?」
「私の判断に任せるとのことでした」
「なら、問題ないじゃないか!」
俺は声を張り上げた。
「君が俺を夫として認め、俺の意見を尊重すればいいだけだろう?」
「いいえ。私は、あなたに公爵家の実権を譲るつもりはありません」
リヴィアは少しも表情を変えなかった。
「そして、あなたが婚約の目的を理解せず、私との婚姻によって得られる立場を過大に期待しているのであれば、婚約を維持する意味はありません」
俺は椅子から腰を浮かせた。
「何だと!?」
「あなたが私との婚約を、個人的な愛情の証明だと考えているのであれば、それは誤解です。私は、家と家の利益のためにこの婚約を受け入れました。あなたも、その目的に沿って行動していただく必要があります」
……ふざけるな。この女、どこまで俺を馬鹿にするつもりだ。
俺は王家の依頼を受けて婚約者になってやったのだ。公爵家に婿入りできるというのに、俺がどれほどの価値を持つ男なのか、まるで理解していない。
いや、分かっているはずだ。だからこそ、こんな言い方をして俺を試しているのだろう。ここで俺が折れれば、ますます増長するに違いない。
ならば、こちらから切り出してやる。
「……そうか。そこまで俺が気に入らないというのなら、婚約を破棄してやる!」
言ってやった。俺はリヴィアの表情を観察した。さあ、どうする。
今まで散々俺に反論してきた女だが、さすがに婚約破棄となれば話は別だ。王家が仲介した婚約を失うことがどれほど大きな問題なのか、分からないはずがない。ここで俺を引き留め、謝罪してくるだろう。そして、俺の望みをある程度は受け入れる。それが交渉というものだ。
ところが。
「承知しました」
リヴィアは、あっさりと言った。
「王家にも、その旨を報告いたします」
……は?
今、何と言った?
「おい、待て」
「何でしょう?」
「いや、だから……婚約を破棄すると言ったんだぞ?」
「はい。ですから、承知したと申し上げました」
俺は目の前の女をまじまじと見つめた。おかしい。何かがおかしい。普通、こういう場合は引き留めるものではないのか?
「リヴィア。君は、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「もちろんです」
「俺との婚約を解消すれば、パネッラ家との縁も切れるんだぞ!」
「婚約解消後も、パネッラ家への支援については王家と協議する余地があります。ただし、あなた個人をザノッティ公爵家の運営に関与させる理由はなくなります」
俺は言葉を失った。何を言っているんだ、この女は。
「冗談はよせ。今のは売り言葉に買い言葉だ。婚約破棄など、本気で受け取るものではないだろう」
「ですが、あなたがご自身でおっしゃったことです」
「だから、それは……!」
「撤回なさるのですか?」
リヴィアは首を傾げた。その顔には、期待も失望もなかった。ただ、確認すべき事項を確認しているだけだった。俺は歯噛みした。
くそっ。こいつ、まさか本気で俺との婚約を解消するつもりだったのか?
いや、そんなはずはない。これまで俺に対して、どれほど生意気な態度を取ってきたとしても、俺は彼女の婚約者だ。俺ほど優秀な男を夫に迎えられる機会など、そうそうない。
だから、これは駆け引きだ。俺に譲歩させるための女の浅知恵に違いない。
「……分かった。今日のところは、これで失礼する」
俺は椅子から立ち上がった。リヴィアは立ち上がることもなく、軽く頭を下げた。
「お帰りの際は、使用人に馬車を用意させます」
最後まで、可愛げのない女だった。
* * * * * *
数日後、正式に婚約解消の通知が届いた。王家の承認を得たうえでの、正式な手続きだった。
俺は書面を三度読み返した。何度読んでも、内容は変わらない。
スパーノ・デ・パネッラとリヴィア・マウラ・デ・ザノッティの婚約は、双方の合意により解消された。
……合意? 俺は合意した覚えなどない。
いや、確かに婚約破棄を口にしたのは俺だ。だが、あれは交渉の一環であり、本気ではなかった。そんなこと、普通は分かるだろう。
それに、リヴィアが本当に俺を必要としているなら、王家に泣きついてでも婚約を維持するはずだ。そうしなかったということは、俺の価値を理解できなかったということだ。
まったく、愚かな女だ。公爵家の嫡女という立場に胡坐をかき、自分の婚約者がどれほど優秀なのかを見抜けなかったのだから。
俺は書面を机の上に放り投げた。
まあいい。ザノッティ公爵家との縁が切れたのは痛いが、俺にはまだアンブラがいる。あの娘は俺を慕っている。俺がいなくなれば、きっと寂しがるだろう。
それに、リヴィアのような女と結婚するより、アンブラのような素直な娘と一緒になったほうが、俺の人生も楽しくなるに違いない。
もっとも、アンブラと結婚したところで、公爵家に入れるわけではない。そんなことは分かっている。
俺は現実を見ている男なのだ。ただ、これからどうするかは考えなければならない。
子爵家に戻ったところで、俺の居場所はない。長男が家を継ぐのは当然だし、次男にもそれなりの役割がある。三男の俺は、これまで通り厄介者扱いされるだけだろう。
だからこそ、ザノッティ公爵家との婚約には価値があったのだ。
……いや、今さら悔やんでも仕方がない。
俺は優秀だ。いずれ俺の能力を必要とする人間が現れる。
そう考えていたところへ、アンブラがやって来た。
「スパーノ様!」
彼女は、いつものように無邪気な笑顔を浮かべていた。
「ねえ、聞いたわ。お姉様と婚約を解消したんですって?」
「ああ。あんな女とは、もうやっていけないからな」
「じゃあ、これからは私と一緒にいられるの?」
アンブラは嬉しそうに尋ねた。
俺は少しだけ眉をひそめた。
「……一緒にいる、というのは?」
「だって、私を公爵夫人にしてくれるのでしょう?」
俺は、思わず声を荒らげた。
「何を言っているんだ、お前は!」
アンブラがびくりと肩を震わせた。
「お前が公爵夫人になれるはずがないだろう! そんなことは最初から分かっていたはずだ!」
言ってから、俺は舌打ちした。しまった。少々、言いすぎたか。
だが、事実は事実だ。彼女は平民であり、公爵家を継ぐ立場にはない。俺がリヴィアと結婚していたからこそ、公爵家との縁を持てたのである。その婚約がなくなった今、アンブラに公爵夫人になる道などない。そんなことは、少し考えれば分かるだろう。
ところが、アンブラは俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……でも、スパーノ様は、私が公爵夫人になれるかもしれないって……」
「俺はそんなことを言っていない!」
いや、言ったか? いやいや、言っていないはずだ。
確かに、彼女が公爵夫人になりたいと言ったとき、俺は否定しなかった。だが、それは彼女の夢を壊さないための配慮であって、実現を約束したわけではない。そんな区別もつかないとは、まったく困った娘だ。
「だって……私、スパーノ様が何とかしてくれると思っていたの」
アンブラの声が震えた。
「お姉様に婚約を破棄してって、何度もお願いしたでしょう? 私、スパーノ様なら、きっと私を公爵夫人にしてくれるんだって……」
俺は苛立ちを覚えた。なぜ、そこで俺に責任を押しつける?
身分というものは、生まれによって決まるのだ。個人の努力でどうにかなるものではない。そんな基本的なことも知らないから、こんな馬鹿げた夢を見るのである。
「いいか、アンブラ。お前はもっと現実を見るべきだ。公爵夫人というものが、どれほどの立場なのか分かっているのか?」
「……分からない」
「だったら、まずは勉強しろ。読み書きも計算もできない人間が、公爵家を支えられるわけがないだろう」
アンブラは黙っていた。いつもなら、俺が少し厳しいことを言っても、すぐに笑顔を見せる娘だった。だが、その日は違った。
「……スパーノ様は、私を公爵夫人にしてくれるんじゃなかったの?」
またそれか。俺は深々とため息をついた。
「だから、そんなことは最初から無理だったんだ!」
アンブラの目に、涙が浮かんだ。俺は居心地の悪さを覚えた。
泣かれるのは苦手だ。前世でも、女に泣かれると面倒なことになった。こちらが正論を言っているのに、感情で話をひっくり返そうとするのだから始末に負えない。
アンブラも結局、そういう女だったのか。俺は椅子に深く腰掛けた。
「……まあいい。お前も、少し頭を冷やせ。これからどうするかは、そのあとで考えればいい」
そう言うと、アンブラは何も答えず、部屋を出ていった。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
まったく、どいつもこいつも。俺の価値を理解しない女ばかりだ。
* * * * * *
その後、アンブラが俺のもとを訪れることはなくなった。
ザノッティ公爵家からは、婚約解消に関する事務的な連絡が一度届いただけだった。リヴィアから個人的な手紙が来ることもない。
俺は、あの女がいつか後悔するだろうと思っていた。俺ほど優秀な男を逃したのだ。今は強がっていても、いずれ自分の判断が間違っていたと気づくに違いない。
それに、アンブラだって、いずれ俺のもとへ戻ってくるだろう。彼女には俺しかいないのだから。
……まあ、しばらくは子爵家で我慢するしかない。父は相変わらず俺を三男扱いするし、兄たちは俺の意見に耳を貸そうともしない。俺がザノッティ公爵家の婿になる予定だったことを知っているくせに、誰一人として俺を特別扱いしないのだ。
まったく、見る目のない連中である。だが、俺はいつか必ず成功する。
俺には前世の知識がある。人を見る目もある。組織の動かし方だって知っている。
リヴィアは、俺を愛していたくせに、意地を張って自分から幸せを捨てた。
アンブラは、俺が公爵夫人にしてくれると勝手に期待し、現実を突きつけられると勝手に失望した。
どちらも、俺の能力を正しく理解できなかっただけだ。
そう。俺は何も間違っていない。
そもそも、俺ほど賢い男が、そう簡単に失敗するはずがないのだ。
俺は机の上に置かれた婚約解消の通知を、もう一度眺めた。ザノッティ公爵家の紋章が、紙の上で鈍く光っていた。
……まあ、いい。俺の価値を理解できない人間など、こちらから願い下げだ。
いつか必ず、俺を必要とする者が現れる。そのときになって、リヴィアは自分の愚かさを思い知るだろう。
俺はそう確信し、満足げに笑った。
自分が何を失ったのかも。
なぜ失ったのかも。
そして、自分が賢いと思い込んでいることこそが、何よりの愚かさであることも。
スパーノ・デ・パネッラは、最後まで理解することがなかった。