勘違い王子――殿下、わたくしは一度も愛しておりませんけれど?

 王宮の大広間には、燭台とシャンデリアの光が降り注いでいた。

 絹と宝石をまとった貴族たちが談笑し、弦楽四重奏の優雅な旋律が流れる。国王陛下の名のもとに開かれた、いつもどおりの公式の夜会である。

 ただし、三年前に第一王子ガエタン殿下が亡くなられてから、王宮の社交には以前にも増して緊張が漂うようになっていた。

 王太子を失い、その母君であられたコロンブ王妃陛下も亡くなられた。王位継承順位第一位となったのは、第二王子シャルル・エドガール・ド・ヴェルデ殿下。

 わたくし、エメリーヌ・クロード・ド・サンテールは、そのシャルル殿下の婚約者である。

 侯爵家の娘として相応の教育を受け、王族の婚約者として公務を支えてきた。外交の席で殿下が失礼をなさらぬよう資料を整え、王宮の行事では立場を損なわぬよう細心の注意を払ってきた。

 婚約者として、すべきことはしてきたつもりだ。

 但し、殿下を愛したことは一度もない。

 わたくしが婚約者になったのは、恋愛とは無関係な王家の事情によるものだった。そのことを説明しようとした機会は何度もあったが、殿下はいつもご自身に都合のよい解釈をなさる。とうとう説明すること自体を諦めていた。

 そして今宵、その勘違いに終止符が打たれるらしい。

「エメリーヌ!」

 大広間に響き渡る声に振り返ると、金茶色の髪を整え、王族の正装をまとったシャルル殿下がこちらへ歩いてきた。

 決然とした表情で、わたくしの前に立つ。

「貴様との婚約を破棄する!」

 音楽が止まった。

 周囲の貴族たちが一斉にこちらを振り向く。扇の陰で息を呑む貴婦人、眉を顰める老侯爵、面白い見世物でも始まったかのように目を輝かせる者。反応はさまざまだった。

 わたくしは手にしていた扇を静かに閉じた。

「突然のお話でございますね、殿下」

「突然ではない! 俺は真実の愛を見つけたのだ!」

 殿下の背後には、淡い色のドレスをまとった若い女性が立っていた。栗色の髪に、控えめな装飾品。街の仕立屋で働いていたという平民の娘、ヨランドである。

 殿下は彼女と出会って以来、身分を超えた愛こそ尊いのだと、折に触れて語っておられた。

 そして今、その恋を貫くために婚約者を捨てると、国王陛下もいらっしゃる公の場で宣言されたわけだ。

「貴様の我儘で俺の婚約者に収まったのだろう。だが、俺はもう貴様の思いどおりにはならん!」

 ……我儘?

 わたくしは思わず瞬きをした。

「わたくしの家が王家を脅し、不本意な婚約を結ばせたと仰るのですか?」

「そうだ! 貴様は俺に執着していた。だから婚約者になれたのだ!」

 大広間の空気が冷えた。

 第二王子が、公衆の面前で王家と侯爵家の関係を侮辱したのである。

 少し離れた場所で父ユーグ侯爵が眉を寄せ、兄アドリアンも険しい顔をしていた。しかし、わたくしは二人に目配せし、口を挟まないよう伝えた。

 これは、わたくし自身の婚約の話なのだから。

「殿下。よろしければ、わたくしが婚約者に選ばれた経緯をご説明いたしましょう」

「言い訳など聞きたくない!」

「言い訳ではございません。事実の確認ですわ」

 わたくしは微笑んだ。

「皆様もお聞きになりたいでしょうから、少々お時間をいただきます」

 誰も異を唱えなかった。わたくしは殿下へ向き直る。

「まず、王族の婚約者には家格、血縁、年齢などの条件がございます。特に王位継承者の婚姻は、個人の恋愛感情だけで決められるものではありません」

 殿下は不満げに眉を寄せたが、今度は口を挟まなかった。

「本来、王太子であられたのは、三年前に亡くなられたガエタン殿下です。シャルル殿下より三歳年上でいらっしゃいました。一方、わたくしは殿下より四歳年下。つまり、ガエタン殿下とは七歳の年齢差がございました」

 王太子の婚約者には、王太子より三歳上から五歳下までという年齢制限がある。わたくしはその条件を満たしていなかった。

「更に、ガエタン殿下には、既に別の侯爵家のご令嬢が婚約者として定められておりました。その状況で、第二王子の婚約者にそれより家格の高い侯爵家の娘を据えれば、貴族社会の均衡に影響を及ぼしかねません」

 わたくしは扇を閉じ、はっきりと告げた。

「ですから、わたくしは殿下の婚約者候補からも外れておりました。殿下に恋い焦がれていたから選ばれた、などという事実はございません」

「……嘘だ」

 殿下の声から、先ほどまでの威勢が消えた。

「ガエタン殿下と王妃陛下が亡くなられ、王位継承順位が変わった。その結果、王家は新たな王太子の婚約者を必要としたのです。年齢や血縁などの条件を満たし、王族の伴侶としての教育を受けられる家柄にあったわたくしへ、王家から打診がございました」

 父と母は慎重に話し合い、兄はわたくしの意思を確かめてくれた。

 王家からの申し出を断ることにも、政治的な意味が生じる。それを理解したうえで、わたくしは婚約を受け入れた。殿下を愛していたからではない。王家が必要とする役割を、わたくしが果たす。それだけのことだった。

「わたくしが殿下の婚約者になったのは、王家の事情が変わったからです。わたくし自身が望んだわけではございません」

 大広間は静まり返っていた。殿下は、わたくしを見つめたまま立ち尽くしている。

「では、なぜ俺を支えてきた!」

「婚約者としての務めだからです」

 わたくしは即答した。

「公務の資料を整え、外交の準備をし、王宮で殿下の立場が損なわれないように振る舞ってきました。けれど、それは責務であって、恋心ではございません」

 殿下は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。

 わたくしが礼を尽くせば愛情の証しだと思い、仕事をすれば献身だと思い込む。殿下は一度たりとも、わたくしの気持ちを確かめようとなさらなかった。

「わたくしは、殿下を愛しておりません。そして、殿下もまた、わたくしを愛してはいらっしゃらない。ですから、婚約を続ける理由がございません」

 胸の奥にあった重荷が、ふっと軽くなった。

 これで終わる。王族の婚約者としての責務も、殿下の隣で王宮の未来を背負う覚悟も。そして、勘違いに付き合い続ける日々も。

「婚約破棄、謹んでお受けいたします」

 わたくしは深く一礼した。

 殿下は呆然と立ち尽くし、その背後でヨランドが不安そうに袖を掴んでいた。彼女が悪いわけではない。殿下が恋をし、彼女がそれを信じたこと自体は、誰にでも起こり得ることだろう。ただ、その恋を貫くために他人の人生を勝手に書き換えようとしたのは、殿下ご自身である。

「では、殿下。婚約破棄に伴う正式な手続きをお願いいたします」

「手続き?」

「王家との婚約は口約束ではございません。双方の家への通知、書面による通達、王家と貴族院への報告が必要となるでしょう」

 殿下は不満そうな顔をしたが、わたくしはそれ以上説明しなかった。

 ご自身が自由を求めて婚約を破棄なさるのなら、その結果にも責任を負っていただく。それだけのことである。

「それから、殿下。わたくしが婚約者でなくなったからといって、ヨランド様が次の王太子妃になれるわけではございません」

 殿下の表情が強張った。

「愛があれば身分など関係ない!」

「恋愛と王族の婚姻は同じではございません。ご自身の結婚相手を選ぶことと、その方を王太子妃として迎えることは別の問題でございます」

 そこへ、落ち着いた声が響いた。

「シャルル。おやめなさい」

 振り向けば、殿下の母君であるベネディクト様が立っていらした。かつて公爵家の令嬢であり、陛下の婚約者でもあった方だ。今は側室として王宮に残られている。

 ベネディクト様は息子を窘めてから、わたくしに向き直った。

「エメリーヌ嬢。少し、お話をさせていただけるかしら」

「承知いたしました」

 何をお話しになるのかは、容易に想像できた。

 

 

 

 夜会の喧騒から離れた控え室で、ベネディクト様はわたくしの向かいに座られた。

「エメリーヌ嬢。どうか、考え直していただけないかしら」

 やはり、である。

「シャルルはまだ若く、恋に夢中になっているだけなのです。時間が経てば、きっと自分の立場を理解するでしょう。ヨランドという娘との関係も、一時の感情かもしれません」

 ベネディクト様は言葉を選びながら続けられた。

「あなたなら王妃として王宮を支えられます。貴族たちとの関係も保てるでしょうし、王家にとって、あなたほど頼りになる方はいないのです。だから、どうか婚約を続けて……」

「申し訳ございません、ベネディクト様」

 わたくしは、その言葉を遮った。

「わたくしは婚約解消の意思を変えるつもりはございません。殿下ご自身が婚約破棄を宣言されました。そして、わたくしは殿下を愛しておりません。今さら婚約を続ける理由はございません」

 ベネディクト様が息を呑まれた。

 わたくしは、すぐに姿勢を正した。

「お言葉を遮ってしまい、申し訳ございません。無礼をお許しくださいませ」

 深く頭を下げてから、改めて顔を上げる。

「ですが、わたくしの意思は変わりません」

 ベネディクト様は暫く黙っておられた。

「……あなたは、シャルルを憎んでいるの?」

「いいえ。殿下を憎んでいるわけではございません。ヨランド様との恋を妨げたいとも思っておりません」

 ただ、わたくしにも自分の人生を選ぶ権利がある。

「殿下は、ご自身の望む人生を選ばれました。ならば、わたくしにも同じ権利があるはずです。王家のために務めを果たすことと、わたくし自身の意思を捨てることは、同じではございません」

 ベネディクト様は目を伏せられた。

 息子を救いたい。王家を守りたい。そのために、わたくしが再び犠牲になることが最も都合よいのだろう。

 悪意からの言葉ではないことはわかる。けれど、善意であれば誰かの意思を踏みにじってよいということにはならない。

「……わかりました」

 ようやく、ベネディクト様はそう仰った。

「ありがとうございます」

 わたくしは一礼し、控え室を後にした。

 翌日、王宮から正式な召集があった。

 わたくしと父、兄は、王族と貴族院の代表が集まる会議の場へ赴いた。シャルル殿下も、ヨランドを伴って出席されていた。

 会議が始まると、殿下はすぐに口を開かれた。

「俺はヨランドを愛している。彼女を妃として迎える」

 王族の一人が静かに問い返した。

「王太子妃として、という意味ですかな?」

「当然だ!」

 貴族院の代表は、深いため息をついた。

「殿下。ご自身の結婚相手をお選びになることと、その方を王太子妃に迎えることは別問題でございます。王族の婚姻は、外交、諸侯との関係、そして王位継承の安定に関わります」

「愛する女性を選ぶことさえ許されないのか!」

「恋愛を否定しているのではございません。王太子妃には、王族の婚姻に必要な条件を満たし、王宮を支え、外交上の責務を担うことが求められるのです」

 ヨランドは顔を青ざめさせていた。彼女がどこまで殿下の説明を信じていたのか、わたくしにはわからない。ただ、二人が望む未来は、殿下が考えていたほど簡単には実現しない。その現実が、ようやく目の前に現れたのだろう。

 貴族院の代表は、書類を閉じた。

「今回の問題は、殿下が平民の女性に恋をされたことではございません。正式な手続きを経ず、王族の婚約を公衆の面前で一方的に破棄すると宣言されたこと。そして、王家が侯爵家に脅されて婚約を結んだなどという、事実に反する発言をなさったことです」

 殿下の顔から血の気が引いていった。

「さらに、王位継承者としての責務を理解せず、ご自身の望みを優先されたことも看過できません。王位を継ぐ者には、個人の望みを超えて国を支える覚悟が必要です」

 会議室に重い沈黙が落ちた。

 わたくしは静かに座っていた。殿下を失脚させるために何かを企てたわけではない。貴族院に働きかけたわけでも、王家に圧力をかけたわけでもない。わたくしがしたことは、婚約破棄を受け入れ、自分の意思を明らかにしたことだけだ。それだけで、殿下はご自身の責務と向き合わざるを得なくなったのである。

「シャルル殿下の王位継承者としての適格性について、改めて審議する必要があると判断いたします」

 その言葉に、殿下は立ち上がった。

「俺から王位を奪うつもりか!」

「奪うのではありません。王位を継ぐに相応しい者を選ぶのです」

 貴族院の代表は、静かに答えた。

 王位継承は、恋愛の代償として与えられる褒美ではない。王子であることは、何をしても許される免罪符でもないのだ。殿下はご自身の望む女性を選ぶことができる。けれど、その選択によって生じる結果まで、他人に引き受けさせることはできない。

 結論が出たのは、それから数日後だった。

 シャルル殿下は王位継承者としての資格を失い、王家と貴族院は王弟の息子であるフェルナン・ヴァレール・ド・ミュレーズ殿下を、次代の王位継承者として立てることを決定した。

 王宮は、少しずつ平穏を取り戻しつつあった。シャルル殿下は王族としての特権の一部を失い、これまでのように自由に振る舞うことはできなくなった。ヨランドとの結婚についても、王家は王太子妃として迎えることを認めなかった。ただし、二人が今後どのような人生を選ぶのかは、わたくしの知るところではない。恋を貫くのも、別々の道を歩むのも、二人の自由だろう。わたくしが関与することではなかった。

 ひとつだけ、耳にしたことがある。シャルル殿下は、最後まで納得されなかったそうだ。わたくしは本当は殿下を愛していたはずだと。婚約破棄を受け入れたのも、強がりにすぎないのだと。その話を兄のアドリアンにすると、兄は盛大にため息をついた。

「妹よ。あの王子は、ある意味で大したものだな」

「どういう意味ですの?」

「ここまで事実を突きつけられて、なお自分の物語を信じられるのだから」

「まあ。確かに」

 わたくしは思わず笑ってしまった。

 兄は、ようやく表情を和らげた。

「……本当によかった。お前が王宮から戻ってくるたび、疲れた顔をしていたからな」

 わたくしは、少しだけ目を伏せた。

 自分では、疲れているつもりはなかった。けれど、王宮での生活には、いつも緊張が伴っていた。言葉を選び、表情を整え、相手の立場を考え、失礼のないよう振る舞う。それは必要なことだったし、自分の役目を嫌っていたわけでもない。

 ただ、終わりが見えなかったのだ。

 王妃になれば、さらに多くの責務が待っている。王宮を支え、貴族たちと折り合いをつけ、国の未来を考え続ける日々。その覚悟を持っていたからこそ、わたくしは学んできた。

 けれど、その覚悟は、殿下への愛を意味するものではなかった。

「……わたくしも、ほっといたしました」

「そうだろうとも」

 兄は笑った。

「王妃になれなくなったことを、残念には思わないのか?」

「全く」

 兄は即答した。

「お前が望んでもいない地位に就くことより、自分の望む人生を歩めることのほうが、よほど大切だ」

 その言葉が、胸に染みた。

「ありがとうございます、お兄様」

「礼などいらん。これからは少し休め。王宮のことを考えずに済む時間も必要だろう」

「ええ。そういたしますわ」

 それから数か月後。わたくしはサンテール侯爵家の領地に戻っていた。

 窓の外には、秋の陽射しを浴びた葡萄畑が広がっている。庭園では庭師が冬支度を始め、屋敷の中には母の好きな花が飾られていた。

 王宮にいた頃は、朝から晩まで予定が詰まっていた。朝食の前に報告書を読み、午前中は公務の準備をし、午後は王宮の行事に参加する。夜には翌日の予定を確認し、必要な書類を整える。それが当たり前だった。

 けれど今は、朝食のあとに庭を散歩することもできる。読みたい本を好きなだけ読むことも、午後になってから母とお茶を楽しむこともできる。そんな些細なことが、こんなにも贅沢だったとは。

「エメリーヌ」

 父が書斎から顔を出した。

「フェルナン殿下から正式な書状が届いたよ。王位継承者としての立場が認められ、王宮の体制も安定しつつあるそうだ」

「それは、よろしゅうございました」

 父は頷いた。

「王家も、これから立て直していくだろう。サンテール家としても、必要な協力は惜しまないつもりだ」

 そして、少しだけ表情を和らげた。

「但し、お前はもう王家の婚約者ではない。これからのことは、お前自身が決めなさい」

 わたくしは、父の言葉を噛みしめた。

 王家のために生きることを否定するつもりはない。国を支えることも、貴族としての責務を果たすことも、尊いことだと思う。けれど、それだけが人生ではない。

 わたくしには、わたくしの人生がある。これから何を学ぼう。どこへ行こう。どのような人々と出会い、どのような仕事をし、何を大切にして生きていこう。まだ、何も決まっていない。

 けれど、決まっていないことが、こんなにも楽しみだなんて。

「エメリーヌ様」

 侍女が温かな紅茶を運んできた。

 わたくしは窓辺の椅子に腰かけ、カップを手に取った。芳しい香りがゆっくりと立ち上る。

 王宮での暮らしを後悔しているわけではない。あの経験があったからこそ、学べたこともある。

 人の言葉をそのまま信じてはいけないこと。立場と感情は、必ずしも一致しないこと。そして、誰かの期待に応えることと、自分の意思を捨てることは同じではないということ。

 シャルル殿下は、わたくしが自分を愛していると思い込んでいた。婚約者として礼を尽くせば、恋だと思い。王家のために務めを果たせば、執着だと思い。婚約破棄を受け入れれば、強がりだと思った。最後まで、わたくしの気持ちを知ろうとはなさらなかった。

 けれど、もう関係のないことだ。殿下が何を信じようと、わたくしの人生はわたくしのものなのだから。

 わたくしは窓の外に広がる葡萄畑を見つめた。秋風が木々の葉を揺らしている。

 王子は、わたくしを愛されることに執着する女だと思っていた。けれど、わたくしが本当に望んでいたのは、ただ、自分の人生を自分で選ぶことだったのだ。誰かに愛されるためではなく。誰かに認められるためでもなく。王妃になるためでも、王家に尽くすためでもなく。わたくし自身のために。

 ――さようなら、シャルル殿下。どうか、あなたもご自身の選んだ人生を歩まれますように。もう、わたくしをあなたの物語の登場人物にしないでくださるのなら、それで十分ですわ。

 カップを口元へ運び、紅茶を一口飲む。温かな味が、ゆっくりと身体に広がっていった。

 わたくしは王子を愛していなかった。

 そして今、ようやく。わたくしは、自分の人生を愛することができる。