エピローグ
ニノン・レオノル・ド・ポワリエが王城を訪れたのはそれから2日後のことだった。
「本日は図書室を利用いたしますの」
門衛にいつものように微笑みかけ、申請一覧に場所と姓名を記す。だが、返ってきたのはこれまでとは違う言葉だった。
「ポワリエ公爵令嬢、王太子殿下よりお言葉を預かっております」
「まぁ」
初めてのことだ。もしかして庭園を散策しようというお誘いだろうか。だがそんなニノンの都合のいい妄想はすぐに打ち砕かれた。
「『王太子執務室への立ち入りは固く禁じる』とのことでございます」
ニノンはキョトンと目を瞬かせた。まさかアシルがそんなことを言うはずがない。
「何かの間違いではなくて?」
「間違いではございません」
「ではアシル様に直接お聞きするわ」
「その必要はございません」
門衛の後ろから、侍従長が姿を現した。
「ポワリエ公爵令嬢、殿下がお会いになるのは今回が最後です」
最後とはどういうことだと問いかけようとしたが、侍従長はニノンを無視して先導し始めた。仕方なくニノンはそれに従う。
案内された先はこれまでの執務室ではない。侍従や文官が控える応接室だった。私的な面会ではないことが、一目で判る。ここでティータイムを楽しむなんてことは有り得ないことだった。
程なくしてアシルが入室する。ニノンは安堵したように笑った。出迎えに立ち上がることもなく、ソファに座ったまま。
ああ、こんなにも貴族としてのマナーが身についていなかったのかとアシルは自分の見る目のなさが情けなくなった。
「アシル様、皆が変なことを申すのです」
微笑むニノンに対して、アシルは以前のような笑みを浮かべなかった。
「ポワリエ嬢。まず、私の名を呼ぶのは止めよ。今迄は大目に見てきていたが、今後はない。王太子殿下と呼ぶように」
静かな声だった。口調もこれまでとは違う。『王太子』としての、公の口調だった。軽率に名を呼ばせていたこともクレマンから咎められて漸く気付く
「これまで私は、婚約者の妹だからという理由で、軽率にも私的な面会を続けてしまった」
「アシル様?」
「名を呼ぶなと言ったはずだが?」
これまでとは違うアシルの冷たい態度にニノンは焦る。もう少しでお姉様から奪えるはずだったのに。
「未婚の貴族令嬢と王太子としてあるまじき行為だった」
ニノンの笑みが消える。
「何を仰っていますの?」
「今後、個人的に会うことは二度とない」
「どうしてですの!?」
思わず声が裏返る。
「お姉様が何か言ったのですか?」
「ジョゼットは何も言っていない」
これまでになかった冷たい目でアシルはニノンを見る。
「気付かねばならぬことに、私が漸く気付いただけだ」
「そんな……」
「君は私にとって、婚約者の妹でしかない」
一拍置き、はっきりと言う。
「それ以上の存在になることは未来永劫ない」
ニノンは信じられないというように首を振った。
「でも、ア…殿下はわたくしといると癒されるって……」
「それも軽率だった」
アシルは過去の自らの言葉を否定する。
「私は婚約者の立場を考えていなかった」
「違います!」
「違わぬ」
きっぱりと言い切る。
「婚約者の妹でしかない未婚の貴族令嬢と王太子が私的に面会する意味などない」
「……」
「寧ろ害悪だった」
その一言がニノンの息を止めた。
「害……悪?」
「ああ。君にも、ジョゼットにも、そして王家にも。だから、これで終わりだ」
侍従長が静かに扉を開く。アシルが座ることもなく、面会はそれだけで終わった。
ニノンが再び王太子と二人きりで会うことは、生涯一度もなかった。
その後、ポワリエ公爵家は慌しく動いた。ここで対応を間違えば次期王太子妃ジョゼットの瑕疵なる。
王太子アシルと婚約者の妹ニノンの私的面会は公にはなっていなかったこともあって、公爵家内部での処分に留まった。公にすればアシルにも瑕疵がつくため、王家側がそれを望まなかったのである。
処分対象は公爵と公爵夫人、ニノン、そしてニノンの王城登城を積極的に手伝っていた侍女2名。侍女たちは紹介状なしで解雇された。そして、両親は監督不行き届きと教育の不足。王太子妃となる姉に過大な負担を掛けながら、一方で妹を甘やかし姉と王太子の間に不和を招こうとしたことを放置した。その責任を取る形で、ポワリエ公爵夫妻は嫡男シメオンへ爵位を譲り、隠居することとなる。それを先導したのはシメオンだった。
前ポワリエ公爵の最後の仕事はニノンの結婚だった。勿論、慶事ではない。処分である。ニノンは分家である子爵家へ後妻として嫁ぐことが決まった。子爵はニノンよりも20歳近く年上で、既に成人間近の令息と令嬢がいた。前妻の死後はメイド頭兼愛人が屋敷の切り盛りをしている。
子爵は代々ポワリエ公爵領の一部を任された代官の一族であり、王都から遠く離れた土地で暮らしている。領地経営を支える重要な家ではある。しかし、王都社交界とは無縁の生活だ。
ニノンが再び王都で『王子様のお妃』を夢見ることは許されなかった。
あれから半月、アシルは王宮の一角、王太子妃に与えられる西翼を訪れた。
面会を申し込み、漸く与えられた時間は僅か30分。婚約者でありながら、正式な手続きを踏まなければ会えないほど、ジョゼットは多忙なのだとアシルは申し訳なくなった。その殆どが己の愚かさが招いていることだからだ。しかし、事実は違う。王宮にて面会を行うのだから、正式な手続きと手順を踏む必要があるだけだった。
あの日の面会要請はすぐに却下されていた。そうして調整の上、面会が叶ったのが半月が経過した今日だ。
応接室に入ってきたジョゼットはいつも通り美しかった。だが、その笑みはどこか表面的だった。
「殿下、本日はどのようなご用件でしょうか」
アシルは立ち上がる。
「謝罪に来た」
それだけ言って、頭を下げる。王太子としてはあまり深くは下げられないが、それでも頭を下げた。
「私は君の信頼を裏切る行動を続けていた」
言い訳はしない。ニノンの所為にもしない。周囲の所為にもしない。
「済まなかった」
謝罪の言葉に一瞬ジョゼットは目を見開き、それからアシルに座るように促し、自分も対面に腰を下ろした。ジョゼット付きの王宮メイドが二人の紅茶を供し、部屋の隅に下がる。その間ジョゼットは一言も発さず、アシルも言葉を継ぐことが出来なかった。
長い沈黙が流れる。やがてシュゼットは溜息を一つ零すと静かに口を開いた。
「結婚式まであと1年を切っておりますので、既に国交のある国へは招待状を発送しております。出席のお返事を既にいただいている国もございます。ゆえに今更わたくしたちの婚姻を無くすことは出来ません。ですから、謝罪を受け取ります」
その言葉にアシルは青ざめて顔を上げる。結婚式を中止に出来ないから、婚約を継続し、謝罪を受け取る。赦すわけではないというのが明らかな返答だった。
自分を見つめるジョゼットの表情に以前のような親しみはなかった。礼儀正しい、将来の王太子妃としての責務だけがある。それだけだった。
「殿下」
ジョゼットは平坦な声で呼びかける。温度のない声、事務的な声、これまでのジョゼットの声音とは全く違った。
「信頼とは、一朝一夕に築けるものではございません。失うのは一瞬です。殿下が変わろうとなさるのでしたら、その努力を否定は致しません。但し、わたくしが必ずしもそれを受け入れるとはお思いにならないでくださいまし」
全く感情のない声にアシルは己の考えが甘かったことを悟った。赦されていない。元に戻れていない。それでも、閉ざされていた扉がほんの少しだけ開いた──そう思いたかった。ジョゼットが謝罪を受け入れたのは国の威信を傷つけぬため、ただそれだけだとは思いたくなかった。
面会は僅か10分程度のものだった。
王宮を出、溜まった執務を片付けるために王城へ戻る。鮮やかな夕日が今は眩しい。
「遅すぎたんだな」
誰に言うでもなく呟く。それでも遅すぎたからといって、歩みを止める理由にはならない。失った信頼を取り戻せる保証はない。婚約者との関係が元に戻る保証もない。それでも、自分が犯した過ちから目を背けず、一つずつ償っていくしかないのだ。
王太子として、そして一人の男として。その日、アシルは漸く本当の意味で、大人への一歩を踏み出したのかもしれない。